AEC装甲車
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+概要
イギリス戦争省は第2次世界大戦直前の1938年に、国内の各自動車メーカーに対してイギリス陸軍の次期装輪式軽戦車の要求仕様を提示し、砲塔を搭載する4輪の装輪式装甲車を開発するよう要請した。
イギリスの大手トラック・バスメーカーであったサウソールのAEC社(Associated Equipment Company:関連機器会社)は、この要請に応えて第2次大戦が勃発した1939年に、軽戦車並みの強力な火力と防御力を備えた新型4輪装甲車の開発に着手した。
そしてAEC社の設計陣は検討の末、自社製のマタドール火砲牽引車のシャシーと、ウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社製の50口径2ポンド(40mm)戦車砲を装備する、同社製のヴァレンタインMk.I歩兵戦車の2名用砲塔を組み合わせて、新型装甲車を開発する方針を採ることを決定した。
2ポンド戦車砲は、1936年にヴィッカーズ社が巡航戦車Mk.Iの主砲として開発したもので、徹甲弾Mk.Iを使用した場合、射距離500ヤード(457m)で52mm、1,000ヤードで40mmの均質圧延装甲板を貫徹することが可能であった。
一方、ベース車台として選ばれたマタドール火砲牽引車は、イギリス軍の野砲や高射砲の牽引用として運用されていた中型トラックであり、そのがっしりしたシャシーが、大口径の火砲を搭載する装甲車には最適だと判断されたのである。
しかし、マタドール火砲牽引車はオリジナルの状態ではエンジン部分が嵩張り、車体長も長かったので装甲車用に適合するよう改修が必要だった。
そこで、エンジンの取り付け角度を傾斜させることで機関室の長さを縮め、シャシーを切り詰めるという方法が選ばれた。
具体的にはマタドール火砲牽引車のシャシーの前後2カ所を切断し、長さを調整した上で再び結合させるというものだった。
そして車体の主要部分は装甲厚30mm、最も厚い砲塔前面に至っては57mmと、同世代の装甲車をはるかに上回る重装甲となっていたのである。
しかし、AEC装甲車が特異だったのは何も外見ばかりではなかった。
路上走行時は前輪駆動(4×2)で、不整地に入ると4輪駆動(4×4)に切り替えられる、画期的なパートタイム式駆動機構を導入していたのである。
AEC社は本車をイギリス陸軍に売り込むため、完成したAEC装甲車のモックアップを、1941年春にロンドン市内で開催された近衛騎兵連隊のパレードに非公式に参加させた。
その際、列席していたウィンストン・チャーチル首相は本車に強い関心を示し、制式採用するよう軍に働きかけたという。
当時すでにハンバー装甲車や、ダイムラー装甲車がイギリス陸軍に採用されていたが、積極的な売り込みが功を奏してAEC装甲車は制式採用に漕ぎ着けた。
もっとも、当時の巡航戦車に匹敵する火力と防御力を兼ね備えた本車の性能は、軍にとっても軽視できなかったに違いない。
AEC装甲車は1941年7月に122両が発注されて量産に入り、1942年後半の北アフリカ戦線で初陣を飾った。
最初の生産型であるAEC Mk.I装甲車は、試作車には無かった後輪を覆うフェンダーが追加され、車体側面に工具箱とバッテリー・ケースを兼ねた箱型スペースが設けられていた。
さらに機関室後部に、吸排気カウルが装備されていた。
また、試作車で車体の左右側面に設けられていた乗降用ハッチを廃止し、操縦手用の視察装置が試作車の直視式ヴァイザーからペリスコープに変更されていた。
砲塔は試作車と同じく、ヴァレンタインMk.I歩兵戦車の2名用のリベット接合のものがそのまま用いられたが、これは、架橋戦車に転用するためにヴァレンタイン歩兵戦車から取り外されたものを流用したため、調達に時間が掛かり、AEC
Mk.I装甲車の生産が遅れる原因となった。
Mk.Iの主砲は試作車と同じく、当時のイギリス陸軍戦車の標準武装であった2ポンド戦車砲を装備しており、装甲車の武装としてはかなり強力な部類に入るはずだったが、イギリス陸軍上層部はこの武装に不満を示し、AEC社にさらなる主砲の強化を要求した。
1942年中頃に登場した2番目の生産型であるAEC Mk.II装甲車では、主砲をより強力な王立造兵廠製の6ポンド(57mm)戦車砲に換装した、新型の3名用溶接砲塔が採用された。
これにより、乗員はMk.Iの3名から4名に増加した。
またMk.IIでは車体前面の防御力を強化する目的で、前部フェンダーの面積が拡張された。
これらの改良によって戦闘重量がMk.Iの11.2tから12.7tに増加したため、Mk.IIでは動力系統の見直しも図られ、より強力なAEC社製の197
直列6気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力158hp)に換装すると共に、機関室の冷却機能も向上させ、熱のこもり易い乗員区画も幾分か改善できたという。
またAEC Mk.II装甲車は、少数がユーゴスラヴィアのチトー・パルチザンへ供与されている。
なお生き残っていたAEC Mk.I装甲車の多くは、砲塔だけMk.II用の新型に換装した暫定型Mk.IIへと改修されたようである。
それ以外にも、6ポンド戦車砲を装備するクルセイダーMk.III巡航戦車の砲塔を搭載した暫定型Mk.IIが作られている。
1944年に登場した最終生産型のAEC Mk.III装甲車では、主砲のさらなる強化が図られ、アメリカ製のシャーマン中戦車が装備していた37.5口径75mm戦車砲M3をベースに、6ポンド戦車砲の砲架に搭載できるようにした国産の36.5口径75mm戦車砲が装備された。
Mk.IIIは主砲が強化された以外はMk.IIとほぼ同様で、外見上の変化はヴェンチレイターが2カ所に増えた点と、機関室後部にある吸排気カウルが多少拡張された程度であった。
またAEC装甲車の派生型として、スイスのエリコン社製の70口径20mm対空機関砲SSを連装で装備する、クルセイダー対空戦車の砲塔に換装した対空型が試作されている。
この車両は実用性は問題無かったものの、すでに連合軍が制空権をほぼ掌握している時期だったため不要との判断が下され、量産は行われず試作のみで終わっている。
AEC装甲車シリーズはその強力な火力と防御力で高い評価を受けたが、その一方で生産コストが嵩んだことや、AEC社が装甲車の生産に専念できなかった等の理由で、他の装甲車に比べて少数の生産に留まった。
AEC装甲車シリーズは1942〜44年にかけて629両(一説には507両)が生産され、戦後もコヴェントリーのアルヴィス社製のFV601サラディン戦闘偵察車が登場するまで現役に留まっていた。
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<AEC Mk.I装甲車>
全長: 5.18m
全幅: 2.74m
全高: 2.54m
全備重量: 11.2t
乗員: 3名
エンジン: AEC 195 4ストローク直列6気筒液冷ディーゼル
最大出力: 105hp/2,000rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 400km
武装: 50口径2ポンド戦車砲×1
7.92mmベサ機関銃×1
装甲厚: 7〜57mm
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<AEC Mk.II装甲車>
全長: 5.18m
全幅: 2.74m
全高: 2.54m
全備重量: 12.7t
乗員: 4名
エンジン: AEC 197 4ストローク直列6気筒液冷ディーゼル
最大出力: 158hp/2,000rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 400km
武装: 43口径6ポンド戦車砲Mk.IIIまたは50口径6ポンド戦車砲Mk.V×1
7.92mmベサ機関銃×1
装甲厚: 7〜57mm
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<AEC Mk.III装甲車>
全長: 5.18m
全幅: 2.74m
全高: 2.54m
全備重量: 12.7t
乗員: 4名
エンジン: AEC 197 4ストローク直列6気筒液冷ディーゼル
最大出力: 158hp/2,000rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 400km
武装: 36.5口径75mm戦車砲×1
7.92mmベサ機関銃×1
装甲厚: 7〜57mm
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兵器諸元(AEC Mk.I装甲車)
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<参考文献>
・「パンツァー2012年10月号 第二次大戦におけるイギリス軍装甲車の系譜(1) 装甲戦闘車」 久米幸雄 著
アルゴノート社
・「アメリカ・イギリス陸軍兵器集 Vol.2 装甲戦闘車輌」 ガリレオ出版 ・「世界の軍用車輌(4) 装輪式装甲車輌:1904〜2000」 デルタ出版
・「第2次大戦 イギリス・アメリカ軍戦車」 デルタ出版 ・「世界の戦車パーフェクトBOOK」 コスミック出版
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