BT-2快速戦車 |
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+開発
1929年7月に、M.N.トゥハチェフスキー元帥の構想に基づく最初の本格的機甲部隊建設構想「ソ連軍における戦車、トラクター、自動車、装甲兵器の整備方針」を決めたソ連は、1929年12月30日からソ連軍自動車化・機械化局(UMM)のI.A.ハレプスキー局長を団長とする兵器調査団を海外に派遣した。 この調査団の目的は、各国で開発された各種戦車を視察してソ連が構想する機甲部隊に導入すべき戦車を選定し、そのサンプル車両とライセンス生産権の購入を図ることであった。 調査団はドイツ、チェコスロヴァキア、フランス、イギリスなど目ぼしい装甲車両や戦車等の開発国を次々に訪れ、イギリスにおいてカーデン・ロイドMk.VI豆戦車やヴィッカーズ6t戦車(Mk.E軽戦車)のサンプル車両とライセンス生産権の購入契約を結んだ後、アメリカを訪問した。 調査団がアメリカを訪問した目的は、カニンガム社が試作開発していたT1およびT1E1軽戦車の視察およびサンプル車両の購入であった。 T1軽戦車はカニンガム社が1927年に開発した全長3.81m、全幅1.791m、全高2.172m、戦闘重量6.8tの軽戦車で、車体後部に搭載した全周旋回式砲塔に短砲身37mm戦車砲と7.62mm機関銃を同軸に装備していた。 一方、T1E1軽戦車は1929年に登場したT1軽戦車の改良型で全長3.873m、全幅1.791m、全高2.175m、戦闘重量7.5t、武装はT1軽戦車と同様で、重量の増加に伴ってエンジン出力が105hpから110hpに強化されていた。 ソ連側はこれらカニンガム社製軽戦車を50両程度購入したい旨の打診を行ったが、結局価格面で折り合いが付かず契約は成立しなかった。 アメリカにおけるソ連調査団の活動は不調が続いたがそんな折、ハレプスキーのもとに戦車の売り込みをしてきた人物がいた。 USホイール&トラック・レイヤー社の社長、ジョン・ウォルター・クリスティー技師である。 クリスティーの会社は元々フロント・ドライブ式のレーシングカーの開発を手掛けていたが、第1次世界大戦勃発後の1915年から戦車や自走高射砲の試作を手掛けるようになり、大戦終了後は独自の発想に基づく斬新なスタイルの試作戦車を次々に発表するようになった。 ハレプスキーのもとを訪れたときクリスティーはすでに60代半ばであったが、若々しい感性で将来あるべき戦車についての自らの考察をソ連調査団のメンバーに語った。 そしてニュージャージー州の自社工場に調査団を招き、クリスティーM1928戦車等の高速試作戦車のデモンストレイションを披露した。 クリスティーM1928戦車は全長5.182m、全幅2.134m、全高1.829mの無砲塔型の車両で、車体前端部に砲のモックアップを装備していた。 車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が戦闘室、車体後部がエンジンや変速・操向機を収めた機関室という一般的なものであったが、この戦車は履帯を装着して走行する通常の装軌走行モードの他に、履帯を外した状態で路上を高速走行する装輪走行モードを備えていることを特徴にしていた。 サスペンションは「クリスティー式」と呼ばれる独特のもので、車体内部に縦置きされたストロークの長いコイル・スプリングに連結したアームに片側4個の大直径転輪が装着されており、上部支持輪は装備していなかった。 戦闘重量は8.6tと軽量であったが、エンジンは高出力な航空機用の「リバティー」(Liberty:自由)L-12 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力338hp)を搭載しており、路上最大速度は装軌走行モードで42マイル(67.59km)/h、装輪走行モードでは70マイル(112.65km)/hにも達し、ソ連調査団の将校や戦車技術者たちを驚かせた。 クリスティー戦車の驚くべき高速性能に深い感銘を受けたハレプスキーは、クリスティー戦車のサンプル車両を購入することを決断した。 まず、シャシーのみ完成させた2両のクリスティーM1940戦車を6万ドルで購入することとした。 このクリスティーM1940戦車はM1928戦車の改良型として4両製作されたもので、時代を先取りする未来戦車という意味を込めて10年もさばを読んだ呼称が与えられていた(資料によってはM1930と解説されることもある)。 その他にスペアパーツ購入費に4,000ドルの支払いで合意した他、その後のクリスティーの熱心な売り込みもあり、クリスティーM1940戦車のライセンス生産権を10万ドルでソ連が購入することとした。 ライセンス生産権の購入にあたっては、クリスティーの会社の工場でソ連側生産技術者の研修を受け入れること、ライセンス生産の準備のためにクリスティーが2カ月間ソ連に滞在することが条件とされた。 幸いなことに、クリスティー戦車に用いられていた航空機用のリバティーL-12ガソリン・エンジンは、すでにソ連においてM-5ガソリン・エンジンとしてコピー生産が開始されており、クリスティー戦車の国産化に良い条件となっていた。 こうしてクリスティー戦車の購入交渉はスムーズに進んだが、実際にアメリカからソ連国内に兵器であるクリスティー戦車を持ち込むのは相当な困難に直面しなければならなかった。 1930年の時点でアメリカとソ連はまだ正式な国交が無かった上、アメリカ国内には共産主義国家のソ連に兵器を売却することに対する政財界や世論の抵抗があったのである。 そこでクリスティー戦車をソ連に持ち出すために、従前からソ連が工業機械や施設をアメリカから購入する貿易窓口になっていたアメリカ現地法人AMTORG(アメリカ交易会社:ソ連貿易人民委員部によるダミー合弁企業で、代表取締役社長はソ連人A.V.ペトロフ)が仲介することとなった。 兵器であることを隠すため、クリスティー戦車は「農業用トラクター」という名目に偽装してソ連に輸出されることになった。 AMTORGが仲介した2両のクリスティーM1940戦車のシャシーおよびライセンス生産権の購入契約は、1930年4月28日に締結された。 しかし、クリスティーM1940戦車のソ連輸出用シャシーの完成が遅れたことなどもあり、実際にアメリカからソ連にシャシーが出荷されたのは8カ月も経った同年12月24日のことであった。 1930年7月14日には、科学技術委員会(NTK)のN.M.トスキンがニューヨークでクリスティーから127枚に及ぶクリスティーM1940戦車の設計図の引き渡しを受けた。 併せて試作戦車シャシーのソ連側引き渡し時(本来は9月末を予定)には、クリスティー自身もモスクワに来着するという点について合意を取り付けた。 クリスティーM1940戦車の設計図は8月9日にはモスクワに届き、直ちに砲兵・兵器・機関銃研究所の技師S.P.シュカーロフの統括の下にロシア語版への書き換えが行われた。 こうした準備作業の進行途上の1930年11月21日、革命軍事会議(RVS)はクリスティー戦車の国産化を正式に決定した。 2両のクリスティーM1940戦車のシャシーは1931年1月中にソ連に到着し、車体としての完成に必要な追加組み立てを行った後、3月4日にはUMMの第127実験場に届けられた。 以後、場所をクビンカの装甲戦車科学研究所(NIIBT)付属試験場に移しながら、6月後半までこれらオリジナル車体の各種性能試験と国産化のための構造、パーツの分析等が継続された。 一方、UMMではクリスティー戦車の国産化が実現した際に与える呼称についての検討が行われた。 通常、ソ連軍戦車の呼称は「Tank」の頭文字である”T”の後に番号を付けるようになっていたが、クリスティー戦車が通常の装軌走行モードの他に装輪走行モードを備える特殊な車両であることから、ロシア語で「高速戦車」を意味する「Skorostnoy Tank」の頭文字”ST”、または「Bystrokhodny Tank」の頭文字”BT”のいずれかのアルファベット2文字を呼称にすることになり、結局後者が採用されて”BT”(キリル文字では”БТ”)という呼称が使われていくことになった。 1931年2月13日付でRVSは国産型クリスティー戦車をソ連軍に制式採用することを決定し、その最初の生産型には「BT-2快速戦車」(Bystrokhodny Tank BT-2)の呼称が与えられた。 アメリカから持ち込まれた2両のクリスティーM1940戦車の車体はそれぞれ「オリジナル1」、「オリジナル2」の呼称が与えられ内1両は主にサンプル用とされ、もう1両を主に用いて運用試験が実施された。 この運用試験の進行と同時に、ソ連での国産体制の整備やソ連型の武装システムその他の準備が検討され、実行に移されていった。 当初はレニングラード(現サンクトペテルブルク)の第232ボリシェヴィーク工場において、1928年以来生産を行ってきたフランスのルノーFT軽戦車のコピー生産型であるT-18軽戦車に代えて、BT快速戦車の生産を行うことが予定された。 しかし、ボリシェヴィーク工場はヴィッカーズ6t戦車のライセンス生産型であるT-26軽戦車の生産を担当することがすでに決定しており、さらにドイツ人技師エドヴァルト・グローテによって設計されたTG中戦車を150両製作することも予定されていたため、戦車工場としては新顔のハリコフ機関車工場(KhPZ)がBT快速戦車の生産を担当することになった。 1931年5月17日に軍事・海軍人民委員部が出した決定に基づいて、UMMはBT快速戦車の量産準備を発令した。 KhPZにはBT快速戦車の開発を担当する特別局が設置され、T-26軽戦車や多砲塔戦車の開発に携わったS.A.ギンズブルク技師を始め、各地の戦車・兵器設計部局から数十人以上の技師・設計者を動員して製造工程用設計図の作成や複写、砲塔および武装システムの設計等が開始された。 概ね、KhPZにおける量産態制の整備は同年8月5日までに完了を見た。 BT-2快速戦車は初期生産ロットとして100両が発注され、1931年11月1日までに20両、12月30日までにさらに30両、翌32年1月1日までに残る50両を完成させることとされた。 しかし当時のソ連の工業界は基礎的な技術基盤がまだまだ未成熟で、自動車先進国であるアメリカで基本設計されたクリスティー戦車の国産化には様々な困難が降りかかった。 しかもアメリカから持ち込んだクリスティーM1940戦車の運用試験において、この戦車は優れた機動性能を持つ反面機械的信頼性に問題を抱えており、信頼性向上のために多くの改良が必要であることが明らかになったため、これらへの対応にも時間を取られることになった。 また当初、UMMがKhPZに提示したBT快速戦車の要求仕様は次のようなものであった。 ・戦闘重量14t ・路上最大速度70km/h(装輪)、40km/h(装軌) ・航続力4時間以上 ・武装は76.2mm砲×1、37mm速射砲×1、7.62mm機関銃DT×2 ・弾薬搭載数は76.2mm砲弾40発、37mm砲弾100発、7.62mm機関銃弾5,000発 ・装甲厚は車体・砲塔前面20mm以上、側面13mm、上/下/後面6mm ・乗員3名 しかし原型となったクリスティーM1940戦車の車体規模を考えると、BT快速戦車にこれだけの武装と装甲を備えることは不可能であり、結局この仕様案は大幅に変更されることになった。 以上のような理由によりBT-2快速戦車の生産は当初の計画より大きく遅れることになったが、それでも1931年9月からKhPZを中心に各協力工場でコンポーネントの生産が開始された。 レニングラードのイジョラ冶金工場が、50両分を目処に車体・砲塔用の圧延防弾鋼板の製作を開始し(この頃にはBT-2快速戦車の年内完成目標数は50両に下方修正されていたが、この下方修正した目標すら全然達成できなかった)、同じくボリシェヴィーク工場とセミョン・ブジョンヌィ工場がクリスティー式サスペンション用のスプリングとコンポーネントを、モスクワの冷却機工場がラジエイターを製造してハリコフに送り始めた。 エンジンについては前述のように、クリスティー戦車に用いられていたアメリカ製のリバティーL-12航空機用ガソリン・エンジンがすでにM-5ガソリン・エンジンとしてソ連でコピー生産されていたため、このM-5エンジンをBT-2快速戦車に搭載することが予定された。 しかしこのM-5エンジンの生産が予定通り進まなかったため、応急措置としてアメリカより100基のリバティーL-12エンジンが1931年内に輸入され、BT-2快速戦車の初期生産ロットに搭載された。 またBT-2快速戦車の主砲には、37mm対戦車砲M1930を戦車砲に改修した45口径37mm戦車砲B-3を砲塔防盾に装備することが予定されたが、このB-3戦車砲の生産が開始されたのは1932年からで1931年中は主砲を装備できなかった。 1931年11月1日までにKhPZは6両のBT-2快速戦車を暫定的に完成させ、その内の3両には砲塔を搭載し11月7日にハリコフで挙行された革命記念日軍事パレードに参加させている。 その後特に主砲の供給の遅れなども影響し、BT-2快速戦車の量産と軍への引き渡しが軌道に乗るのは翌32年以降にずれ込んでいった。 BT-2快速戦車は1932年に396両、1933年に224両の合計620両が生産されたが、37mm戦車砲B-3の生産が途中で打ち切られてしまったためB-3戦車砲を搭載して完成したのは180両のみで、残りの440両には代わりの武装として7.62mm連装機関銃DA-2が1933年夏以降に装備された。 |
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+車体の構造
BT-2快速戦車の車体構造は、原型となったアメリカ製のクリスティー戦車をほとんどそのままコピーしたといって良いほど機構的にもデザイン的にも酷似したものであった。 車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室という1920年代以降の戦車では一般化した構成になっていた。 ただし隔壁で区画されていたのは戦闘室と機関室の間のみで、操縦室と戦闘室は区画されていなかった。 当時のソ連はまだ電気溶接の技術が不充分だったため、BT-2快速戦車の車体は圧延防弾鋼板をリベット接合と溶接を併用して組み立てられた。 車体前部の操縦室部分は、原型のクリスティー戦車と同様に前端を尖らせた四角錐型のデザインに構成されていたが、ここは戦闘において車体で最も被弾し易い部分であるため、装甲を傾斜させることで避弾経始による防御力の向上を図ったものである。 操縦室の上面と左右側面の装甲板の傾斜角は60度となっており、これにより装甲防御力は実際の装甲厚の3倍になるとクリスティーは主張した。 さすがに3倍は大げさだったものの、傾斜装甲の採用によりBT-2快速戦車の装甲防御力が大きく向上したのは事実であり、これ以降のソ連軍戦車の設計に大きな影響を与えることになった。 当時はまだどの国も戦車の設計において避弾経始をあまり重視しておらず、ソ連は他国に先駆けて戦車設計に避弾経始を積極的に採り入れることで、重量を増加させずに優れた防御力を備えた戦車を実用化することにいち早く成功し、傑作中戦車T-34を生み出すことに繋がったのである。 前述のように、BT-2快速戦車は操縦室部分の装甲を大きく傾斜させることで実際の装甲厚より大きな防御力を得るのに成功していたが、元々の装甲厚が薄いため防御力自体はそれほど強いものではなかった。 操縦室部分は上面と左右側面の基本装甲厚が13mmで、上面装甲板に設けられた操縦手用張り出し部が20mm、小さな台形になっている車体前端部が誘導輪アームの基部としての強度を確保するため40mm、操縦室下面が30mmとなっており、基本部分は重機関銃弾に抗堪できる程度の防御力を考慮しているのみで、対戦車砲や野砲の直射に耐えられるものではなかった。 なお、原型のクリスティー戦車では操縦手用張り出し部は左右に分割して開放できる構造になっていたが、開口部が狭過ぎて乗降に不便であった。 BT-2快速戦車では操縦手用張り出し部の前面を上開き式のハッチとする方式に変更され、さらに張り出し部の前方にも下開き式のハッチが追加装備されており、この2枚のハッチを開放して広く開口することでスムーズに乗降が行えるようになった。 また操縦手用張り出し部の前面には、クリスティー戦車では視察用のスリットが開口されていたが、BT-2快速戦車では防弾ガラスを備えた視察装置に変更された。 車体の他の部分の装甲厚については車体側面が13mm、車体後/上面が10mm、車体下面が6mmとなっていた。 BT-2快速戦車は、原型となったクリスティー戦車のリア・エンジン/リア・ドライブの駆動方式を引き継ぎ、車体後部の機関室内にエンジンや変速・操向機等、パワープラント関係を全て収納する配置を採っていた。 当時の技術力ではエンジンや変速・操向機のコンパクト化が充分にできなかったため、BT-2快速戦車の機関室は車体全長の半分以上を占める結果となったが、この配置は本車以降に開発されたソ連軍戦車の標準スタイルとなった。 BT-2快速戦車の操縦は車体底部を這わせた長いワイアーやコネクト・バーを介して、車体前部の操縦手席に設けられた変速・操向レバーを操作して行うようになっていたが、この方式はレバーの操作が重くなりがちで操縦手の疲労が大きくなるという欠点があった。 しかしこの操縦方式も本車以降のソ連軍戦車の標準スタイルとなったため、操縦操作が重く疲れ易いのがソ連軍戦車の悪しき伝統として受け継がれる結果となった。 機関室の上面には、エンジンの直上に当たる部分の左右に長方形の装甲カバーに覆われたラジエイターの吸気口、中央にカービュレイターの吸気筒、その後方に2枚の可動式フラップが付いた排気ルーヴァーが設けられていた。 なお、本車の改良型であるBT-5快速戦車ではルーヴァーに異物侵入防止用の金属製メッシュ・カバーが標準装備されるようになったが、BT-2快速戦車でも後の整備・改修時にこのメッシュ・カバーが取り付けられている。 機関室の上面装甲板は整備の便宜のため取り外しが可能になっており、頻繁に点検が必要な部分にはヒンジ付きの点検用ハッチが設けられていた。 BT-2快速戦車の機関室後面の形状はフェンダーより上の部分が垂直の平面板で構成されており、それより下の部分は変速・操向機の収納部分が大きく張り出していた。 クリスティー戦車では垂直板の部分に2本のエンジン排気管が突出していたが、BT-2快速戦車ではそれぞれの排気管にマフラーが取り付けられた。 極初期の生産車のマフラーは角張ったやや小振りの箱型だったが、すぐに大型の円筒形マフラーに変更された。 この円筒形マフラーは、BT-5快速戦車でも引き続き使用されている。 ただし、この外付け式マフラーは防御面での弱点(赤く灼熱するため外部に随伴した兵員が火傷を負うとか、火炎瓶をここに投げ付けられて発火し易い等)を形成したため、1939年以降はBT-2、BT-5快速戦車の多くが機関室内配置のマフラーに換えられ、エンジン排気管はルーヴァー上から出されるように改修された。 BT-2快速戦車のエンジンは、アメリカ製のリバティーL-12航空機用ガソリン・エンジンのコピー生産型であるM-5ガソリン・エンジン(45度V型12気筒液冷式、排気量27リットル、出力400hp、M-5-400とも呼称)が搭載された。 原型のリバティーL-12エンジンは第1次世界大戦中の1917年に開発され、高出力で量産性に優れていたため大戦終了後の1919年までに20,478基が生産されている。 前述のようにBT-2快速戦車の量産当初はM-5エンジンの調達が困難だったため、アメリカからからリバティーL-12エンジン100基を輸入して初期生産ロットに搭載された。 このM-5エンジンは、改良型のBT-5快速戦車でも引き続き使用されている。 BT-2快速戦車の変速機はクリスティー戦車と同じ前進4段/後進1段のものが使用されたが、この変速機は比較的コンパクトだった反面変速動作を頻繁に行うと過熱し易く、夏期に90℃まで温度上昇するとギアが膨張して破損する等の故障を起こし易かった。 この変速機はBT-5快速戦車でも引き続き使用されたため、やはりBT-5快速戦車でも同様のトラブルに悩まされた。 後のBT-7快速戦車では前進3段/後進1段の新型変速機が導入され、この問題は改善されている。 機関室内の左右には180リットル容量の燃料タンクが各1基ずつ配置されており、合計360リットルの燃料を搭載した。 BT-2快速戦車の足周りは、原型のクリスティー戦車の構造をそのまま踏襲していた。 サスペンションは片側4個の大直径転輪と、それぞれに組み合わせたストロークの長いコイル・スプリング(螺旋ばね)で構成された「クリスティー式」と呼ばれるものであった。 BT-2快速戦車の転輪は直径815mmのゴムタイヤ付き複列式転輪で、クリスティー戦車の転輪のデザインをそのまま踏襲していた。 ただし、クリスティー戦車の転輪が軽量化を図ってアルミ製となっていたのに対し、当時のソ連ではまだアルミニウムの精錬技術が不充分で非常に高価だったため、BT-2快速戦車の転輪は鋳鋼製とせざるを得なかった。 その代わり、BT-2快速戦車の転輪は肉抜き加工を施すことで重量の軽減が図られた。 第2〜第4転輪には三角形の大きな肉抜き穴が6カ所開けられたが、第1転輪は装輪走行モード時に操向を担当するため、強度確保のため小さな円形の肉抜き穴12カ所とされた。 また後に薄い鋼板をプレス成形して製作された鋼製軽量転輪が開発され、BT-2快速戦車の量産後期から採用された。 各転輪は長大なコイル・スプリングによって懸架されたアームに取り付けられており、第2〜第4転輪のスプリングは車体側面内部に二重装甲構造で設けられた空間部に縦に配置されていた。 第1転輪については、装輪走行モードで操向を担当することや車体前部のデザイン上の問題もあって、懸架スプリングは横置きに配置されていた。 起動輪についてもBT-2快速戦車はクリスティー戦車と同様のものを採用しており(直径640mm)、通常の起動輪のように外周に歯が付いておらず、起動輪の外周に設けられた溝に履帯のセンターガイドを噛み合わせて動力を伝えるようになっていた。 このタイプの起動輪は後のT-34中戦車にも採用されているが、通常の歯付きの起動輪に比べて動力の伝達にやや問題があったようである。 BT-2快速戦車に当初用いられた履帯は幅226mm、履板1枚あたりの長さが225mmというピッチが大きいもので、センターガイド付きとセンターガイド無しの2種類の履板を片側23個ずつ交互に組み合わせて構成されていた。 履板はセンターガイド無しのものが鍛造で、センターガイド付きのものが鋳造で製作されていた。 BT快速戦車シリーズの運用が進むにつれて履帯は改良が加えられ、連結ピン等の結合部が補強されたタイプが登場したりピッチを短いものにする等、何種類かがBT-7快速戦車の頃までに製作されて使用されていった。 BT快速戦車シリーズの最大の特徴といえるのが、クリスティー戦車から受け継いだ装軌/装輪併用の走行システムである。 BT快速戦車シリーズの操縦手席には装軌走行モードで用いる操向レバーと、装輪走行モードで用いる自動車と同様の操向ハンドルの2種類の操向装置が備えられていた。 ただし装軌走行モード時には、操縦に使用しないハンドルは邪魔になるため付け根から取り外され、車外等に装着された。 BT快速戦車シリーズが装軌走行モードから装輪走行モードに転換する手順は、まず履帯を外して車体側面のフェンダー上に革製ベルトで固定し、起動輪軸と最後部転輪軸のギアに伝導チェインを取り付け、操縦手席に操向ハンドルを取り付ければ完了である。 装軌走行モードから装輪走行モードへの転換作業は2名の乗員によって約30分程度で行えたが、逆に装輪走行モードから装軌走行モードに転換する場合は約40分の所要時間が必要であった。 この装軌/装輪併用の走行システムは当時のソ連軍に大変気に入られたと見えて、小型の偵察軽戦車まで同じシステムを採用したものを試作したり、T-28多砲塔中戦車にこのシステムを採り入れたT-29多砲塔中戦車も試作されている。 しかしこの走行システムは構造が複雑なため戦車の量産性を低下させ、重量が大きい戦車には不向きという欠点もあったため、この走行システムを採用した制式戦車はBT快速戦車シリーズのみとなった。 |
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+砲塔の構造
BT-2快速戦車の砲塔はA.A.マロシタノフ技師の設計による1名用のもので、ごく単純な円筒形の形状になっており、砲塔上面前半部の装甲板は避弾経始を考慮して傾斜が与えられていた。 砲塔上面後方には前開き式の四角い一枚ハッチが右寄りに設けられており、ハッチの後端は砲塔の外周部に合わせて円弧状に加工されていた。 この砲塔は、曲げ加工された13mm厚の圧延防弾鋼板をリベット接合して組み立てられていた。 砲塔の旋回はハンドルを用いて人力で行うようになっており、砲塔リンク部に手動旋回ギア装置が取り付けられていた。 BT-2快速戦車の砲塔の製作は当初はレニングラードのイジョラ冶金工場のみで行われたが、1932年中期からはマリウポリのイリイチ記念工場(通称マリウポリスキー工場)も生産に参加した。 BT-2快速戦車に搭載する武装システムについては、クリスティー戦車のアメリカ陸軍仕様であるT3中戦車に準じて、37mm戦車砲と7.62mm機関銃を各1門ずつ砲塔に装備することが構想された。 クリスティーは1930年10月4日にアメリカ陸軍に対してクリスティーM1928戦車を公開しており、その高い機動性能に注目したアメリカ陸軍はクリスティーM1928戦車をベースにした改良型の製作を発注した。 これに応じてUSホイール&トラック・レイヤー社は、改良型のクリスティーM1931戦車を1931年に7両製作した。 この7両の内、3両(第2、6、7号車)には歩兵支援用として円筒形の全周旋回式砲塔に短砲身37mm戦車砲と7.62mm機関銃が各1門ずつ装備され、「T3中戦車」(Medium Tank T3)の呼称が与えられた。 残る4両(第1、3、4、5号車)は騎兵師団用として37mm戦車砲に代えて12.7mm重機関銃を装備し、「T1戦闘車」(Combat Car T1)の呼称が与えられた。 これらは1930年代を通して演習で実験的運用が重ねられたが、結局アメリカ陸軍に制式採用されることは無かった。 BT-2快速戦車の主砲には、ドイツのラインメタル社製の3.7cm対戦車砲TaK28を国産化した45口径37mm対戦車砲M1930(1K)を、戦車砲に改修したものを搭載することになり、37mm戦車砲B-3(5K)として第8砲兵工場に開発が発注された。 これはUMMがBT快速戦車に高い対戦車戦闘能力を求めたためであるが、37mm戦車砲B-3の生産が計画通りに進まなかったため、結果としてBT-2快速戦車の武装体系を大幅に混乱させることとなってしまった。 B-3戦車砲はBT-2快速戦車用として1931年に350門が発注され、1932〜33年にかけて第8砲兵工場で量産されたものの、この砲はT-26軽戦車 2砲塔型(1931年型)への供給も求められた上、新規開発のより強力な45mm戦車砲20Kに生産をシフトするため必要数を満たす前に生産が打ち切られた。 その結果KhPZに引き渡されたB-3戦車砲は190門に過ぎず、同砲を搭載したBT-2快速戦車は180両に留まった。 そして、B-3戦車砲を搭載できなかったBT-2快速戦車用の武装として7.62mm連装機関銃DA-2が製作されて、B-3戦車砲の代わりに砲塔防盾に装備された(それまでに引き渡された多くのBT-2快速戦車は、主砲未装備のままで使われていた)。 以上の経緯と生産途上の諸事情から、BT-2快速戦車には以下の3種類の武装バリエーションが生まれた。 ●37mm戦車砲B-3のみを装備したタイプ このタイプは、イジョラ冶金工場が最初に供給した60基分の砲塔を搭載したものである。 武装は砲塔防盾に37mm戦車砲B-3を装備しているのみで、後の型に見られる防盾右横のボールマウント式機関銃架は設置されていなかった。 防盾も、後の型で見られる外装式防盾ではなく内装式のものが用いられていた。 また、後の型のように砲塔側面部の外部視察用スリット等は設けられていなかった。 37mm戦車砲B-3はBR-160徹甲弾(弾頭重量660g)を使用した場合、発射速度10〜15発/分、砲口初速820m/秒、最大射程5,600m、射距離300mで30mm、800mで25mmの均質圧延装甲板(傾斜角0度)を貫徹することができた。 ●37mm戦車砲B-3と7.62mm機関銃DTを装備したタイプ このタイプは、BT-2快速戦車の当初の仕様通りの武装を装備したものである。 前の型と同様に砲塔防盾に37mm戦車砲B-3を装備していたが、防御力を改善するため防盾は外装式のものに変更されている。 この防盾は主砲マウントと防盾の間の左右の隙間が防御上の弱点となったため、後にここにも小火器弾および弾片防御用のシールドが取り付けられるようになり、多くの車両がシールド付きの防盾を備えて完成した。 また防盾の右横にはボールマウント式機関銃架が設けられ、副武装の7.62mm機関銃DTが装備された。 主砲の俯仰角は−8〜+25度となっており、弾薬搭載数は37mm砲弾が92発、7.62mm機関銃弾が2,709発(63発入りドラムマガジン43個)、これらは戦闘室内壁および床面弾薬庫に搭載された。 砲塔の左右側面には、外部視察用の防弾ガラス付きスリットが取り付けられていた。 BT-2快速戦車の内、120両がこのタイプとして完成した。 ●7.62mm連装機関銃DA-2を装備したタイプ 37mm戦車砲B-3の生産終了によって多数のBT-2快速戦車が武装未装備となってしまったため、前述のようにこれらの車両には後に7.62mm連装機関銃DA-2が砲塔防盾に装備された。 DA-2機関銃の俯仰角は、−25〜+22度となっていた。 防盾は左右にシールドの付いた外装式のものが用いられており、砲塔の左右側面には外部視察用の防弾ガラス付きスリットが取り付けられていた。 以前は、このDA-2機関銃装備型のBT-2快速戦車は「BT快速戦車シリーズの最初の生産型であるBT-1快速戦車」として解説されることが多かったが、実際はBT-1快速戦車という生産型は存在せず(ソ連が購入した2両のクリスティーM1940戦車に対して与えられた呼称とする説もある)、この車両の正体はB-3戦車砲の生産終了によって武装未装備のまま運用されていたBT-2快速戦車に、1933年夏以降にDA-2機関銃を搭載する改修を実施したものであった。 このDA-2機関銃装備型も、防盾右横のボールマウント式機関銃架に別途7.62mm機関銃DTを装備した「機関銃3挺型」と、ボールマウント部を塞いでしまって武装を7.62mm連装機関銃DA-2のみとした「機関銃2挺型」のバリエーションがあった。 弾薬搭載数は、いずれのタイプも7.62mm機関銃弾2,709発(63発入りドラムマガジン43個)となっていた。 BT-2快速戦車の内440両がこのタイプとして完成し、総生産数の実に2/3以上を占めている。 BT-2快速戦車は1932年からソ連軍への引き渡しが開始され、同年秋にはレニングラード軍管区で第11狙撃師団をベースに再編された第11機械化軍団に11両が配備された他、ウクライナ軍管区の第45機械化軍団にも配備が始まった。 さらに基本単位の機械化部隊として発足した機械化旅団の定数は、178両のT-26軽戦車、32両(1個大隊)のBT-2快速戦車、91両のT-27豆戦車、46両の自走砲と39門の牽引式野砲、高射機関銃中隊、600両の各種車両をもって編制することとされた。 1935年以降、ソ連軍では本格的な機械化軍団の編制が開始され、その中でBT-2快速戦車は改良型のBT-5、BT-7快速戦車と共に主要装備戦車として運用されていくこととなった。 前述の事情により武装が計画通りに整備されなかったためか、BT-2快速戦車の実戦投入は後から開発されたBT-5、BT-7快速戦車よりも遅れて1939年9月17日のポーランド東部侵攻作戦からで、1941年6月22日に開始された独ソ戦(大祖国戦争)の初期にも使用された。 |
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<クリスティーM1928戦車> 全長: 5.182m 全幅: 2.134m 全高: 1.829m 全備重量: 8.6t 乗員: エンジン: リバティーL-12 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 338hp/1,500rpm 最大速度: 67.59km/h(装輪 112.65km/h) 航続距離: 武装: 装甲厚: 12.7mm |
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<T3中戦車> 全長: 5.486m 全幅: 2.235m 全高: 2.184m 全備重量: 10.98t 乗員: 3名 エンジン: リバティーL-12 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 338hp/1,500rpm 最大速度: 43.45km/h(装輪 74.03km/h) 航続距離: 武装: 21口径37mm戦車砲M1916×1 7.62mm機関銃M1919×1 装甲厚: 12.7〜15.88mm |
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<BT-2快速戦車 標準型> 全長: 5.50m 全幅: 2.23m 全高: 2.16m 全備重量: 11.0t 乗員: 3名 エンジン: M-5 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 400hp/2,000rpm 最大速度: 52km/h(装輪 72km/h) 航続距離: 120〜160km(装輪 200km) 武装: 45口径37mm戦車砲B-3×1 (96発) 7.62mm機関銃DT×1 (2,709発) 装甲厚: 6〜13mm |
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<参考文献> ・「グランドパワー2007年6月号 知っておこうTANKメカ(1) イギリス軽戦車Mk.VIIテトラークの特異な懸架・操向方 式」 高松武彦 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2010年9月号 ソ連BT戦車シリーズ」 斎木伸生 著 ガリレオ出版 ・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2002年10月号 BT快速戦車シリーズ(1)」 古是三春 著 デルタ出版 ・「パンツァー2016年5月号 比較論シリーズ ロシアBT戦車シリーズ vs イギリス巡航戦車」 久米幸雄 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2008年3月号 J.W.クリスティーとその時代(4)」 佐藤慎ノ亮 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2008年5月号 J.W.クリスティーとその時代(最終回)」 佐藤慎ノ亮 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2004年2月号 ソビエト陸軍のBT高速戦車シリーズ」 城島健二 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2010年7月号 BT-7快速戦車」 荒木雅也 著 アルゴノート社 ・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー ・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版 ・「図解・ソ連戦車軍団」 斎木伸生 著 並木書房 ・「世界の無名戦車」 斎木伸生 著 三修社 |
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