FV4201チーフテン戦車 |
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+開発
第2次世界大戦末期に実用化され、イギリス陸軍の戦後最初のMBT(主力戦車)となったセンチュリオン中戦車シリーズの量産が順調に推移し、続いて、ヨーロッパ製の西側戦車として初めて120mm戦車砲を導入したFV214コンカラー重戦車の開発がスタートした1951年に、イギリス戦争省はセンチュリオン中戦車の後継となる新型MBTに関する検討を開始した。 その背景には、当時ソ連がT-34-85中戦車の後継として開発を進めていた新型MBT(後に「T-54中戦車」の呼称が判明したが、当時はまだ詳細は不明であった)に対しては、大戦型のMBTであるセンチュリオン中戦車では対抗することが難しいであろうという判断があった。 イギリス陸軍の新型MBTには、「2式中型砲戦車」(No.2 Medium Gun Tank)の呼称が与えられた。 ちなみにその前身となる1式中型砲戦車は、コンカラー重戦車の車体をセンチュリオン中戦車の砲塔と組み合わせて製作された暫定型重戦車FV221カーナーヴォンである。 戦争省は2式中型砲戦車を、ソ連の新型MBTに対抗できる性能を持つイギリス陸軍の主力MBTとして構想し、より大型で重装甲のIS重戦車シリーズにはコンカラー重戦車で対抗することを考えていた。 まず2式中型砲戦車に関して、最初に策定されたのは主砲の選定であった。 当初はアメリカが開発を進めていた105mm戦車砲を、その砲弾と共に導入することが検討されたが、ひとまずイギリス国内で液体装薬を用いる105mm戦車砲を開発することとされた。 この液体装薬は、薬室内に専用の配管から液体となった推進薬を注入して瞬間的に爆発させることで砲弾を射撃するというものであり、薬室を簡易化することができて重量を軽減でき、砲弾装填時の利便さや戦闘室内に推進薬を収めた薬莢を置く必要が無いので、その分砲弾の搭載量を増やすことができた。 さらに砲弾の自動装填装置の搭載も検討されるなど、利点ばかりが強調された液体装薬方式であったが、通常の方式と比べると点火と注入圧の一定などの難しさや、液体装薬を収めるタンクが当初考えていたよりも大きなものを必要とし、戦闘室内の容積拡大には決して繋がらないことも判明した。 それでも試作砲が製作されて試験に供されたが、上記の問題に加えて通常砲よりも砲弾の初速が遅く、結局それ以上の段階に進むこと無く液体装薬方式は中止となった。 そして1954年には、ロンドン西方のサリー州チョーバムにあるFVRDE(Fighting Vehicles Research and Development Establishment:戦闘車両開発研究所)において、砲弾と装薬を別とする分離弾方式の105mm戦車砲開発が開始された。 期日は不明なもののその後の研究により、2式中型砲戦車の主砲には射距離1,800mで60度の傾斜角を備える120mm厚装甲板の貫徹能力を備えることが望ましいとの報告書が提出された。 このため105mm戦車砲では力不足との判断が下されて、1956年4月に開発はより強力な120mm戦車砲に移行した。 120mm戦車砲といえば、すでにコンカラー重戦車の主砲として開発された55口径120mm戦車砲L1が存在していたが、実は開発中から問題が多発していたため、将来の戦車部隊の主力MBTとなるであろう2式中型砲戦車への搭載は最初から考えられてはいなかったのである。 この主砲の120mm口径への変更からわずかに遅れる1956年6月には、2式中型砲戦車の機関系としてエンジンにダービーのロールズ・ロイス社製の90度バンク角を備えるV型8気筒ガソリン・エンジンを、変速・操向機は自動式とすることが決まり、戦闘重量は47tとの試算が行われたが、この数字は最終的に45tまでに抑えることが求められた。 このように決して素早いとはいえないものの、着実に次期MBTの開発を進めていたイギリスであったが、ちょうどこの頃アメリカ側から、アメリカ陸軍の次期MBTとして当時開発が進められていた90mm滑腔砲装備のT95試作戦車との主砲の標準化を図って、どちらの砲も交換可能としないかとの提案が出された。 さらに、T95戦車の砲塔を搭載可能なように設計を進めないかとの提案も登場したが、「世界の警察官」として全世界での運用を念頭に置いているアメリカと、運用がヨーロッパに限定されているイギリスではそのドクトリンが根本的に違うため、この提案はそれ以上の段階に進むこと無く終わった。 このような状況下で1956年には、2式中型砲戦車の開発の主契約者としてセンチュリオン中戦車シリーズの生産を手掛けていたレイランド自動車が選定された。 併せて2式中型砲戦車には「FV4201」の開発番号も与えられて、計画はさらなる前進を迎えた。 レイランド社において2式中型砲戦車の本格的な開発が開始された翌年の1957年、カナダのケベックにおいてイギリスとアメリカ、そしてカナダの3カ国から成る第4回3カ国会議が開かれ、この席においてそれまでの「中戦車」(Medium Tank)と「重戦車」(Heavy Tank)という車種分類を廃止して、両車を1車種で統合する「主力戦車」(Main Battle Tank)として以後の戦車開発を進めようとの案が提出された。 そしてイギリスでは、2式中型砲戦車(後のチーフテン戦車)がその最初の例となるのだが、それはまだ先の話であった。 レイランド社はFV4201を、当時生産が進められていたセンチュリオンMk.7およびMk.8の発展型として開発を進めたが、その中から被視認性を少しでも抑えるために車体高を下げることを目的として、操縦室内の操縦手の着座方式を後方に座席を倒してやや仰向けとするリクライニング方式とすることが考案された。 また操縦手の配置もそれまでの車体前部右側ではなく、前部中央に移すという新たなスタイルが誕生した。 このレイアウトの有効性を実証すべく、レイランド社は自己資金によりセンチュリオン中戦車のコンポーネントを多数流用した試作戦車「40tセンチュリオン」(実際の戦闘重量は42tだったのだが)を3両製作し、戦争省もこれを承認して「FV4202」の開発番号が与えられた。 FV4202は、全体的なレイアウトはオリジナルのセンチュリオン中戦車に酷似していたが、車体前面装甲板の傾斜角はさらに寝かされて操縦手席は中央配置とされ、転輪数もオリジナルの片側6個から5個に減じられていた。 さらに砲塔前面は外装式の主砲防盾を廃止し、避弾経始を考慮して傾斜の付いた鋭い尖ったスタイルに変わり、この砲塔前面部分に後のチーフテン戦車のルーツを感じることができる。 これら3両のFV4202は1956年中に全て完成し、試験終了後に1両はボーヴィントン戦車博物館に送られ、もう1両はボーデンのREME(王立電子工学機械化工兵部隊)に配備されて回収任務に就き、残る1両はなんとイスラエルに送られた。 これは書類上の誤りで、FV4202がセンチュリオン中戦車に分類されたことが原因だったようである。 当時、イスラエルは旧式化したアメリカ製のM4中戦車シリーズに代わる陸軍の主力MBTとするべく、世界各国から中古のセンチュリオン中戦車シリーズを買い集めており、てっきりFV4202もセンチュリオンの一種と思い込んで購入したのだろうが、こんな得体の知れない試作戦車を送られたイスラエル側は困惑したようで、おそらくそのまま処分してしまったものと推察されている。 このような紆余曲折を経ながらもFV4201計画は着実に前進しており、1957年にはさらなる仕様が決定した。 これはNATO各国との協議で誕生した、現在開発中および今後開発される戦車は多燃料エンジンを搭載するとの決議に従ったものであり、これによりFV4201用エンジンの開発を進めていたロールズ・ロイス社は、多燃料での運用が可能なよう設計を大きく改めることになった。 そしてこれは1958年1月にイギリス政府での決定が通達され、今後開発する戦闘車両は全て多燃料エンジンを搭載することが明文化された。 この多燃料エンジンは、ガソリンは無論のこと灯油や軽油といった燃料での運用を可能とするもので、確かに供給の便を考えれば素晴らしいアイディアであった。 しかし反面フィルターなどが複雑な構造となり、さらにほとんどの場合異なる燃料を使用する場合はフィルターの交換を必要とした。 そして多燃料エンジンは通常のエンジンに比べてサイズも大きくなってしまうため、これが最終的にチーフテン戦車の大重量化に繋がったことは否めない。 また実際に運用してみると、フィルターなどの交換には8時間という多大な時間を必要とし、皮肉なことに実際に用いる燃料はディーゼル油、すなわち軽油のみであったというのが何とも滑稽である。 いずれにせよ多燃料エンジン搭載に伴い、試算ではあるがFV4201の戦闘重量は約50tへと増大したため、各部のコンポーネントに対して極力重量軽減に努めて戦闘重量を48tに抑え、可能ならば最終的には45tとすることが強く求められることになった。 その中でも重量軽減の中核となったのが当然ながらエンジンで、結局ロールズ・ロイス社はFV4201計画から降り、車体の開発を担当していたレイランド社が新たにエンジンの開発も行うことになった。 このため同社では設計陣の人手不足が生じることになり、その対処として1958年8月にウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社がFV4201計画に参画し、砲塔部の開発を手掛けることになった。 そしてレイランド社はルーテス有限会社の協力を受けて、L60 垂直対向6気筒多燃料液冷ディーゼル・エンジンを開発した。 完成したL60エンジンの試作品は、1958年末から試運転を開始した。 また変速・操向機は、SCG社(Self-Changing Gears:自動変速ギア会社)の手でFV300軽戦闘車両向けとして開発が進められていたTN10変速・操向機をベースとし、各部に改良を加えたTN12半自動変速・操向機が開発された。 完成したTN12変速・操向機の試作品は、1959年3月から工場での試験に供された。 また1959年8月21日には戦争省より、FV4201の戦闘重量の限界を45tとし、オリジナルの要求は不明だが最大速度は26マイル(41.84km)/hに増大、15マイル(24.14km)/hの巡航速度での航続距離は最低300マイル(483km)で、NBC兵器により汚染された環境下でも戦闘行動を可能とする旨の通達が出されている。 話が前後してしまうが、これに先立つ1957年11月にはFV4201の砲塔に関する仕様が一部改められた。 これは主砲の俯仰角を−7.5〜+15度から−10〜+20度に増大し、加えて直径56cmの白色/赤外線投光機を砲塔に装備することが求められ、さらにオリジナルの要求は不明だが車体と砲塔の前面装甲厚の増加も要求された。 この装甲強化により、さらにFV4201の重量増大は避けられなくなった。 またこの1958年にはFV4201の車体寸法が、車体長6.78m、全高2.39m、床板地上高43.2cmを上限とすることが決まり、加えて主砲弾薬搭載数は60発、エンジンの出力は700hpで出力/重量比を15.5hp/tとすることが求められた。 これに従いFV4201の実物大木製モックアップが製作されて審査に供され、期日は不明だがレイランド社に対して同年中に試作車6両の製作が発注され、それぞれP1〜P6の呼称が与えられた。 この接頭記号の「P」は、「試作品」(Prototype)の頭文字を採ったものである。 しかし、レイランド社が開発したL60エンジンは当初期待された出力を発揮することができず、このためやむを得ず試作車には不満足ではあるが低出力のままでエンジンを載せ、段階的に出力向上を図ることとされた。 いずれにせよ決して順風満帆とはいかなかったものの、1960年1月には試作第1号車P1が、4月には第2号車P2がそれぞれFVRDEに引き渡されて試験を開始した。 研究着手から数えると、9年の歳月を要したことになる。 しかし戦争省がFV4201に掛ける期待は大きかったようで、試作車の完成を待たずに1959年6月には6両の増加試作車を発注し、それぞれW1〜W6の呼称が与えられた。 この増加試作車は王立造兵廠のリーズ工場とヴィッカーズ社にそれぞれ3両ずつが発注され、1961年7月〜1962年4月にかけて全車が引き渡された。 さらに西ドイツからの要求に応じて2両のFV4201がG1、G2の呼称で製作されて1962年11月に引き渡されたが、接頭記号の「G」はもちろん「ドイツ」(German)の頭文字を採ったものである。 余談になるが、西ドイツはその見返りとして当時開発中だったレオパルト戦車の先行生産型2両をイギリスに引き渡した。 また西ドイツはFV4201を試験に供した後に2両ともイギリスに返還しており、後にこの2両は仕様をチーフテンMk.1と同規格に改修した上でアメリカに贈呈され、現在メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館と、ケンタッキー州ルイビルのパットン戦車博物館に1両ずつ展示されている。 |
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+試作車による各種試験
FVRDEに引き渡されたFV4201の試作第1号車P1と第2号車P2は、まず基本ともいえる各種走行試験に供された。 しかし肝心のL60エンジンには様々な問題が生じており、特に出力を増大するとそれが多発するために、ひとまずガヴァナーを調節してその最大回転数を1,800rpmに落として試験が行われた。 この状態でP1は約1,000kmの走行距離を記録したが、その間にもエンジンの振動やそれに伴う捩り剛性の低下などの問題が報告された。 出力を減じているにも関わらずである。 この問題は、おそらく変速・操向機との結合クランクシャフトにあるのではないかと考えたFVRDEは、変速・操向機のマウントと内部ギアの設計を改めるよう具申した。 そして改設計に加え、クランクシャフトにダンパーを装着するなどの改良により振動問題は解決を見た。 またエンジンにも改良が加えられ、ようやく2,100rpmまで回転数を増大することが可能となったが、当初の計画値である2,400rpmにはまだ到達しなかった。 新型戦車を開発するにあたって様々なトラブルが発生するのは珍しいことではないが、FV4201も例外ではなく問題は機関系以外にも発生した。 まず問題視されたのは冷却能力の不足で、これは油圧駆動式の冷却ファンのベルトを交換することで解決したが、ラジエイターと油圧装置からの液漏れが多発し、これは取り付け部にダンパーを追加することで何とか収まったという。 また、L60エンジンを開発したレイランド社とルーテス社はエンジンの出力向上に関する改良に取り組み、当初500hpと予定より200hpも出力が低かったL60エンジンの出力を550hpまで増大することに成功した。 そして1960年10月と11月に、改良型のL60エンジンをP1とP2に搭載されていたエンジンと換装し、前述の改良と併せてようやく本格的な試験を行うことが可能となった。 しかし、このエンジン換装時にはTN12変速・操向機はわずか3基しか完成しておらず、このために少々きつい不整地走行を行った場合には修理を行う必要があり、長時間の運転を行うことはできなかった。 それでも1961年6月にはP1が約1,060kmの走行を記録し、さらにベアリング部分に改良を加えた変速・操向機がP2に搭載され、変速・操向機に関する問題が生じること無く不整地走行を含んで走行距離約1,525kmを記録した。 そして1962年に、2基の変速・操向機共に大きな故障を発生すること無く約2,400kmを走り切り、ようやく実用化への途が開けた。 この変速・操向機に起因する根本的な問題は、当初戦闘重量45tでFV4201の設計を進めていたにも関わらず、完成した試作車は戦闘重量が49.5tへと増大していたためで、これは当然ながらサスペンションや転輪にも影響を及ぼし、このため完成した試作第1〜3号車はFVRDEの手で急遽サスペンションを強化型に改め、加えて車台の固定部分を強化することになり、試作第4号車以降は最初からこの改良型が用いられることになった。 機関系などの問題から走行試験に重点が置かれたため、FV4201の射撃試験が初めて行われたのは1961年5月のことで、スコットランドのキルクッドブライト射撃場での試験に供されたのは増加試作第3号車W3で、試作第1号車P1の完成から1年以上が経ていた。 また同年末には、場所をドーセット州ラルワースに置かれたRAC(王立機甲軍団)に移して試験が続行されている。 そしてこのRACの手により、それまで作られていなかったFV4201の訓練マニュアルがようやく作成された。 この試験では、センチュリオン戦車(1950年代末に車種分類が「中戦車」から「主力戦車」に変更された)が生産中に導入した「コントラ・ローティング」と呼ばれる、車長がペリスコープ内に収めた目標に対して自動的に砲塔、すなわち主砲を指向する機構が正常に作動しない不具合が発生した。 このため、やむなく手動で車長用キューポラを所定の方向に回転させる必要が生じたり、キューポラに装着した機関銃を正しく目標に向けることができないなどの問題が生じたものの、主砲自体の問題は無かったようで主砲に関する報告は出されていない。 そして試験開始後の1961年6月にはこれら問題箇所がFVRDEにより改修されているので、ラルワースで実施された射撃試験はこの改良を確認するためだったのだろう。 またこれとは別に、FV4201の主砲と砲架のみをコンクリート製の台座と金属製のフレームに固定した状態で、純粋な砲弾威力に関する射撃試験も行われている。 話が前後するが、1961年7月ににはキルクッドブライト射撃場でFVRDEによる試作第4号車P4を用いた射撃試験も実施されており、この車両では上記の改修が施されているが、これは従来の薬莢式とは異なる装薬筒を使用する射撃に際して、発射ガスが砲塔内に漏れるか否かの試験であった。 イギリス国内における試験に続き、1962年12月には増加試作第1、第3号車が西ドイツに展開するBAOR(イギリス陸軍ライン派遣軍)傘下の第1王立戦車連隊(ヘーネに展開)と、第5王立戦車連隊(ファリングボステルに展開)にそれぞれ配備され、実戦部隊による試験に供された。 この試験配備に先立ち、両隊からの要員がイギリスに派遣されてFV4201への転換訓練を受けており、それまで乗車していたセンチュリオン戦車と比べてはるかに優れているとの評価を下した。 しかしそれはあくまでイギリスで運用した場合であり、再びFV4201と共に西ドイツに戻ると様々な問題が生じることになった。 まず問題視されたのは、西ドイツ側から求められていた道路の舗装面を傷付けないようにとの配慮(これはイギリスでも同様だったのだが)による、履帯表面へのゴムパッド装着に起因するものであった。 FV4201が西ドイツに到着した時期は当然ながら積雪時期にあたっており、このため凍結した路面の走行中に滑ったり回転してしまう事態が多発したのである。 これはゴムパッド未装着のセンチュリオン戦車と比べて顕著であったが、その解決策は無かったのが実態である。 さらに、暖房機材を未装備というのも乗員の不評を買った。 センチュリオン戦車には機関室からの熱気を戦闘室内に導く機構が装備されていたので、その差は歴然であった。 FV4201に暖房機材が用意されなかったのは重量軽減を目的としたもので、このため一部の乗員は電熱グローブとブーツ内への中敷きを収めたりして対処したが、無論これは抜本的な対策ではなく、実際に暖房機材が導入されるのはかなり後になってからのことであった。 また当時BAORに勤務していたバグナル・ワイルド少佐の弁によると、FV4201は砲塔上面から照準機が2cmほど浮き上がっており、とても試験に使える状態ではなかったとしている。 主砲に加えてFV4201の試作車は、副武装として7.62mm機関銃M73を主砲同軸と車長用キューポラに装備し、さらに主砲の標定用に12.7mm重機関銃M85を備えていた(いずれもアメリカ製)。 しかし、アメリカ製のM85は射撃中に薬室内の圧力が徐々に抜けてしまい標定銃としての任を成すことができなくなって、25発を射撃したら砲塔から降ろしてREMEで検査を必要とする始末だったという。 この問題はイギリス製の弾薬を用いたことによるもので、結局このため後にライセンス生産で一部に改良を加えて国産化した12.7mm標定銃L21に換装されることになった。 同様にNATO軍の仕様共通化に伴い、7.62mm機関銃M73はベルギーのFN社製の7.62mm汎用機関銃FN-MAGのライセンス生産型であるL8に変更されている。 さらに西ドイツにおける不整地での走行に際して、車高を下げたためにFV4201は床板と地表面との間隔が43cmとなっていたが、これが災いして不整地走行に際して難が生じてしまった。 その対処として採られたのが、転輪自体をより大直径のセンチュリオン戦車のものと交換することであった。 その結果として床板と地表面との間隔は56cmに拡大されたが、全高ではわずか2.5cm増加したに過ぎなかった。 これは簡単な作業であったため直ちに他の試作車にも実施され、後の生産型では最初からセンチュリオン戦車の転輪が装着されて完成した。 最初から分かっていたことではあるが、FV4201の戦闘重量に比して低いエンジン出力がここでも問題視された。 その結果として、第2次大戦の遺物ともいえるセンチュリオン戦車よりも機動性で劣るという判断が下され、加えて主砲射撃に関しても装薬筒挿入用の電気式ラマーが期待通りの作動を行うことができず、装填手の作業を補助するどころか負傷の危険さえ生んでしまったのである。 出力不足に対処することは不可能だったが、電気式ラマーは速やかに乗員により取り外されて砲塔左側の角に収容されてしまい、従来通り砲弾と同様に装填手が装薬筒を手で挿入する方式に改められた。 しかし、FV4201の分離装薬筒を用いる主砲射撃方式は悪いことばかりではなかった。 装填手にとってセンチュリオン戦車とは異なり、主砲射撃後に薬莢を取り出す必要が無くなったことは高く評価された。 また主砲の砲身にサーマル・スリーブの装着が導入されたことにより、温度の影響により生じる砲身の歪みが軽減されたことも見逃せない改良であり、そしてこれはセンチュリオン戦車にも導入されることになった。 さらにFV4201の操縦手は、座席がリクライニングのため戦車内での睡眠に際してはとても有効だったとしている。 いずれにせよ西ドイツにおけるFV4201の運用試験は3カ月間行われ、詳細な報告書が作成された。 それを一言でいうとFV4201は優れた能力を備えてはいるが、まだ部隊配備できる段階ではないとしており、これを受けた名前不明の准将は報告書を握りつぶそうとしたものの、より上級の将軍たちにより阻止され、報告書は戦争省内での検討に提出された。 そして、当初考えられていたFV4201の部隊配備をひとまず棚上げし、さらなる改良が実施されることになり、その結果として生産型の登場は遅れることになったが、これは当然であろう。 以上のように試験中に様々な問題は生じたものの、それでもFV4201の改良作業は順調に進められたようで、1963年5月1日から最初の生産型であるチーフテンMk.1の生産が開始された。 なお前述のように、チーフテン以降のイギリス陸軍戦車は従来の「中戦車」と「重戦車」という車種分類を廃止して、両車を1車種で統合する「主力戦車」という車種分類を用いるようになり、チーフテン戦車がその最初の例となった。 また「チーフテン」(Chieftain:族長、酋長)という愛称は、大戦中の巡航戦車Mk.V「カヴェナンター」(Covenanter:盟約者)から続く、「C」の頭文字で始まるイギリス陸軍戦車の愛称の伝統を引き継いで名付けられている。 チーフテンMk.1の生産作業は王立造兵廠のリーズ工場とヴィッカーズ社によって進められ、先行生産型とされた第1号車1両を含んで26両が王立造兵廠で、14両がヴィッカーズ社でそれぞれ製作され、1965年6月〜1966年2月にかけて全40両が完成した。 そしてチーフテンMk.1の内1両は、ハンプシャー州ボードンのSEME(王立機械・電子工兵学校)に配備されて訓練に供された。 もっとも、他のチーフテンMk.1も実戦部隊には配備されずに各種訓練や運用試験に用いられており、実戦部隊に配備されるのは続く生産型Mk.2からとなった。 |
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+型式分類
チーフテン戦車の型式はMk.1〜Mk.11(他にMk.15が存在するが、これはイギリス向けではなくオマーンへの輸出型である)まで存在するものの、実際には生産中の段階的改良や生産後の改修により呼称が変更された型式が多く、イギリス陸軍向けとして生産された型式はMk.1〜Mk.5のみであり、しかもMk.4は試験的に2両が製作されたに過ぎず極めて煩雑で、しかも改修の大半が車内装備に関するものなので、外見の特徴から型式を判断するのは極めて困難である。 ●チーフテンMk.1 最初の生産型であるチーフテンMk.1は40両が生産されたが、いずれも訓練や運用試験に供され実戦部隊に引き渡された車両は1両も無いので、その意味では全車が先行生産型と見るのが正しいのかも知れない。 機関系の出力不足や様々な問題が存在していたものの元々は完成度が高い車両であり、基本的なレイアウトは試作車を踏襲している。 ただし、試験の結果により判明した使い勝手などを改めるために、各部に変化が生じているのもまた事実である。 まず車体前部だが、試作車の単純な箱型から中央部が前方にやや突出した船首状に改められ、この形状に合わせた上面の前端には装甲ブロックが装着されて、試作車との大きな外見的変化が生じることになった。 さらに、車体右側面の中央部には意味不明な円筒形の張り出し部が新設され、機関室左右に細長い雑具箱が新設されて、この部分に装着されていた車外装備品は姿を消した。 なおこれらの変更に伴い、一部の試作車で装備された車体前端に溶接された背の高い跳弾板は姿を消している。 機関室も基本的なレイアウトは試作車に準じていたが、大きな変化が存在する。 それはラジエイターからの熱気を車外に逃がすために設けられている後方グリルが、試作車では一段高くなっていた部分を前方と揃えた位置まで下げて面一としており、似てはいるが全くの別物となった。 そして車体後面のマフラー部分は左右端が少々短縮され、その左右に排気管を設けて、右側のみ排気管の上方に補助エンジンの排気管を車外に突出させた。 さらに、それまで後面中央部に設けられていた電話ボックスを左に移し、主砲のトラヴェリング・クランプを直接マフラー部分に装着していた。 また、マフラー部分の外側にあたる後面には試作車時代からの雑具箱をそのまま受け継いでいたが、一部の車両では特大の雑具箱を装着していた。 ただしこれは生産時のものではなく、部隊の手による改修のようである。 また機関室側面には、前述のように試作車の車外装備品に代わって細長い雑具箱が新設された。 チーフテンMk.1は、車体と同じく砲塔にも試作車と変化が生じた。 砲塔左側面に装着された赤外線投光機を収める装甲箱が新型に換わり、レンズ前面の開閉式装甲カバーも単純な円形で内側にヒンジを備える簡略タイプに変更された。 さらに、砲塔後部の鋳造部分と圧延鋼板部分に生じていた大きな段差部分には外側から増加装甲板を溶接したので、試作車ほど段差が目立たなくなった。 そして、砲塔右側面には雑具箱に代えて2個の燃料缶を収めるラックを新設し、その前方にはアンテナ基部が、後方には消火器を縦に装着するラックも設けられ、より生産型らしいスタイルとなった。 さらに同じく右側面後方の増加装甲部分には、185m長の電話線を巻くリールが装着された。 同様に砲塔左側面での変化は、赤外線投光機部分の後方に装着していた雑具箱に代わり、金属パイプを組んだラックを装着して収容量の拡大が図られた。 砲塔後面にはNo.2 NBC防護装置を収める装甲箱が標準装備され、一部の試作車でその反対側に設けられていたラックは姿を消している。 さらに車長用キューポラの反対側に位置し、試作車では砲塔の軸線に平行だった前後開き式の装填手用ハッチが、やや車長用キューポラ側に傾斜した形に改められたのも見逃せない変化である。 チーフテンMk.1はわずか40両のみの少数生産ではあるが、完成後に段階的な改良が実施されMk.1/1〜1/4へと変身した。 ☆チーフテンMk.1/1 オリジナルのチーフテンMk.1に対して、エンジンの出力向上と機関室内排気管のレイアウト変更を行ったのに加えて、戦闘室内にエンジン・エアクリーナーの警報装置を追加したのが変化となっている。 ☆チーフテンMk.1/2 Mk.1/1での改修に加えて、試作車から用いられていた半球状で左右開き式のハッチを備えるNo.11車長用キューポラから、チーフテンMk.2より導入された1枚式の背の低いハッチに改めたNo.15 Mk.1キューポラに換装され、外見は同一だが発煙弾発射機を改良型に換装、操縦室の周囲にあたる車体上面にMk.2の生産中に導入された透明の水除け板展張用のレールを新設した。 加えて、それまで左右1個ずつだった前照灯の内側に赤外線前照灯を新たに装着し、併せてそのガード支柱の形状も変更した。 なおこれらの改修は生産工場ではなく、基地の整備部隊の手により実施されている。 ☆チーフテンMk.1/3 未改修のチーフテンMk.1に対してMk.1/1と同規格となる改修を施したのに加えて、トーテムポール改修を実施したもの。 トーテムポール改修計画は、ようやく当初L60エンジンが目指していた出力750hpを発揮することが可能となった改良型エンジンL60 Mk.8Aを、生産時より導入したイギリス陸軍向けの最終生産型Mk.5仕様に初期生産型を統一することを目的として、1975年半ばより進められたものである。 その根幹となったのは、「X仕様」と呼ばれるFCS(射撃統制システム)を中心としたものと、機関系の改良に主眼を置いた「Y仕様」および「Z仕様」であった。 まずX仕様だが、これは新規開発された12.7mm標定銃L21の射程延長型弾薬と、砲手用の昼間照準機の能力向上、そして車長用視察装置の改良であった。 同じくY仕様はL60エンジンのエアクリーナー能力損失率の低減と、駐車ブレーキのギア比を12:1に改めたのに加え、車長席への主砲射撃スイッチとエンジン点火スイッチの装備、および出力増減装置の新設とTLS(戦車レーザー測遠機)の導入、そして砲手用昼間および夜間用照準機の改良、照準機収容箱の変更、補助エンジンのエアクリーナー改良であった。 最後のZ仕様はX、Y仕様が工場での改修であったのに対し、基地の整備部門レベルでの改修を目的としたものであり、L60エンジンの信頼性強化と砲塔後面への新型NBC防護装置No.6 Mk.2の装着、主砲のトラヴェリング・クランプの新型への換装などであった。 これに加えて、Mk.2以降の生産型に対する戦闘室内への暖房装置新設と、新型無線機クランズマンへの換装もトーテムポール改修の一環として実施され、換装車には「C」の接尾記号が付与されている。 ☆チーフテンMk.1/4 Mk.1/2に対してトーテムポール改修を施したものだが、後の1986年にその内11両がAVLB(装甲架橋車両)へと改造されている。 ●チーフテンMk.2 最初の生産型であるチーフテンMk.1は、全車が訓練と運用試験に供され実戦部隊への配属は無かったので、その意味ではこのMk.2が最初の本格的生産型となる。 Mk.2は基本的にはMk.1に準じていたが、レイランド社が改良を進めていたL60エンジンが完全ではないものの出力を650hpまで発揮できるようになり、この改良型エンジンを導入したのがMk.2における最大の変化である。 さらに車長用キューポラが新型のNo.15 Mk.1に換わり、併せて機関室内の排気管のレイアウトを改め、さらに車体各部の水密シールの強化が図られた。 また型式分けはされていないが、生産中に機関室後部に配された排気グリルが新型に変更されたことも変化の1つである。 それまで後部グリルは左右および中央部の3分割とされていたが、取り外し式の中央部グリルが大き過ぎて取り扱いに難があるという報告を受け、左右のグリル幅を若干短縮して中央部グリルを左右2枚式に変更した。 さらにグリルの小型化に伴う冷却能力の低減をわずかでも補完するために、中央部の2枚のグリルを若干持ち上げ、左右のグリルを下方に向けた傾斜角を与えることで、わずかではあるが水平よりも開口部面積の拡大が図られた。 そしてこの変更に併せて、車体後面もグリルの変更に揃えた形状に改められることになった。 またMk.2では砲塔の耐弾性の強化が図られたとされるが、その詳細については不明である。 さらにMk.2生産の早い段階で、操縦手用ハッチ周囲に透明の水除け板展張用のレールが溶接された。 このレール新設に遅れて車体上面前部に跳弾板が溶接されたが、これは試作車時代のものよりも背が低く、前照灯の内側に収まる幅となっていたので試作車時代のような切り欠きは無かった。 ただし一部の車両ではレールの新設よりも先にこの跳弾板を溶接した例もあり、反対に続く生産型Mk.3でこの跳弾板を備えていない例も確認できるので、このあたりはストックとの関係かも知れない。 不思議なことに、チーフテン戦車はMk.1以外の生産型に関する生産台数が公表されておらず、判明しているのはMk.4が2両新規に製作され、イギリス陸軍向けとして生産された車両は各型合計で約900両や、Mk.2が300両以上、Mk.3が500両近くという数字しか公表されていない。 このためその型式別生産数は明らかではないのだが、公表されている車両登録番号からその数を追うとMk.2は538両が完成したことになる。 Mk.2には完成後、前述のトーテムポール計画による改修が段階的に進められた。 それはX、Y、Z、XY、XZ、YZに分かれており、改修後は()付きで例えばMk.2(X)、Mk.2(YZ)のように接尾記号が付され、最終的に全ての改修が導入された改造車はMk.6と呼称を改めることになった。 これとは別に、生産中において実施された改良も存在する。 それがMk.2(Y)/Lと(Y)/1、(Y)/2であり、トーテムポール計画において導入されたY仕様改修に先立ち、機材の変更を盛り込んだものである。 (Y)/L仕様はTLS CもしくはTLS No.1 Mk.1を追加装備したもので、同様に(Y)/1はTLS No.1 Mk.2もしくはTLS No.3 Mk.1とMRS(砲口照合装置)を装着したもの。 そして(Y)/2は、TLS No.1 Mk.2を追加装備した車両に対して与えられた呼称である。 トーテムポール計画も同様だが、これらの改修はMk.5が生産中、段階的に導入された改良を採り入れることで主砲の命中精度向上を目的としたものであり、これは続く生産型Mk.3も同様である。 そして完成したチーフテンMk.2は、まず1966年11月にBAOR傘下の第11軽騎兵連隊(後に第11キングロイヤル軽騎兵連隊に改称)に配備され、1967年初めには第17、第21槍騎兵連隊がこれに続き、以後もBAORを中心に配備が進められた。 なお、チーフテン戦車の後継として開発されたチャレンジャー戦車が最初に配備されたのも、同じく第11キングロイヤル軽騎兵連隊であった。 ●チーフテンMk.3 チーフテンMk.3は基本的にはMk.2の後期生産車に準じていたが、サスペンションは転輪アーム部分に潤滑油を収めた強化型が導入され、この潤滑油収容は誘導輪の履帯張度調節装置と上部支持輪アームにも実施された。 またエンジンは出力が700hp(650hpの説あり)に向上し、能力向上型冷却ファンと新型のエアクリーナーを備えたL60 Mk.6Aエンジンが搭載され、さらに補助エンジンも能力向上型で重量も軽減されたH30 Mk.10Aエンジンが導入された。 エンジンの換装に併せて機関室内の排気管のレイアウトがまたもや変更され、生産中に太陽光の反射を避けるためペリスコープ面を下方に傾斜させたNo.15 Mk.2車長用キューポラが導入された。 また、砲塔後面右側に装着されていたNBC防護装置No.2は新型の能力強化型No.6に換わり、その結果として砲塔後面のほぼ幅いっぱいのサイズとなったので、以前の型式との大きな識別箇所となっている。 Mk.3の外形的な変化は、これだけではない。 それまで砲塔右側面に装着されていた燃料缶ラックと消火器のラックが姿を消し、代わって車長用キューポラの隣側に大きな雑具箱が装着された。 なおその位置からこの雑具箱は、「車長用物入れ」と呼ばれている。 また、砲塔左側面後方の金属パイプを組んだラックが赤外線投光機装甲箱の直後まで大型化され、下側に金属製のメッシュが張られるようになった。 車体後面左右に装着されている雑具箱はより厚い鋼板に変更されたが、重量増大を避けるために小型化された新型に改められていることも外見的な変化の1つである。 さらに加えて、寒冷地帯における運用を考慮して点火装置も改良型に換わり、弾薬収容ケースの強化やフェンダー固定部の強化、車長用機関銃をNATO軍共通装備である7.62mm汎用機関銃L37に変更、駐車ブレーキのギア比を12:1に変更、前照灯を小径化して内側に赤外線前照灯の新設などがその変更箇所となっている。 そしてMk.3は生産中における段階的な改良に加えて、完成車に対して前述のトーテムポール計画による改修も実施されているため、多くの型式に分類されている。 その基本型Mk.3は1969年から生産に入り、1971年までに238両前後が完成した。 またMk.3は海外に対する最初の輸出型でもあり、Mk.3/3Pの呼称で100両がイランに引き渡された。 Mk.3(X)およびMk.3(Y)は前述のトーテムポール計画によって生産後に改修された型式であり、Mk.3(Y)/Lは生産中にY仕様を導入したのに加えて、TLS CもしくはTLS No.1 Mk.1から成るLキットを装備した型式で、Mk.3(Y)/1はTLSを改良型のNo.1 Mk.2に変更したのに加え、MRSを装備した型式。 またMk.3(Y)/2は(Y)/1と同じ装備の改良型だが、その詳細は不明である。 ☆チーフテンMk.3/G 開発当初はMk.3/1として分類されていた型式で、砲塔内からエンジンへの空気導入を可能としたものだが、最終的に本格的な生産には至らずに、6両が1969年10月に王立造兵廠で製作されただけに終わった。 このため、当初考えられていたMk.3/1の呼称は与えられずにMk.3/Gとされた。 またこのMk.3/Gは段階的に(X)、(Y)、(Z)仕様への改修が施され、全ての改修を受けた車両はMk.7と呼称を改めている。 ☆チーフテンMk.3/2 Mk.3/Gで導入された砲塔内からエンジンへの吸気に供される装置を、機関室グリルからの吸気に変更できるスイッチを備える改良型を搭載した型式で、加えて車長席にエンジンの遮断スイッチを導入し、後にLキットとして導入されるTLSの基部装着や配線などの試験に供された。 ただしその生産数は王立造兵廠で17両が製作されただけで、1969〜70年にかけて完成している。 また本型も後に(X)、(Y)、(Z)仕様へと段階的に改修され、全ての改修を実施した後にMk.7と改称された。 ☆チーフテンMk.3/S 生産型Mk.3/1となること無く終わったMk.3/Gの生産バージョンであり、上記の変更に加えてエアクリーナーが強化型に変更され、エンジンの潤滑油タンクを小型化して容量を減らし、加えてMk.3/2で導入された車長席へのエンジン遮断スイッチ装備や、砲手用射撃スイッチの新型化、不発に終わった際のHESH(粘着榴弾)取り出し工具への固定ブロック新設なども盛り込まれ、1971年1〜5月にかけて王立造兵廠で40両が完成した。 生産後、段階的に(X)、(Y)、(Z)仕様改修が実施され、全ての改修を受けた後に呼称がMk.7に変更された。 ☆チーフテンMk.3/3 イギリス陸軍向けのチーフテンMk.3の最終型式で、出力が720hpに増大したL60 Mk.7Aエンジンに換装されたのに加えて、改良型マフラーの導入やエンジン用の潤滑油タンクの小型化、エンジンの吸/排気グリル開口部への金網装着、分離型燃料タンクバルブへの換装、12.7mm標定銃L21の射程延長型弾薬導入とそれに伴う新型のNo.59砲手用中間照準機の装備、TLSの生産型基部と配線、NBC防護装置をNo.6 Mk.1に換装、改良型操縦手用ハッチ固定具の導入、砲塔水密リングの廃止などといった様々な改良が盛り込まれた。 ☆チーフテンMk.3/3P チーフテン初の輸出型で、イラン陸軍向けとして1971年5月〜1972年2月にかけて100両が王立造兵廠で生産された。 基本的にはMk.3/3に準じており、とくに専用の改修は施されていない。 なお接尾記号の「P」は、イランの旧国名である「ペルシャ」(Persia)の頭文字を採ったものである。 ●チーフテンMk.4 チーフテンMk.4は一応生産型式番号が与えられてはいるが、実際には王立造兵廠で2両(車両登録番号02SP95、02SP96)が製作された試作型に過ぎない。 当時チーフテン戦車の導入を検討していたイスラエルからの要求に応じる形で、Mk.3をベースに所要の改良を加えた型式であり、その最大の変化となったのは機関室側面に装着されていた細長い雑具箱を外し、この部分に大きな外装式燃料タンクを装着したことで、中東の砂漠地帯では必要のない履帯のゴムパッドも未装着とされた。 1970年6月に完成した2両のチーフテンMk.4は塗装をサンドのモノトーンとし、1971年5〜9月にかけてアメリカ・アリゾナ州のユマ試験場に送られ、熱帯地における運用試験に供された。 イギリス側はユダヤ財界にチーフテン戦車の開発資金を援助してもらう代わりに、本車のイスラエル国内でのライセンス生産を認めるつもりであったが、その後イスラエルと敵対するアラブ諸国から政治的圧力を掛けられた。 そして最終的にイギリス政府はアラブ諸国との関係悪化を避けるため、イスラエル側にチーフテン戦車のライセンス生産を許可しないことを通達し、Mk.4は2両ともイギリスに返還されることとなった。 イギリスに引き上げられた後、02SP95は架橋戦車チーフテンMk.6 AVLBに改造され、02SP96はFV4030計画の一環として、サスペンションをホルストマン式から油気圧式に換装するなどの改修が施されて試験に供された。 ●チーフテンMk.5 イギリス陸軍向けのチーフテン戦車の最終型式で、生産型チーフテンの集大成的な存在でもある。 Mk.3/3の発展型に位置付けられ、それまでの生産型で生産中に導入された改良に加えて、独自の改良が導入された。 まずエンジンは出力が720hpに増大したL60 Mk.7Aが搭載され、併せて排気管が新型に変更された。 さらに変速・操向機が強化型に換わり、補助エンジンのエアフィルターも新型とされ、システム改良によって補助エンジンの点火が早くなり、バッテリー方式の暖房機材が装着された。 砲塔周りでは砲手用として新型の直接照準機No.43が導入され、車長の照準ペリスコープもNo.43 Mk.4に換わった。 また生産当初かそれとも途中からかは不明だが、このMk.5から12.7mm標定銃L21の弾薬搭載数がそれまでの600発から300発に減じられ、主砲の砲弾と装薬筒収容ケースの形状を改めると共に、砲塔バスケットの左側にAPDS(装弾筒付徹甲弾)10発を収める砲弾ケースを新設して、主砲弾薬搭載数がそれまでの53発から64発へ増大したことも見逃せない変化である。 またNBC防護装置が新型のNo.6 Mk.2に換わり、主砲もMk.3の55口径120mm戦車砲L11A3に代えて、砲身の軽量化が図られたL11A5が導入された。 この新型砲身は排煙機の直径が縮小され、砲身先端部にMRSを新設し、サーマル・スリーブも新型に換わっているので識別は容易である。 新型主砲の導入に伴い、マフラー部分の中央に設けられていた主砲のトラヴェリング・クランプも新型に変更され、車長用キューポラに装着される7.62mm汎用機関銃L37の仰角を90度まで取れるように、それまで機関銃の機関部に装着されていた弾薬箱が機関銃の支柱に取り付ける方式に改められた。 また一部の車両では、砲塔左側面に大きなキャンバス製弾薬箱を装着している例もあったが、これは部隊による改修と思われる。 これらの改修は、Mi-24ハインドなどのソ連製対地攻撃ヘリコプターによる脅威の増大が背景にあったことは間違いない。 Mk.5における段階的改修は全て生産時に導入されたものであり、その最初の例がMk.5/Lで、以前の型式と同様にLキットと呼ばれるTLS CもしくはTLS No.1 Mk.1を導入した型式である。 ☆チーフテンMk.5/1 チーフテンMk.5のTLSを新型のNo.1 Mk.2もしくはNo.3 Mk.2に変更し、主砲の砲身先端部にMRSを装着した型式。 ☆チーフテンMk.5/2 チーフテンMk.5のTLSを新型のNo.1 Mk.2もしくはNo.3 Mk.1に変更し、主砲の砲身先端部にMRSを装着した型式。 ☆チーフテンMk.5/2K クウェート陸軍向けの輸出型で、接尾記号の「K」は「クウェート」(Kuwait)の頭文字を採ったものである。 基本的にはMk.5/2に準じるが、他の型式とは一線を画する大きな変更が見られる。 それは砲塔左側に標準装備された赤外線投光機とその装甲箱が廃止されたことで、代わって砲塔との間に支柱を設けて前方が外側に開いた形で雑具箱を装着し、さらにこの雑具箱を囲む形で金属パイプを組み合わせたラックを設けており、この部分が確認できれば識別は容易である。 チーフテンMk.5/2Kは王立造兵廠とヴィッカーズ社で合計165両が生産され、1976年7月から引き渡しを開始している。 そして1990年8月2日のイラク軍によるクウェート侵攻の際には、ソ連製の新鋭戦車T-72を主力とするイラク軍戦車部隊を相手に奮戦したものの、戦力で圧倒的に上回るイラク軍に太刀打ちできずわずか1日で制圧された。 ☆チーフテンMk.5/3 IFCS(改良型射撃統制システム)と呼ばれるものが導入された型式で、IFCSに加えてTLSとMRSが標準装備とされ、車長用キューポラにも改良が加えられたがその詳細は不明である。 ☆チーフテンMk.5/3P チーフテンMk.3/3Pと同様イラン陸軍向けの輸出型で、当初Mk.3/3Pと合わせて707両が発注され、1976年7月〜1978年にかけてMk.3/3Pが100両とMk.5/3Pが607両引き渡された。 なおこの中には戦車回収車ARVと、架橋戦車AVLB合わせて73両が含まれていた。 ただし資料によっては、この73両は先の707両には含まれないとしているものもある。 ☆チーフテンMk.5/4 チーフテンMk.5の最終型式で、緊急即用弾を追加装備したのがその変化である。 さらに、APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)を10発追加装備したのがMk.5/4/1、照準機の表示を変更したのがMk.5/5/1とそれぞれ細かく呼称されている。 また1980年代半ばには、ソ連がT-64戦車やT-72戦車といった125mm戦車砲を備える強力な新型戦車を年間3,000両以上生産していることを受けて、混成装備されているチーフテン戦車とチャレンジャー戦車に対して、近代的なFCSへの換装と人間工学に基づいた砲塔内レイアウト変更がCHIP(チーフテン/チャレンジャー改良計画)の呼称で検討された。 さらに同時並行する形で新規開発が進められていた、より強力な新型55口径120mm戦車砲XL30E4(後にチャレンジャー2戦車の主砲L30A1として制式化される)への換装が、CHARM(チーフテン/チャレンジャー武装)なる呼称で計画され、このCHIP、CHARM改修計画が実行された際には、チーフテンMk.12およびMk.13という型式呼称が与えられる予定であった。 また当時、ヴィッカーズ社の手でチャレンジャー戦車の発展型(後のチャレンジャー2戦車)の開発も進められており、イギリス国防省(1964年に戦争省から改組)はチーフテン戦車とチャレンジャー戦車にCHIP、CHARMの両改修を施して就役寿命の延長を図るか、チャレンジャー2戦車を新規生産するか検討を続けていた。 そしてこれらの改修に要するコストと新規生産コストを比較検討した結果、最終的にチャレンジャー2戦車を新規生産することが決定されたため、これによりCHIP、CHARM計画は頓挫した。 それでも後にチーフテンMk.11の主砲をL30A1に換装するという計画も立てられているが、もはやチーフテン戦車の時代は過ぎており、これまた実ること無く終わった。 チーフテンMk.5は1972年3月から生産が開始されたがその生産数は不明で、車両登録番号と照合しても不明な部分が多く112両前後が完成したとしかいえない。 なおイギリス陸軍向けのチーフテン戦車は、Mk.1とMk.2の生産は王立造兵廠に加えてヴィッカーズ社でも進められたが、Mk.3以降の型式は全てが王立造兵廠で完成している。 ●チーフテンMk.6 Mk.6以降のイギリス陸軍向けチーフテン各型は全てが既存車両からの改造型であり、その最初の型式となったMk.6はMk.2に対してトーテムポール計画による(X)、(Y)、(Z)仕様を改修により装備したものである。 加えて、TLS CもしくはTLS No.1 Mk.1から成るLキットを装備したMk.6/L、TLSを新型のNo.1 Mk.2もしくはNo.3 Mk.1に変更し、主砲先端部にMRSを装備したMk.6/1、改修後のMk.6に対してTLS No.1 Mk.2もしくはNo.3 Mk.1とMRSを追加装備し、12.7mm標定銃L21を廃止したのがMk.6/2である。 同じく改修後のMk.6にTLSとMRSを導入したのに加えて、FCSを改良型のIFCSに換装し、さらに戦車戦闘訓練に供するシムファイアの装着を可能として、車長用キューポラの照準ペリスコープをL5A1に換装したのがMk.6/3だが、後にTLSを新型のNo.2 Mk.2に換え、FVGCE(戦闘車両主砲制御装置)をNo.7 Mk.4からNo.10 Mk.1に変更するという改修も実施されている。 そしてMk.6の最終型式となったのがMk.6/Lから再改修されたMk.6/4で、トーテムポール改修後のMk.6に対して緊急即用弾を搭載したのがその変化だが、さらに10発のAPFSDSを追加搭載したのがMk.6/4/1、照準機内の表示改良を実施した車両はMk.6/5/1と細分化されている。 ●チーフテンMk.7 チーフテンMk.3、Mk.3/G、Mk.3/2、Mk.3/S各型に、トーテムポール計画による各種改修を実施した型式である。 さらにTLS装備のLキットを導入した車両はMk.7/Lと呼称されたが、後にMk.6/4と同じ段階的改修を受けMk.7/4、Mk.7/4/1、Mk.7/5/1と改称されている。 同様にMk.6/1に準じる改修車がMk.7/1、Mk.6/2に準じる改修車がMk.7/2、Mk.6/3に準じる改修車がMk.7/3とそれぞれ呼称されている。 ●チーフテンMk.8 チーフテンMk.3/3から改修された型式であり、トーテムポール計画による改修を盛り込んだのがその変化である。 またMk.5、6、7と同様に、同じ改修を受けた車両はMk.8/1、Mk.8/2、Mk.8/3、Mk.8/4、Mk.8/4/1、Mk.8/5/1と細かく分けられている。 ●チーフテンMk.9 チーフテンMk.5/4、Mk.6/4、Mk.7/4、Mk.8/4に対して、10発のAPFSDSを追加装備したもの。 ●チーフテンMk.10 チーフテンMk.9の砲塔前部に対しスティールブルー増加装甲を装着したのに加え、NBC防護装置を新型のNo.11 Mk.1に換装して各部に生残性強化が盛り込まれたが、その詳細は不明である。 ●チーフテンMk.11 イギリス陸軍向けチーフテン戦車の最終型式であり、Mk.10をベースとしてそれまでの赤外線投光機に代えて、砲塔左側面にTOGS(熱線視察・射撃装置)を装備したのがその変化である。 TOGSを収容する装甲箱は赤外線投光機の倍以上の長さなので、その後方に備えられている金属支柱のラックは短縮されており、赤外線投光機装備車との識別は容易である。 ●チーフテンMk.15 その型式名から常識的に考えてチーフテンMk.11の発展型かと考えられそうだが、実際にはMk.9に準じる規格のオマーン陸軍向け輸出型である。 ただし最初から生産車が引き渡されたわけではなく、まず1981年にイギリス陸軍で運用されていた型式不明のチーフテン戦車が12両リースの形で引き渡され、その後オマーン側は15両を生産発注し、これにイギリス側はMk.15の呼称を与えて王立造兵廠で生産を進め、完成車は1985年に引き渡された。 また以前のリース車両もオマーンは購入しているので、その総数は27両となる。 オマーンでは本車に「クァイド・アル・アルダ」の呼称を与えており、基本的にはチーフテンMk.9に準じるが、新型のフェランティ社製520型レーザー測遠機を備えた新型照準機ナノクウェストを装備しており、これがMk.9との相違点となっている。 |
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+車体の構造
チーフテン戦車の基本的な車内レイアウトはセンチュリオン中戦車と変わらず、前方から操縦室、砲塔を搭載した戦闘室、そして機関室に分けられていたが、大戦中に開発されたセンチュリオン中戦車がイギリスの道交法に則って右配置の操縦室を用いていたのに対し、チーフテン戦車では車体の全高を抑えるためそれまでの操縦手の着座姿勢とは異なり、後方に体を傾けたいわゆるリクライニング方式を採り、その位置も操縦室内の中央部に配していたのが最大の変化である。 そしてこのスタイルは、続くチャレンジャー1戦車とチャレンジャー2戦車にも引き継がれている。 チーフテン戦車の車台は圧延防弾鋼板の溶接構造で、地雷への対処として床板は緩やかなV字形とされ、車台側面装甲板も上方に向かってわずかに傾斜し、前面装甲板は中央部が突出したV字形となっていた。 車台前面の装甲厚は190mmとなっており、大戦中最強の戦車といわれるドイツのティーガーII重戦車にほぼ匹敵していた。 同じヨーロッパ圏内である西ドイツやフランスの戦後第2世代MBTが、いずれも装甲を犠牲にして機動力の向上を図っていたのとは対照的である。 つまりチーフテン戦車は防御力と火力に重点を置き、機動力は二の次とされたのである。 このあたりは、ティーガー重戦車の開発コンセプトを彷彿させるものがある。 チーフテン戦車の上部車体は前方が防弾鋼の鋳造製、後方が圧延防弾鋼板製とされ、前後を溶接することで構成された。 その位置はほぼ車体中央部で、溶接跡が丁寧に処理されているので写真で確認することは極めて困難である。 車台の前面には、下方中央に1カ所とそのやや上方の左右に牽引用のアイプレートが溶接され、左右のアイプレートにはフックが取り付けられていたが、これは未装着の場合も結構ある。 上部車体前面装甲板の前端は車台前面装甲板からわずかにはみ出す形とされ、その張り出し部の左右にはリフティング・アイと兼用のドーザー装着用アイプレートが溶接されていた。 このため全車とも必要に応じてドーザーを装着することが可能だったが、その装着には6時間を要するため乗員には不評だったようである。 なお、このドーザーはオートモーティブ・プロダクツ社が開発したもので、装着する際には左側最前部に置かれた雑具箱の中に発電機と電気式油圧装置から成るドーザー俯仰装置が収められ、ドーザーと結合された。 操作はジョイスティックを用いて操縦手が行い、通常は中隊の指揮車両に装着され、それ以外は基地に保管されていた。 このために、その装着例もあまり多くを確認することはできない。 また張り出し部の後方には前照灯を左右に備えていたが、チーフテンMk.3から以前の大型の前照灯1基から、前照灯を小型化して内側に赤外線前照灯が新設された。 さらにこの前照灯の間には、やや前方にオフセットして跳弾板が溶接されていた。 これはチーフテンMk.2の生産中に導入されたものだが、Mk.3でも未装着の例が確認できる。 そして、砲塔の直前にあたる上部車体中央部には操縦手用のハッチが配されていたが、Mk.2の生産の早い段階で、ハッチ前方から砲塔部分まで湾曲した水除けを目的とする透明シールド装着用のレールが設けられた。 チーフテン戦車の操縦手用ハッチは一般的な跳ね上げ式ではなく、主砲を前方に指向した場合の干渉を避けて、一旦上方に持ち上げてから右方向にスライドさせて開く方式を採っていた。 また操縦手の特異な着座姿勢から、通常は操縦手用ハッチの前方に配される視察用ペリスコープがハッチの後方に配されていたことも目を引く。 この視察用ペリスコープはAFV No.36 Mk.1が用いられていたが、回転式ではないために他の戦車のものよりワイドなタイプが用いられていた。 視察用ペリスコープの前方にあたる車体上面には2枚のワイパーブレイドが設けられ、さらにペリスコープガードの左右には外側が前方に向かって傾斜する形で、雨水がハッチ内に侵入することを防ぐための雨除け板が溶接されていた。 なお夜間においては、赤外線対応型のペリスコープに交換することで対処していた。 ただし後に夜間用は、ピルキントン社の手になるパッシブ式の「バジャー」(Badger:アナグマ)と呼ばれる新型ペリスコープに変更された。 チーフテン戦車の操縦室内はすっきりとまとめられ、意外なほど大きな水平タイプのブレーキペダル(90cmもある)や、反対に極めて小さなアクセルペダルとクラッチペダルが目を引く。 また戦後型の戦車としては珍しく、操向装置はハンドル式ではなく大戦型同様のレバー式が用いられていた。 これからも分かるように、チーフテン戦車は履帯を左右逆に駆動することでその場で旋回できる、いわゆる超信地旋回能力を備えてはいなかった。 上部車体の側面にはフェンダーが装着されており、一見すると一体式のように感じるかも知れないが実際には3分割されており、前部のフェンダーは車体上面と前後2本の支柱で固定され、中央のフェンダーは袖板の下に収まる形で前部フェンダーを固定する支柱に固定されていた。 後部フェンダーは車体側の端を上方に折り曲げて、車体とボルトで固定するというちょっと珍しい手法を採っていた。 このフェンダーの端には4分割されたサイドスカートが装着されたが、このためフェンダー側に7枚の固定プレートを装着し、車体側面にも4本の固定支柱をボルト止めしてサイドスカートを取り付けていた。 また戦闘室内の装填手席部分にあたる車体左側面には、弾薬補給用として後ろ開き式の小さな円形ハッチが設けられており、これはセンチュリオン中戦車の生産中に導入されたものと考えを一にしている。 ただし実際に使用する場合は、標準装備であるサイドスカートを前方から2枚目だけではあるが外す必要があった。 また前部と中央のフェンダーにはそれぞれ2個ずつの雑具箱が載せられていたが、これは戦闘室への成形炸薬弾対策も視野に入れていたようである。 そして前後の雑具箱間には、車外から消火器を作動させるための赤く塗られたハンドルが設けられていた。 車体後面の上方にはマフラーを収めた横長の装甲箱が装着されており、その左右にやや下方に傾けた状態で排気管が取り付けられ、右側の排気管上方には補助エンジンの排気管が装着されていた。 マフラーを収めた装甲箱の中央には起倒式のトラヴェリング・クランプが装着されていたが、チーフテンMk.5から車外に出ること無く主砲を持ち上げるだけでロックが解除される新型が導入された。 ただしそれ以前の型式も、改修に際してこの新型クランプに変更している。 また、トラヴェリング・クランプの左側には車内との連絡用として電話を収める装甲箱が装着されており、このあたりはセンチュリオン中戦車と同様である。 また車体後面の上端部左右には牽引用のアイプレートが溶接されており、その左右にあたるフェンダー上には雑具箱が載せられていたが、前述のようにチーフテンMk.3から鋼板が厚くなりサイズが縮小されている。 これはMk.2からの改修車では導入されていないので、識別箇所の1つとなっている。 なお外側から見ることはできないが、チーフテン戦車は緊急時の車外脱出用として操縦手席の直下と、砲手席と車長席の中間、そして装填手席の直下にそれぞれ投棄式の脱出用ハッチを備えていた。 この脱出用ハッチは操縦手のもののみ長方形で、他はいずれも円形とされていた。 |
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+機関室の構造
チーフテン戦車の車体後部に配された機関室内には、本車の心臓であるL60エンジンとTN12変速・操向機、補助エンジン、ラジエイター、冷却ファンなどが一体化されたパワーパック形式で収められ、機関室内の左右にあたる袖板の上には前後に分割された形で燃料タンクが収められ、合わせて950リットルの燃料が収容されていた。 またパワーパック全体の重量は、2.73tと比較的軽量にまとめられていた。 まずL60エンジンだが、これはレイランド社がルーテス社とFVRDEの協力を受けて開発した2ストローク垂直対向6気筒多燃料液冷ディーゼル・エンジンで、その排気量は26,110ccに達している。 レイランド社はイギリスのエンジンメーカーとしては老舗だが、L60エンジンは同社として初の大出力エンジンでもあった。 なおチーフテン戦車のエンジンは軽量でコンパクトであることが求められたため、レイランド社はL60エンジンを開発するにあたって、大戦中にドイツのユンカース航空機・発動機製作所が開発したユモ205/207航空機用垂直対向6気筒液冷ディーゼル・エンジンを参考にしたといわれる。 このエンジンは1気筒の中に2個のピストンが対向して入る複雑な形式であったが、通常のディーゼル・エンジンに比べて軽量でコンパクトにまとめられていた。 しかし大出力エンジンの開発経験が無いレイランド社にとって、複雑な構造を持つ航空機用エンジンを原型とするL60エンジンの開発は非常にハードルが高く、また前述のようにL60エンジンは様々な燃料を使用できる多燃料エンジンとすることが求められたこともあり開発は困難を極めた。 そして、ようやく実用化に漕ぎ着けたL60の試作エンジンは低出力で、要求されていた出力700hpには遠く及ばなかった。 しかし、ソ連の新型MBTに対抗するためにチーフテン戦車は早期の実用化が求められたため、ひとまず機動性が不充分なことは承知の上で生産を進めることとした。 開発作業は難航したものの、レイランド社は1959年に最初のL60エンジンを完成させ、1965年までに試作車およびチーフテンMk.1向けとして計60基のL60エンジンを完成させたが、段階的に改良が図られているのでその呼称はMk.1〜Mk.4が存在していた。 そして当初580hpであったL60エンジンだが、1965年1月に完成したMk.4Aでは出力がわずかではあるが585hpに向上し、11月には新型ピストンの導入により出力が650hpに増大したMk.4A2が登場した。 その後もL60エンジンの改良は止むこと無く続けられ、段階的にMk.5、Mk.6A、Mk.7A、Mk.8A、Mk.10A、Mk.11A、Mk.11A/N、Mk.12A、Mk.12A/N、Mk.13Aと発展を続け、チーフテンMk.5に搭載されたMk.13Aではその最大出力が750hpに達した。 ただしこのMk.13Aは、当初Mk.11A/Nと呼称されていたものを1980年に改称したものである。 また当初は回転数を制限して使用されていたL60エンジンであったが、このMk.13Aでは2,100rpmまで増大させても問題が無くなり、その50tを超える戦闘重量故に決して高い機動性とはいえないまでも、チーフテンMk.5においてまずはほぼ満足できる走行能力を得ることができた。 機関室のサイズを抑えるために、L60エンジンはエンジンの上方左右に分ける形で薄型ラジエイター(冷却液の総容量は132リットル)を装着していたが、整備の便を考慮してラジエイター後方にヒンジを備え、ほぼ垂直位置まで立てることができる機構を備えていた。 また冷却ファンはエンジン直後の左右に一体化して設けられており、それぞれベルトにより駆動された。 エンジンの後方に結合されたTN12変速・操向機は、従来は独立していた変速機と操向機を一体化してサイズの縮小を図っていた。 なお、TN12変速・操向機を開発したのはSCG社(Self-Changing Gears:自動変速ギア会社)であるが、同社は1965年に事業を終了したため、その後はDBE社(David Brown Engineering:デイヴィッド・ブラウン工業)がTN12変速・操向機の生産とサポートを引き継いでいる。 TN12変速・操向機はメリット・ウィルソン式の前進6段/後進2段で、そのギア速度は前進1速:4.41m、2速:7.61m、3速:12.35m、4速:19.35m、5速:28.8m、6速:42.7m、後進1速:6.58m、2速:9.83mで、緊急時には自動的に前進2速/後進1速(この場合は3.93m)に切り替えて運転される機構が組み込まれていた。 また旋回半径は当然ながら速度つまりギア比により異なるが、1速では3.18m、6速では30.74mとなっていた。 エンジンの左側に置かれたコヴェントリー・クライマックス社製の補助エンジンH30 No.4 Mk.7AもしくはMk.10Aは、出力23hp(2,000rpm)の2ストローク垂直対向3気筒液冷ディーゼル・エンジンで、通常はエンジンの点火に供するものだが、副次的にエンジンを駆動すること無く電気および油圧系統に動力を与えることができ、燃料消費量の減少に一役買っていた。 またエンジンが緊急停止した際には、変速・操向機に動力を供給することもできた。 機関室の上面には前方に吸気用、後方に排出用の開閉式グリルが設けられ、後方のグリル中央部のみ開閉式ではなく取り外し式となっていた。 また生産当初この取り外し式排出グリルは1枚式だったが、重くて使い勝手が悪いという報告を背景に、チーフテンMk.2の生産中にサイズを縮小して2枚式に改められた。 この変更に伴い左右の開閉式グリルは幅がわずかに縮小され、中央の2枚をやや上方に持ち上げて、左右のグリルが下方に傾斜するというスタイルに改められた。 この変更に伴い、車体後面の形状も合わせて変化している。 グリル部分の左右は外側にやや傾斜しており、その下方に燃料タンクが収められている関係から、前方と後方にそれぞれ燃料注入口とその蓋が設けられていた。 その中間には昇華するガスを車外に逃がす弁が装着され、前後のグリル間には左右端にラジエイターの注入口を備えていた。 さらにチーフテン戦車の特徴の1つとして、前後のグリル間とその位置にあたる機関室端にはコの字形で前部グリルを囲む形で細長いゴムパッドが装着されていたが、これは主砲に俯角を与えた際に機関室との接触を防ぐために採られた措置で、すでにセンチュリオン中戦車において導入されていたものと同様だった。 また生産型では機関室の左右側面に細長い雑具箱が装着され、その下方にあたるフェンダー上に牽引用のワイアーロープとその固定具が置かれていた。 機関室と戦闘室との間に設けられた防火隔壁の壁面には2本の大型消火器が取り付けられており、機関室内で火災が発生した場合は自動的に消火剤を噴霧し、併せて乗員のインターコムに警報が鳴るという機構が備えられていた。 さらに戦争省はチーフテン戦車に潜水渡渉能力を付与することを計画し、機関室の吸気口と排気口部分に大戦時と同様のスノーケル装置を装着することを求めた。 このスノーケル装置は実際に開発が進められたが、チーフテン戦車に実際に装着されることは無く、計画は立ち消えとなった。 |
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+足周りの構造
チーフテン戦車の走行装置は基本的にはセンチュリオン中戦車のものと変わらず、「ホルストマン式」と呼ばれるサスペンション方式が踏襲された。 その構造は上方に3本のコイル・スプリング(螺旋ばね)を配し、このスプリングと連結する形で前後に独立したアームを設けて鋼製のカバーに収め、アームの前後に転輪を装着してサスペンション・ユニットとしていた。 センチュリオン中戦車と異なるのは、上部支持輪が車台側面ではなくこのユニットの上部中央に配されていたことで、チーフテン戦車は上部支持輪付きのサスペンション・ユニットを片側3個装着していた。 試作車では第1、第3ユニットの前後に油圧式ショック・アブソーバーを装着していたが、生産型では簡略化のため前部のみに変更された。 転輪はセンチュリオン中戦車と同じものが用いられており、その直径は80.3cmで周囲にゴム縁を備えていた。 チーフテン戦車は誘導輪を前方、起動輪を後方に配する後輪駆動方式を採用しており、起動輪は直径61cmで周囲に12枚の歯を備えていたが、誘導輪のサイズについては不明である。 履帯はシングルピン式の鋳造製で、走行時に道路を傷付けないように表面にゴムパッドを装着していた。 この履帯は幅610mm、ピッチ157mm、片側96枚の履板で構成され、その総重量は476kgなので履板の単体重量は約5kgとなる。 また、誘導輪の基部には位置を前後に調節可能な機構が組み込まれており、必要に応じて履帯の張度を調節することが可能であった。 |
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+砲塔の構造
チーフテン戦車の砲塔は上部車体と同様に前部が防弾鋼の鋳造製、後部と上面が圧延防弾鋼板製となっており、それぞれを溶接することで砲塔を構成した。 砲塔前面の装甲厚は250mmに達し、西側の戦後第2世代MBTとしては異例の重装甲を誇っていた。 また試作車では鋳造部分と圧延鋼板部分に大きな段差が生じていたが、生産型では全てこの段差部分に装甲板が溶接されたので、わずかな段差に変わった。 また戦後型の西側戦車としては珍しく、主砲防盾は外装式ではなく内装式とされ、砲塔内には主砲を挟む形で右側に砲手、左側に装填手が位置し、砲手の後方には車長が配されていた。 当然ながら砲塔は油圧機構を用いた全周旋回式で、通常はエンジンから動力を抽出したが、エンジンが停止した緊急時には補助エンジンから動力が供給され、さらに手動式の旋回機構も備えていた。 この乗員配置に従い砲塔上面中央には車長用キューポラが、その左側には前後開き式の装填手用ハッチが設けられていた。 さらに砲塔後部には無線機が収容されているために、その点検と整備を目的として砲塔上面には2枚のハッチが装着されていたが、左側は開閉式なのに対し右側はボルトで固定された取り外し式となっていた。 この他の砲塔の装備としては、装填手用ハッチの左側前後にアンテナの基部が設けられ、前部左右に68mm煙幕弾L5(段階的にL7、L8へと発展した)6発を収容する蜂の巣状発射機が、左側面に赤外線投光機が、その後方に金属支柱を組んだラックが装着されていた。 同様に右側面には車長用キューポラ右側にあたる部分に雑具箱が、その後方に金属製支柱のラックが配され、ラック内側にあたる部分には185m長の電話線を巻き付けるリールが標準装備されていた。 車長用キューポラは試作車とチーフテンMk.1では、左右開き式で半球状のハッチを備え周囲にペリスコープ8基を備えるNo.11キューポラが用いられていたが、チーフテンMk.2からハッチが1枚式となりペリスコープが9基となった新型のNo.15 Mk.1キューポラに換わり、さらにチーフテンMk.3からはその改良型であるNo.15 Mk.2キューポラに変更された。 その意味から旧型ともいえるNo.11キューポラに装着されたペリスコープはNo.34で、新型のNo.15 Mk.1キューポラではペリスコープがNo.40 Mk.1に換わっている。 ただし一部のチーフテンMk.2では、No.34ペリスコープが用いられていた車両も存在したという。 また1枚式ハッチは後方に完全に倒して開くことと、垂直位置で止めること、そしてハッチ全体を上方に持ち上げるという3ポジションを選択可能だったが、これもセンチュリオン中戦車の遺産である。 さらにいずれの型式でもハッチ前方にあたる車長用キューポラ中央部には、照準ペリスコープが装着されていた。 この照準ペリスコープのNo.11キューポラでの呼称は不明だが、No.15 Mk.1キューポラではNo.37 Mk.1と判明しており、これは段階的にNo.37 Mk.6、No.43 Mk.4へと換装されていった。 照準ペリスコープは型式が異なってもいずれも実寸と10倍の切り替えが可能で、通常は実寸で車外を観測し、目標を発見すると10倍に切り替えて使用された。 さらに改良型のNo.15 Mk.2キューポラになると、倍率15倍が追加されている。 また、いずれの場合も照準ペリスコープには電熱式の曇り除去装置が組み込まれ、さらに2枚のワイパーを備えていた。 なお操縦手と同様に、夜間戦闘に際しては照準ペリスコープを赤外線対応型に交換する必要があり、車長用のものはL3A1の呼称が与えられていた。 車長用キューポラは全周旋回式で、照準ペリスコープの左側には7.62mm機関銃のマウントが、同様に右側には白熱灯と赤外線を切り替えられる全周旋回式で、上方に62度までの仰角を与えることが可能な小型ライトのマウントがそれぞれ装着されていた。 なお、7.62mm機関銃は当初はアメリカ製のM73が用いられたが、後にNATO軍の弾薬共通化計画に従って、ベルギーのFN社が開発したFN-MAGのライセンス生産型(同軸機関銃がL8、車長用がL37)に変更されている。 さらに当初は、機関銃の機関部に弾薬を収める弾薬箱を装着していたが、チーフテンMk.5から仰角を90度まで上げられるように、機関銃のマウントに弾薬箱を装着する方式に改められた。 また、前後開き式の装填手用ハッチの前方ハッチ左側には装甲カバー付きのペリスコープを備えており、以前の型式は不明だが、チーフテンMk.5ではNo.30 Mk.1ペリスコープを装備していたことが判明している。 砲手席の上面には専用のハッチは設けられておらず、砲手の乗降に際しては車長用キューポラが用いられた。 砲手席の直上には倍率8倍のAFV No.32 Mk.2照準ペリスコープが装甲ガードと共に装着され、さらにその補助として倍率7倍のNo.26 Mk.1直接照準望遠鏡が主砲の右側に搭載されていた。 後にこの照準機はNo.59砲手用昼間照準ペリスコープに換装され、同様に直接照準望遠鏡も新型のNo.43に換わった。 車長の照準ペリスコープと同様に夜間戦闘に際しては、赤外線対応型で倍率3倍のL3A1照準ペリスコープに交換した。 照準ペリスコープは夜間戦闘時には赤外線対応型に素早く交換を行う必要があり、このため車長、砲手共に交換練習をかなり繰り返したという。 砲塔の左側面には、装甲箱に収められた状態でマルコーニ・レーダーシステムズ社が開発したキセノン方式の2kWの赤外線投光機No.2 Mk.3が標準装備されていた。 また必要に応じて、短時間ならばその出力を3kWまで増大することも可能であった。 そして任意に白色灯と赤外線を切り替えることが可能で、その操作は車長席に設けられたスイッチを用いて車長が行った。 またサーボ式の駆動機構を備えており、主砲の俯仰角に合わせて投光機を俯仰して照射光が目標を指向することを可能としていた。 なお白色灯の場合はその有効照射距離は1,500m、赤外線の場合は1,000mといわれる。 イギリス陸軍向けのチーフテン戦車の最終型式となったMk.11では、この赤外線投光機が廃止されて新たにTOGS(熱線視察・射撃装置)が搭載された。 TOGSの装甲箱は赤外線投光機を収めた装甲箱よりも横幅がわずかに減じ、全長が倍以上になったため、後方に装着されていたラックの長さが短縮された。 またその理由は明らかにされていないが、オマーン陸軍への輸出型として新規生産されたチーフテンMk.15は赤外線投光機を未装備としており、その代わりに雑具箱を装着し赤外線投光機の後方に設けられた金属支柱製のラックを、雑具箱を囲む形で前方まで延長した独特のスタイルにまとめられた。 すでに赤外線装置は機密ではないはずで、実際イギリス陸軍で使用されていた型式不明のチーフテン戦車12両がリースされているので、なぜ廃止されたかは分からない。 さらにチーフテンMk.10(そして当然ながらその改修型Mk.11も)では、1986年から砲塔の前面に「スティールブルー」と称される増加装甲が装着された。 無論その装甲厚などは一切公表されていないが、写真で見る限り150mm程度と推察される。 このスティールブルーは砲塔の前部に載せるような形で装着されており、砲塔との間には厚いゴム板を挟み込んで、両者を薄い金属板の座金を砲塔に溶接してボルト止めされた。 そしてスティールブルーと砲塔の間に生じる段差は、薄い鋼板を溶接することで塞がれている。 またスティールブルー増加装甲は、後期生産分ではより砲塔形状に合わせたスタイルに改められていた。 いずれにせよスティールブルー増加装甲装着により、チーフテン戦車の面構えは大きく変更されることになった。 なお、その装着に際してはスティールブルー改修キットが製作され、計23カ所の基地に配備されている整備所で作業が実施されたという。 |
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+武装の構造
今でこそ西側の戦車の主砲は120mm戦車砲が一般化したが、チーフテン戦車の登場当時は西側の生産型戦車として120mm戦車砲を装備していたのは、アメリカのM103ファイティング・モンスター戦車とイギリスのコンカラー重戦車しかなく、しかもこの両車はいずれも重戦車であり、当初中戦車として開発が開始された戦車としてはチーフテン戦車が初の例であり、その意味では時代を先取りしていた感がある。 チーフテン戦車の主砲に採用された120mm戦車砲L11は、1960〜70年代にかけて西側戦車の標準装備的な存在となった51口径105mm戦車砲L7を手掛けた王立造兵廠で開発されたもので、生産中に段階的な改良が加えられたためにL11A1〜A5の各型式に分類されている。 初期生産型に搭載されたのはL11A1で、続くL11A2では排煙機がより大型の改良型に換わり、併せてL11A1で少々乱雑な締め方であった排煙機後方のサーマル・スリーブが、整った締め方に変更された。 そして最終型となったL11A5は排煙機の直径が縮小され、砲身先端部にはMRS(砲口照合装置)が追加装備された。 生産の主力となったのはL11A2とL11A5で、L11A1は試作車とチーフテンMk.2まで用いられていたようである。 120mm戦車砲L11は105mm戦車砲L7と同じく、砲腔内に刻まれた螺旋状の溝(ライフリング)で砲弾に回転を与えて弾道を安定させるライフル砲であった。 従来の戦車が装備していた戦車砲はほとんどがライフル砲であったが、ソ連が1960年代初期に開発したT-62中戦車は世界で初めて滑腔砲を装備する生産型戦車となった。 その後西側も、西ドイツのレオパルト2戦車やアメリカのM1エイブラムズ戦車が120mm滑腔砲を装備し、さらにソ連もこれに対抗する形で125mm滑腔砲を装備するT-64戦車やT-72戦車を開発した。 こうして現在では戦車の主砲は完全に滑腔砲が主流になっているが、イギリスはチーフテン戦車の後継のチャレンジャー戦車にも同様に120mm戦車砲L11を搭載し、最新鋭のチャレンジャー2戦車にも依然として120mmライフル砲を採用し続けている。 このように120mm戦車砲L11は世界の戦車砲の潮流からは外れた存在となってしまったが、もう1つの特徴として本砲は砲弾と装薬が別になったいわゆる分離弾方式を採用していたことが挙げられる。 同様に120mm戦車砲を装備するコンカラー重戦車では装薬が薬莢に収められていたが、前述したようにチーフテン戦車では装填手のワークロード軽減のために、野砲などと同様の装薬筒を用いる方式が採られていた。 なお、120mm戦車砲L11に関してはライフリングの数や砲身長などの詳細なデータは公表されておらず、口径長が55口径で垂直鎖栓式の砲尾を備えていることしか判明していない。 使用弾種は当初APDS(型式不明)とL31 HESH、L34煙幕弾であったが、後にL15 APDS、L23 APFSDS、L20演習弾も追加されている。 装甲貫徹力などは明らかにされていないがL15 APDSは弾頭重量10.35kg、装薬重量9.04kg、砲口初速1,370m/秒、L20演習弾は弾頭重量5.81kg、装薬重量5.77kg、砲口初速1,370m/秒、L31 HESHは弾頭重量17.08kg、装薬重量3.03kg、砲口初速670m/秒、L34煙幕弾は弾頭重量17.35kg、装薬重量3.03kgという数字が判明している。 主砲弾薬は砲塔内と操縦室内の左右に合わせて53発が収められたが、チーフテンMk.5ではレイアウトの変更と弾薬庫の新型化により、その搭載数を64発に増大している。 砲弾は単純な金属製の円筒ケースに収容されたが、装薬は被弾時の発火を防ぐため数本を一組として湿式弾薬庫(というより、単なる金属製のケースだが)に収められた。 このあたりは大戦時のアメリカのM4中戦車における改良と考え方を一にしていたが、チーフテン戦車の場合は水ではなく標準型対フリーズと呼ばれる特殊な液体がケースに充填され、その中に何本か円筒形の装薬筒を収める円筒ケースを収め、さらにケース全体の内部を0.48気圧とすることで、被弾時に装薬が液体で濡らされて発火し難くなるという特殊な方式が採られていた。 また砲弾、装薬筒共にその搭載位置は砲塔リングの下方に限定されており、このあたりは現代戦車のセオリーに則っている。 チーフテン戦車が装備する120mm戦車砲L11はAPDSを使用した場合、最大4,000mの距離で当時WTO(ワルシャワ条約機構)軍が装備していたT-55、T-62中戦車などのソ連製MBTを撃破することができたといわれる。 このため、ソ連は西側諸国の戦後第2世代MBTの中でチーフテン戦車を最も脅威に感じており、これに対抗するために125mm戦車砲を装備するT-64、T-72戦車シリーズを開発することとなった。 チーフテン戦車は主砲に加えて、副武装として主砲の上部左側に7.62mm機関銃M73を同軸機関銃として備え、砲塔上面の車長用キューポラにも対空・対地攻撃用としてM73機関銃を装備していた。 さらに同軸機関銃の左側にあたる砲塔前部には、主砲の照準に用いる12.7mm標定銃M85を搭載していた。 前述のように、チーフテン戦車の生産中に7.62mm機関銃はベルギー製のFN-MAGのライセンス生産型(同軸機関銃がL8、車長用がMk.1〜2ではL8、Mk.3以降はL37)に変更され、同様に12.7mm標定銃も改良国産型のL21に変更され、チーフテンMk.3/3からはより射程の長い新型の弾薬が装備された。 しかし、標定銃を用いて照準を行うよりもはるかに簡単かつ高精度のTLS(戦車レーザー測遠機)が実用化されると、標定銃は必要ない装備との判断からTLS装着改修に際し外されて、その開口部は鋼板を溶接して塞がれている。 ただしこれはチーフテンMk.5の初期生産車までで、大半のMk.5は最初から標定銃の開口部を持たない砲塔が最初から用いられた。 なお同軸機関銃と標定銃の射撃は砲手が行ったが、弾薬の給弾は装填手の仕事となっていた。 その弾薬搭載数は、7.62mm機関銃弾が同軸機関銃と車長用合計で6,000発、12.7mm標定弾が600発であったが、チーフテンMk.5から標定弾の搭載数が半減して300発となった。 なお、砲塔前部の左右に装着されていた発煙弾発射機は車長席に設けられているスイッチにより発射され、約0.7秒、30m前後を飛翔した後、地面との接触で約60m範囲の煙幕を発生させることができた。 この他の武装としては信号弾拳銃とその弾薬、そして破砕手榴弾L2(これらの弾数は不明)が戦闘室内に収められていた。 チーフテン戦車のFCS(射撃統制システム)については、例によって軍事機密に厳しいイギリス政府は詳細を公表していない。 現在分かる範囲で記述すると、チーフテン戦車の初期生産車ではセンチュリオン中戦車で実用の域に達した油圧サーボ機構を介した主砲安定装置を踏襲し、加えて、これまたセンチュリオン中戦車向けとしてマルコーニ社で開発されたFV/GCE(戦闘車両主砲統制装備)がそのまま搭載された。 ただ統制装置とはいうもののさほどのものではなく、照準ペリスコープとその補助である直接照準望遠鏡、そしてこれまたセンチュリオン中戦車から受け継いだ12.7mm標定銃に主砲安定装置を連動させるという、極めて単純なものであった。 このため標定銃が目標との距離測定手段となっていたために、当初は1,800m、後に射距離延伸型の弾薬が導入されてもその有効照準距離は2,500mに過ぎなかった。 有効な機材さえあれば3,000m以上の目標に対して効果的な射撃を行うことが可能な120mm戦車砲にとって、この貧弱なFCSは充分に能力を発揮できない足枷となっていた。 そして後に、ソ連を頂点とするWTO軍の戦車が125mm戦車砲と複合装甲を備えるT-64戦車やT-72戦車に更新されると、全く時代遅れなFCSとなってしまったのである。 このため、チーフテンMk.3の生産中にバー&ストラウド社製のルビーTLS(レーザー測遠機)を導入し、併せてマルコーニ宇宙防衛システムズ社が開発した弾道コンピューターなどを中核とする改良型FCS(IFCS)が導入された。 なお、システム全体の統合も同社が行っている。 IFCSの装備により、チーフテン戦車はようやく移動目標に対しても精度の高い射撃が可能となり、停止目標に対しては3,000m、移動目標に対しても2,000m以上で初弾の命中精度が劇的に向上することになった。 そしてこのIFCS導入車では、砲手用の照準ペリスコープがTLSからのデータをも表示するNo.2 Mk.1もしくはNo.2 Mk.2に変更されている。 さらに段階的にIFCSは改良が加えられ、TLSをルビー方式からより高精度のNd-YAG方式に改めるなどアップデートされた。 その結果として煙幕に隠された目標に対する射撃能力を獲得し、レーザー波の有効距離は500〜10,000mで誤差は±10m、命中精度は90%に達したという。 さらにこれらの改良に合わせてFV/GCEも発展型のNo.10、No.11と段階的に換装された。 またその詳細は明らかにされていないが、「映像強化型(II)照準ペリスコープ」と呼ばれる改良型照準ペリスコープが導入されており、導入車では砲手用の照準ペリスコープがNo.6 Mk.1に変更されている。 チーフテンMk.10で導入されたTOGS(熱線視察・射撃装置)は元々チャレンジャー戦車向けとして開発されたものであり、赤外線などとは異なり自ら光を発すること無く周囲の熱変化を映像で捉えるパッシブ式の暗視機材で、夜間戦闘能力はほぼチャレンジャー戦車と同等とまでなった。 TOGSは赤外線投光機と同じく装甲箱に収容されており、その前面には内側にヒンジを備える装甲蓋を備え、使用時に開かれる。 TOGSの内部にはTISH(熱映像センサー)が収容されており、周囲の熱情報を映像に換えて車長席と砲手席に設けられている、SPU(象徴コンピューター処理ユニット)と呼ばれるディスプレイに表示する。 なお、チャレンジャー戦車の場合は乗員たちからこのSPUは「ゲロ」と呼ばれているというが、チーフテン戦車の場合は分からない。 またTOGSの作動時には、当然ながら内部に収められたセンサーが熱を発生するため、装甲箱の後方上面には排気用のグリルが設けられている。 しかし、車重に比べてエンジン出力が低く最後まで機動性に難が残ったチーフテン戦車に比べて、エンジン出力が大幅に向上し、はるかに機動性が向上した発展型であるチャレンジャー戦車が1982年に実戦化されたため、コストとの関係から結局TOGSはチーフテンMk.11のみの装備に留まった。 |
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<チーフテンMk.3戦車> 全長: 10.795m 車体長: 7.518m 全幅: 3.657m 全高: 2.895m 全備重量: 54.1t 乗員: 4名 エンジン: レイランドL60 Mk.6A 2ストローク垂直対向6気筒多燃料液冷ディーゼル 最大出力: 700hp/2,100rpm 最大速度: 40.23km/h 航続距離: 499km 武装: 55口径120mmライフル砲L11A2×1 (53発) 12.7mm標定銃L21A1×1 (600発) 7.62mm機関銃L8A1×1 (6,000発) 7.62mm機関銃L37A1×1 装甲厚: 最大250mm |
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<チーフテンMk.5戦車> 全長: 10.795m 車体長: 7.518m 全幅: 3.657m 全高: 2.895m 全備重量: 55.0t 乗員: 4名 エンジン: レイランドL60 Mk.7A 2ストローク垂直対向6気筒多燃料液冷ディーゼル 最大出力: 720hp/2,100rpm 最大速度: 43.45km/h 航続距離: 499km 武装: 55口径120mmライフル砲L11A5×1 (64発) 12.7mm標定銃L21A1×1 (300発) 7.62mm機関銃L8A1×1 (6,000発) 7.62mm機関銃L37A1×1 装甲厚: 最大250mm |
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<参考文献> ・「パンツァー2006年11月号 回想のイギリスMBT チーフテン」 竹内修 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年5月号 チーフテン戦車 インアクション」 中川未央 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2007年3月号 チーフテン戦車の開発と構造」 竹内修 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2017年10月号 イギリスMBTの系譜」 竹内修 著 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート9 レオパルト1と第二世代MBT」 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート11 第二次大戦後のイギリスMBT」 アルゴノート社 ・「ウォーマシン・レポート40 イギリス戦車100年史」 アルゴノート社 ・「世界のAFV 2021〜2022」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2014年10月号 チーフテン主力戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」 デルタ出版 ・「世界の主力戦闘車」 ジェイソン・ターナー 著 三修社 ・「新・世界の主力戦車カタログ」 三修社 ・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社 ・「戦車名鑑 1946〜2002 現用編」 コーエー ・「世界の最新陸上兵器 300」 成美堂出版 |
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