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EBR戦闘偵察車


EBR-75戦闘偵察車 モデル1951



EBR-75戦闘偵察車 モデル1954



EBR-90戦闘偵察車



EBR-ETT装甲兵員輸送車



●開発

パナール社は第2次世界大戦前の1937年に、画期的な偵察用8輪装甲車を「タイプ201」の試作名称で開発に着手した。
1939年12月に完成したタイプ201装甲車の試作車は、片側4輪のうち中央の2輪がスパイク付きの鉄輪となっており、整地された路上を走行する際はこの鉄輪を引き上げて4輪のみで走行し、走破能力を要求される不整地のみ鉄輪を下ろして8輪で走行するという、ユニークな可動式走行機構を備えていた。

鉄輪以外の4輪は9.75×20のゴムタイア付き車輪となっており、この可動式走行機構によってタイプ201装甲車は整地においては90km/h以上、不整地でも80km/h近い速度での走行が可能であった。
武装はパナール社が開発したユニークな揺動式砲塔に、オチキス社製の47.2口径25mm戦車砲SA35とMAC社(Manufacture d'armes de Châtellerault:シャテルロー造兵廠)製の7.5mm機関銃M1931を並列に装備していた。

揺動式砲塔とは砲塔が上下に分割された構造になっているもので、武装の俯仰を担当する砲塔上部と旋回を担当する砲塔下部が俯仰軸で結合されており、武装は砲塔上部の前面に固定装備される。
通常の砲塔では武装のみが上下に俯仰するようになっているが、揺動式砲塔では武装を俯仰させる際には砲塔上部ごと俯仰する。

後のEBR戦闘偵察車と同様に、エンジンはこの砲塔の直下に配置された。
このエンジン配置によりタイプ201装甲車は車体の低重心化を図ることができ、また車体前部の操縦手席以外に車体後部にも副操縦手席を設けることができた。
副操縦手席を設けたことにより不意に敵に遭遇した場合や、狭い袋小路に入り込んでしまった場合に全速力で後方に退避することができた。

タイプ201装甲車は開発当初からフランス国防省にその価値を認められたため、1940年から量産を開始することが計画されていた。
しかし、試作車がアルジェリアで走行試験を行っていた最中の1940年5月10日にドイツ軍のフランス侵攻が開始され、さらに試作車が砂漠で行方不明になってしまった。

しかもフランスがドイツに降伏した際に、タイプ201装甲車の情報が敵の手に渡らないよう図面までも破棄されたため、同車は結局量産されずに終わった。
その後、連合軍の反抗作戦により1944年8月にフランスが解放されると同軍は再軍備化に着手し、AMX-50重戦車、AMX-13軽戦車などの新型戦車の開発を進めると共に、対戦車任務にも使える偵察用重装甲車の開発に取り掛かった。

フランス陸軍はオチキス、ラテル、パナールなどの国内メーカーに対して新型重装甲車の要求仕様を提示したが、これに応じてパナール社は戦前に開発したタイプ201装甲車をベースに最新技術を盛り込んだタイプ212装甲車を設計した。
各社から提出された設計案を審査した陸軍は、パナール社とオチキス社の設計案の実車審査を行って優れている方を採用する方針を決定した。

陸軍は1946年4月にパナール社に対してタイプ212装甲車の試作車の製作を指示し、同社は1948年7月までに2両の試作車を完成させた。
そして同様に実車審査に進んだオチキス社製の試作車と比較試験が行われた結果、パナール社のタイプ212装甲車が1949年12月に「EBR-75 モデル1951」として陸軍に制式採用された。

ちなみに名称の「EBR」は、フランス語で「偵察用装甲車」を意味する”Engin Blindé de Reconnaissance”の頭文字を採ったものである。
EBR-75戦闘偵察車の生産は1950年から開始され、発展型のEBR-90戦闘偵察車も含めて1963年までに約1,200両が生産された。

EBR戦闘偵察車シリーズはフランス陸軍と国家憲兵隊に採用された他、ポルトガル(51両)、モロッコ(36両)、チュニジア(15両)、モーリタニア(15両)、インドネシア(3両)に輸出されている。
フランスではより小型軽量のAML戦闘偵察車シリーズなどと共に運用されていたが、1979年から後継車であるAMX-10RC戦闘偵察車への更新が始められ、1985年までに全車が退役している。


●構造

EBR-75戦闘偵察車は、原型となったタイプ201装甲車と比べると長さで1m、幅で0.4mほど大きくなった程度でほぼ同じ外見をしていた。
車体は厚さ10~40mmの圧延防弾鋼板の全溶接構造で前後がほぼ対称形となっており、車内レイアウトは車体前部に操縦手席、車体中央部に砲塔を搭載した戦闘室、車体後部に無線手兼任の副操縦手席が置かれていた。

前後の操縦手席には全く同じ操縦装置が備えられており、EBR-75戦闘偵察車は偵察中に不意に敵に遭遇した場合などに105km/hの全速力で後退することができるようになっていた。
戦闘室の床下には高さ218mm、重量360kgの12H6000 水平対向12気筒空冷ガソリン・エンジン(出力200hp)が収められていた。

12H6000ガソリン・エンジンはEBR-75戦闘偵察車のために開発された専用設計の超薄型・軽量エンジンで、このエンジンを採用することによって本車は車体高がわずか1.03mに抑えられていた。
またエンジン冷却のための機構も独特で、冷却気は普通の車のように車体前面から取り込むのではなく、砲塔下面と車体上面の間にある楕円形の通気孔から取り入れた後、車体後部上面にある同じく楕円形の出口から排出された。

エンジンで生み出された動力は、エンジン前方に接続された小直径の4ディスク・クラッチに伝達された。
クラッチは前進4段/後進4段の主変速機に連結され、さらに傘歯車を用いて横置きの副変速機に繋がっていた。
この副変速機も前進4段/後進4段のため、実質的に前進16段/後進16段のギア比を得ることができたが、路上走行時は主変速機のみで変速を行い、副変速機の方は1速固定で操縦された。

副変速機からは左右のフリー・ホイール型差動歯車に動力が伝達されて、トランスファーで第1輪と後方の3輪に分配された。
片側4輪のうち第1輪と第4輪はアームに取り付けられた二重同心スプリングと油圧ダンパーにより懸架され、第2輪と第3輪はフローティング・スクリーンを用いた油気圧式サスペンションにより上下に動くようになっており、接地時は第1、4輪と同じく二重同心スプリングと油圧ダンパーがショックを吸収するようになっていた。

第1輪と第4輪は、内部が複室化され窒素が充填されたベール・パイカード・チューブ式のミシュラン社製F24 14.00×24コンバット・タイアが装着され、第2輪と第3輪は鋼製グローサーを取り付けたジュラルミン製の鉄輪となっていた。
本車は原型となったタイプ201装甲車と同様、整地された路上を走行する際は鉄輪を引き上げて前後の4輪のみで走行し、走破能力を要求される不整地のみ鉄輪を下ろして8輪で走行するようになっていた。

8輪で走行した場合は4輪で走行した場合に比べてタイアの接地圧が低下し、不整地でもスムーズに走行することが可能になるが、EBR-75戦闘偵察車が8輪で走行した場合、その接地圧は0.7kg/cm2という装軌式車両並みの低い値になった。
なお本車は暗視装置やNBC防護装置は持っておらず、浮航性も備えていなかった。

最初の生産型であるEBR-75戦闘偵察車モデル1951は、2名用のFL-11揺動式砲塔を搭載していた。
FL-11砲塔の基本的な構造はタイプ201装甲車の砲塔と同様で、砲塔は武装の俯仰を担当する砲塔上部と旋回を担当する砲塔下部に分かれており、上部と下部は俯仰軸で結合されていた。
主砲には、旧ドイツ軍のIV号戦車に搭載されていた48口径7.5cm戦車砲KwK40をベースに開発された、砲口初速600m/秒の48口径75mm戦車砲CN-75-49(SA49)を採用していた。

副武装としては主砲と同軸に7.5mm機関銃M1931を1挺装備していた他、当初はそれぞれの操縦手の足元にも7.5mm機関銃M1931を1挺ずつ固定装備していたが、こちらは1950年代中盤から順次撤去された。
また砲塔の左右側面には、それぞれ2基ずつ発煙弾発射機を装備していた。
乗員は車長、砲手、操縦手、無線手兼副操縦手の4名となっており、車長と砲手の2名が砲塔内に収まり、車体前後の操縦手席に操縦手と副操縦手がそれぞれ位置するようになっていた。


●派生型

1954年には砲塔をAMX-13軽戦車と同じFL-10揺動式砲塔に変更し、主砲も旧ドイツ軍のパンター戦車に搭載されていた70口径7.5cm戦車砲KwK42をベースに開発された、砲口初速1,000m/秒の61.5口径75mm戦車砲CN-75-50(SA50)に換装したEBR-75戦闘偵察車モデル1954が登場した。
主砲を高初速のものに換装したことでモデル1954は対装甲威力が大幅に向上し、APCBC(風帽付被帽徹甲弾)を使用した場合、射距離1,000mで170mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能になった。

また新しいFL-10揺動式砲塔は、砲塔後部に6発の主砲弾薬を充填したリボルバー型弾倉を2基備えており、主砲弾薬を自動で装填することができるようになったため主砲の発射速度が向上した。
しかしFL-10砲塔は、この自動装填機構を搭載したために主砲の俯仰角がFL-11砲塔の-10~+15度から-6~+13度へと狭くなり、主砲弾薬の搭載数も56発から38発へと減少した。

またFL-10砲塔はFL-11砲塔に比べて重量が重く、高さもあることからEBR-75戦闘偵察車モデル1954は全高がモデル1951の2.24mから2.58mへと高くなり、戦闘重量も13.5tから15.2tへと増加してAMX-13軽戦車とほとんど変わらなくなってしまい、不整地走破能力が低下してしまった。
このため1960年代に入ると、EBR-75戦闘偵察車はFL-11砲塔を搭載するモデル1951のみが運用されるようになった。

1963年には、主砲をGIAT社(Groupement Industriel des Armements Terrestres:陸上兵器企業連合)製の33口径90mm戦車砲CN-90-F2(D924)に換装したEBR-90戦闘偵察車が登場しており、少数が新規生産された他、既存のEBR-75戦闘偵察車の一部がこのEBR-90に改修されている。
90mm戦車砲CN-90-F2は砲腔内にライフリングを施されていない滑腔砲で、砲口初速750m/秒の翼安定式HEAT(対戦車榴弾)を発射することができた。

EBR-90戦闘偵察車の主砲はHEATを使用した場合、射距離に関わらず320mm厚のRHAを穿孔することが可能で、従来の75mm戦車砲に比べて対装甲威力が大幅に向上していた。
なおEBR-90戦闘偵察車は主砲が換装されただけでなく、主砲弾薬の排莢システムや砲塔についても改良が施されており、砲塔の内部配置を変更したことで主砲弾薬を43発搭載することができるようになった。

EBR戦闘偵察車シリーズの数少ない派生型といえるのが、EBR-ETT装甲兵員輸送車である。
本車は試作時には「タイプ238」と呼ばれており、植民地で用いる装輪式APCとしてデザインされた。
基本的にはEBR戦闘偵察車の砲塔を撤去して戦闘室から後方を嵩上げし、車体後部を12名の兵員を収容する兵員室としたものである。

兵員室内には2基のベンチシートが設けられており、搭乗兵員は6名ずつ背中合わせに外側を向く状態で乗車した。
兵員室の後面には観音開き式のドアが設けられており、兵員はここから乗降を行うようになっていた。
また兵員室の左右側面には上開き式の横長のハッチが2枚ずつ設けられており、兵員はここから外部を視察したり射撃を行うことができるようになっていた。

固有の武装は試作車では戦闘室上面と兵員室最後部上面に、7.5mm機関銃M1931を1挺装備する1名用の全周旋回式銃塔を1基ずつ搭載していたが、生産型では後方の銃塔は廃止されている。
また後にポルトガル軍に売却された際に、武装がアメリカのブラウニング社製の7.62mm機関銃M1919A4に換装されている。

EBR-ETT装甲兵員輸送車で面白いのは、原型となったEBR戦闘偵察車と同様に車体後部に副操縦手席と操縦装置が設けられていたことで、兵員室後面の観音開き式ドアには上開き式の視察用ハッチが1枚ずつ設けられており、非常時にはここから外部を見ながら後方に全速力(105km/h)で走行することが可能であった。
また路上では前後の4輪のみで走行し、不整地を走行する際には中央の鉄輪を下ろして8輪で走行する可動式走行機構もそのまま受け継がれていた。

EBR-ETT装甲兵員輸送車の最初の試作車は1956年に製作されたが量産されたのはわずか30両で、しかもフランス軍からは数年で退役し、その後はポルトガル軍が10両ほどを細々と使い続けた。
しかしそれも1974年までで、すでに全車が退役している。
その他の派生型としては、EBR戦闘偵察車の車体を流用した対空自走砲が試作されている。

この車両はEBR戦闘偵察車の砲塔を撤去し、代わりに兵器研究開発局が開発した「DCA」(Défense Contre Avions:対空防御)と呼ばれる砲塔システムを搭載したものであった。
DCA砲塔システムは、イスパノ・スイザ社製の30mm対空機関砲HSS831Aを連装装備するSAMM社製の2名用全周旋回式砲塔S401Aを中心として、捜索レーダー、光学照準機、弾道コンピューターなどから構成されていた。

光学照準機を用いていることからも分かるように、基本的には晴天の昼間での運用に限定されており、全天候下における運用能力は備えていなかった。
30mm対空機関砲HSS831Aは-5~+85度の俯仰角を有しており、発射速度は1門当たり300発/分で、5発もしくは15発のバースト射撃を1門もしくは2門同時のいずれかを選択することができた。

また弾薬はHEI(焼夷榴弾)、半徹甲HEI、TP(演習弾)が用いられ、各種弾薬合わせて1門当たり300発がベルト給弾された。
しかしAMX-13軽戦車の車体を流用し、同じくDCA砲塔システムを搭載したAMX-13DCA対空自走砲が同時期に開発されており、不整地での機動性に優れるそちらがフランス陸軍に制式採用されることになったため、EBRの対空自走砲型は1両のみの試作で計画中止となった。


<EBR-75戦闘偵察車 モデル1951>

全長:    6.15m
車体長:   5.56m
全幅:    2.42m
全高:    2.24m(4輪走行時)、2.32m(8輪走行時)
全備重量: 13.5t
乗員:    4名
エンジン:  パナール12H6000 2ストローク水平対向12気筒空冷ガソリン
最大出力: 200hp/3,700rpm
最大速度: 105km/h
航続距離: 630km
武装:    48口径75mmライフル砲CN-75-49×1 (56発)
        7.5mm機関銃M1931×1 (2,000発)
装甲厚:   10~40mm


<EBR-75戦闘偵察車 モデル1954>

全長:    6.75m
車体長:   5.56m
全幅:    2.42m
全高:    2.58m(4輪走行時)、2.66m(8輪走行時)
全備重量: 15.2t
乗員:    4名
エンジン:  パナール12H6000 2ストローク水平対向12気筒空冷ガソリン
最大出力: 200hp/3,700rpm
最大速度: 105km/h
航続距離: 630km
武装:    61.5口径75mmライフル砲CN-75-50×1 (38発)
        7.5mm機関銃M1931×1 (2,000発)
装甲厚:   10~40mm


<EBR-90戦闘偵察車>

全長:    6.155m
車体長:   5.56m
全幅:    2.42m
全高:    2.24m(4輪走行時)、2.32m(8輪走行時)
全備重量: 12.7t
乗員:    4名
エンジン:  パナール12H6000 2ストローク水平対向12気筒空冷ガソリン
最大出力: 200hp/3,700rpm
最大速度: 105km/h
航続距離: 630km
武装:    33口径90mm低圧滑腔砲CN-90-F2×1 (43発)
        7.5mm機関銃M1931×1 (2,000発)
装甲厚:   10~40mm


<EBR-ETT装甲兵員輸送車>

全長:    5.56m
全幅:    2.42m
全高:    
全備重量: 15.0t
乗員:    2名
兵員:    12名
エンジン:  パナール12H6000 2ストローク水平対向12気筒空冷ガソリン
最大出力: 200hp/3,700rpm
最大速度: 105km/h
航続距離: 630km
武装:    7.5mm機関銃M1931または7.62mm機関銃M1919A4×1 (2,000発)
装甲厚:   10~40mm


<参考文献>

・「パンツァー2010年3月号 フランスが開発した戦後初の装輪AFV EBR戦闘偵察車」 柘植優介 著  アルゴノ
 ート社
・「パンツァー2019年7月号 戦後フランスの装輪火力支援車輌」 前河原雄太 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2019年11月号 フランス戦車発達史(戦後編)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(4) 装輪式装甲車輌:1904~2000」  デルタ出版
・「世界の戦車パーフェクトBOOK」  コスミック出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」  洋泉社
・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著  学研


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