+概要
シュナイダー突撃戦車の開発に功績を残したフランス陸軍のJ.E.エスティエンヌ少将は、視界の悪いシュナイダー突撃戦車やサン・シャモン突撃戦車を装備する戦車部隊の指揮用に、より小型の戦車を開発することを提案し、ブローニュ・ビヤンクールのルノー社にその開発を依頼した。
しかし、当時のルノー社は軍用自動車の生産に追われており新たな車両、しかもまだ未知の分野に属する戦車を開発する余力など無く、さらにこのエスティエンヌ少将からの依頼を受ける前にも、フランス陸軍から出された戦車生産への協力依頼を断ったという経歴があり、少将の依頼も素気無く断られてしまった。
しかし彼はそれにもめげずルノー社への説得活動を続け、これが功を奏して1916年後半にルノー社が新型軽戦車の開発を引き受けることとなった。
こうなると動きは早く同年12月には木製モックアップが完成し、翌17年2月には「ルノーFT」と呼ばれる試作車が完成して、シャンプリュー・キャンプでフランス陸軍の試験に供されることとなった。
なお、「FT」は(Faible Tonnage:軽量)の略語であると解説されることが多いがこれは誤りで、当時ルノー社が新製品を開発するにあたって2文字の開発コードを付ける慣例があったため、たまたま本車に「FT」の開発コードを付ける順番が回ってきただけのことである。
ちなみに1つ前の「FS」は本車と同じエンジンを搭載した車両の開発コードで、1つ後の「FU」は本車を輸送するために設計されたトラックの開発コードであった。
当初は軽戦車に対してその必要性を感じていなかったフランス陸軍であったが、試作車による試験においてその優秀さが判明したため、直ちに「ルノー襲撃戦車18馬力」の呼称で制式化することが決定し、1917年4月にまず150両の生産型が発注されることとなった。
これがその後、総計3,187両という当時としては画期的な大量生産が行われることになる、ルノーFT軽戦車の初めの一歩であった。
なお、ルノー社が他の装甲車両の設計と製造を開始した時、様々なモデルと区別する必要があったため、本車は制式呼称の「ルノー襲撃戦車18馬力」よりも「ルノーFT」と呼ばれるのが一般化した。
ルノーFT軽戦車は様々な画期的な特徴を備えていたが、中でも最大の特徴は全周旋回式の砲塔を初めて採用したことが挙げられる。
今でこそ当たり前となっている砲塔だが、当時としては他に装備する戦車は存在していなかったのである。
さらに、それまでの戦車では車体の中に機関と乗員が共存していたが、ルノーFT軽戦車では戦闘室と機関室を分離し、その間に隔壁を設けたことも特筆に値する。
最大厚16mmの装甲板をリベット接合した車体は後部に特殊な尾橇を設け、塹壕を越える能力を高めていた。
足周りは転輪をリーフ・スプリング(板ばね)で支え、上部支持輪はプレートを介して装着され、これを独立したコイル・スプリング(螺旋ばね)で支えるという当時の常識を破る新しい方式が採用された。
エンジンは出力35hpのルノー社製直列4気筒液冷ガソリン・エンジンが用いられ、車体後部の機関室に収容され後部に設けられた起動輪を駆動した。
面白いことに前部に設けられた大直径の誘導輪には合板が用いられ、補強のため周囲に鋼製のリムが装着されていたが、強度に問題があったため後期生産車では全鋼製誘導輪が使用されている。
初期生産車のごく数両には鋳造とプレス成型した部品を組み合わせた砲塔が搭載されたが、製造が容易ではなかったために、平面装甲板を組み合わせてリベット接合した8角形の砲塔に変更され、後期生産車ではさらに丸型の鋳造製砲塔に変更された。
砲塔には当初、サン・ドニのオチキス社製の8mm重機関銃M1914を装備していたが、1917年末の生産車からはAPX社(Atelier de Construction
de Puteaux:ピュトー工廠)製の21口径37mm戦車砲SA18に換装されて火力が強化された。
もっとも旋回式砲塔を生産するのは当時の技術ではまだ難しく、このためルノーFT軽戦車の生産は思うようには伸びなかったが、それでも初期生産車150両に続いて1918年1月には1,000両が追加発注され、さらに同年秋にも追加が行われてその発注数は最終的に4,635両にも達した。
この内、1,830両が37mm戦車砲搭載型であった。
本車の生産はルノー、ベルリエ、ソミュア、ドローナ・ベルビューの4社が担当し、シェフィールドのミリス製鋼所を始めとするイギリスの製鉄所が装甲板を供給した。
ルノーFT軽戦車が初めて実戦に投入されたのは、1918年5月31日のレッツの森での戦闘だった。
この戦闘で本車は高い実用性を発揮したが、反面この成功がその後のフランス戦車開発に大きな影を残すことになってしまったのは否めない。
1918年11月に第1次世界大戦が終了したため、3,187両が完成した時点で残りの発注はキャンセルされている。
大戦終了後、ルノーFT軽戦車はベルギー、ブラジル、カナダ、中国、チェコスロヴァキア、フィンランド、オランダ、日本(甲型軽戦車と呼ばれた)、ポーランド、ロシア(鹵獲したもの)、スペイン、アメリカに輸出され、アメリカやイタリアなどではライセンス生産も行われた。
また本車をベースとして、砲塔の代わりに箱型の固定戦闘室を搭載したルノーTSF指揮戦車、7角形のリベット接合砲塔に75mm短砲身砲を搭載したルノーBS火力支援戦車、車体前部に束柴を運ぶクレイドルを装着した束柴戦車、誘導輪の車軸から左右にそれぞれ伸びたアームに鋤刃2枚を装着した地雷処理戦車、最上部に下方を照らす回転式サーチライト2個を装着した、背の高い鉄柱を砲塔上面に装着した投光機戦車など様々な派生型が作られている。
フランス陸軍に配備されていたルノーFT軽戦車は1930年代に従来の8mm重機関銃M1914から、MAC社(Manufacture d'armes
de Châtellerault:シャテルロー造兵廠)が開発した新型の7.5mm機関銃M1931に武装が変更されている。
1940年5月10日のドイツ軍のフランス侵攻開始時点においても、フランス陸軍は2,500両以上のルノーFT軽戦車を所有していた。
このうち第一線部隊に配備されていたのは520両程度で、残りの車両は空港警備程度に使われただけだが、全独立軽戦車大隊の1/4は旧式なルノーFT軽戦車で占められていた。
同年6月22日のフランス降伏後この多くをドイツ軍が接収し、フランスにおける国内防衛や警備といった二線級任務に使用している。
ドイツ空軍の地上部隊は1940年に100両以上のルノーFT軽戦車を受領し、1944年の時点でもまだ数十両を空港の警備に使用していた。
また接収されたルノーFT軽戦車のうち一部の車両の砲塔は、キューポラを装着し車体から外して大西洋沿岸の固定砲台として用いられた。
1942年8月19日に実施された連合軍のディエップ上陸作戦(Operation Jubilee:五十年祭作戦)において、ディエップ沿岸に設置された1基のルノーFT砲塔が、上陸してきたカナダ軍のチャーチル歩兵戦車に向けて長時間発砲を続けたが、装甲の厚いチャーチルにダメージを与えることはできなかったという。
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