九七式中戦車 チハ
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+開発
1929年に制式化された八九式中戦車(イ号車)は満州事変以来、満州と中国で活躍していた。
しかし、実戦で使ってみると様々な問題があり当面は改修作業で対応していたが、高速な九四式軽装甲車(TK車)や九五式軽戦車(ハ号車)が投入されるようになると、低速な八九式中戦車は追随することが困難な事態になり、より高速な新型中戦車の要求が高まった。
そこで1935年に新型中戦車の研究方針が決定され、開発が始まった。
本車は技術的には九五式軽戦車の拡大改良型で砲塔を2名用に、武装と装甲を強化しエンジン出力を増大させたものである。
1936年7月の軍需審議会では、新型中戦車に関する具体的な仕様が検討された。
ここでの論点は新型中戦車は大出力・重装甲とするか(第1案)、それとも小型軽量で多数整備するか(第2案、参本案とも呼ばれる)であった。
前者は重量約14t、前面装甲30mm、エンジン出力200hpで後者は重量約9.5t、前面装甲25mm、エンジン出力は120hpに設定された。
結局意見の調整は付かず、2種の中戦車の競合試作となった。
外国では珍しくないが、日本陸軍の中戦車で競合試作となったのは後にも先にも本車だけである。
陸軍技術本部はすぐに第1案(チハ車)、第2案(チニ車)の設計に着手し、チハ車は三菱重工業に2両、チニ車は大阪工廠に1両が発注された。
チハ車とチニ車の試作車は、1937年6月までに完成した。
チハ車の試作車は2両で1両は三菱重工業のスイス・サウラー型直噴式ディーゼル・エンジンを、もう1両は池貝自動車の渦流燃式ディーゼル・エンジンを搭載した。
車体は、2両とも同一のものである。
チニ車の試作車は、大阪工廠で1両が完成した。
こちらは、九五式軽戦車と同じ三菱重工業のA6120VDeディーゼル・エンジンを搭載していた。
チハ車、チニ車共に正確に予定内重量で完成し、速度は予想を上回っていた。
装甲厚、超壕幅はほぼ同等であった。
走行時の安定性は良好で、操縦性も軽快であった。
早速、富士の裾野で公開試験が行われた。
演習場での走行試験の成績は、ほぼ同程度に優秀であった。
ただチハ車の方が出力/重量比が大きく、障害物通過時や登坂時に余力があった。
またチニ車の乗員は3名で、砲塔内には1名であった。
チハ車は乗員4名で、砲塔内は2名であった。
九五式軽戦車の運用実績から、砲塔内に1名では戦闘動作に支障が出るとの意見もあった。
試験終了後は長距離運行試験を兼ねてチハ車は三菱重工業に、チニ車は大阪工廠にそれぞれ自力運行した。
チニ車が大阪工廠に着いた頃、すなわち1937年7月に日中戦争が勃発した。
この事件によって陸軍予算は前年の5億円から、一挙に17億円へと膨れ上がる。
兵器予算の制約は無くなったので、高価ではあるが余力のあるチハ車が採用されることになった。
チハ車のエンジンは2種類が検討されたが、結局池貝の渦流燃式ディーゼル・エンジンは油掻不良で、潤滑油を過度に浪費すると判断され、三菱の直噴式ディーゼル・エンジンが採用された。
チハ車は最終的には昭和12年会計年度末(1938年3月頃)に完成し、「九七式中戦車」として制式化された。
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+生産と部隊配備
日中戦争が起こると戦車の整備が緊急の課題となり、九七式中戦車はすぐに量産に移された。
1938年以降の生産台数は1938年に25両、1939年に202両、1940年に315両、1941年には507両に達する。
1942年の後半からは従来装備していた短砲身の九七式五糎七戦車砲に代えて、装甲貫徹力に優れる長砲身の一式四十七粍戦車砲を装備する新型砲塔を搭載した改良型、「九七式中戦車改」(新砲塔チハ車)の生産が開始された。
しかし一式四十七粍戦車砲の生産が間に合わず、旧型も並行して生産された。
改に移行後も、九七式中戦車の生産は1944年春まで続けられた。
生産台数は三菱重工業で1,450両、その他日立製作所、相模造兵廠を合わせて2,123両といわれる。
1型式の戦車の生産数としては、現在に至るまで我が国最高数である。
九七式中戦車の量産が開始されると、当時拡張段階にあった戦車連隊に配属された。
戦車連隊としてまとまって使われた初陣は、1939年5月に満州-外モンゴル国境で勃発したソ連軍との武力紛争「ノモンハン事件」(ハルハ川戦役)であった。
この時、戦車第三連隊(中戦車中隊2個)に4両の九七式中戦車が配属されていた。
これらは、中隊本部に各2両ずつに分けられた。
戦闘の結果は日本軍の惨敗で、九七式中戦車も1両が失われた。
九七式中戦車は、太平洋戦争初頭にはマレー作戦に投入された。
マレーは日本軍の主作戦場で、兵器も一般資材も最優秀なものが与えられた。
戦車部隊としては第三戦車団(4個連隊)の戦車227両が投入され、その主力は九七式中戦車であった(ちなみにフィリピンに送られたのは八九式中戦車乙型)。
もっともマレーのイギリス軍は、装甲車両はブレンガン・キャリアぐらいしか持っていなかった。
ここに投じられた九七式中戦車は83両で、イギリス・オーストラリア軍の対戦車砲によって13両が廃車となり(うち炎上6)、11両が破壊(修理可能)される損害を蒙った。
本車が活躍できたのは、日中戦争とこの作戦だけであった。
1942年のM3軽戦車の出現以降は火力・防御力の不足に悩み、ガダルカナルやサイパン等南洋の孤島で中隊規模の出動はしたものの、いずれも撃滅されてしまう。
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+攻撃力
九七式中戦車の主砲には18.4口径長の短砲身加農砲、九七式五糎七戦車砲が採用された。
これは八九式中戦車に搭載された九〇式五糎七戦車砲を改良したもので、砲口初速の向上、後座長の短縮、半自動鎖栓の採用などが盛り込まれていた。
砲口初速は九〇式五糎七戦車砲の380m/秒から、420m/秒に向上した。
しかし、九七式五糎七戦車砲はあくまで榴弾による機関銃巣撲滅用の火砲として開発されたもので、照準眼鏡には移動目標用のリード目盛すら無く、対戦車戦闘には向いていなかった。
対装甲威力に関しては、徹甲弾を用いてもM3軽戦車の後面装甲すら貫徹できなかった。
なお九七式五糎七戦車砲の弾薬には徹甲弾、榴弾、徹甲榴弾の3種類があった。
砲弾の重量は3kg弱で、それは砲手が終始片手だけで扱える限界であった。
口径が5.7cm以上になると、装填動作には両手が必要になる。
照準と発射を行う砲手の他に、専門の装填手を用意しなくてはならない。
しかし九七式中戦車は砲塔リング径が狭く、3名用の大型砲塔を搭載することは不可能だった。
2名用砲塔に収める速射火砲としては5.7cm口径が上限であったため、これ以上の大口径砲は搭載できなかった。
歩兵直協用に外部視察装置には工夫が凝らされ、スリット孔のほか操縦手用プリズム眼鏡や車長用パノラマ眼鏡が用意された。
しかし特に後者は複雑・高価、実用上不便であまり使われなかったらしい。
八九式中戦車と同じく砲塔の旋回は旋回ハンドルを用いた手動式、主砲の俯仰は砲手が主砲に肩を当てて操作するようになっており、砲塔を固定した状態でも肩当により主砲を左右各10度ずつの範囲で旋回させることが可能であった。
主砲の俯仰角は八九式中戦車と同様、−15〜+20度となっていた。
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+防御力
九七式中戦車の最大装甲厚は37mm対戦車砲の近距離からの射撃に抗堪できることを目途とし、25mm厚の防弾鋼板(表面硬化)とされた。
各部の装甲厚は車体が前/側面25mm、後面20mm、上面10mm、砲塔が前/側/後面25mm、上面10mmとなっていた。
装甲板の接合は車体と砲塔はリベット接合で、側板と車体底板には溶接が採用された。
避弾経始にも細心の注意が払われ、基本的には九五式軽戦車のスタイルを踏襲している。
曲面と傾斜を多用し、しかも六角ボルトの先を尖らせるような神経質なまでの耐弾性向上策を施したが、それらは実際には防弾上ほとんど効果が無く、どちらかというと生産性を阻害しただけだった。
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+機動力
九七式中戦車に搭載されたエンジンは、八九式中戦車乙型に用いられた三菱重工業製のA6120VD 直列6気筒空冷ディーゼル・エンジンを増筒した、出力170hpのV型12型空冷ディーゼル・エンジンである。
本エンジンには特に制式呼称は無かったが開発時の通称は「チハ機」で、三菱社内での呼称は「SA12200VD」となっていた。
なおこのエンジンは車体と同様に複数の会社で生産されており、三菱重工業で生産されたエンジンには12気筒用のドイツ・ボッシュ社製か三菱製の燃料噴射ポンプが装着され、また日立製作所で生産されたエンジンには6気筒用の日立式燃料噴射ポンプ2個が装着されていた。
これは後に、部品補給上の互換性の問題を起こした。
ちなみに大井工場で量産された三菱製の燃料噴射ポンプは、コイルでダイヤフラムを動かす「オートパルス方式」といい、元はアメリカの発明でディーゼル・エンジンのコンパクト化には不可欠の技術だった。
クランクシャフトは国産のプレス機では曲げることができないので、戦前はアメリカからの輸入品を使っていた。
戦争突入後は国産の削り出し加工品を使わざるを得なくなり、品質が粗悪だったためよく折れた。
同様なことはベアリングにも当てはまり、スウェーデンのSKS社製を使えた戦前製と戦時国産品とでは格段の品質差があった。
エンジンの始動は2基のセルモーターを同期させねばならない厄介な仕組みで、乗員はこれを忌避して極力僚車か13t牽引車に引き掛けをしてもらうようにした。
九七式中戦車の路上最大速度は約40km/hで、九五式軽戦車と行動を共にできるようになった。
しかし欧米列国では第2次世界大戦が始まると、戦車の出力/重量比は15hp/t程度になっていたのに、九七式中戦車は11.3hp/tしかなかった。
ディーゼルとガソリンの違いもあるが、この数値が列国並みになるのは1944年に生産された一式中戦車(チヘ車)からである。
九七式中戦車は、転輪にも問題があった。
転輪には緩衝用のゴムタイヤが付けられ、補強のために芯部にはピアノ線を捲いていた。
しかし走行中にこの芯部に熱がこもり、ゴムが溶けピアノ線が外部に解れ出て、ついにはタイヤが外れてしまう事故が多発した。
結局タイヤの転動面に凹みを設けて対策としたが、連続の高速走行は制限された。
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<九七式中戦車>
全長: 5.52m
全幅: 2.33m
全高: 2.23m
全備重量: 15.0t
乗員: 4名
エンジン: 三菱SA12200VD 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 170hp/2,000rpm
最大速度: 38km/h
航続距離: 210km
武装: 九七式18.4口径5.7cm戦車砲×1 (114発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (4,220発)
装甲厚: 10〜25mm
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兵器諸元(九七式中戦車)
兵器諸元(九七式中戦車 増装型)
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<参考文献>
・「パンツァー2006年10月号 陸軍の主力戦車となり得なかった試作中戦車 チニ車」 高橋昇 著 アルゴノート
社
・「パンツァー2012年10月号 九七式中戦車採用に至るチハ車とチニ車の確執」 竹内修 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年8月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(上)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年1月号 九七式中戦車とそのバリエーション」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年7月号 終戦時における日本戦車」 伊吹竜太郎 著 アルゴノート社
・「パンツァー2002年11月号 日本陸軍の試作戦車」 木村信一郎 著 アルゴノート社
・「パンツァー2018年7月号 九七式中戦車 チハ」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「グランドパワー2016年2月号 日本陸軍 九七式中戦車」 鈴木邦宏/国本康文 共著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2004年4月号 日本軍中戦車(1)」 真出好一 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
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