BT-7快速戦車
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BT-7快速戦車 1935年型
BT-7快速戦車 1937年型
BT-7M快速戦車
BT-7A砲兵戦車
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+BT-7快速戦車 1935年型
BT-5快速戦車がまだ開発段階にあった1932年2月21日、ソ連国防委員会(KO)においてBT快速戦車の50%に3インチ(76.2mm)砲を搭載することが決定され、さらに同年3月19日に軍事・海軍人民委員部が「BT快速戦車およびT-26軽戦車に、その基本構造に渡る大幅な改修をすること無く76.2mm戦車砲を装備せよ」と開発陣に命令を下している。
BT快速戦車シリーズの開発・生産を手掛けていたウクライナのハリコフ機関車工場(KhPZ)ではこれを受けて、A.O.フィルソフ技師を中心に76.2mm砲搭載型BT快速戦車の設計案を「T-2O」(第2試作戦車)の呼称で1932年10月に纏め上げた。
このT-2OはBT快速戦車の主砲を76.2mm砲に換装する以外に、車体の設計をリファインしてエンジンを従来のM-5ガソリン・エンジン(アメリカ製のリバティーL-12航空機用ガソリン・エンジンのコピー生産型)から、より信頼性の高いドイツのBMW社製のVI型航空機用ガソリン・エンジンのライセンス生産品である、M-17
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力400hp)に換装し、燃料搭載量を増加させて航続距離の延長も図るという内容のものであった。
しかし1932年8月13日にソ連労働・防衛会議(STO)において、BT-5快速戦車とT-29多砲塔中戦車のコンポーネントを利用して水陸両用の新型快速戦車PT-1を開発し、1934年より量産を開始することが決定され、KhPZのスタッフもこの開発に参加させられることになったため、T-2O快速戦車の開発は後回しにされることになった。
このPT-1水陸両用快速戦車の開発は、内務人民委員部(NKVD:ソ連の秘密警察)の経済部所属の戦車設計局が提案したもので、後のNKVD長官N.I.エジョフによる一種の覇権獲得工作といえるものであった。
PT-1水陸両用快速戦車は、BT快速戦車の高速性能と浮航性を併せ持つ万能戦車を目指したものだったが、機構的に欲張り過ぎたため構造の複雑さと製造コストの高さが問題となり、結局1934年に試作車1両のみが作られただけで開発は中止されることになった。
しかしこの計画にKhPZのスタッフが参加させられたことが原因で、T-2O快速戦車の開発は予定より大幅に遅れることになり、1933年末になってようやく本格的な開発がスタートした。
また、M-17航空機用ガソリン・エンジンの生産を行っていたルィビンスクの第26工場では、M-17エンジンをT-2O快速戦車に搭載するにあたって、戦車搭載用に改修を施したタイプのエンジンを「M-17T」の呼称で開発していたが、同工場は航空機向けのM-17エンジンの生産だけで手一杯だったため、3基のM-17TエンジンのKhPZへの引き渡しは1934年4月半ばまでずれ込んでしまい、これもT-2O快速戦車の開発の遅れに繋がった。
しかしKhPZの開発陣は、T-2O快速戦車を同年5月1日にモスクワ赤の広場で行われるメーデー・パレードに参加させることを目指して突貫作業で試作車の開発を進め、最初の試作車は予定通りこの年のメーデー・パレードにて一般公開された。
完成したT-2O快速戦車の試作車には、「BT-7」の呼称が与えられた。
BT-7快速戦車の試作車はBT-5快速戦車とはかなり外見が異なっており、各部に多くの改良が盛り込まれていた。
BT-2、BT-5快速戦車では車体・砲塔とも装甲板をリベット接合して組み立てられていたが、BT-7快速戦車では車体前部を中心に装甲板の接合が電気溶接式に改められた。
リベット接合方式は溶接方式に比べて強度が劣る他、被弾した際に破断したリベットが車内に飛び散って乗員に被害を及ぼすなどの欠点があることが以前から分かっていたが、当時のソ連はまだ電気溶接の技術が不充分だったため戦車の組み立てはリベット接合で行わざるを得なかった。
しかしその後の工業技術の進歩により、BT-7快速戦車から電気溶接方式が導入されたのである。
またBT-7快速戦車では車体前部のデザインが変更され、BT-5快速戦車では平面で構成されていた車体前端部が避弾経始を考慮して湾曲したデザインとなり、BT-5快速戦車では車体前面上部装甲板から張り出していた操縦手用ハッチも装甲板と一体化したデザインに変更された。
併せて装甲厚もやや強化され、BT-5快速戦車では13mmだった車体前面上部の装甲厚が15mmとなった。
また試作車では、操縦手用ハッチの右側に7.62mm空冷機関銃DTを装備するボールマウント式銃架が設けられていた。
エンジンはBT-2、BT-5快速戦車に搭載されていたM-5ガソリン・エンジンに代えて、M-17T V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力450hp)が搭載され、併せて変速・操向機も前進3段/後進1段の新型のものに換装された。
また航続距離の延長を図って、車内の燃料タンク容積がBT-5快速戦車の360リットルから840リットルに拡大され、左右のフェンダー上には角材のような形状の予備燃料タンクを2個まで搭載することが可能となった。
これらの改良に伴って機関室が後方に拡大されたため車体後部のデザインも変更されており、BT-5快速戦車ではフェンダーから上の部分が垂直でその下の部分はギアボックス収納部が大きく張り出していたのが、BT-7快速戦車では傾斜した装甲板を上下から接合して突き出した形状に改められた。
またBT-5快速戦車では車体後部に大型の円筒形マフラーを2基装備していたが、この外付け式マフラーは防御面での弱点(赤く灼熱するため外部に随伴した兵員が火傷を負うとか、火炎瓶をここに投げ付けられて発火し易い等)を形成したため、BT-7快速戦車では機関室内配置のマフラーに換えられ、エンジン排気管はルーヴァー上から出されるように変更された。
砲塔のデザインもBT-5快速戦車から大きく変更され、砲塔の前面と後面は避弾経始を考慮して大きく湾曲させられていた。
内装式の主砲マウントには、T-28多砲塔中戦車やT-35多砲塔重戦車の主砲と同じ16.5口径76.2mm戦車砲KT-28が搭載され、主砲の右側には7.62mm機関銃DTを装備するボールマウント式銃架が設けられていた。
しかし1934年秋に開かれたKOにおいて、BT快速戦車およびT-26軽戦車の通常装備としては76.2mm戦車砲を採用しないことが決定された。
これは生産数に限りのある76.2mm戦車砲を、当時開発や量産が進められていた各種多砲塔戦車や試作中戦車に優先して装備するためであった。
このためKhPZでは、BT-5快速戦車と同じ46口径45mm戦車砲20Kを装備するBT-7快速戦車の2番目の試作車の開発を大急ぎで進め、完成した試作車を同年11月7日の革命記念日パレードに参加させている。
この試作第2号車は第1号車と同じ砲塔に45mm戦車砲20Kを装備していた他、機関室後部がフラットな形状にリファインされ、第1号車では機関室内に配置されていたマフラーも、機関室の左右側面に1基ずつ小型の外付け式マフラーを装備するように変更されていた。
ソ連軍当局は1934年11月に1935年中に300両のBT-7快速戦車を生産するよう発令し、翌12月にはその数字は650両に増やされた。
BT-7快速戦車は1935年初め〜年末にかけて500両が完成し、その内の260両は砲塔に71-TK-1無線送受信機とフレームアンテナを装備していた。
さらに1936年には1,044両のBT-7快速戦車が生産され、その内の699両が71-TK-1無線機搭載型であった。
なお、BT-7快速戦車の試作車に搭載されていた前後が大きく湾曲した新設計の砲塔は、防御力に優れている反面内部容積が狭く、製造工程も複雑であったため採用が見送られ、生産型にはBT-5快速戦車1934年型と同じ円筒形の砲塔が搭載された。
また、試作車で操縦手用ハッチ右側のボールマウント式銃架に装備されていた車体機関銃が生産型では廃止され、機関室後部のデザインも単純な角張った箱型にされて、マフラーは試作第1号車と同じ内蔵式マフラーが採用された。
1936年からの生産車の一部は、砲塔上面右側の車長用ハッチがP-40対空銃架付きの円形回転式ハッチに変更され、砲塔後部バスルにボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTが装備された。
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+BT-7快速戦車 1937年型
1936年7月に勃発したスペイン内戦において、ソ連は人民戦線軍を支援するために同年10月からT-26軽戦車で編制された戦車部隊を派遣し、さらに1937年にはBT-5快速戦車で編制された部隊を送り込んだが、この戦いにおいてこれらの戦車は装甲防御力が不充分であることが露呈してしまった。
このため、ソ連軍当局は装甲防御力に優れる新型戦車の早急な開発を求めると共に、当時量産中の戦車についても防御力強化のための設計変更を要求した。
BT-7快速戦車については、それまで使用されていたBT-5快速戦車1934年型と同じ砲塔に代えて、傾斜装甲を導入して防御力を強化した新型砲塔を搭載することになった。
この新型砲塔は「防弾強化砲塔」と呼ばれ、KhPZで1937年3月頃に開発に着手された。
防弾強化砲塔は厚さ15mmの圧延防弾鋼板を溶接接合で組み立てており、従来の砲塔では垂直になっていた砲塔側面装甲板には15度の傾斜が与えられた。
砲塔上面の車長用ハッチと砲手用ハッチは、従来の砲塔では横長の長方形だったのが縦長の楕円形のものに変更された。
また従来の砲塔では砲手のみに備えられていた、ペリスコープ式照準視察装置(TOP(M1930)またはPT-1(M1932))が車長にも追加装備された。
一般的に、この防弾強化砲塔を搭載したBT-7快速戦車は「1937年型」、従来の砲塔を搭載したタイプは「1935年型」と分類されることが多い。
1937年型も1935年型の1936年以降の生産車と同様、一部の車両は砲塔上面右側の車長用ハッチがP-40対空銃架付きの円形回転式ハッチに変更され、砲塔後部バスルにボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTが装備されたがその数については不明である。
また1937年型の一部の車両には、世界初の走行間射撃対応型のペリスコープ式照準視察装置TOP-1が装備された。
このTOP-1照準機は1934年に特別設計局のパブロフ技師が開発に着手したもので「オリオン」とも呼ばれ、走行間射撃に対応するための偏差調整システムが組み込まれていた。
TOP-1照準機は1936年中に完成し、1937年1月6〜14日にかけてセンジスキー実験場においてBT-7快速戦車に取り付けて射撃試験が行われた。
それまでBT-5快速戦車やT-26軽戦車に用いられていたTOP照準機の場合、移動速度25〜30km/hで走行中の戦車から発射した45mm徹甲弾は、射距離1,000mで10m×10m大の標的に対して25〜33%の命中率であったが、TOP-1照準機は射撃試験において、同条件での命中率が53〜66%に向上することが確認された。
試験で好成績を収めたことからTOP-1照準機はソ連軍の装備として制式採用され、1937年中に420基を完成させるよう発令された。
その後TOP-1照準機はかなりの数が製作されたようだが、複雑な構造のせいで大量生産が困難だったため1940年頃に生産が打ち切られ、BT-7快速戦車の一部に装備されたのみでT-34中戦車などの新型戦車には装備されなかった。
BT-7快速戦車は1937年型に生産が切り替わった1937年に628両が完成し、続いて1938年に1,098両、1939年に1,341両、1940年に73両が生産されている。
1940年に生産された73両のBT-7快速戦車はNKVD部隊向けで、すでにこの頃はディーゼル・エンジン搭載型のBT-7M快速戦車に生産が切り替わっていたが、NKVDは他に装甲車も運用していた関係でガソリンを燃料とする戦車を望んだため、わざわざ1940年になってもこのタイプが生産されたものと思われる。
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+BT-7M快速戦車
ソ連は、ガソリン・エンジンに比べて燃費が良く火災の危険性も低いディーゼル・エンジンの利点に着目し、1930年代初頭より航空機用ディーゼル・エンジンの研究に着手した。
当初は、ドイツのユンカース社製の航空機用ディーゼル・エンジンを購入してソ連軍航空機への搭載や国産化を目指したが、ディーゼル・エンジンはガソリン・エンジンに比べて高い圧力に晒されるためより頑丈に設計しなければならず、どうしてもガソリン・エンジンに比べて重量がかさばるため性能的に満足いかなかった。
そこでフランスのイスパノ・スイザ社製の航空機用ガソリン・エンジンをベースに、材質に軽量なアルミニウム合金を多用してディーゼル化する研究を開始し、1930年代半ばまでにVD-2ディーゼル・エンジンを完成させた。
VD-2エンジンを開発した第75ハリコフ・ディーゼル工場の開発陣は、このエンジンを航空機だけでなく戦車に搭載することも考え、KhPZが開発したBT-5快速戦車の車体に搭載して試験を行った。
この頃からソ連の研究開発者たちの間では、ディーゼル・エンジンを航空機よりも戦車などの装軌式車両に搭載するべきであるという意向が支配的となったため、第75工場はKhPZと協力してVD-2エンジンを本格的な戦車用ディーゼル・エンジンとして完成させる作業に着手した。
1936年秋にはBT-7快速戦車にVD-2エンジンを搭載する試験も行われ、KhPZで4両のBT-7快速戦車にVD-2エンジンが搭載されて「A-8」の試作呼称が与えられた。
A-8快速戦車は長期に渡って運用試験が行われ、装輪走行モードで1,000km、装軌走行モードで4,000kmもの走行試験が実施された。
そして、これらの試験で得られたデータに基づいてVD-2エンジンは改良が施され、1938年秋にV-2ディーゼル・エンジンとして完成された。
V-2エンジンはV型12気筒の液冷ディーゼル・エンジンで排気量38.9リットル、出力は500hp/1,800rpmとなっており、BT-7快速戦車以外にもT-34中戦車、KV重戦車シリーズ、IS重戦車シリーズなどのソ連軍の主力戦車のエンジンとして採用された。
さらに戦後も、V-2エンジンの改良型がソ連・ロシア軍MBTのエンジンとして今日まで使用され続けている。
V-2エンジンを搭載したBT-7快速戦車には「BT-7M」(”M”はModifikatsiya:改良の頭文字)の呼称が与えられ、1939年6月に2両が国家試験に付された後、ソ連軍に制式採用された。
同年9月5日にBT-7M快速戦車の生産がKhPZに発令され、12月には最初の生産車5両が軍に引き渡された。
BT-7M快速戦車の生産は1940年秋まで続けられ、1940年中に706両が完成している。
BT-7M快速戦車はエンジンの変更に併せて、機関室上面の気化機用の吸気筒がごく小さなものに変更されており、これがBT-7快速戦車1937年型との明確な識別点となっている。
また砲塔上面のペリスコープ式照準視察装置は、BT-7M快速戦車では右側の車長用のものが廃止されて基部の開口部は円形の鋼板で塞がれるようになった。
BT-7M快速戦車もBT-7快速戦車の1936年以降の生産車と同様、一部の車両は砲塔上面右側の車長用ハッチがP-40対空銃架付きの円形回転式ハッチに変更され、砲塔後部バスルにボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTが装備された。
BT-7M快速戦車ではこのタイプの車両が割合多いといわれているが、具体的な生産数については不明である。
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+BT-7A砲兵戦車
BT-7A砲兵戦車は、ソ連軍当局が戦車部隊に支援火力を提供する目的で、16.5口径76.2mm戦車砲KT-28を搭載するタイプのBT-7快速戦車の開発を要求した結果誕生した車両で、1935年4月に開発がスタートした。
ちなみにBT-7Aの”A”は、「アルティレリ」(Artillery:砲兵)の頭文字を採ったものである。
軍当局はT-26軽戦車にも同様の火力支援型(後のT-26-4砲兵戦車)の開発を求めたため、BT-7快速戦車とT-26軽戦車に共用するKT-28戦車砲用の2名用砲塔が開発されることになった。
BT-7A砲兵戦車は1936〜37年にかけて155両が生産され、1939年5〜9月のハルハ川戦役(ノモンハン事件)、1941年6月からの独ソ戦(大祖国戦争)の初期に実戦投入されている。
主砲の76.2mm戦車砲KT-28は、レニングラードの第100クラースヌィ・プチロフ工場がT-28中戦車およびT-35重戦車に搭載する目的で76.2mm連隊砲(歩兵砲)M1927をベースに開発したもので、徹甲弾を使用した場合の砲口初速は370m/秒、装甲貫徹力は射距離500mで31mm、1,000mで28mmとなっていた。
また1938年末〜1939年秋にかけて、BT-7A砲兵戦車に新型の30.5口径76.2mm戦車砲L-11および39口径76.2mm戦車砲F-32を搭載して運用・射撃試験が実施された。
しかし結局、BT-7快速戦車にこれらの新型戦車砲が採用されることは無く、これらは専らKV-1重戦車やT-34中戦車の主砲として用いられることになった。
BT-7快速戦車シリーズの生産数 |
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1934年 |
1935年 |
1936年 |
1937年 |
1938年 |
1939年 |
1940年 |
合 計 |
BT-7快速戦車 無線機なし |
0 |
260 |
345 |
406 |
720 |
865 |
72 |
2,668 |
BT-7快速戦車 無線機付き |
1 |
240 |
699 |
222 |
378 |
476 |
1 |
2,017 |
BT-7M快速戦車 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
5 |
706 |
715 |
BT-7A砲兵戦車 |
1 |
0 |
5 |
149 |
0 |
0 |
0 |
155 |
合 計 |
2 |
500 |
1,049 |
777 |
1,102 |
1,346 |
779 |
5,555 |
BT-7快速戦車は、1939年5〜9月のハルハ川戦役でBT-5快速戦車と共に日本軍との戦闘に投入されたのを皮切りに、同年9月17日からの東部ポーランド侵攻、同年11月から翌年春にかけての対フィンランド戦争(冬戦争)、そして1941年6月からの独ソ戦に投入された。
独ソ戦開始時、BT快速戦車シリーズはT-26軽戦車と共にソ連軍機甲部隊の主力を占めており、中でも5,000両以上生産されたBT-7快速戦車は質、量共に戦力の柱となっていた。
BT-7快速戦車は、ドイツ軍機甲部隊の主力戦車であったIII号戦車に劣らない性能を備えていたものの、当時再編の途上にあったソ連軍機甲部隊は戦車兵の練度や戦術面でドイツ軍に大きく劣っており、整備資材と人員の不備も影響して、満足に力を発揮できないまま緒戦でBT-7快速戦車の大半が失われた。
しかし生き残った車両はモスクワ攻防戦やレニングラード包囲戦、北部カフカース山地での戦闘やスターリングラード戦に参加し、独ソ戦では1944年頃まで、極東地区では1945年8月の満州侵攻まで実戦参加している。
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<BT-7快速戦車 1935年型>
全長: 5.645m
全幅: 2.23m
全高: 2.40m
全備重量: 13.0t
乗員: 3名
エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 450hp/1,750rpm
最大速度: 52km/h(装輪 72km/h)
航続距離: 350km(装輪 500km)
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (172発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 6〜20mm
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<BT-7快速戦車 1937年型>
全長: 5.66m
全幅: 2.29m
全高: 2.417m
全備重量: 13.9t
乗員: 3名
エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 450hp/1,750rpm
最大速度: 52km/h(装輪 72km/h)
航続距離: 350km(装輪 500km)
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (188発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 6〜20mm
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<BT-7M快速戦車>
全長: 5.66m
全幅: 2.29m
全高: 2.417m
全備重量: 14.65t
乗員: 3名
エンジン: V-2 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 62km/h(装輪 86km/h)
航続距離: 600km(装輪 700km)
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (188発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 6〜20mm
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<BT-7A砲兵戦車>
全長: 5.66m
全幅: 2.29m
全高: 2.52m
全備重量: 14.5t
乗員: 3名
エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 450hp/1,750rpm
最大速度: 50km/h(装輪 70km/h)
航続距離: 350km(装輪 500km)
武装: 16.5口径76.2mm戦車砲KT-28×1 (40発)
7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚: 6〜20mm
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兵器諸元(BT-7快速戦車 1937年型)
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<参考文献>
・「パンツァー2008年9月号 クリスティーの忠実な後継車 BT-5/-7(前)」 佐藤慎ノ亮 著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年11月号 クリスティーの忠実な後継車 BT-5/-7(後)」 佐藤慎ノ亮 著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年5月号 J.W.クリスティーとその時代(最終回)」 佐藤慎ノ亮 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年2月号 ソビエト陸軍のBT高速戦車シリーズ」 城島健二 著 アルゴノート社
・「パンツァー2003年11月号 九七式中戦車改 vs BT-7」 小野山康弘 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年5月号 旧ソ連のBT-5/BT-7高速戦車」 平田辰 著 アルゴノート社
・「パンツァー2010年7月号 BT-7快速戦車」 荒木雅也 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2010年11月号 BT-7の特殊バリエーション車体(1)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2010年9月号 ソ連BT戦車シリーズ」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「グランドパワー2002年11月号 BT快速戦車シリーズ(2)」 古是三春 著 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
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