+概要
イギリス陸軍王立砲兵軍団は、1942年半ばから生産が開始された強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲の自走砲化の要望書を同年9月に提出した。
また王立砲兵軍団は、アメリカ製のM10 3インチ(76.2mm)対戦車自走砲にも着目していたが、この段階での同車はアメリカ軍そのものへの配備が優先され、イギリスへの供給はまだ先になるものと予想された。
王立砲兵軍団から17ポンド対戦車砲の自走化が要求されたのとほぼ時を同じくして、王立戦車軍団では同砲の戦車への搭載が模索されていた。
17ポンド対戦車砲は当初から車載を考慮した設計となっていたため、車載化はスムーズに行くと思われていたが、その道程に立ち塞がった壁は大きかった。
既存のイギリス製戦車で、砲塔周りだけの改造で同砲を搭載可能な車種が1つも無かったのである。
そこで王立戦車軍団は、A27Mクロムウェル巡航戦車の車体を拡大して17ポンド対戦車砲を搭載できるようにした新型巡航戦車の開発を、A30「チャレンジャー」(Challenger:挑戦者)の呼称で行うことにした。
一方王立砲兵軍団も、このチャレンジャー巡航戦車の車体を流用して17ポンド対戦車砲を搭載する自走砲を開発することを決めた。
そのため17ポンド対戦車砲搭載の新型自走砲は、愛称こそ「アヴェンジャー」(Avenger:復讐者)と命名されたが、戦争省制式番号にはチャレンジャー巡航戦車と同じ「A30」が充てられた。
アヴェンジャー対戦車自走砲の開発は、A27巡航戦車シリーズの生産グループの一員でもあるレイランド自動車が担当することになった。
だがイギリス陸軍全体としては、ドイツ重戦車群への切り札である17ポンド対戦車砲搭載の戦車をとにかく1日も早く戦力化することが急務となっていた。
少なくとも王立砲兵軍団には牽引式とはいえ17ポンド対戦車砲が配備されていたが、王立戦車軍団には17ポンド対戦車砲を搭載できる戦車が1両も無かったからである。
このような理由から、A30計画ではまず戦車型のチャレンジャーの開発が最優先で進められることとなった。
チャレンジャー巡航戦車の開発が先行する中、一旦は却下されたアメリカ製のシャーマン中戦車への17ポンド対戦車砲搭載がしぶしぶ承認され、当初はイギリスへの供給が遅くなると見られていたM10対戦車自走砲も意外に早くその供与が始まった。
そこで王立砲兵軍団は、問題点が多くまだ時間が掛かりそうなチャレンジャー巡航戦車の開発の余波をもろに被って、ズルズルと遅れているアヴェンジャー対戦車自走砲の開発計画はとりあえずそのまま継続することとし、取り急ぎシャーマン・ファイアフライ中戦車の例を見習って、M10対戦車自走砲の主砲である3インチ戦車砲M7を17ポンド対戦車砲に換装する計画を急ぎ始動させた。
このM10対戦車自走砲の17ポンド対戦車砲への換装計画はごくスムーズに進捗し、一方、ヴァレンタイン歩兵戦車の車体に17ポンド対戦車砲を搭載したアーチャー対戦車自走砲の開発も順調に進んでいた。
その結果、王立砲兵軍団は1944年の後半に至って牽引式、M10対戦車自走砲の備砲換装型M10C、アーチャー対戦車自走砲と、3つの形態の17ポンド対戦車砲の取得に成功したのである。
こういった理由から、アヴェンジャー対戦車自走砲の開発の遅れは王立砲兵軍団にとってほとんど痛手とはならなかった反面、チャレンジャー巡航戦車の方は、シャーマン中戦車への17ポンド対戦車砲搭載が一度却下された段階でその開発に拍車が掛けられ、少々の問題には目をつぶって半ば強引に戦力化が図られることとなった。
しかし案の定、実用化を急ぎ過ぎたチャレンジャー巡航戦車には部隊配備後も様々なトラブルが生じ、その中には小手先の改修ぐらいでは済まない、根源的な問題に起因するものも含まれていた。
そこで王立砲兵軍団では、アヴェンジャー対戦車自走砲の配備が急務ではないことから、当初はチャレンジャー巡航戦車からの流用が予定されていた足周りを中心として、その設計に徹底的な再検証を加えることとした。
その結果、クルセイダー巡航戦車やクロムウェル巡航戦車に比べて転輪が片側1個増えて6個となり、全長が長くなり過ぎて履帯が外れ易くなった足周りに対しては、その防止策として最新型のA34コメット巡航戦車のような小型上部支持輪を装着した(試作車は上部支持輪無し)。
またチャレンジャー巡航戦車に比べて全長と全幅がやや拡張されたのは、射撃プラットフォームとしての安定性を少しでも高めようという努力の表れである。
このようにわずかとはいえサイズが拡大し、上部支持輪まで追加されたので車重も増加したと思いきや、アヴェンジャー対戦車自走砲はチャレンジャー巡航戦車に比べて逆に約1.5tほども軽くなっている。
これは主に、オープントップで高さも低く設計された砲塔の重量軽減で稼いだものだが、M10対戦車自走砲やアーチャー対戦車自走砲の実戦での運用実績から、弾片防御用として大型ハッチドアを左右に1枚ずつ備えた、砲塔開放部全体を覆う「キャノピー」(Canopy:風防、天蓋)と呼ばれる軟鋼製の天蓋が固定装備された。
砲塔後部には、17ポンド対戦車砲と釣り合いを取るための平衡錘が取り付けられており、エンジン排気管はコメット巡航戦車と同様、車体後面から2本のフィッシュテイル型のものを突出していた。
また、チャレンジャー巡航戦車で問題となったアイドリング時からの出足の悪さについては、対戦車自走砲の運用特性により、開発の段階では事実上の欠点とはされなかった。
というのも、アメリカ陸軍の戦車駆逐科やドイツ陸軍の戦車猟兵科とは異なり、王立砲兵軍団では対戦車自走砲を「自分で動けて、しかも防御力の高い対戦車砲」程度にしか考えておらず、その任務も防勢主体と考えていたからである。
ただし、上層部がこんなドクトリンに縛られていても最前線の実情は違った。
1944〜45年ともなれば稀にしか遭遇しなくなったとはいえ、強力なドイツ軍戦車が戦線に出現すると、M10C対戦車自走砲やアーチャー対戦車自走砲が、ダッシュ・アンド・ストップを繰り返すヒット・エンド・ラン戦法で迎え撃つことが間々あったのである。
このように、満を持してデビューするはずだったアヴェンジャー対戦車自走砲だが、まだ開発段階にあった1945年5月8日にドイツが降伏したため、第2次世界大戦で実戦に参加する機会はついに訪れなかった。
第1ロット分として230両が発注されていたアヴェンジャー対戦車自走砲の生産型第1号車が完成したのは1945年12月になってからで、全車納入されたのは1946年になってからであった。
それらを用いて2個対戦車連隊(イギリス陸軍の場合は実質大隊規模)、プラス2個対戦車中隊(それぞれ1個中隊ずつ地中海と極東に控置)が編制された。
しかし結局、アヴェンジャー対戦車自走砲は1度も実戦に参加する機会が訪れないまま、静かにイギリス陸軍から退役していった。
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