VI号戦車E型ティーガーI
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+VK.30.01(H)
1935年当時、ドイツ陸軍はハインツ・グデーリアン大佐の提唱する機甲部隊構想に基づいて乗員訓練用のI、II号戦車、機甲部隊の主力戦車となる15t級のIII号戦車、火力支援に用いる18t級のIV号戦車の開発を進めていたが、その一方でドイツ陸軍兵器局の長であるクルト・リーゼ将軍の提案により、さらに強力な30t級重戦車の開発も計画されていた。
この30t級重戦車は「攻撃防御戦車」(Offensive Abwehr von Panzerwagen)と呼ばれ、当時フランス陸軍が装備していた2C、3C/D重戦車を撃破することを開発目的としていた。
攻撃防御戦車の基本仕様は戦闘重量30t、砲口初速650m/秒の7.5cm砲を装備し、2cm機関砲の直撃に耐えられるよう主要部の装甲厚を20mm以上とすることになっていた。
戦車の開発を担当する兵器局第6課のメンバーは、1936年10月26日と12月28日にフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所の社長であるカール・マイバッハ工学博士と、攻撃防御戦車に搭載するエンジンの仕様についての検討を行った。
この検討において攻撃防御戦車には出力600hpの12気筒ガソリン・エンジンを搭載することになり、マイバッハ社ではこのエンジンの開発に取り掛かった。
続いて兵器局第6課は1936年11月にエッセンのクルップ社に対して、攻撃防御戦車に搭載する7.5cm砲装備の砲塔の開発を求め、1937年1月にはカッセルのヘンシェル社に対して攻撃防御戦車の車体の開発を要求した。
なお攻撃防御戦車には当初「BW」の秘匿呼称が与えられていたが、後にIV号戦車となる車両も同じ「BW」の秘匿呼称が与えられていたため、混同を避けるために攻撃防御戦車の秘匿呼称は1937年3月12日付で「IW」(Infanteriewagen:歩兵車)に変更され、さらに4月28日付で「DW」(Durchbruchwagen:突破車)に再変更された。
兵器局第6課の要求に応じてヘンシェル社ではDWの開発を進め、1937年10月1日付でDWの開発計画書を提出した。
この計画書によると、クリーブランド式履帯走行装置型のDWと多段階走行装置型のDWを1938年第2半期までに完成させることになっており、これらは後に「DW.I」と「DW.II」に呼称が変更されている。
一方DWの砲塔の開発を担当するクルップ社は、1937年2月22日に兵器局第6課に砲塔の基本図面を提出した。
DWの砲塔はIV号戦車と同じく同社製の24口径7.5cm戦車砲KwK37を装備しており、装甲厚は前/側/後面50mm、上面15mm、防盾部20mmとIV号戦車の砲塔よりはるかに強力であった。
兵器局第6課は同年6月24日にクルップ社に対して軟鋼製の試作砲塔の製作を発注し、これは1939年5月26日に完成した。
ヘンシェル社は1938年8月頃にDWの最初の試作車体であるDW.Iを完成させたが、DW.IはIV号戦車の車体と良く似た箱型構造になっており、装甲厚は前/側/後面50mm、上/下面20mmとIV号戦車より格段に強力であった。
エンジンについては、マイバッハ社がDW用に開発していた新型エンジンが間に合わなかったため、暫定的な措置として同社がIII、IV号戦車用に開発したHL120TR
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力280hp)が搭載された。
変速機も、III号戦車E型以降と同じ同社製の「ヴァリオレクス」(Variorex)SGR328145半自動変速機(前進10段/後進1段)が用いられていた。
DW.Iで特徴的だったのは、車体が機関室の前後で分割してボルト結合されていたことと、サスペンションにII号戦車D型で初めて導入されたトーションバー(捩り棒)方式を採用していたことだった。
車体を前後に分割して製作した理由は、当時の圧延機では車体用装甲板の一体成型が難しかったためであった。
DW.Iは1938年9月9日から走行試験に供されたが完成度が低く性能不良であったため、兵器局第6課は先の計画書通り改良型であるDW.IIを製作することをヘンシェル社に求めた。
DW.IIは基本的なデザインはDW.Iとそれほど変わらなかったが、DW.Iで前後に分割してボルト結合されていた車体は一体式に改められ、エンジンは出力が300hpに向上したマイバッハ社製のHL116 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンが搭載された。
また操向機、最終減速機、ブレーキ、トーションバー、起動輪も新型のものに換装され、履帯もDW.Iのピッチ300mmのものからピッチ260mmのものに変更された。
その後、兵器局第6課はそれまでヘンシェル社のみで進めていた30t級重戦車の開発を「VK.30.01」の計画呼称でより本格的に行うよう方針を変更し、1939年10月にシュトゥットガルトのポルシェ社とベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社にもVK.30.01の開発を要請した。
これに伴いヘンシェル社のDWは「VK.30.01(H)」に呼称が変更され、DW.IとDW.IIはそれぞれ「旧車体」と「新車体」と呼ばれることになった。
1939年11月24日の会議においてVK.30.01(H)の耐弾試験を実施することになり、ヘンシェル社に対してVK.30.01(H)の旧車体を製作することが命じられた。
しかしこれは翌40年1月17日付で新車体として製作するよう変更が命じられ、完成した新車体は4月23日にツォッセンのクンマースドルフ車両試験場に送られた。
さらにヘンシェル社に対して耐弾試験用に新車体3両が追加発注され、1940年9月以降にクンマースドルフ試験場に送られて、当時ドイツ陸軍の主力対戦車砲であったデュッセルドルフのラインメタル社製の45口径3.7cm対戦車砲PaK36を用いた耐弾試験に供された。
1940年1月29日にはクルップ社に対して、VK.30.01(H)の増加試作型であるVシリーズ(”V”はVersuchs:試作の頭文字)用として新車体8両分の装甲板の製作が命じられた。
Vシリーズ用の装甲板は1941年7~10月にかけてヘンシェル社に届けられ、ヘンシェル社では新車体の足周りに改良を施したVK.30.01(H)の車体を4両製作した。
Vシリーズのサスペンションは従来と同じトーションバー方式だったが、後のティーガーI、II戦車やパンター戦車に踏襲されるオーバーラップ式転輪配置を採用していたのが大きな特徴であった。
これは転輪を左右の位置をずらして挟み込むように配置するもので、接地圧を効率的に分散させることが可能だったが反面サスペンションや転輪の交換、整備の時に非常に手間が掛かる欠点を持っており、戦後に開発された戦車ではほとんど採用されなくなっている。
一方クルップ社では1942年中にVK.30.01(H)用の砲塔が4基製作され、3月と10月に2基ずつヘンシェル社に送られた。
しかし主砲の24口径7.5cm戦車砲KwK37は18t級のIV号戦車ならともかく、30t級のVK.30.01(H)の主砲としては明らかに威力不足であった。
兵器局第6課は1941年12月3日にクルップ社に対して、ラインメタル社が46口径7.5cm対戦車砲PaK40をベースにIV号戦車用に開発した43口径7.5cm戦車砲KwK40を、VK.30.01(H)の砲塔に搭載可能かどうか打診したが、クルップ社が翌42年1月16日にかなり難しいと回答したため、兵器局はVK.30.01(H)には将来性が無いと判断し、新型重戦車の開発は後述する36t級のVK.36.01(H)に引き継がれることになった。
4両製作されたVK.30.01(H)の車体はヘンシェル社において様々な試験に供され、VK.36.01(H)などの開発母体として利用された他、ラインメタル社製の61口径12.8cm加農砲K40を搭載する対戦車自走砲に2両が転用されており、ソ連軍相手に大きな戦果を挙げている。
一方VK.30.01(H)用にクルップ社が製作した6基の砲塔は、フランス沿岸を防衛する固定砲台として再利用された。
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+VK.30.01(P)
前述のように兵器局第6課は1939年10月に、シュトゥットガルトのポルシェ社に対して30t級重戦車「VK.30.01(P)」の開発を要求した。
ポルシェ社は「100型」または「レオパルト」(Leopard:豹)の社内呼称でVK.30.01(P)の開発を進めたが、ポルシェ社は設計専門で大規模な工場設備を持っていなかったため、1940年3月6日にクルップ社に試作車体2両の製作を発注し、1940年11月~1941年1月にかけて完成した。
このVK.30.01(P)で特徴的だったのは、動力機構にフェルディナント・ポルシェ工学博士が考案したユニークな電気駆動方式を採用していた点である。
これはまずガソリン・エンジンを駆動させてこれにより発電機を回し、電気モーターに電力を供給して起動輪を駆動するというシステムで、従来の機械式変速機に比べてスムーズな加速と旋回ができるというふれ込みであった。
またサスペンションは、転輪を2個ずつ懸架する外装式の縦置きトーションバー方式を採用しており、通常のトーションバーのように車内スペースを占有せずメインテナンスも容易に行えるように工夫していた。
またVK.30.01(P)は避弾経始を考慮して、ドイツ戦車としては初めて車体前面に傾斜装甲が用いられていた。
VK.30.01(P)は武装も強力で、クルップ社製の8.8cm高射砲FlaK36を戦車砲に改修した56口径8.8cm戦車砲KwK36を円筒形の全周旋回式砲塔に装備する計画であった。
8.8cm高射砲FlaK36は、クルップ社が1928年に開発した8.8cm高射砲FlaK18をスペイン内戦の戦訓を基に改良したもので、当初から対戦車砲として使用することも考慮されていたため徹甲弾を使用した場合、射距離1,500mで100mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
しかしVK.30.01(P)は試験において機関系のトラブルが多発し、また1941年5月から後述の45t級重戦車VK.45.01(P)の開発が進められたため、試作車体2両のみの製作で計画は中止された。
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+VK.36.01(H)
1939年1月19日に開かれた兵器局第6課とクルップ社との会議において、クルップ社は当時30t級重戦車DW用に開発を進めていた砲塔に搭載する武装について、IV号戦車と同じ24口径7.5cm砲では明らかに貧弱でより強力な武装を搭載すべきであると主張した。
結局DWの武装は24口径7.5cm砲のまま据え置くことになったが、クルップ社の主張は兵器局第6課により強力な武装を備える重戦車の必要性を認識させることとなった。
その後兵器局第6課は「AW」(Artilleriewagen:砲兵車)の秘匿呼称で、10.5cm砲を装備する36t級重戦車を開発することを計画し、1939年6月30日にクルップ社に対して20口径もしくは28口径の10.5cm砲を装備し、前/側/後面100mmの装甲を備えるAW用の砲塔を開発することを要求した。
クルップ社は10月20日にAW用砲塔の基本案を兵器局第6課に提出したが、これによるとAW用砲塔は砲塔リング径1,750mm、最大幅2.27mとなっていた。
しかし、開発中にAWの戦闘重量が80tを超えてしまうことが判明したためAWの開発は中止され、兵器局第6課は1940年半ばにヘンシェル社に対して、クルップ社がAW用に開発した10.5cm砲装備の砲塔を搭載する36t級重戦車を「VK.36.01(H)」の呼称で開発することを要求した。
ヘンシェル社は、当時開発を進めていたVK.30.01(H)をベースに車体を拡大することでVK.36.01(H)の開発を進め、同年7月にVK.36.01(H)の基本案を兵器局第6課に提出した。
VK.36.01(H)はVK.30.01(H)に比べて重量が大きく増加したため、エンジンも大幅に出力が向上したマイバッハ社製のHL174 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力550hp)が搭載され、同社製の「オルファー」(Olvar)OG401216半自動変速機(前進8段/後進4段)と組み合わされていた。
足周りは増加した重量を支えるため転輪1軸が追加され、転輪サイズも大型化し上部支持輪は廃止された。
車体の装甲厚は前面が80mm、側/後面が50mm、上面が25mmとされていた。
兵器局第6課は1940年7月5日にクルップ社に対して、AW用砲塔をVK.36.01(H)用に改設計することを命じ、クルップ社は砲塔の形状をAW用の多面体のものから円筒形に改め、砲塔リング径を1,700mmに減じ、装甲厚を半分の50mmに減らしたVK.36.01(H)用砲塔を設計した。
11月21日には砲塔前面の装甲厚を80mmに強化することが要求され、圧延鋼板製と鋳造製の2種類の試作砲塔を1941年4月1日までに製作することが決定された。
しかし、1941年5月26日のアドルフ・ヒトラー総統と兵器局との会議の席で、VK.36.01(H)の砲塔に搭載する武装について、「ゲレート0725」(0725兵器機材)の呼称で開発が進められていた75.5口径7.5cm口径漸減砲(砲腔内を先端に行くほど口径が減少するようにすることで発射ガスの圧力を高め、砲弾に大きな初速を与えることで装甲貫徹力を向上させるもの)を採用するよう方針が変更され、クルップ社に対して砲塔の設計変更が要求された。
口径漸減砲は砲を大口径化せずに大きな初速を得ることができるというメリットがあったが、砲弾に希少金属で保有量が限られていたタングステンを使用するため砲弾の供給に問題があった。
また同日の会議でVK.36.01(H)の装甲厚を車体前面100mm、側面50mmに強化することが決定され、6月11日にはクルップ社に対してゲレート0725を装備するVK.36.01(H)用砲塔6基と、VK.36.01(H)の試作車1両、Vシリーズ6両用の車体装甲板を製作することが命じられた。
しかしその後、VK.36.01(H)の武装に予定されていた7.5cm口径漸減砲ゲレート0725は、砲弾に用いるタングステンの不足のため1941年9月27日付で開発中止が決定され、さらに後述の45t級重戦車VK.45.01(H)の開発が進められたことでVK.36.01(H)自体も開発が中止されることになり、結局VK.36.01(H)は試作車が2両製作されただけに留まった。
1942年7月にはVK.36.01(H)のVシリーズ用に用意された装甲板を流用して、エンジンをマイバッハ社製のHL210 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力650hp)に換装し、ポーランド・ヴロツワフのFAMO社(Fahrzeug
und Motoren Werke:車両・発動機製作所)製の20tウィンチを車内に収容する戦車回収車を製作することが決定した。
この戦車回収車は4両が製作され、後に編制されたティーガーI重戦車大隊に配備されたようである。
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+VK.45.01(P)
1941年5月26日の兵器局との会議においてヒトラーは、前年のフランス侵攻作戦で強力な装甲を備えた連合軍戦車に苦戦した経験を基に、当時開発が進められていたVK.30.01やVK.36.01よりさらに重装甲で強力な火力を備える重突破戦車を開発することを要求した。
この重突破戦車は機甲師団の先頭に立って敵の陣地に突進し、その強力な火力と装甲によって後続の戦車の突破口を開く役割を担うものとされ、この車両を20両ずつ装備する戦車部隊を編制することが予定された。
ヒトラーの要求に基づいて兵器局第6課は45t級重突破戦車「VK.45.01」の開発を計画し、ヘンシェル社とポルシェ社に対してそれぞれ「VK.45.01(H)」と「VK.45.01(P)」の呼称で開発を要求した。
ポルシェ社は兵器局第6課の要求に応じて、「101型」の社内呼称で45t級重戦車VK.45.01(P)の開発を開始した。
ポルシェ社は当時開発を進めていたVK.30.01(P)をベースに、車体を拡大することでVK.45.01(P)を開発する方針を採り、VK.30.01(P)に導入した電気駆動方式の動力機構や縦置き式トーションバー・サスペンションも踏襲した。
ただしVK.45.01(P)は大幅に重量が増加したため、エンジンはVK.30.01(P)の出力210hpの100型エンジン2基から、出力320hpの101/1型
V型10気筒空冷ガソリン・エンジン2基に強化された。
これをニュルンベルクのジーメンス・シュッケルト製作所製のaGV発電機、D1495a電気モーターと組み合わせて動力機構としていた。
砲塔に搭載する武装もVK.30.01(P)と同じクルップ社製の56口径8.8cm戦車砲KwK36とされたが、VK.45.01(P)の砲塔はVK.30.01(P)より大型の馬蹄形のものとされ、装甲厚も大幅に強化された。
なお、ポルシェ社はVK.45.01(P)の設計のみを担当し砲塔と装甲板の製作はクルップ社、エンジンの製作はオーストリア・ウィーンのジマーリング・グラーツ・パウカー社、最終組み立ては同国のザンクト・ヴァーレンティーンのニーベルンゲン製作所で行うことになっていた。
ヒトラーはVK.45.01(P)の主砲を、より強力なラインメタル社製の74口径8.8cm高射砲FlaK41に換装することを求めており、兵器局第6課は1941年6月21日にポルシェ社に対し、VK.45.01(P)の砲塔にFlaK41の搭載が可能かどうか検討するように指示した。
9月10日にポルシェ社は不可能という報告書を提出しているが、結局ヒトラーの要望でVK.45.01(P)の最初の100両はKwK36を搭載して製作するが、101両目から新設計の砲塔にFlaK41を搭載して製作することが決定された。
1942年3月23日の会議において、ポルシェ社はVK.45.01(P)の生産数の半分をハイデンハイムのフォイト社製の流体式変速機を装備したタイプ(ポルシェ社内呼称:102型)として完成させることを提案し、これは101型と102型を9:1の割合で生産するという形で承認された。
しかし、102型の開発を進めている途中で後述のようにVK.45.01(P)の不採用が決定したため、結局102型は試作車が1両製作されたのみで開発が中止された。
1941年6月22日に開始された独ソ戦において、ソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車などの強力な新型戦車に対してドイツ陸軍の主力であるIII号、IV号戦車が苦戦を強いられていたため、ヒトラーはVK.45.01を一刻も早く実戦化するよう要求しており、さらに軍需省事務次官オットー・ザウアーがヒトラーの歓心を買うため、1942年4月20日のヒトラーの誕生日プレゼントにVK.45.01(H)、(P)の試作車を展覧することを考案した。
このため、ただでさえ厳しい開発スケジュールはますます過酷なものになった。
VK.45.01(P)の試作第1号車は、期限ぎりぎりの4月18日になってようやく完成した。
1942年4月20日にラステンブルクの総統本営で、VK.45.01(H)、(P)の試作車が披露された。
ヒトラーは明らかにポルシェ社のVK.45.01(P)を贔屓していたが、走行デモンストレイションではヘンシェル社のVK.45.01(H)の優位は明らかだった。
それでもまだ、どちらを選ぶか結論は下されなかった。
VK.45.01(H)、(P)はクンマースドルフ車両試験場に送られて性能比較試験が実施されたが、この試験においてヘンシェル社のVK.45.01(H)の方がはるかに性能が優れていることが確認されたため、兵器局第6課は1942年10月末にポルシェ社に対してVK.45.01(P)の不採用を通知した。
この時点ですでにVK.45.01(H)、(P)の両者とも生産型の量産が開始されており、VK.45.01(P)は同年5月に、VK.45.01(H)は6月にそれぞれ生産型第1号車が完成していた。
特にヒトラーが贔屓していたポルシェ社のVK.45.01(P)については、まだ試作車が完成する前の1941年7月に早くも100両の生産が命令されており、ポルシェ社ではこれを受けて同月中に100両分の装甲板と砲塔の製作をクルップ社に発注していた。
不採用が通知された1942年10月末の時点でVK.45.01(P)は10両がほぼ完成状態にあり、さらに90両分の車体と砲塔がすでに用意されていた。
このためVK.45.01(P)は10両を完成させて乗員の訓練や試験に用いることになり、残った90両分の製作部品については砲塔がヘンシェル社のVK.45.01(H)の砲塔に転用され、車体についてはフェルディナント重突撃砲の車体に転用された。
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+VK.45.01(H)
前述のように、兵器局第6課は1941年5月26日の会議におけるヒトラーの要求に基づいて45t級重突破戦車「VK.45.01」の開発を計画し、ヘンシェル社とポルシェ社に対してそれぞれ「VK.45.01(H)」と「VK.45.01(P)」の呼称で開発を要求した。
ヘンシェル社は、当時開発を進めていたVK.36.01(H)をベースにこれを拡大することでVK.45.01(H)の開発を進めた。
砲塔についても7.5cm口径漸減砲ゲレート0725を装備するVK.36.01(H)のものを流用する予定であったが、前述のように1941年9月27日付でゲレート0725の開発が中止されてしまったため、急遽ポルシェ社のVK.45.01(P)と同じ8.8cm戦車砲KwK36に武装を変更することになった。
しかしゲレート0725用砲塔にKwK36を装備するのは不可能で、新規に砲塔を開発する時間的余裕も無かったため、やむを得ずポルシェ社がVK.45.01(P)用に設計した砲塔をVK.45.01(H)に流用することになった。
しかしこれには別の問題があった、砲塔リングの大きさである。
ヘンシェル社のゲレート0725用の砲塔リングの直径が1,650mmだったのに対して、ポルシェ社のKwK36用の砲塔リングの直径は1,850mmだったのである。
たった200mmの違いだが、砲塔リング径を拡げるには車体幅を拡げるなど大幅な車体の設計変更を行わなければならなかった。
VK.45.01(H)は開発期間を短縮するためにでき得る限りVK.36.01(H)の設計、コンポーネントが流用された。
車体こそ新設計だったが転輪やサスペンション等の走行装置、変速・操向機はVK.36.01(H)のものがそのまま流用された。
ただしVK.45.01(H)は大幅に重量が増加したため、接地圧の低減を図って第1、第3、第5、第7転輪は外側に転輪を追加して複列式にされ、履帯も725mm幅の新型のものに換装された。
VK.45.01(H)は砲塔リング径の拡張と履帯幅の拡張に伴って、従来の戦車に比べて車幅がかなり広くなったため、そのままでは鉄道輸送用の貨車から履帯がはみ出してしまい輸送に不都合であった。
このため鉄道輸送時には第1、第3、第5、第7転輪の外側転輪を取り外してVK.36.01(H)用の520mm幅の履帯を装着し、車体左右側面のフェンダーも取り外すことになった。
VK.45.01(H)は重量の増加に対応してエンジンの強化が図られることになったが、新型エンジンを開発する時間的余裕が無かったため、VK.36.01(H)ベースの戦車回収車に搭載されたのと同じマイバッハ社製のHL210P45
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力650hp)が用いられた。
しかし、VK.45.01(H)の戦闘重量は実際には45t級には収まらず57tにも達していたので、結局出力不足は解消されなかった。
兵器局第6課は1941年7月半ばにラインメタル社に対して、当時開発が進められていた30t級中戦車VK.30.02(後のパンター戦車)用に新型の長砲身7.5cm戦車砲および砲塔を開発するよう命じていたが、これに応じてラインメタル社が開発した70口径7.5cm戦車砲KwK42は8.8cm戦車砲KwK36より装甲貫徹力が優れていたため、この砲を装備するVK.30.02用砲塔をヘンシェル社が開発を進めていたVK.45.01(H)にも搭載することが求められた。
兵器局第6課は1942年2月にヘンシェル社に対して、ラインメタル社が開発したVK.30.02用砲塔をVK.45.01(H)に搭載可能かどうか検討するよう指示した。
VK.45.01(H)は8.8cm砲装備型が「ティーガーH1型」(ティーガー:Tigerはドイツ語で「虎」、”H”はヘンシェル:Henschelの頭文字)、7.5cm砲装備型が「ティーガーH2型」と呼ばれることになり、兵器局はVK.45.01(H)の最初の100両を8.8cm砲装備のH1型として生産し、101両目から7.5cm砲装備のH2型を生産することを計画した。
兵器局の要請に応じてヘンシェル社はVK.30.02用砲塔装備のVK.45.01(H)を設計し、さらに木製モックアップを製作してVK.30.02用砲塔を搭載可能であることを実証したが、VK.30.02はIII号、IV号戦車に代わるドイツ陸軍の新型主力戦車として大量生産が計画されており、ラインメタル社はVK.30.02用砲塔をVK.30.02以外の車両にまで供給できるほどの生産能力が無かったため、結局この計画は立ち消えとなった。
1942年4月20日のヒトラーの誕生日に、ラステンブルクの総統本営で行われたVK.45.01(H)とVK.45.01(P)の走行デモンストレイションにおいて、VK.45.01(H)はライバルのVK.45.01(P)より高い機動性能を見せ付け、その後クンマースドルフ車両試験場で実施された性能比較試験においても、VK.45.01(H)の方がはるかに性能が優れていることが確認されたため、ドイツ陸軍は同年10月にVK.45.01(H)を「VI号戦車ティーガーH1型」として制式採用することを決定した。
VK.45.01(H)は1942年4月に兵器局第6課より100両の生産が発注され、6月に生産型第1号車が完成したのを皮切りに1944年8月の生産終了までに合計1,346両が生産された。
通常は生産型の量産開始前に試作車が製作されるのだが、VK.45.01(H)の試作第2号車は1942年10月、試作第3号車は12月にそれぞれ完成している。
試作第1号車の車体前部には折り畳み式の増加装甲板が装備されていたが、生産型では廃止されている。
なおVK.45.01(H)の制式呼称は、1942年10月の制式化当初は「VI号戦車」(Panzerkampfwagen VI)または「ティーガーH1型」で、特殊車両番号は「Sd.Kfz.181」となっていた。
特殊車両番号はその後も変わらないが呼称については後に「ティーガーE型」と改められ、さらに1943年3月におなじみの「ティーガーI」となった。
ティーガーI戦車の生産数 |
1942年 |
生産目標 |
生産数 |
1943年 |
生産目標 |
生産数 |
1944年 |
生産目標 |
生産数 |
|
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1月 |
30 |
35 |
1月 |
93 |
93 |
|
|
|
2月 |
30 |
32 |
2月 |
95 |
95 |
|
|
|
3月 |
40 |
41 |
3月 |
95 |
86 |
|
|
|
4月 |
45 |
46 |
4月 |
95 |
104 |
|
|
|
5月 |
50 |
50 |
5月 |
95 |
100 |
6月 |
5 |
1 |
6月 |
60 |
60 |
6月 |
75 |
75 |
7月 |
15 |
0 |
7月 |
65 |
65 |
7月 |
58 |
64 |
8月 |
10 |
8 |
8月 |
70 |
60 |
8月 |
9 |
6 |
9月 |
15 |
3 |
9月 |
75 |
85 |
|
|
|
10月 |
16 |
10 |
10月 |
80 |
50 |
|
|
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11月 |
18 |
17 |
11月 |
84 |
56 |
|
|
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12月 |
30 |
37 |
12月 |
88 |
67 |
|
|
|
合 計 |
109 |
76 |
合 計 |
717 |
647 |
合 計 |
615 |
623 |
|
+構造
ティーガーI戦車の車体デザインは従来のドイツ軍戦車のものを踏襲しており、装甲板をほぼ垂直に組み合わせた箱型構造になっていた。
後に開発されたパンター戦車やティーガーII重車は、ソ連軍のT-34中戦車の車体デザインの影響を大きく受けたため、避弾経始を重視して傾斜装甲を多用したデザインにされたが、ティーガーI戦車は原型の開発が開始されたのが第2次世界大戦前だったため、避弾経始はあまり考慮されていなかった。
車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室という常識的なものであった。
ティーガーI戦車の装甲厚は車体と戦闘室の前面が100mm、車体前面下部、車体側面上部、車体後面が80mm、車体側面下部が60mm、車体上/下面が25mmと非常に強力であり、1942年の時点で本車の前面装甲を貫徹できる火力を備えた連合軍戦車は存在していなかった。
しかし、ティーガーI戦車は非常に強力な装甲を持つ反面戦闘重量は57tにも達し、機動性の悪さが大きな欠点となってしまった。
大重量に対応してエンジンは、出力650hpのマイバッハ社製HL210P45 V型12気筒液冷ガソリン・エンジンが機関室に搭載され、推進軸を前方に延ばして車体前部に搭載された同社製の「オルファー」OG401216A半自動変速機(前進8段/後進4段)に動力が伝達され、最終減速機を介して起動輪を駆動させるようになっていた。
エンジンの左右には容量186リットルの燃料タンクが1個ずつ設置され、路上航続距離は195kmとなっていた。
ティーガーI戦車の足周りは、原型のVK.30.01(H)で導入されたオーバーラップ式転輪配置を踏襲しており、片側8個の複列式転輪(直径800mm)を左右の位置をずらして挟み込むように配置していた。
サスペンションは、III号戦車と同様にトーションバー方式を採用していた。
ティーガーI戦車は、左右側面のフェンダーを含めた車幅が3.705mと従来の戦車に比べてかなり広いため、鉄道輸送する際には車幅を狭めるために最外部の転輪を取り外して幅の狭い鉄道輸送用履帯を装着し、左右側面のフェンダーは取り外すようになっていた。
通常装着する戦闘用履帯は全幅725mm、鉄道輸送用履帯は全幅520mmで、いずれも片側96枚の履板を用いて構成されていた。
ティーガーI戦車の砲塔は、前述のようにライバルであったポルシェ社のVK.45.01(P)のものを流用していたが、VK.45.01(P)の砲塔が電気駆動方式であったのを油圧駆動方式に改めていた。
砲塔は圧延防弾鋼板を溶接した馬蹄形のもので装甲厚は前面が100mm、側/後面が80mm、上面が25mmとなっており、防盾部は鋳造製で装甲厚は85~250mmであった。
砲塔内には左側前方に砲手、その後方に車長、主砲を挟んで右側に装填手が位置するようになっていた。
主砲は、クルップ社製の8.8cm高射砲FlaK36を戦車砲に改修した56口径8.8cm戦車砲KwK36を装備していた。
この砲はPz.Gr.39徹甲弾を用いた場合砲口初速773m/秒、射距離500mで110mm、1,000mで100mm、2,000mで84mmのRHA(傾斜角30度)を貫徹することが可能であった。
さらにタングステン弾芯のPz.Gr.40高速徹甲弾を用いると砲口初速930m/秒、射距離500mで156mm、1,000mで138mm、2,000mで110mmのRHA(傾斜角30度)を貫徹することができ、1942年時点で存在した全ての連合軍戦車を遠距離から撃破することが可能であった。
主砲弾薬は車体各部に合計92発が搭載されたが、弾種については徹甲弾と榴弾を半分ずつ搭載するのが一般的であった。
主砲の俯仰は、砲手席の右側に設けられた俯仰用ハンドルを用いて手動で行うようになっており、俯仰角は-8~+15度となっていた。
主砲の照準機は双眼式のTZF.9b照準望遠鏡(倍率2.5倍、視野角25度)が装備され、主砲防盾の左側には照準機の位置に2個の穴が開口されていた。
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+生産型の分類
●極初期生産型
ティーガーI戦車は全体の生産数が少ないこともありA、B、Cなどの型式分類は一切行われなかった。
ただし生産時期によって少しずつ変更が加えられているので、以下それについて記述する。
一般に「極初期生産型」と呼ばれているのが、大体1942年6月~1943年1月の期間に生産されたタイプである。
以下、このタイプの特徴を挙げていく。
まず車体前面のフェンダーが2段に折れた簡単な構造の鋼板になっていたが、これは極初期型の後期までである。
前照灯は、車体前面左右に鋼材を組んだ台座を設けて取り付けられていた。
操縦手用視察口の装甲ヴァイザー上には、ヴァイザーを閉じた時使用するためのペリスコープ用の2つの穴が開けられていた。
砲塔左右側面の後部には、かなり大きくてごついガンポートが設けられていた。
また排気管カバーは標準装備ではなかったが、後のものと異なる左右に補強リブが見られるカバーが使用されている例が見られる。
砲塔後部には大型の雑具箱が取り付けられていたが、これは生産途中から標準装備となったもので、それ以前の車両にはIV号戦車のものを流用したり自作した雑具箱が取り付けられていた。
ティーガーI戦車の車体側面は前から後ろに斜めに下がっていたが、当初これは一直線でなく途中に段があった。
このため極初期型では側面フェンダーが一直線でなく、少し段が付いて取り付けられていた。
ただこれは、極初期型のさらに初期だけである。
なお極初期型のさらに初期では、車体後部左右の大型エアフィルターがまだ装備されていなかった。
ティーガーI戦車はこれまでの戦車よりはるかに重量が重いため、橋が渡れない場合に備えて1942年8月の生産車から潜水渡河装置が装備されるようになり、これに併せて車体機関銃のボールマウントに防水用のカバー取り付け部が設けられ、車体の各部に防水シールが施された。
また砲塔の左右側面前方に各3基ずつ、発煙弾発射機が装備されるようになった。
●初期生産型
ティーガーI戦車で「初期生産型」と呼ばれているのが、大体1943年1月~1943年7月の期間に生産されたタイプである。
初期型ではまず車体前面のフェンダーが前面上部装甲板と面一になり、幅が車体左右側面のフェンダーの先端位置まで拡げられた。
前述のようにティーガーI戦車を鉄道輸送する際には、車幅を狭めるために最外部の転輪を取り外して幅の狭い鉄道輸送用履帯を装着し、左右側面のフェンダーは取り外すようになっていた。
初期型以降は前面フェンダーの幅が拡げられたため、車体からはみ出す部分はヒンジで折り畳むことができるようになっており鉄道輸送時には折り畳まれた。
極初期型では車体前面左右にあった前照灯は、車体上面最前部の左右に移されている。
操縦手用視察口の装甲ヴァイザー上のペリスコープは廃止されて、2つの穴は当初は栓で塞がれていたが、後には初めから開けられなくなった。
砲塔左右側面のガンポートは、右側が廃止されて脱出用ハッチに変更されている。
排気管が灼熱して夜間敵に発見されるのを防ぐために、排気管を取り囲むようにカバーが取り付けられるようになった。
また、砲塔後部の大型雑具箱は標準装備となっている。
側面フェンダーは、前述したように極初期型にあった段が無くなって一直線になっている。
なおエンジンは初期型の途中(1943年5月半ば以降)から、排気量をHL210P45エンジンの21リットルから23リットルに増加させて出力を向上させたHL230P45
V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力700hp)に変更された。
●中期生産型
一般に「中期生産型」と呼ばれているのが、1943年7月~1944年2月にかけて生産されたタイプである。
中期型での変更点は多岐に渡っているが、初期型で車体上面最前部左右に設置されていた前照灯は当初左側のものが廃止され、後に車体前面中央部に移された。
主砲防盾には左側に主砲用照準機の照準口が2つ開けられていたが、この部分の防御力を強化するため部分的に装甲厚が増やされ段が付いた。
初期型までは車体周囲の5カ所に対人擲弾発射用のSマイン発射機が装備されていたが、これは次弾の装填には車外に出なければならずすぐ破損することもあり廃止された。
車体後部左右の大型エアフィルターは、破損し易く不要であるとして廃止された。
また潜水渡河装置は実際にはあまり使用されなかったため、中期型以降では廃止された。
これに関連して、車体各部に用意されていた防水用のカバー取り付け部やシールの類いも廃止された。
砲塔上面右側の装填手用ハッチの前にはペリスコープが追加されたが、これは初期型の終わりからである。
砲塔左側面のガンポートはごついカバーから単純な装甲栓に変更され、後に廃止された。
砲塔左右側面前方に装備されていた発煙弾発射機はSマイン同様、再装填に乗員が外に出なければならず、やはり破損し易いため廃止された。
砲塔上面のヴェンチレイターはこれまで上面右後方にあったが、排気効率を改善するため中央に移された。
砲塔上面左側の車長用キューポラは、それまで筒型で周囲に防弾ガラス入りのスリットが設けられたタイプが使用されていたが、背が低く周囲にペリスコープが取り付けられた新型に変更されている。
なお車長用キューポラ上面のハッチは従来は片開き式であったが、新型キューポラでは一旦上に持ち上げてからスライドして開く形式に変更されている。
また砲塔側面には左側に5個、右側に3個の予備履帯取り付け具が設けられるようになった(初期型後期から)。
車体上面右後部には、鉄道輸送時などに主砲を固定するトラヴェリング・ロックが追加されている。
なおドイツ軍戦車独特の磁気吸着地雷を防ぐツィンメリット・コーティングは、中期生産型の中期から塗布されるようになり以後の生産車では標準となった。
●後期生産型
一般に「後期生産型」と呼ばれているのが、1944年2~8月にかけて生産されたティーガーI戦車の最後のタイプである。
後期生産型の最も大きな変更点は、転輪が従来のゴム縁付きのものからゴムを内蔵した鋼製転輪に変更された点である。
これは戦略物資であるゴムの節約のためであるが、ゴム縁付き転輪と同様の緩衝効果を発揮できた。
その他では主砲先端の砲口制退機が周りの出っ張りが少ない小型のものに替わり、車体前部のフック掛けが干渉を防ぐため抉れたようになった。
また主砲の照準機が従来の双眼式から単眼式のものに変更され、照準口が1つになっている。
最初は双眼の穴1つを栓をして塞いでいたが、後に初めから1つしか開けられないようになった。
砲塔上面は、装甲厚が増厚されて防御力が高められた。
これはドイツ軍が制空権を失い、航空攻撃が大きな脅威となったことを象徴している。
また装填手用ハッチは周囲の跳弾板が省かれて、ハッチそのものが跳弾効果が発揮できる形状に変更されている。
砲塔上面には近接防御兵器発射機が装備されるようになったが、これは砲塔内部から擲弾と発煙弾を装填発射できるもので、廃止されたSマイン発射機と発煙弾発射機に代わるものである。
同じく砲塔上面にエンジン等の交換用の2t小型クレーンを装備するための、「ピルツ」(Pilz:キノコ)と呼ばれる取り付け具が3つ追加されている。
また、砲塔基部周囲には防弾装甲リングが追加された。
誘導輪も、形状は似ているが小型のものに変更されている。
また、中期型で新設された主砲のトラヴェリング・ロックは廃止されてしまった。
以上のようにティーガーI戦車は生産時期によってかなりの変化があったことが分かるが、基本的な攻撃力、防御力、機動力に変化は無く、実戦を通して得られた戦訓から信頼性と使い勝手を向上させていったのである。
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+部隊配備と戦歴
ティーガーI戦車は元々生産数が少ない上に、戦闘でも酷使されたためにその配備数はごく限られていた。
登録数で最大となったのは1944年7月だが、その時点でもわずか671両に過ぎなかった。
しかし、その伝えられる活躍ぶりはその数を補って余りある。
ティーガーI戦車は通常の主力戦車とは別の重突破戦車であり、その配属先は一部の例外を除いて通常の機甲師団ではなく独立した重戦車大隊となっていた。
●第501重戦車大隊
ティーガーI戦車装備の重戦車大隊として最初に編制されたのが、1942年5月10日にテューリンゲン州のエアフルトで編制された第501重戦車大隊であった。
当初、同大隊にはポルシェ社製のVK.45.01(P)が配備される予定であったが、VK.45.01(P)の開発中止に伴ってヘンシェル社製のティーガーI戦車が配備されることになった。
当初の編制は2個中隊でティーガーI戦車の不足から、ティーガーI戦車20両に支援用のIII号戦車16両の混成配備となっていた。
同大隊は1942年11月、戦雲急を告げる北アフリカのチュニジアに送られてアメリカ軍相手に大活躍をした。
しかし物量を誇る連合軍の攻勢にはかなわず、アフリカ軍集団と共に1943年5月に降伏している。
なお、1943年3月に第3中隊が編制されているがこれは北アフリカには送られず、同年6月に機甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントに配属されてしまった。
その後1943年9月にドイツ本国で再編制され(3個中隊でティーガーI戦車45両)、東部戦線の中央軍集団戦区でソ連軍相手に奮戦するが戦力を消耗する。
1944年7月に、ティーガーII戦車を受領して再編制された。
●第502重戦車大隊
第502重戦車大隊は、1942年5月25日にバイエルン州のバンベルクにおいて2個中隊で編制された(ティーガーI戦車とIII号戦車の混成)。
そのうち第1中隊はティーガーI戦車初の実戦投入として、同年12月に東部戦線のレニングラード戦区に投入されている。
しかし、初陣は戦区の地形の悪さもあり失敗であった。
1943年初旬には、150両以上の敵戦車を撃破して伝説的戦車長となるオットー・カリウス少尉が第2中隊に配属された。
同年4月には大隊に第3中隊が配属され、その後北方軍集団戦区で粘り強く戦い続ける。
1944年10月にソ連軍の攻勢で、北方軍集団はクールランドで切断包囲されてしまう。
この時第1、第2中隊は逃げ延びたが第3中隊は包囲され、第510重戦車大隊に加わる。
その後機材を置いて兵員のみドイツに戻り、ティーガーII戦車で再編制される。
一方第1、第2中隊は東プロイセンで戦いを続ける。
1945年1月5日付で第502重戦車大隊は第511重戦車大隊に呼称変更され、同年2月には改編が行われて残ったティーガーI戦車は全て第2中隊に集められ、第1中隊は代わりにヘッツァー駆逐戦車を受領した。
●第503重戦車大隊
第503重戦車大隊は1942年4月16日からベルリン北西のノイルッピンで編制が開始されたが、編制途中のまま大隊は8月初旬にオーストリアのウィーンに移動した。
9月からポルシェ社製のVK.45.01(P)を用いて訓練が開始されたが、この車両の不採用が決定した後砲塔乗員はプトロス射撃訓練場、操縦手と整備要員はヘンシェル社に送られて同社製のティーガーI戦車に乗り換えるための訓練・研修を受けた。
1942年12月になってようやく大隊はティーガーI戦車20両とIII号戦車N型31両を受領し、これらを用いて2個中隊が編制され、東部戦線の南方軍集団に配属されて戦った。
1943年7月のクールスク戦時には、3個中隊45両の編制で参加している。
その後、南方軍集団戦区で戦い続け完全に消耗する。
1944年5月、フランスに下がって再編制。
同年6月に第1中隊はティーガーI戦車を受領、第2、第3中隊はティーガーII戦車を配属される。
6月6日に始まったノルマンディー戦に投入されるが8月には全車両を失って後退し、後にティーガーII戦車で再編制される。
●第504重戦車大隊
第504重戦車大隊は、1943年1月13日に2個中隊で編制された。
同年3月にイタリアに輸送され第1中隊はチュニジアに渡るが、第2中隊はシチリア島に残留した。
この後、5月に第1中隊はチュニジアで降伏している。
第2中隊は7月の連合軍のシチリア島上陸を迎え撃ち、8月にはイタリア本土に後退した。
この時、中隊に残されていたティーガーI戦車は1両だけだった。
この間、1943年4月に編制されていた第3中隊はイタリアには送られず、7月に機甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントに配属されてしまった。
1943年末にドイツ本国で再編制されるが、この時第3中隊としてティーガーI戦車と無線操縦の爆薬運搬車を装備する第314戦車中隊が配属された。
大隊は1944年4月からフランスに駐屯するが6月にイタリアに移動し、終戦までそこで戦い続けた。
●第505重戦車大隊
第505重戦車大隊は1943年2月12日に2個中隊で編制、4月に第3中隊が追加される。
5月に東部戦線中央軍集団戦区に送られ、7月にクールスクの戦いに投入されている。
その後同戦区を転戦し、数多くの戦果を上げる。
1944年7月にティーガーI戦車を補修部隊に引き渡し、ティーガーII戦車に改編された。
●第506重戦車大隊
第506重戦車大隊は1943年7月20日に編制開始、初めからティーガーI戦車だけの3個中隊で編制された初めての大隊である。
9月に東部戦線南方軍集団戦区に送られ、ソ連軍のドニェプル攻勢に対抗して火消し役として活躍する。
1944年7月にはほとんどのティーガーI戦車を消失、残存車両を第507重戦車大隊に引き渡して後退、9月にティーガーII戦車装備で再編制された。
●第507重戦車大隊
第507重戦車大隊は1943年9月23日に編制、1944年3月に東部戦線北部に送られ以後ポーランド方面を転戦した。
1945年2月にはほとんどの装備を消失し、3月にティーガーII戦車を受領して再編制された。
●第508重戦車大隊
第508重戦車大隊は1943年8月25日に編制、12月に第3中隊としてティーガーI戦車と無線操縦の爆薬運搬車を装備する第313戦車中隊が配属された。
1944年2月にイタリアに送られ以後イタリアで遅滞戦闘に従事、1945年2月に残った装備を第504重戦車大隊に譲り、残った兵員はオーストリアからドイツに移動、再編制されることも無く残存兵員は歩兵として戦い降伏した。
●第509重戦車大隊
第509重戦車大隊は1943年9月9日に編制、10月末に東部戦線中央軍集団戦区に送られ以後キロボグラード、キエフなどを転戦、チェルカッシィ戦の後1944年9月に残った装備を第501重戦車大隊に譲り本国に帰還、ティーガーII戦車で再編制される。
●第510重戦車大隊
第510重戦車大隊は1944年6月6日に編制、8月に東部戦線北部に送られた。
以後、クールランドで戦う。
1945年3月、大隊は再編制のためドイツ本国に向かうが一部と車両はクールランドに残り、終戦まで戦い続けた。
●機甲擲弾兵師団グロースドイッチュラント
国防軍のエリート部隊である自動車化歩兵師団「グロースドイッチュラント」(Großdeutschland:大ドイツ)に、戦車大隊グロースドイッチュラントの第13中隊として1943年1月にティーガーI戦車装備の戦車中隊が編入された。
第13中隊の前身は、1941年にフランス軍からの鹵獲戦車をもって編制された第203戦車連隊の第3中隊であり、ファリングボステルで受領した9両のティーガーI戦車の他に10両のIII号戦車を保有していた。
第13中隊は1943年3月の第3次ハリコフ戦に投入されたが、ティーガーI戦車の戦闘での損失は無く、5月には6両のティーガーI戦車が補充されて定数どおりの15両のティーガーI戦車を揃えることができた。
1943年6月23日に、自動車化歩兵師団グロースドイッチュラントは機甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントに改称され、同時に戦車大隊グロースドイッチュラントは戦車連隊に拡大されることになった。
戦車連隊グロースドイッチュラントの第1大隊は旧大隊が編入され、第2大隊は第203戦車連隊の第2大隊が改称編入された。
第3大隊は第13中隊を中心に編制されることになり第13中隊は第9中隊に改称され、北アフリカ戦線に送られるはずだった第501重戦車大隊第3中隊が第10中隊として改称編入、同じく北アフリカに送られるはずだった第504重戦車大隊第3中隊が第11中隊として改称編入された。
第3大隊は定数どおりの計45両のティーガーI戦車を保有しており、1943年7月のクールスク戦には間に合わなかったが8月以降戦闘に加入しキロボグラード戦に参加、以後ルーマニアまで後退戦闘を続けた。
1944年11月に残った装備を第511(第502から呼称変更)重戦車大隊に引き渡し、12月に重戦車大隊グロースドイッチュラントとして再編制された。
同大隊は東部戦線を転戦し、1945年3月にハイリゲンバイルの包囲戦で最後のティーガーI戦車を失った。
この他、国防軍では無線操縦の爆薬運搬車を装備した第301(無線操縦)重戦車大隊に、1944年10月以降ティーガーI戦車31両が配備され西部戦線で戦った。
また第316(無線操縦)重戦車中隊にも10両が配備されており、ノルマンディー戦に投入された。
この他、1944年7月にパーダーボルンで編制された重戦車中隊フンメル(当初は臨時重戦車中隊ダンケルクという呼称であった)にも、14両のティーガーI戦車が配備されていた。
●SS第101重戦車大隊
一方SS(武装親衛隊)でも、幾つかのティーガーI戦車装備の重戦車大隊が編制されている。
SS第101重戦車大隊は1944年春に、SS第1機甲師団LSSAH(ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー)に配備されていたティーガーI戦車装備の重戦車中隊を基幹として編制された。
同年6月にノルマンディー戦に投入されたが6月13日のヴィレル・ボカージュの戦いにおいて、同大隊所属の伝説的戦車長ミヒャエル・ヴィットマンSS中尉の乗車は単独で13両の戦車、10両のハーフトラック、4両の装甲車、2門の対戦車砲を破壊する大活躍を見せた。
この功績によりヴィットマンは、6月25日にヒトラー自身の手で柏葉剣付騎士鉄十字章を授与され、SS大尉に昇進した。
しかし8月8日に友軍の後退を援護するためサントーへ向けて出撃した際、ヴィットマンの乗車はカナダ軍のシャーマン・ファイアフライ中戦車の攻撃を受けて大破炎上し、ヴィットマンら乗員は戦死した。
SS第101重戦車大隊はノルマンディー戦でほとんどの装備を失い、9月にティーガーII戦車で再編制され、呼称もSS第501重戦車大隊に変更された。
●SS第102重戦車大隊
SS第102重戦車大隊は1944年春に編制され、やはり6月にノルマンディー戦に投入された。
カーン付近で激戦を演じたが後退戦闘で全てのティーガーI戦車を失い、同年末にティーガーII戦車で再編制され呼称もSS第502重戦車大隊に変更された。
●SS第103重戦車大隊
SS第103重戦車大隊は1944年春に編制されたが、同大隊の場合ティーガーI戦車は充足せず、ノルマンディー戦では兵員装備をSS第101、第102重戦車大隊に提供しただけで自身は戦闘に参加していない。
その後ティーガーII戦車を受領し、SS第503重戦車大隊に呼称が変更されている。
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<VK.30.01(H)>
全長: 5.81m
全幅: 3.16m
車体高: 1.85m
全備重量: 32.0t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL116 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 35km/h
航続距離:
武装: 24口径7.5cm戦車砲KwK37×1
装甲厚: 15~50mm
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<VK.30.01(P)>
車体長: 6.60m
全幅: 3.20m
全高: 3.03m
全備重量: 30.0t
乗員: 4名
エンジン: ポルシェ100型 4ストロークV型10気筒空冷ガソリン×2
最大出力: 420hp/2,500rpm
最大速度: 60km/h
航続距離:
武装: 56口径8.8cm戦車砲KwK36×1
装甲厚: 20~50mm
|
<VK.36.01(H)>
車体長: 6.05m
全幅: 3.14m
全高: 2.70m
全備重量: 36.0~40.0t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL174 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 550hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離:
武装: 75.5口径7.5cm口径漸減砲ゲレート0725×1
7.92mm機関銃MG34×2
装甲厚: 20~100mm
|
<VK.45.01(P)>
全長: 9.34m
車体長:
6.70m
全幅: 3.14m
全高: 2.80m
全備重量: 57.0~59.0t
乗員: 5名
エンジン: ポルシェ101/1型 4ストロークV型10気筒空冷ガソリン×2
最大出力: 640hp/2,500rpm
最大速度: 35km/h
航続距離: 80km
武装: 56口径8.8cm戦車砲KwK36×1 (70発)
7.92mm機関銃MG34×2
装甲厚: 25~100mm
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<ティーガーI戦車 初期型>
全長: 8.45m
車体長: 6.316m
全幅: 3.705m
全高: 3.00m
全備重量: 57.0t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL210P45 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 650hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 195km
武装: 56口径8.8cm戦車砲KwK36×1 (92発)
7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚: 25~100mm
|
<ティーガーI戦車 中期型>
全長: 8.45m
車体長: 6.316m
全幅: 3.705m
全高: 3.00m
全備重量: 57.0t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL230P45 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 195km
武装: 56口径8.8cm戦車砲KwK36×1 (92発)
7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚: 25~100mm
|
<ティーガーI戦車 後期型>
全長: 8.455m
車体長: 6.335m
全幅: 3.705m
全高: 2.855m
全備重量: 57.0t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL230P45 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 195km
武装: 56口径8.8cm戦車砲KwK36×1 (92発)
7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚: 25~100mm
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兵器諸元(ティーガーI戦車 初期型)
兵器諸元(ティーガーI戦車 中期型)
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<参考文献>
・「世界の戦車イラストレイテッド6 ティーガーI重戦車 1942~1945」 トム・イェンツ/ヒラリー・ドイル 共著
大日本絵画
・「ティーガー戦車」 W.J.シュピールベルガー 著 大日本絵画
・「グランドパワー2017年7月号 重戦車ティーガー(1) 開発と構造」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2017年10月号 重戦車ティーガー(2) 極初期~初期型(1)」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年1月号 重戦車ティーガー(3) 極初期~初期型(2)」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年3月号 重戦車ティーガー(4) 極初期~初期型(3)」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年5月号 重戦車ティーガー(5) 中期型~後期型(1)」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2018年8月号 重戦車ティーガー(6) 中期型~後期型(2)」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「ティーガーI (1) 虎のディテール」 デルタ出版
・「ティーガーI
(2) 虎の戦歴」 デルタ出版
・「ティーガーI
(3) 虎のメカニズム」 デルタ出版
・「パンツァー2017年9月号 特集 ティーガーI重戦車」 宮永忠将/後藤仁 共著 アルゴノート社
・「ミリタリーコレクション3 ティーガー重戦車 パート1」 佐藤幸司/佐野信二 共著 コーエー
・「ミリタリーコレクション4 ティーガー重戦車 パート2」 佐藤幸司/佐野信二 共著 コーエー
・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 斎木伸生 著 光人社
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