九二式重装甲車 TB
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九二式重装甲車 初期型

九二式重装甲車 後期型

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+開発
戦車や航空機など近代兵器が登場した第1次世界大戦以降、各国ではそれまで花形兵科であった騎兵部隊の見直しが進むようになった。
それは生身の乗馬騎兵では、これらの新兵器に対抗する手段が無かったからである。
また軽便な機関銃や迫撃砲の発展と歩兵部隊への導入や、大戦終結に伴う緊張緩和から発生した軍備縮小の機運もそれに拍車を掛けた。
こうした世界情勢の中で、参謀本部内からも騎兵不要論も含めた見直しが声高らかに論じられ、1922年に始まった軍縮では3個中隊編制の各騎兵連隊から1個中隊、総計で29個中隊が廃止された。
また同年には「騎兵操典」が改変されて、騎兵の戦闘は乗馬戦と徒歩戦を併用することとなり、騎兵は「機動戦闘兵種」であるという言葉も作られている。
さらに1925年の宇垣軍縮では、4個歩兵師団の廃止に伴い4個騎兵連隊も抹消され、軍馬6,000頭が解役されたのであった。
そうした状況に危機感を抱いた騎兵部隊の一部将校は、騎兵科の生き残りのために機械化推進を図り、サイドカーの導入と共に装甲車や戦車の研究を始めた。
1919年にはイギリスから2砲塔の1918年型オースティン4輪装甲車6両が研究用に購入され、陸軍自動車学校と騎兵学校に配備され、後にシベリア出兵にも参加している。
1920年には騎兵学校教導隊の秋山久三中尉が自動車隊に派遣され、歩兵学校と共に騎兵学校にもフランスからルノーFT17軽戦車が輸入された。
1922年には陸軍技術本部が装甲車開発に向けての研究方針を提出、その後に騎兵部隊での偵察任務を考慮した水陸両用車両の研究・開発が続けられた。
これは半装軌式のハーフトラック型として研究が進み、1930年には騎兵学校で第2次試作車のスミダAMP水陸両用戦車の実用試験が行われた。
乗員2名、全長4.39mの同車は陸上行動を主体とし、水上運用は補助的なものであったが、スクリューによる水上推進も実用に適していると判定された。
しかし、結局は量産に至らなかった。
また同年にはイギリスからカーデン・ロイドMk.VI機関銃運搬車(豆戦車)が2両輸入され、千葉の陸軍歩兵学校および騎兵学校で実用試験が行われた。
予備士官の技術者ジョン・V・カーデン卿とヴィヴィアン・G・ロイドが共同開発したカーデン・ロイド豆戦車シリーズは、その安価で手軽な形態から世界的な軍縮の影響下において、機械化装備の近代化を模索していたヨーロッパ各国で購入された。
日本に到着したカーデン・ロイドMk.VIは戦闘室に台形の装甲天蓋が付いた輸出仕様で、日本陸軍としては最後の輸入戦車でもあり、歩兵戦闘用豆戦車である後の「TK車」(九四式軽装甲車)の開発に向けての参考となった。
そして1930年10月、千葉で行われた特別騎兵演習ではオースティン装甲車など6両が参加し、この時に見せた機動力が騎兵部隊司令部に印象付け、改めて騎兵用装甲車両の製作が上申された。
その時点ではまだ装軌式、半装軌式、6輪式などが考えられていたが、1931年5月の軍需審議会で装軌式の軽戦車タイプが採用された。
これは、今後戦闘が予想される中国大陸やシベリアなどの起伏に富んだ地形や悪路を考慮した結果であった。
この段階で乗員3名、戦闘重量3t(6.5tとする資料も)、最大速度40km/h以上、武装13mm機関砲×1および機関銃×1、装甲厚6mm、エンジン出力40hp、全長3.8m、超壕幅1.6m、登坂力2/3"などの諸元性能が求められた。
陸軍技術本部からは中西主任が、騎兵学校からは馬場大尉が開発担当となり、それぞれがアイデアを出し合い、すでにウーズレー4輪装甲車で製造実績があった石川島自動車製作所(後のいすゞ自動車)に試作車の製作が発注された。
1932年3月にはほぼ諸元要求を満たした試作車が完成して、「TB型九二式軽装甲自動車」と呼ばれた。
「TB」とは開発時の秘匿呼称で、制式採用後に「試製九二式装甲自動車」や「九二式装甲自動車」の呼称変更を経て、後から開発されたTK車が1934年に「九四式軽装甲車」として制式化されたのに合わせて、1935年5月に「九二式重装甲車」に改称された。
この「重装甲車」という呼称は、戦車を管轄していた歩兵科との軋轢を避けるために騎兵科が採用したお役所的な方便だが、実態は後の「ハ号車」(九五式軽戦車)に繋がる系譜の軽戦車であった。
いずれにしても組織間のセクショナリズム由来であるが、これは諸外国の軍隊においても同様で、アメリカ陸軍も歩兵科が戦車を管轄していたため、騎兵科の戦車は「戦闘車」(Combat Car)と呼ばれていた。
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+生産と部隊配備
1932年に制式化された九二式重装甲車の量産は1933年から開始され、1939年まで7年間という比較的長期間に渡って合計167両が生産された。
生産中に順次改良が加えられており、転輪は試作車の小径ゴム転輪片側4個(ボギー2組)から、初期生産車では6個(ボギー3組)になり、後期生産車では中径ゴム転輪4個となった。
それに伴いリーフ・スプリング(板ばね)の取り付け方法も変わり、後期生産車では上部支持輪が片側3個から2個に減らされている。
また、操縦手用ハッチと砲塔前方左側に取り付けられた外部視察用の回転板式覘視孔(ストロボスコープ)は、通常の覘視孔付きの小型ハッチに変更された。
特異な変形型も少数生産されている。
九二式車載十三粍機関砲の代わりに九四式三十七粍戦車砲を搭載したものや、空冷ディーゼル・エンジンに換装された車両などである。
九二式重装甲車の単価は八九式中戦車の1/3で、中国大陸での軍事行動に予算の大半を吸い取られていた陸軍にとっては安上がりなAFVであった。
民間有志の寄付による、献納車体(愛国号)も複数ある。
九二式重装甲車は主に関東軍と朝鮮軍に配属されたが、現役期間が短く目立った活躍はしていない。
1932年馬占山軍閥の討伐のため、騎兵学校の九二式重装甲車7両などから成る自動車班が騎兵第一旅団に臨時配属された。
同年、続いて北満州に出動した騎兵第四旅団にも同様の自動車班が編組された。
1933年には、これらの自動車班は旅団装甲車隊として正式編制となった。
九二式重装甲車はこれら騎兵部隊の他に、内地から臨時に派遣される独立戦車隊にも配属された。
1933年2月末、関東軍は熱河省の湯玉麟軍閥を征伐する熱河作戦のため関東軍自動車隊を出動させた。
同地方は鉄道網が無いので、徴用トラックと戦車・装甲車に期待するところが大であった。
この時、第八師団内に日本軍初の自動車化歩兵連隊といえる川原挺進隊が編制され、八九式中戦車甲型5両と九二式重装甲車2両などから成る臨時派遣第一戦車隊(長、百武俊吉大尉)がその前衛を務めた。
長距離の山岳追撃戦となって八九式中戦車は次第に落伍したが、九二式重装甲車はよく敵縦隊の末尾に食い下がって敵根拠地まで随走した。
3日で280km、歩兵部隊の3~4倍の速度だった。
しかしその陰で、騎兵第四旅団自動車班の九二式重装甲車はトラックの機動力に付いて行けず、途中置き去りにされている。
1935年には騎兵第一旅団と騎兵第四旅団装甲車隊を併合して騎兵集団装甲車隊が編制され、九二式重装甲車と九四式軽装甲車が装備された。
騎兵集団装甲車隊は、1937年には九五式軽戦車に装備改編された。
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+攻撃力
九二式重装甲車の主砲である九二式車載十三粍機関砲は、フランスのオチキス社製の13.2mm重機関銃M1930をベースに南部銃製造所が1932年に完成させたガス圧式機関砲で、陸軍がオチキス社から購入した13.2mm連装重機関銃M1930を準制式化したホ式十三粍高射機関砲と同じ弾薬を使用したが、砲口初速はホ式高射機関砲の800m/秒に対して九二式車載機関砲は745m/秒、発射速度は同じ450発/分だった。
これは暴露目標に対しては持続連射能力が不足であり、隠蔽目標に対しては貫徹力不足(均質圧延装甲板20mm/射距離500m)であった。
早くも1933年に陸軍技術本部は、「13mm機関砲では対空/対装甲共に威力弱小」と断言して20mm機関砲の開発を急ぐ理由にしている。
車体サイズと比べてみても、当初の要求のように旋回式砲塔内にはとても収まらず、やむを得ず車体前方右側に砲座を設けて限定旋回式に装備されたが、それでも砲座の形状を工夫し特殊な光学照準機を設けて対空射撃を可能とした。
当時は新兵器の設計中に、運用側から次々に高望みの要求が積み増しされる弊風があり、これはそれに応えた辻褄合わせの措置と見られる。
九二式車載十三粍機関砲の給弾は機関部上の30発入りバナナ弾倉(大)で行われ、15発入りの弾倉(小)も用意された。
機関部の左側面には光学式照準機が、下面には空薬莢受け袋の基部が付き、砲尾には縦に長い引き金と銃把が設けられたが、これは対空射撃時に砲手が着席したままで70度の仰角が取れるように、機関部後方で上に折れ曲がる構造であった。
しかしこれで実際に、車内からの射撃で敵機を撃墜できたかは疑問が残る上に記録も無い。
13mmという口径はその後(試製SR-IIを除けば)、戦車・装甲車の火器としては二度と復活しなかった。
車体上部に搭載された旋回式砲塔には、副武装の九一式車載軽機関銃(口径6.5mm)を1挺装備しており、さらに後期生産車では砲塔後部に対空射撃用の九一式車載軽機関銃の銃架が設けられた。
なお生産初期には、車体にも砲塔と同じ九一式車載軽機関銃を装備した車両も存在した。
九一式車載軽機関銃は、南部銃製造所が1922年に完成させた十一年式軽機関銃を車載用に改造したもので、銃床を短くした短銃床または通常の長銃床を備え、ホッパー式弾倉を延長することで装填可能な三八式小銃用5発クリップが6個(30発)から9個(45発)に増えている。
照準には1.2倍×30度の単眼式照準眼鏡が使用され、外部には銃身とガスバイパスを保護する6mm厚の銃身カバーが装着され、地上戦闘用に降ろす場合は車内に搭載した二脚を装着可能であった。
九二式重装甲車の搭載弾薬数は、九一式車載軽機関銃を旋回式砲塔に装備し、九二式車載十三粍機関砲を車体前方右側の砲座に装備した標準タイプの場合、13.2mm機関砲弾が500発、6.5mm機関銃弾が2,500発となっていた。
なお前述のように車体前方右側の砲座に、九五式軽戦車の主砲である九四式三十七粍戦車砲を装備したタイプの九二式重装甲車が試作されたとする説があるが、これを裏付ける資料は見つかっていない。
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+防御力
九二式重装甲車は、機動力を重視した騎兵部隊用車両として開発されたために極端な軽量化が求められ、装甲厚は最大で6mmに留まった。
これは八九式中戦車の17mmや九四式軽装甲車の12mmの半分以下しかなく、防御面で不安があった。
実際満州事変や日中戦争では、中国軍が使用したドイツ製のGew98小銃やMG08重機関銃から発射された7.92mm硬芯弾は、車体を貫徹して機関部を破壊した事例も報告されている。
また九二式重装甲車は軽量化のために、当時主流であった鉄骨フレームに防弾鋼板をリベット接合する車体構造を採用せず、防弾鋼板を電気溶接で接合する構造を採用していた。
現代のAFVは全溶接構造が当たり前になっているが、これは当時としては軽量化のための野心的な工法だった。
しかし当時はまだ日本の電気溶接技術が未成熟だったため、溶接強度の不足による自壊事故も発生した。
九二式重装甲車の戦闘重量は諸元要求をやや超えた3.5tに収まったが、これは他の同サイズの装軌式車両と比べても軽量で、「重装甲車」という呼称にも関わらず、後の「テケ車」(九七式軽装甲車)の戦闘重量4.75tより1t以上も軽いものであった。
車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が1名用の小型砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室となっており、近代的な戦車のレイアウトを踏襲していた。
戦闘室の内壁には、防熱効果を目的としてアスベストを挟んだ断熱板が装着されていた。
車内の乗員配置は操縦室内の左側に操縦手、右側に砲手が位置し、車長は中央の砲塔に位置していた。
操縦手席の前方には上開き式の操縦手用ハッチが設けられており、このハッチと砲塔の前方左側には電動の回転板式覘視孔が取り付けられていた。
この特殊な覘視装置は八九式中戦車から受け継がれたが、九二式重装甲車の場合は後期生産車から廃止され、通常の覘視孔付きの小型ハッチとなり砲塔右側にも増設されている。
また砲塔上面ハッチの形状も、初期生産車の四角形から後期生産車では円形に変更されている。
そして九四式四号乙無線機が九二式重装甲車用に開発され、試験的に装備された。
アンテナ用空中線を張るために、機関室の左右に長い竹竿を装着した車両も確認できる。
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+機動力
九二式重装甲車に最初に搭載されたエンジンは、アメリカのフランクリン社から購入した直列6気筒空冷ガソリン・エンジン(出力67hp)である。
このエンジンは元々トラック用であるが、6t戦車M1917(アメリカがルノーFT軽戦車を国産化したもの)の換装用として、1920年代末から大々的に調達されている実績のあるものだった。
日本がこのエンジンに注目したのはそれが民需用エンジンであり入手し易いことと、軽戦車への搭載実績のある空冷エンジンだったからである。
そしてこれが、後の全ての日本戦車が搭載した国産空冷ディーゼル・エンジンの原型となった。
後に石川島自動車製作所は「スミダC6」の呼称で、フランクリン空冷ガソリン・エンジンのライセンス生産を開始し、九二式重装甲車はこの国産エンジンを搭載するようになった。
このエンジンと軽量化した車体構造により、九二式重装甲車は路上最大速度40km/hという、当時の日本の装軌式車両の中では飛び抜けた機動性能を発揮した。
試作時には、転輪ゴムが頻繁に破損したという。
ただし本車は高速な反面、車体が縦長のため操向性が悪く、サスペンションの耐久力も足りなかったので九四式軽装甲車のようには好まれなかった。
九二式重装甲車のエンジンは車体後部の機関室に収納され、エンジンからの動力は2本の推進軸を介して前方の変速・操向機に導かれた。
機関室の左側には、消音機付きの排気管が設置されていた。
変速・操向機に伝達された動力は、最終減速機を介して前方に配置されている起動輪を駆動させた。
九二式重装甲車のサスペンションは、試作車では転輪を2個ずつペアにして、リーフ・スプリングで懸架したユニットを片側2組取り付けるオーソドックスな方式が採用され、初期生産車ではサスペンション・ユニットが片側3組に増やされた。
その後、後期生産車では転輪が大型化されると共に、サスペンション・ユニットの数が試作車と同じ片側2組に戻された。
また上部支持輪の数も、初期生産車の片側3個から2個に減らされた。
九二式重装甲車のサスペンションの開発に際しては様々な外国製戦車の情報が収集されたが、結果的にはソ連のT-26軽戦車の影響を色濃く受けているように思われ、またドイツのIII号戦車の初期生産型(トーションバー式サスペンションを採用していなかった時期)の影響も伺える。
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<九二式重装甲車>
全長: 3.94m
全幅: 1.63m
全高: 1.87m
全備重量: 3.5t
乗員: 3名
エンジン: スミダC6 4ストローク直列6気筒空冷ガソリン
最大出力: 75hp/2,800rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 200km
武装: 75.8口径九二式車載13mm機関砲×1 (500発)
九一式車載6.5mm軽機関銃×1 (2,500発)
装甲厚: 3~6mm
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<参考文献>
・「パンツァー2007年9/10月号 陸軍騎兵の機械化に貢献した九二式重装甲車」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年8月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(上)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2016年7月号 九二式重装甲車と各国騎兵戦車」 久米幸雄 著 アルゴノート社
・「パンツァー2019年9月号 特集 九五式軽戦車」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「パンツァー2023年2月号 九二式重装甲車」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「日本の戦車 1927~1945」 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「グランドパワー2010年6月号 九二式車載十三粍機関砲」 国本康文 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2010年6月号 九二式重装甲車」 鮎川置太郎 著 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(3) 装軌/半装軌式戦闘車輌:1918~2000」 デルタ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「世界の戦車 1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「日本軍戦闘車両大全 装軌および装甲車両のすべて」 大日本絵画
・「日本の戦車と軍用車両」 高橋昇 著 文林堂
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