+概要
第1次世界大戦においてイギリスが菱形戦車を1916年9月に初めて実戦投入し、続いてフランスのシュナイダー突撃戦車やドイツのA7V突撃戦車が登場したが、これら初期の戦車は戦車砲を車体に限定旋回式に搭載していたため射界が狭く使い勝手が悪かった。
その後、1918年5月からフランスが実戦投入したルノーFT軽戦車は初めて全周旋回式砲塔に戦車砲を搭載し、この戦車が近代的な戦車の基本レイアウトを確立することになった。
しかしこのスタイルが各国に受け入れられるまでには時間を必要とし、独自の発想から各国共に様々な形態の戦車を試行錯誤することになる。
そしてこの試行錯誤から生まれた戦車の中に、複数の砲塔を備える多砲塔戦車があった。
この多砲塔型式を最初に考案したのはまたしてもイギリスで、その背景には車体左右にスポンソン(張り出し砲座)を設けて6ポンド(57mm)戦車砲を装備した菱形戦車(雄型)の限定された射界の問題が存在した。
菱形戦車が採用した戦車砲の装備方法では、左右への射撃は斜め前方から斜め後方までそれぞれ約200度の射界があったが、前方もしくは後方から接近する敵に対しては死角となるため攻撃を行うことができず、さらに片側から攻撃された際には反対側の武装は全く使えないという問題もあったのである。
このためイギリス陸軍は、全周旋回式砲塔を車体中央部に搭載した中戦車Mk.I(当初は軽戦車として分類されていた)を1924年に実戦化した。
しかし中戦車Mk.Iは、周囲への射撃を可能とするために戦車砲以外に砲塔各部と車体左右側面に機関銃を装備しており、武装配置が非効率的であるという指摘を受けた。
このためイギリス陸軍とウェストミンスターのヴィッカーズ・アームストロング社は協力して非公式な研究に着手し、より効率的な武装の装備方法として戦車砲を装備する主砲塔の他に、機関銃を装備する独立した副砲塔を車体各部に設けるというレイアウトを考案するに至った。
この多砲塔戦車は「インディペンデント」(Independent:独立)と名付けられ、表向きはヴィッカーズ社の自己資金によるプライヴェート・ヴェンチャー(自主開発)という形で開発が進められた。
しかし、インディペンデント重戦車の開発にはイギリス陸軍も4万ポンドの開発資金を提供しており、実質的にはイギリス陸軍の試作発注と何ら変わるところは無かった。
本車はその名の通り戦車部隊の先陣を切って単独で敵陣に突進し、その強力な火力と防御力によって後続の軽戦車や中戦車のための突破口を開く役目を担うことを想定して開発された。
当時イギリス陸軍は戦車に”A”、装軌式装甲車に”B”、装輪式装甲車に”D”で始まる戦争省制式番号を付与する方針を決定しており、インディペンデント重戦車にはイギリス陸軍最初の制式重戦車として”A1”の戦争省制式番号が与えられることになった。
1925年末にはインディペンデント重戦車の試作車であるA1E1が完成したが、40口径3ポンド(47mm)戦車砲を装備する主砲塔を囲むように、車体前後にそれぞれ2基ずつの7.7mmヴィッカーズ液冷重機関銃を収める副砲塔が配され、戦闘重量31.5t、全長8m近いその姿はまさしく陸上戦艦という、イギリス陸軍が戦車開発に乗り出した創成期の思想の具現化というにふさわしいものであった。
装甲厚は車体前面の最厚部で28mm、その他は8〜13mmであった。
乗員数は8名で車体側面にはRTC(Royal Tank Corps:王立戦車軍団)からの要望で、標準型担架が搬入出可能な横長のハッチが設けられていた。
エンジンにはコヴェントリーのアームストロング・シドレイ社製のV型12気筒空冷ガソリン・エンジン(出力350hp)を採用し、その大重量にも関わらず路上最大速度は20マイル(32.19km)/hと、当時の戦車としては優れた機動力を発揮した。
しかし最大の問題は製造・運用コストの高さにあり、さらに独立した砲塔の旋回装置などの製作にも問題があって、各種試験を行ったものの世界的な大恐慌も手伝い、結局試作車1両が作られただけで終わってしまった。
この試作車は、後の歩兵戦車開発のためのデータ収集の目的で1930年代中頃まで試験運用が続けられた。
なおインディペンデント重戦車に触発されて、後にソ連やドイツでもT-28、T-35、Nb.Fz.などの同様な多砲塔戦車が開発されている。
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