A7V突撃戦車
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+開発
第2次世界大戦においてはソ連と並ぶ戦車王国となるに至ったドイツだが、第1次世界大戦では戦車の実用化はイギリス、フランスの後塵を拝してしまい、ドイツ陸軍最初の戦車であるA7V突撃戦車が初めて実戦に投入されたのは大戦終盤の1918年3月と、イギリス陸軍がソンム会戦中の1916年9月にMk.I戦車を最初に実戦投入してから18カ月も後のことであった。
もっともドイツも独自に装甲車両の研究を進めており、第1次大戦勃発直前の1913年に陸上装甲巡洋艦(Landpanzerkreuzer)のアイデアがドイツ陸軍当局に提出されていた。
しかし当時はドイツ陸軍首脳部がまだ戦車に関心を持っておらず、イギリス陸軍がソンム会戦にMk.I戦車を実戦投入したことを機に急遽戦車の開発に踏み切ることとなった。
1916年11月13日にダイムラー、ハンザ・ロイド、NAG、ベンツ、ビューシンクなどのメーカーの技術者から成るA7V委員会が設立され、12月22日には新型突撃戦車の開発予算が認められた。
ちなみに「A7V」の名称は、戦車開発を担当する戦時省運輸担当第7課(Abteilung 7 《Verkehr》 des Allgemeinenbzew. Truppen Departments des Kriegsministeriums)の頭文字を採ったものである。
新型突撃戦車の開発にあたってまず、イギリスやフランスも戦車開発の参考にしたアメリカ製の装軌式牽引車「ホルト・トラクター」のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーが、車両開発のアドバイザーとして呼び出された。
A7V委員会はハンガリーの首都ブダペストでライセンス生産されていたホルト・トラクターを部品で購入した上、分解・組み立てを行うことでその構造を理解してから新型突撃戦車の設計作業を開始した。
当初の開発要求は重量30t、出力100hpのエンジンを搭載して路上で12km/h、路外で6km/hの最大速度を発揮し、車体前後に砲を装備し側面に機関銃を装備する、また非武装の輸送車ヴァージョンでは4tの積載能力を持つものとされた。
新型突撃戦車の設計責任者となったのは、ヨーゼフ・フォルマー技師であった。
新型突撃戦車の車台はホルト・トラクターをベースに開発することになっていたが、フォルマーがホルト・トラクターを詳しく検証して分かったことは、この車両はそのままでは不整地走行能力が低すぎてドイツ陸軍の要求性能を満足させることができないという事実であった。
この事実はイギリスやフランスも気付いたため、ホルト・トラクターに機動性能を向上させるための改良を施した上で新型戦車のベース車台として用いている。
フォルマーはホルト・トラクターの機動性能を向上させるため全長を延長し、サスペンションを改良することで超壕能力を強化することにした。
搭載する装甲車体については、木製の枠に装甲板を取り付ける方法で組み立てられた。
新型突撃戦車の最初の試作車は、1917年4月に展示走行に供された。
この展示走行では履帯が切れるなどのアクシデントが発生したが、試作車は満足いく走行性能を発揮した。
そして5月14日には、木製モックアップがドイツ参謀本部の代表団の視察を受けている。
その結果フォルマーの設計案は承認され、「A7V突撃戦車」の名称が与えられると共に増加試作車を製作することが決定された。
1917年の夏中、A7V突撃戦車の試作車を使用した徹底的な試験が行われた。
その結果エンジン冷却と履帯設計の問題が明らかになったが、根本的な解決は難しかった。
A7V突撃戦車の製作はダイムラー自動車のベルリン・マリーエンフェルデ工場で行われ、装甲板についてはエッセンのクルップ社とベルリンのステフェンス&ネーレ社が製作した。
A7V突撃戦車に用いられた装甲板の性能には、随分ばらつきがあったらしい。
また装甲板のサイズについてもそうで、A7V突撃戦車の車体装甲板の組み合わせには大きい装甲板で組み立てたものと、小さい装甲板を組み合わせたものとヴァリエーションがあった。
A7V突撃戦車の最初の完成車体が納入されたのは1917年9月で、武装も装備した完全装備車体の納入は10月1日のことであった。
A7V突撃戦車にはまだ多くの欠陥が残されていたが戦局は急速にドイツに不利となり、もはやこれ以上改良を待って時間を費やすことはできなかった。
1917年12月1日、A7V突撃戦車100両(戦車型11両、輸送型89両)の生産発注が行われた。
完成は、1918年春に予定されていた大攻勢に間に合わせることが要求された。
しかしすでに敗色濃い中資材不足で大量生産ができず、結局完成したのは戦車型が試作車を含んで21両、輸送型が60両前後であり、連合軍戦車とは比べものにならない少数生産に終わった。
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+構造
A7V突撃戦車は他国の戦車とは異なり、車台を箱型装甲車体ですっぽり覆う構造となっており、デザインは基本的に移動トーチカといって良いものであった。
装甲は比較的厚く車体前面で30mm、側面と後面で20mm、上面10mmであった。
これは、イギリス陸軍の菱形戦車シリーズの装甲厚が6~16mmだったのに比べるとかなり勝っている。
その代わり重量は重く、32.5tにもなっている。
なお鋼板の製造技術の進歩により、A7V突撃戦車の後期生産車の車体側面は一枚板となった。
時期的に当然ながら溶接工法は採用されておらず、各装甲板はリベットで接合されていた。
ところが実戦で使用してみると、被弾時に貫徹しなくてもリベットが飛散して乗員に被害を及ぼしたという。
主砲は、車体前部に設けた砲架に限定旋回式に装備されていた。
旋回角は、左右各25度ずつとなっていた。
なお当初予定した車体前後への砲装備は無理で、前部1門だけに変更されている。
A7V突撃戦車の主砲に採用されたのは、ベルギー製の26口径5.7cmゾコル加農砲であった。
ベルギーとドイツは戦争しているはずなのに不思議な話だが、実はこれはロシア軍が使用していたものを戦場で鹵獲してストックしていたものだった。
主砲弾薬は、なんと500発も搭載されていた。
また副武装として、カールスルーエのDWM社(Deutsche Waffen und Munitionsfabriken:ドイツ武器弾薬製作所)製の7.92mm液冷重機関銃MG08が車体左右側面に各2挺ずつ、車体後面に2挺の合計6挺旋回マウント式に装備されていた。
こちらの携行弾数は、36,000発もあった。
A7V突撃戦車の車内は非常にユニークな配置となっており、前・中・後3つの区画に分けられていた。
車体前部と後部は戦闘室で前部戦闘室の武装が砲と機関銃、後部戦闘室の武装が機関銃だけとなっている以外はほぼ同じであった。
車体中央部は下部が機関室で、その上に跨るように操縦室が設けられていた。
このため操縦室は車体から飛び出すように一段高くなっており、その前後左右には視界を得るための装甲フラップ付きの視察口が設けられていた。
乗員はなんと18名も乗っており、配置は操縦室に操縦手と車長、前部戦闘室に砲操作員2名と機関銃手2×2名、それに機関手1名、後部戦闘室に機関銃手2×4名、機関手1名である。
A7V突撃戦車のエンジンは、ダイムラー自動車製の165-204 直列4気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)が採用されており、操縦室の下にしまい込むように搭載されていた。
A7V突撃戦車は当初の計画では出力100hpのエンジンを1基搭載することになっていたが、実際には2基が並列に搭載されていた。
これはもちろん、重量増大による出力不足に対処するためである。
しかしそれでもA7V突撃戦車はエンジン出力が不足しており機動性能が悪く、過荷重のためエンジン寿命も短かった。
なお200hpのエンジン1基とせず100hpのエンジン2基となったのは、当時のドイツの工業技術力ではまだ大出力エンジンを製作するのが難しかったのと、何より出力を円滑に伝達する高速小型の機械式変速・操向機の製造ができなかったことによる。
このため2基のエンジンの出力は、それぞれ別の推進軸を通して左右の起動輪を回すようになっていた。
これは酷く操縦を難しくし速度も出し難かったが、改善のしようが無かった。
A7V突撃戦車の足周りは、小型の転輪が片側15個ずつ取り付けられたムカデのようなイメージのものであった。
これは、ホルト・トラクターから発展した全ての戦車に共通したスタイルである。
しかしA7V突撃戦車が菱形戦車より優れていた点として、サスペンションを備えていたことが挙げられる。
サスペンションに使われたのはコイル・スプリング(螺旋ばね)で転輪5個ずつが一組となり、それぞれコイル・スプリングを介して車体に取り付けられていた。
しかしサスペンションがあるにも関わらず、A7V突撃戦車の機動性能はあまり良くなかった。
これは前述したエンジンの出力不足や2基のエンジンを操作しなければならないこと以外に、走行装置設計上の問題として車体前部の誘導輪の位置が低く、履帯前部の立ち上がりがあまり無いことと、最低地上高が20cmしかなかったことが大きい。
このためA7V突撃戦車の超堤能力はわずか45.5cm、超壕能力は2.2mしかなかった。
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+戦歴
わずかなA7V突撃戦車が1917年10月から部隊配備され、実戦に投入された。
最初の戦闘は、1918年3月13日のセント・クエンチンの戦いである。
しかしどうやらこの時果たした役割は大きくないようで、ドイツ軍歩兵の士気を鼓舞しただけの効果しかなかったと酷評する資料もある。
世界で初めての戦車対戦車の戦闘は、1918年4月24日に行われた。
ドイツ軍の14両のA7V突撃戦車が、歩兵の突撃を支援するため前線に現れたのである。
相手となったのはイギリス軍の菱形戦車雄型と雌型、そして中戦車Mk.Aホイペットだった。
このうち菱形戦車雌型と中戦車Mk.Aは機関銃しか装備しておらず、A7V突撃戦車には対抗できなかった。
しかし菱形戦車雄型は6ポンド(57mm)砲を装備しており、戦車同士の砲撃戦が史上初めて生起した。
結果は1両のA7V突撃戦車が被弾して擱座し、残りは退却した。
イギリス側はやはり被弾により人員に被害は出たが、失われた戦車は無かった。
イギリス軍の戦車運用もとても見事といえるようなものではなかったようだが、歩兵の突撃そのものも撃退されたため戦闘はドイツ軍の敗北だったようである。
なお、A7V突撃戦車は第1次世界大戦後ドイツでの保有は認められず、接収された少数がポーランド軍で使用された。
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+派生型
A7V突撃戦車の派生型として唯一作られたのが、当初より予定されていた輸送型のA7V(Überlandwagen)である。
A7V輸送車はA7V突撃戦車から装甲車体を取り外して、車体前後のスペースを補給物資や兵員を積載する貨物室としたものである。
貨物室の周囲は可倒式の背の低い板で囲まれており、上面はオープンとなっていた。
イギリス陸軍が菱形戦車をベースに開発した輸送車両であるMk.IX戦車の場合は、最大10mm厚の防弾鋼板で構成された完全密閉式の貨物室を備えていたが、A7V輸送車は敵弾への防御が全く考慮されておらずこの点は大いに疑問である。
A7V輸送車は60両ほど完成したが、やはりA7V突撃戦車と同様に機動性能の低さがネックだったとされる。
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<A7V突撃戦車>
全長: 8.001m
全幅: 3.048m
全高: 3.292m
全備重量: 32.51t
乗員: 18名
エンジン: ダイムラー165-204 4ストローク直列4気筒液冷ガソリン×2
最大出力: 200hp
最大速度: 12.8km/h
航続距離: 60km
武装: 26口径5.7cmゾコル加農砲×1 (500発)
7.92mm重機関銃MG08×6 (36,000発)
装甲厚: 10~30mm
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<参考文献>
・「パンツァー2014年10月号 第一次大戦の戦車総覧 初登場した地上戦の主役達」 荒木雅也 著 アルゴノー
ト社 ・「パンツァー2020年1月号 盾と矛(2) 第一次世界大戦の戦車と対戦車兵器」 小林源文 著 アルゴノート社
・「パンツァー2010年8月号 第一次大戦のドイツ戦車」 坂本雅之 著 アルゴノート社
・「パンツァー2002年3月号 ドイツA7V戦車」 齋藤世志見 著 アルゴノート社
・「世界の戦車 1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「グランドパワー2020年5月号 A7V写真集(1)」 箙浩一 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2020年6月号 A7V写真集(2)」 箙浩一 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2020年7月号 A7V写真集(3)」 箙浩一 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2020年8月号 A7V写真集(4)」 箙浩一 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
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