九五式軽戦車 ハ号
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+開発
日本陸軍は1920年代末に初の本格的な国産戦車である八九式中戦車(イ号車)を開発したが、その後の歩兵輸送用トラックの著しい技術的進歩により、広大な中国大陸での包囲・追撃戦において低速な八九式中戦車は歩兵に付いていけない事態となった。
このため八九式中戦車の後継車両の必要性が高まり、まず装輪/装軌併用式の戦車の開発が検討された。
しかしソ連軍が全装軌式のBT快速戦車を装備するに及んで、全装軌式の高速戦車「ハ号車」を開発することと決まった。
まず重量7t以内で路上最大速度40km/hという要求仕様が出されて1933年6月から設計が開始され、1934年6月に試作第1号車が完成した。
それまでの国産戦車は陸軍技術本部で設計・試作が行われていたが、このハ号車は民間の三菱重工業が設計・試作の段階から請け負っており、これ以降日本軍のAFVの開発は設計段階から民間企業に委託されるようになった。
これでAFVも航空機と同様、民間技術主導型の軍需産業へと脱皮したのである。
ハ号車の試作第1号車は、後の生産型とは細部に多くの相違点が見られた。
生産型にある車体側面の丸いバルジ(張り出し)と車長用キューポラは設けられておらず、砲塔上部の車長用ハッチは横開き式で誘導輪は起動輪と同様に歯が付いていた。
この試作第1号車は路上最大速度40km/hという要求速度は達成したものの、重量は7.5tと要求をオーバーしてしまった。
そこで誘導輪の歯を無くし起動輪と誘導輪に肉抜き穴を設け、車体から贅肉を削って重量を6.5tまで減じた改修型試作車が製作され、1934年10月に陸軍騎兵学校に交付された。
同校は、この改修型試作車を「機動戦車として理想的である」と評価した。
その後改修型試作車は戦車第二連隊で実用試験を受けたが、同連隊長は主砲の低威力と装甲の薄さから「戦車の価値無し」という評価を下した。
しかし開発側ではこの評価について、ハ号車の開発を関東軍主導で進めたことに対する内地部隊のやっかみであろうとして無視した。
ハ号車の第2次試作車(3両)は、1936年11月に完成した。
この第2次試作車では、車体側面の丸いバルジと車長用キューポラが付加された。
これが、「九五式軽戦車」として制式化された。
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+生産と部隊配備
九五式軽戦車の生産数 |
1936年 |
1937年 |
1938年 |
1939年 |
1940年 |
1941年 |
1942年 |
1943年 |
合 計 |
31 |
80 |
53 |
115 |
422 |
685 |
755 |
234 |
2,375 |
九五式軽戦車は1936年からすぐに量産が開始され、上表のとおり1943年までに合計2,375両が生産された。
この内、三菱重工業東京機器製作所(戦車量産のための新設工場)が約半数を生産している。
その他神戸製鋼所、新潟鉄工所などでも生産が行われている。
九五式軽戦車の生産型では車体側面の丸いバルジが大型になり、車長用キューポラ上部のハッチは前後に開くようになった。
また、試作車にあった車体後部の出入口は廃止された。
九五式軽戦車はまず、満州の独立混成第一旅団に配備された。
同旅団は日本初の諸兵連合機動部隊であり、九五式軽戦車は低速な八九式中戦車に代わる機動戦車として大いに期待された。
その後本車は騎兵旅団の装甲車隊に配備され、騎兵の機甲化の推進役となった。
さらに九五式軽戦車は戦車連隊の軽戦車中隊にも配属され、補助戦車として使われることになる。
もっとも戦車連隊の中には、ほとんど本車だけで編制されたものもあった。
1937年7月、独立混成第一旅団の戦車第四大隊が中国北部に出動している。
同大隊の第一中隊は、九五式軽戦車13両で編制されていた。
本車がまとまって出動した、最初の大規模な作戦であった。
同年10月には八九式中戦車中隊と共に戦車による長城線突破作戦を行い、中国軍を追撃し後方の寧武を占領した。
この突破作戦では、九五式軽戦車が先頭に立って進撃した。
なお、中国軍がドイツ製の45口径3.7cm対戦車砲PaK36を保有しているのが確認されたのもこの頃である。
1939年6月には、九五式軽戦車35両がノモンハンでのソ連軍との戦闘に派遣されている。
1941年12月の太平洋戦争開戦時には、本車だけで1,000両以上が配備されていた。
九五式軽戦車の量産は、日本を戦車大国の1つに躍進させていたのである。
同月に開始されたマレー作戦には、九七式中戦車83両と共に九五式軽戦車が86両投入された。
しかしこの作戦では目立った活躍は無く、それどころか1942年1月19日夜半、バクリ付近で戦車第十四連隊第三中隊の九五式軽戦車9両が、オーストラリア軍の対戦車砲の待ち伏せ攻撃を受けて全滅してしまった。
ビルマ作戦では、1942年2月にイギリス陸軍第7戦車旅団第2戦車連隊のM3軽戦車と九五式軽戦車が初めて交戦した。
しかしM3軽戦車は最大装甲厚が2インチ(50.8mm)と九五式軽戦車の4倍以上厚く、九五式軽戦車の37mm戦車砲では全く歯が立たなかった。
逆にM3軽戦車の37mm戦車砲は九五式軽戦車のものより強力で、最大装甲厚が12mmしかない九五式軽戦車は遠距離から簡単に撃破されてしまった。
さらに1943年末には最大厚3インチ(76.2mm)の装甲を持ち、75mm戦車砲を装備するM4中戦車が太平洋戦線に登場し、これらアメリカ製戦車に対して九五式軽戦車は全く歯が立たず損耗のみの戦史を重ねるだけになる。
九五式軽戦車は、好意的中立国であったタイに50両(一説に相模造兵廠から40両)が輸出されている。
この内13両はタイの高温な気候のために砲塔にクラックが生じ、クレームが付けられた。
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+攻撃力
九五式軽戦車の初期生産型の主砲に採用された九四式三十七粍戦車砲は、砲身長1,358.5mmで砲口初速は600m/秒、射距離300mで25mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹できた。
後期生産型では主砲が改良型の九八式三十七粍戦車砲に換装されたが、この砲は九四式の薬室延長型で砲身長は同じ、砲口初速は700m/秒、射距離500mで25mm厚のRHAを貫徹できた。
九五式軽戦車の制式化時点では、この武装は他国に劣るものではなかった。
当時ドイツのIII号戦車は3.7cm砲を、イギリスの戦車は2ポンド(40mm)砲を、アメリカのM3軽戦車も37mm砲を搭載していたからである。
九五式軽戦車の主砲は榴弾と徹甲弾の両方を発射可能で、徹甲弾しか使用できない2ポンド戦車砲に比べて使い勝手が良かった。
九七式中戦車より主砲の口径が小さいため、主砲弾薬の搭載数は120発と九五式軽戦車の方が多かった。
中国戦線のように敵の領内を長時間・長距離機動する場合には、この弾薬搭載数の多さは便利であった。
なお、神戸製鋼所で生産された九五式軽戦車の一部は主砲を47mm戦車砲に換装していたとする文献もあるが、これは大戦末期に九五式軽戦車の車体をベースに開発された試製五式四十七粍自走砲(ホル車)と混同している可能性がある。
九五式軽戦車の副武装としては、九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を車体前面と砲塔右後方に1挺ずつ装備していた。
しかし砲塔が狭い上、車長が主砲と砲塔機関銃の両方を操作するのは困難で、実際には砲塔機関銃は装備されない車両も多かった。
九五式軽戦車の砲塔は旋回ハンドルを用いた手動旋回式であり、主砲の俯仰は砲手(車長)が主砲に肩を当て肩の力で行うようになっていた。
また砲塔を固定した状態でも、左右各10度ずつの範囲で主砲のみ肩当で旋回させることが可能であった。
この旋回・俯仰方式は、後に開発された九七式中戦車(5.7cm砲搭載型)や九七式軽装甲車にも踏襲されている。
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+防御力
九五式軽戦車の車体は九二式重装甲車と同様、鉄骨フレームを組んだ上に防弾鋼板を溶接した構造になっていた。
中距離からの37mm対戦車砲の射撃に抗堪するためには装甲厚は25〜40mmが必要となるが、7tの重量制限があってはそれほどの重装甲は無理で、結局7.62mm徹甲弾に抗堪できるだけの最大厚12mmの表面硬化鋼装甲とされた。
この厚さ12mmというのは、7.62mm徹甲弾をストップできるギリギリの厚さであった。
よって九五式軽戦車は前面装甲以外については、7.62mm弾の至近射でも貫徹される危険があった。
しかも中国軍の小火器はGew98小銃やZB26軽機関銃など、他国の7.7mm級よりも一段強力な7.92mm×57マウザー弾を使用していた。
中国戦線の脅威は、まさに全周から飛来するこのドイツ製7.92mm小火器弾に他ならなかった。
そこで九五式軽戦車は避弾経始を考慮して砲塔形状を馬蹄形にし、車体側面には曲面で構成されたバルジを増設して空間装甲にしていた。
にも関わらず、やはりバルジでカバーされていない車体側面部分は小火器弾に貫徹されることがあったという。
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+機動力
九五式軽戦車のエンジンは、八九式中戦車乙型に搭載された三菱重工業製の直列6気筒空冷ディーゼル・エンジン「イ号機」(A6120VD)をベースに、より小柄な九五式軽戦車に搭載できるようコンパクト化を図ったもの(「ハ号機」または「A6120VDe」と呼ばれた)が採用された。
このA6120VDeディーゼル・エンジンは、車体の後部右側に配置された。
戦闘室と機関室の間の隔壁にはハッチが設けられており、戦闘室から機関室に入れるように設計されていたが実際には狭過ぎて出入りはできなかった。
燃料タンクは、エンジンの後ろに設けられていた。
転輪は片側4個の複列式で、2個ずつアームで連結されていた。
サスペンションは横向きのコイル・スプリング(螺旋ばね)を利用したもので、戦後「シーソー式」サスペンションと名付けられている。
外国にも似たような形式が存在するが、そちらは「シザーズ(はさみ)式」サスペンションと呼ばれる。
シーソー式サスペンションは三菱重工業の細部設計で九四式軽装甲車に初めて採用され、それ以後の日本軍戦車の標準サスペンション形式として使われた。
試製一号戦車、八九式中戦車のリーフ・スプリング(板ばね)式サスペンションに比べて、横向きコイル・スプリングを使ったシーソー式サスペンションは重量が軽く不整地での履帯の接地は確実であった。
中戦車クラスではこの装置を片側2組使ったが、九五式軽戦車では転輪が片側4個であるために1組となっていた。
しかしこのために本車は1組2本のコイル・スプリングが相互に連動し合い、車体の上下動がなかなか減衰しない傾向が見られた。
九五式軽戦車は、あたかもお辞儀をしながら走っているようであったという。
にも関わらず現地部隊が九五式軽戦車を高く買ったのは、その機械的信頼性・耐久性であった。
マレー作戦で1,100km走り、整備1週間の後スマトラ作戦で1,000kmを走ったのに1両の落伍も無かった部隊もあった。
なお北満州での使用を目的として、従来の転輪の間に小型の補助転輪を新設した九五式軽戦車が開発され「北満型」と呼ばれたが、少数が改造されただけに終わっている。
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<九五式軽戦車 初期型>
全長: 4.30m
全幅: 2.07m
全高: 2.28m
全備重量: 7.4t
乗員: 3名
エンジン: 三菱A6120VDe 4ストローク直列6気筒空冷ディーゼル
最大出力: 115hp/1,800rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 250km
武装: 九四式37口径37mm戦車砲×1 (120発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (3,000発)
装甲厚: 6〜12mm
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<九五式軽戦車 後期型>
全長: 4.30m
全幅: 2.07m
全高: 2.28m
全備重量: 7.4t
乗員: 3名
エンジン: 三菱A6120VDe 4ストローク直列6気筒空冷ディーゼル
最大出力: 115hp/1,800rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 250km
武装: 九八式37口径37mm戦車砲×1 (120発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (3,000発)
装甲厚: 6〜12mm
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兵器諸元(九五式軽戦車 初期型)
兵器諸元(九五式軽戦車 後期型)
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<参考文献>
・「グランドパワー2012年12月号 九五式軽戦車におけるディティールの変遷(1)」 岡田臣 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2013年1月号 九五式軽戦車におけるディティールの変遷(2)」 岡田臣 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年12月号 日本陸軍 九五式軽戦車」 真出好一 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「グランドパワー2001年2月号 日本軍機甲部隊の編成・装備(1)」 敷浪迪 著 デルタ出版
・「グランドパワー2001年4月号 日本軍機甲部隊の編成・装備(3)」 敷浪迪 著 デルタ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「パンツァー2013年8月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(上)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2003年7月号 AFV比較論 II号戦車 & 九五式軽戦車」 小野山康弘 著 アルゴノート社
・「パンツァー2010年12月号 日本陸軍 九五式軽戦車」 荒木雅也 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2019年9月号 特集 九五式軽戦車」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「日本陸軍の戦車 完全国産による鉄獅子、その栄光の開発史」 カマド
・「戦車名鑑
1939〜45」 コーエー
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