フェルディナント/エレファント重突撃砲 |
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+VK.30.01(P)
1935年にドイツ陸軍兵器局の長であるクルト・リーゼ将軍の提案により、当時開発中であったZW(後のIII号戦車)やBW(後のIV号戦車)を上回る、30t級の重戦車を開発する計画がスタートした。 戦車の開発を担当する兵器局第6課は、1937年1月にカッセルのヘンシェル社に対して30t級重戦車の開発を依頼し、これは「DW」(Durchbruchwagen:突破車)の秘匿呼称で開発が進められた。 その後、兵器局第6課はそれまでヘンシェル社のみで進めていた30t級重戦車の開発を、「VK.30.01」の計画呼称でより本格的に行うよう方針を変更し、1939年10月にシュトゥットガルトのポルシェ社とベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社にもVK.30.01の開発を要請した。 ポルシェ社は兵器局の要請に応じて、「100型」または「レオパルト」(Leopard:豹)の社内呼称で30t級重戦車VK.30.01(P)の開発を進めたが、ポルシェ社は設計専門で大規模な工場設備を持っていなかったため、1940年3月6日にエッセンのクルップ社にVK.30.01(P)の試作車体2両の製作を発注し、1940年11月~1941年1月にかけて完成した。 このVK.30.01(P)で特徴的だったのは、動力機構にフェルディナント・ポルシェ工学博士が考案したユニークな電気駆動方式を採用していた点である。 これはまずガソリン・エンジンを駆動させてこれにより発電機を回し、電気モーターに電力を供給して起動輪を駆動するというシステムで、従来の機械式変速・操向機に比べてスムーズな加速と旋回ができるというふれ込みであった。 またサスペンションは、転輪を2個ずつ懸架する外装式の縦置きトーションバー方式を採用しており、通常のトーションバーのように車内スペースを占有せず、メインテナンスも容易に行えるように工夫していた。 またVK.30.01(P)は避弾経始を考慮して、ドイツ戦車としては初めて車体前面に傾斜装甲が用いられていた。 VK.30.01(P)は武装も強力で、クルップ社製の8.8cm高射砲FlaK36を戦車砲に改修した56口径8.8cm戦車砲KwK36を、円筒形の全周旋回式砲塔に装備する計画であった。 8.8cm高射砲FlaK36は、クルップ社が1928年に開発した8.8cm高射砲FlaK18をスペイン内戦の戦訓を基に改良したもので、当初から対戦車砲として使用することも考慮されていたため徹甲弾を使用した場合、射距離1,500mで100mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。 しかし、VK.30.01(P)は試験において機関系のトラブルが多発し、また1941年5月から後述の45t級重戦車VK.45.01(P)の開発が進められたため、試作車体2両のみの製作で計画は中止された。 |
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+VK.45.01(P)
1941年5月26日の陸軍兵器局との会議においてアドルフ・ヒトラー総統は、前年のフランス侵攻作戦で強力な装甲を備えた連合軍戦車に苦戦した経験を基に、当時開発が進められていたVK.30.01やVK.36.01よりさらに重装甲で強力な火力を備える重突破戦車を開発することを要求した。 この重突破戦車は機甲師団の先頭に立って敵の陣地に突進し、その強力な火力と装甲によって後続の戦車の突破口を開く役割を担うものとされ、この車両を20両ずつ装備する戦車部隊を編制することが予定された。 ヒトラーの要求に基づいて兵器局第6課は45t級重突破戦車「VK.45.01」の開発を計画し、ヘンシェル社とポルシェ社に対してそれぞれ「VK.45.01(H)」と「VK.45.01(P)」の呼称で開発を要求した。 ポルシェ社は兵器局第6課の要求に応じて、「101型」の社内呼称で45t級重戦車VK.45.01(P)の開発を開始した。 ポルシェ社は当時開発を進めていたVK.30.01(P)をベースに、車体を拡大することでVK.45.01(P)を開発する方針を採り、VK.30.01(P)に導入した電気駆動方式の動力機構や縦置き式トーションバー・サスペンションも踏襲した。 ただしVK.45.01(P)は大幅に重量が増加したため、エンジンはVK.30.01(P)の出力210hpの100型エンジン2基から、出力320hpの101/1型 V型10気筒空冷ガソリン・エンジン2基に強化された。 これをニュルンベルクのジーメンス・シュッケルト製作所製のaGV発電機、D1495a電気モーターと組み合わせて動力機構としていた。 砲塔に搭載する武装もVK.30.01(P)と同じクルップ社製の56口径8.8cm戦車砲KwK36とされたが、VK.45.01(P)の砲塔はVK.30.01(P)より大型の馬蹄形のものとされ、装甲厚も大幅に強化された。 なおポルシェ社はVK.45.01(P)の設計のみを担当し、砲塔と装甲板の製作はクルップ社、エンジンの製作はオーストリア・ウィーンのジマーリング・グラーツ・パウカー社、最終組み立てはオーストリア、ザンクト・ヴァーレンティーンのニーベルンゲン製作所で行うことになっていた。 ヒトラーはVK.45.01(P)の主砲を、より強力なデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の74口径8.8cm高射砲FlaK41に換装することを求めており、兵器局第6課は1941年6月21日にポルシェ社に対し、VK.45.01(P)の砲塔にFlaK41の搭載が可能かどうか検討するように指示した。 9月10日にポルシェ社は不可能という報告書を提出しているが、結局ヒトラーの要望でVK.45.01(P)の最初の100両はKwK36を搭載して製作するが、101両目から新設計の砲塔にFlaK41を搭載して製作することが決定された。 1942年3月23日の会議において、ポルシェ社はVK.45.01(P)の生産数の半分を、ハイデンハイムのフォイト社製の流体式変速・操向機を装備したタイプ(ポルシェ社内呼称:102型)として完成させることを提案し、これは101型と102型を9:1の割合で生産するという形で承認された。 しかし、102型の開発を進めている途中で後述のようにVK.45.01(P)の不採用が決定したため、結局102型は試作車が1両製作されたのみで開発が中止された。 1941年6月22日に開始された独ソ戦において、ソ連陸軍のT-34中戦車やKV-1重戦車などの強力な新型戦車に対して、ドイツ陸軍の主力であるIII号、IV号戦車が苦戦を強いられていたため、ヒトラーはVK.45.01を一刻も早く実戦化するよう要求しており、さらに軍需省事務次官オットー・ザウアーがヒトラーの歓心を買うため、1942年4月20日のヒトラーの誕生日プレゼントにVK.45.01(H)/(P)の試作車を展覧することを考案した。 このため、ただでさえ厳しい開発スケジュールはますます過酷なものになった。 VK.45.01(P)の試作第1号車は、期限ぎりぎりの4月18日になってようやく完成した。 1942年4月20日にラステンブルクの総統本営で、VK.45.01(H)/(P)の試作車が披露された。 ヒトラーは明らかにポルシェ社のVK.45.01(P)を贔屓していたが、走行デモンストレイションではヘンシェル社のVK.45.01(H)の優位は明らかだった。 それでもまだ、どちらを選ぶか結論は下されなかった。 VK.45.01(H)/(P)はツォッセンのクンマースドルフ車両試験場に送られて性能比較試験が実施されたが、この試験においてヘンシェル社のVK.45.01(H)の方がはるかに性能が優れていることが確認されたため、兵器局第6課は1942年10月末にポルシェ社に対してVK.45.01(P)の不採用を通知し、ヘンシェル社のVK.45.01(H)が「VI号戦車ティーガーH1型」としてドイツ陸軍に制式採用されることになった。 この時点ですでにVK.45.01(H)/(P)の両者とも生産型の量産が開始されており、VK.45.01(P)は同年5月に、VK.45.01(H)は6月にそれぞれ生産型第1号車が完成していた。 特にヒトラーが贔屓していたポルシェ社のVK.45.01(P)については、まだ試作車が完成する前の1941年7月に早くも100両の生産が命令されており、ポルシェ社ではこれを受けて同月中に100両分の装甲板と砲塔の製作をクルップ社に発注していた。 不採用が通知された1942年10月末の時点でVK.45.01(P)は10両がほぼ完成状態にあり、さらに90両分の車体と砲塔がすでに用意されていた。 このため、VK.45.01(P)は10両を完成させて乗員の訓練や試験に用いることになり、残った90両分の製作部品については砲塔がヘンシェル社のVK.45.01(H)の砲塔に転用され、車体については後述のフェルディナント重突撃砲の車体に転用された。 |
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+フェルディナント/エレファント重突撃砲
前述のように、ポルシェ社が開発を進めていた45t級重戦車VK.45.01(P)は1942年10月末に開発が中止されることになったが、その時点で90両分の車体と砲塔がすでに用意されていた。 砲塔についてはヘンシェル社のVK.45.01(H)の砲塔に転用されることになったが、VK.45.01(H)はVK.45.01(P)のような駆動用発電機を備えていなかったため、転用する際に砲塔の駆動機構が電動式から油圧式に改められた。 一方、残された90両分の車体については1942年9月22日の総統会議において、当時クルップ社が開発を進めていた71口径8.8cm対戦車砲PaK43を搭載し、装甲厚は前面で200mmという当時例を見ない強力な自走砲へ転用することが決定された。 この決定に伴い、ベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトメルキシェ装軌車両製作所)に対してVK.45.01(P)の自走砲化の設計が命じられ、アルケット社は1942年11月30日にその作業を完了した。 アルケット社がまとめたVK.45.01(P)の自走砲への改修設計案は、VK.45.01(P)の車体後部に71口径8.8cm対戦車砲PaK43を限定旋回式に搭載する完全密閉式の固定戦闘室を設け、機関室は車体中央部に配して車体前面を避弾経始を考慮した形状に改め、副武装として戦闘室前面のボールマウント式銃架に、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34を備えるというものであった。 検討の結果、基本的にアルケット社の設計案どおりにVK.45.01(P)の自走砲化を進めることになったが、改修期間の短縮を図るために車体前面はVK.45.01(P)と同じ形状とし、100mm厚の増加装甲板を装着するよう設計が変更された。 また、200mmという装甲厚に対応したボールマウント式銃架を開発するには時間が必要だったため、結局自衛用機関銃は未装備とされてしまった。 これは後に問題視されることになるが、開発期間の短縮のためには仕方なかった。 なお、VK.45.01(P)に用いられたポルシェ社製の101/1型 V型10気筒空冷ガソリン・エンジン(出力320hp)は油漏れが酷く、冷却装置が砂塵に脆弱ですぐに故障してしまう等信頼性が低かったため、自走砲化するにあたってIII号、IV号戦車に用いられて信頼性が保証されている、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL120TRM V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力300hp)に換装されることになった。 この自走砲は当初「長砲身8.8cm砲搭載突撃砲」と呼ばれていたが、1943年2月6日に開かれた総統会議において、VK.45.01(P)の設計者であるフェルディナント・ポルシェ工学博士の創造的な貢献を称揚するために「フェルディナント」(Ferdinand)の呼称を与えることが決定され、同年3月23日に「8.8cm突撃加農砲フェルディナント」として制式化され、「Sd.Kfz.184」の特殊車両番号が与えられた。 フェルディナント重突撃砲の主砲に採用された71口径8.8cm対戦車砲PaK43/2は、Pz.Gr.39/43 APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾)を使用した場合砲口初速1,000m/秒、射距離1,000mで165mm、2,000mで132mmのRHA(傾斜角30度)を貫徹することが可能で、ドイツ陸軍戦車を苦しめたソ連陸軍のT-34中戦車やKV-1重戦車を、遠距離から一撃で撃破することが可能であった。 1943年11月25日には、たった2両のフェルディナント重突撃砲で合計54両ものソ連陸軍戦車を撃破する大戦果を挙げている。 VK.45.01(P)の車体をフェルディナント重突撃砲の車体に改修する作業は、VK.45.01(P)の最終組み立てを行ったニーベルンゲン製作所の隣町である、オーストリア・リンツのオーバードーナウ製鋼所が担当することになり、戦闘室と主砲はクルップ社で製作されることになった。 フェルディナント重突撃砲はまず、VK.45.01(P)の生産型最終号車(車両製造番号150010)を改造して試作車を製作し、続いて90両の生産型を製作することになっていた。 オーバードーナウ製鋼所ではまずVK.45.01(P)の生産型最終号車の車体の改造作業に着手し、次いでクルップ社がVK.45.01(P)用に用意した90両分の装甲板を用いたフェルディナント重突撃砲の車体製作を1942年11月頃から開始して、翌43年4月には全車の改修生産を終了した。 当初、フェルディナント重突撃砲の最終組み立てはクルップ社で行われることになっていたが、1943年2月6日の総統会議において、アルベルト・シュペーア軍需大臣によりニーベルンゲン製作所で行うことに方針が変更され、3月から戦闘室や砲などのクルップ社からニーベルンゲン製作所への移送が始まった。 そして、3月中にフェルディナント重突撃砲の試作車と生産型第1号車がロールアウトし、5月12日には生産型最終号車が塗装を施した完成状態で引き渡されて、90両全車(車両製造番号150011~150100)の生産を終了した。 |
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+戦歴
フェルディナント重突撃砲の生産が急ピッチで進む中、1942年12月26日付でその受け皿として指定されたのが、III号突撃砲を装備する第190、第197、第600突撃砲大隊であった。 これらの部隊は番号をそのままとして「重突撃砲大隊」と改称され、それぞれ30両ずつのフェルディナント重突撃砲が配備されることが決められた。 これらの部隊は1943年1月31日付で発効されたが、まだ改編など開始される前に機甲兵総監の座に就いたハインツ・グデーリアン将軍により、2個重戦車駆逐大隊がそれぞれ45両のフェルディナント重突撃砲を装備することに方針が変わった。 その1番手として第197突撃砲大隊が、4月1日付でオーストリア・ブルックにおいて第653重戦車駆逐大隊と改称され、栄えある初代大隊長の座に就いたのはハインリヒ・シュタインヴァクス少佐であった。 その後第653重戦車駆逐大隊は人員の補充に努め、4月末にはその総兵員数を1,000名としている。 車両数でいえば45両しか装備しないフェルディナント重突撃砲であったが、それを機能的に運用しようとするならばこの程度の人員を要しなければならなかったのである。 これらの隊員の中から将校と車長、そして操縦手を中心とした選抜隊員がニーベルンゲン製作所に送り込まれ、転換訓練が実施された。 当時ドイツ軍はクールスクに突出しているソ連軍を挟撃し、劣勢を一気に挽回しようという「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)を計画しており、フェルディナント重突撃砲を装備する重戦車駆逐大隊もこの作戦に投入されることになっていた。 城塞作戦の発動は1943年7月初めと決められていたため、生産と訓練を並行して進めなければ、とても作戦開始時に戦闘が可能な状態とすることなど不可能だったのである。 5月に入ってから同大隊はオーストリアのノイジーデル・アム・ゼーへに移動し、フェルディナント重突撃砲の引き渡しを待つことになる。 この第653重戦車駆逐大隊の編制に続いて、1943年3月22日付でフランスのルーアンに展開していた第654駆逐戦車大隊が重戦車駆逐大隊へ改編され、初代大隊長には、駆逐戦車大隊時代の隊長を務めていたカール・ハインツ・ノアク少佐がそのままスライドする形で着任した。 重戦車大隊と同様に、新たに編制された重戦車駆逐大隊もその定数は45両と定められたが、最初にフェルディナント重突撃砲を受領したのはルーアンにおいて人員の補充に努めていた第654重戦車駆逐大隊で、第653重戦車駆逐大隊の手により数度に渡る鉄道輸送が行われて、同大隊向けの45両のフェルディナント重突撃砲が揃ったのは5月10日のことであった。 続いて第653重戦車駆逐大隊に対する配備も開始されたが、同大隊はこれに先立ち古巣のブルックに移動しており、同地の演習場を宿舎としてフェルディナント重突撃砲の受領と訓練を実施したが、その編制が完了したのは6月に入ってからと思われる。 各大隊は、それぞれ4両のフェルディナント重突撃砲をを装備する3個小隊から成る第1~第3中隊と、これに加えて大隊本部に3両、中隊本部にそれぞれ2両が配備された。 さらにIII号戦車長砲身型5両と、同じく長砲身砲装備のIII号指揮戦車1両を編制定数としており、この編制で1943年7月からのクールスク戦に投入されているが、第654重戦車駆逐大隊に限って生産型第1号車が試験のためにクンマースドルフ車両試験場に残されたため、定数から1両を引いた44両という編制で参戦している。 各大隊共に独自の整備中隊を保有しており、Sd.Kfz.9牽引車(18tハーフトラック)15両と、35t牽引車2両(実際には完成すること無く終わり、実戦投入前にベルゲパンター戦車回収車に変更された)が配備されたが、それ以外の装備は不明である。 この2個大隊の編制に続き、1943年6月8日付で第35戦車連隊本部を主幹として第656重戦車駆逐連隊が編制された。 連隊長には、第35戦車連隊の長であったエルンスト・ヴィルフェルム・フライヘア・フォン・ユンゲルフェルト予備役中佐がそのまま収まり、両大隊は第656重戦車駆逐連隊の傘下に入って、第653重戦車駆逐大隊は同連隊の第I大隊、同じく第654重戦車駆逐大隊は第II大隊となった。 また連隊本部としてII号戦車3両、III号戦車N型3両、III号戦車長砲身型19両(後に12両は第12機甲師団に移譲された)が配備されていた。 さらに支援部隊として、これまた新たに開発されたIV号突撃戦車ブルムベーア45両を装備する第216突撃戦車大隊が第III大隊として配備され、加えてIII号戦車10両(長砲身型7両、N型3両)、BIV重爆薬運搬車36両を装備する第313無線誘導戦車中隊と、III号突撃砲10両とBIV重爆薬運搬車36両を装備する第314無線誘導戦車中隊が編制に組み込まれて、戦闘車両だけで150両を超える堂々たる連隊となった。 また配備時期は不明だが、連隊の編制にはSd.Kfz.250/5装甲観測車3両、Sd.Kfz.251/8装甲救急車3両が加わっていたが、どの部隊に配備されていたのかは明らかにされていない。 城塞作戦発動前に配備と訓練が行われたフェルディナント大隊は訓練がまだ充分ではなく、車両自体にも問題が生じていたがこれらを解決する時間はもはや無く、不満足ではあったが1943年6月9~12日にかけて、それぞれ鉄路東部戦線に向かって輸送が開始された。 第656重戦車駆逐連隊は城塞作戦において主力となる、ヴァルター・モーデル将軍が指揮を執る中央軍集団傘下の第9軍に配備されるため、オリョール南方35kmに位置するズミーイェフカ駅で降ろされ、それぞれ中隊別に指定された集結地に向かって自走して移動を行った。 第653重戦車駆逐大隊の場合第1中隊の集結地はクリキー、第2中隊はゴスチーノヴォ、そして第3中隊はダヴィドヴォとなっていたが、第654重戦車駆逐大隊の集結地は不明である。 この集結地に6月30日まで留まった各中隊は、それぞれ周囲の地形に合わせた最後の訓練を行って練度の向上に努め、明けて7月1日にはソロチ・クストゥイに移動して燃料の補給などが行われた。 続く2日にはノーヴォポーレヴォに、3日にはオリョールとクールスクを結ぶ鉄路の間に位置するグラズノーフカに到着して作戦発動までの待機に入った。 1943年7月5日午前3時、ついに城塞作戦が発動され各戦区でドイツ軍の砲撃が開始された。 作戦の進行中、各部隊が毎日夕刻に自隊の出動兵力を通知していたが、フェルディナント重突撃砲の出動数は7月7日が37両、8日が26両、9日が13両、10日が24両、11日が12両、12日が24両、13日が24両、14日が13両であった。 城塞作戦が開始された7月5日から14日までに、合計19両のフェルディナント重突撃砲が全損として失われた。 大部分は、機関室通気用グリルに対する重砲直撃弾の犠牲になったものである。 4両は、電気式駆動装置内の電流ショートによる火災で脱落した。 1943年7月12日に始まったソ連軍の反攻は、ドイツ軍にハーゲン・ラインへの後退を余儀なくさせた。 その際、8月1日までにさらに20両のフェルディナント重突撃砲が失われた。 やむなく放棄される車両の大部分は、使用可能の状態で敵の手に落ちるのを防ぐために乗員自らが爆破した。 第656重戦車駆逐連隊は、同連隊のフェルディナント重突撃砲の損害39両に対して、戦闘不能にした敵戦車合計502両、加えて対戦車砲20門、野砲約100門の戦果を報告している。 第656重戦車駆逐連隊はフェルディナント重突撃砲50両の整備を始めるため、前線からドニエプロペトロフスクの休養陣地へ後退せよとの命令を8月下旬に受けた。 9月1日までに、ドニエプロペトロフスクへ後退していた部隊は同地でフェルディナント重突撃砲を修理し、第653重戦車駆逐大隊の指揮下に入った。 15両のフェルディナント重突撃砲の修理は迅速に終わり、前線の第653重戦車駆逐大隊に配備された。 1943年夏~秋の第653重戦車駆逐大隊におけるフェルディナント重突撃砲の稼働状況は、以下の通りであった。
出撃4カ月後の1943年11月5日、第653重戦車駆逐大隊は敵戦車582両、対戦車砲344門、火砲133門、対戦車銃103挺、航空機3機、装甲偵察車3両、突撃砲3両の撃破と破壊の戦果を報告した。 11月29日に大隊は西方へ撤退し、休養地にてフェルディナント重突撃砲のオーバーホールを行なうよう命じられた。 それまでに、各車両の走行距離は2,000kmに達していた。 第656重戦車駆逐連隊はすでに1943年9月1日、フェルディナント重突撃砲に関する緊急改善の要望31件を列挙した長い一覧表を発送していた。 この要望表には機関銃を砲側に持参して、8.8cm対戦車砲の砲身を通じて射撃できるようにする提案も含んでいた。 必要な資材を入手できる限り、部隊内でこの改修作業を実施しようというものであった。 実際、6週間以内で50両のフェルディナント重突撃砲の装備増強ができた。 ところがこれらの車両を前線の近くで改修する代わりに、まだ残っている48両のフェルディナント重突撃砲を製造メーカーのニーベルンゲン製作所へ送れという命令が来た。 第656重戦車駆逐連隊が発送したフェルディナント重突撃砲の改善要望リストは、以下の通りである。 ●防火対策 1.破片防御効果を向上するため通気用グリルの改修 2.排気管に対するガソリン配管の保護 3.集合排気管接続部の改造 4.バルブケーシングへの油滴避け 5.排気管上の木の葉などの堆積防止 6.戦闘室から機関室へのアクセスの改良 7.消火器装着(内容量各5リットルの炭酸ガス式消火器2個で構成) ●地雷対策 1.蓄電池の伸縮式収納架 2.発電機ケーシング固定脚の除去 3.点灯用発電機支持部の改良 ●弱電設備故障原因の除去 1.ボッシュ社製点灯用発電機の装着 2.発電機の副出力取出部は24Vの代りに12Vを給電(無線状況を改善するため) 3.上部車体と下部車体の電波障害除去 4.電流計の損傷防護 ●駆動部 1.スリップクラッチを固定する 2.変速装置のギア比を大きくする 3.新型履帯の導入 4.走行装置のラバークッション更新 ●上部車体 1.前面に雨樋を取り付ける 2.操縦手用ハッチと無線手用ハッチ並びに天板のシーリング 3.下部車体と上部車体の間の継目部分のシーリング 4.通気孔と装甲グリルの取り付け 5.操縦手用ハッチと無線手用ハッチの開放用補助バネの弾圧を高める 6.上部車体前の間隔充填部を下部車体に溶接 7.予備履帯、装具と工具箱を上部車体の後面両側に装着 8.ペリスコープの上に雨避けと日避けを装着 9.機関室上面のカバーヒンジを溶接により固着 ●その他の変更 1.主砲防盾の形状変更と傾斜度設定 2.車体前面機関銃架背後の弾片防護 3.上部車体上面装甲板の補強または強化 4.着脱式ハッチを使い、上部車体後面に非常出口を設ける 5.ペリスコープ付き車長用キューポラ 6.砲身用差し込み式機関銃装着の提案 7.無線手用ペリスコープ 8.車長と操縦手の間での電気式通話装置 9.ラジエイターとファン駆動装置を改良する 10.後部排気口装甲カバーの固定を改良する 11.排気管出口の変更(丈夫な履帯避けが必要) これらの変更に加えてさらに、戦闘室前面装甲板の無線手側にボールマウント式銃架が装着され、7.92mm機関銃MG34が取り付けられた。 ニーベルンゲン製作所は1944年2月にフェルディナント重突撃砲20両の全体分解整備作業を行い、3月には27両を処理した。 残りの5両は損傷が著しくて同社では修理できず、ドイツ陸軍自動車整備部(ウィーン兵器廠)に委託された。 ヒトラーは1943年11月29日にドイツ陸軍総司令部に対して、装甲車両およびその他の兵器について呼称の変更を提案した。 彼の命名提案が受け入れられ、1944年2月1日付の命令(1944年2月27日付で再度命令)で確認された。 フェルディナント重突撃砲の新呼称は、「8.8cmポルシェ突撃砲エレファント」とされた。 これはクールスク戦において、ドイツ軍兵士たちが本車を「エレファント」(Elefant:象)の愛称で呼んでいたためである。 呼称変更が行われたのは奇しくも、オーバーホールと改修が終了したフェルディナント重突撃砲の部隊復帰の時点であった。 改修作業後、第653重戦車駆逐大隊の第1中隊はイタリア戦線へ移動した。 同中隊の任務は、1944年2月に構築されたネットゥーノ付近の連合軍橋頭堡に対し、これを圧迫せんとするドイツ軍の支援であった。 第1中隊はエレファント重突撃砲11両(車両14両の内3両はニーベルンゲン製作所に残置)、III号弾薬運搬車2両、ベルゲエレファント戦車回収車1両を保有した。 イタリア駐留中、同中隊が申告したエレファント重突撃砲の投入数は次の通りである。
1944年3月における、第1中隊のエレファント重突撃砲の全損は2両であった。 1944年4月1~30日の期間、同中隊には稼働可能なエレファント重突撃砲が9両あった(修理中の車両無し)。 1944年5月1~23日、中隊には稼働可能なエレファント重突撃砲が9両あった(修理中の車両無し)。 1944年6月26日に第1中隊に対して、同中隊の修理班を現在なお北ウクライナで戦っている第653重戦車駆逐大隊の残留部隊に至急貸し出すよう要求が来た。 残りの稼働可能なエレファント重突撃砲はイタリアに留まり、戦車を持たぬ乗員はザンクト・ペルテンの訓練宿営地に移動した。 第1中隊がイタリア戦線に投入される一方で、本部並びに第2および第3中隊より成る第653重戦車駆逐大隊の残余は1944年4月に東部戦線に移動した。 同部隊はエレファント重突撃砲31両に加えてIII号弾薬運搬車3両、ベルゲパンター戦車回収車1両、ベルゲエレファント戦車回収車2両で編制されていた。 再び北ウクライナ軍集団第1戦車軍傘下のSS第9機甲師団ホーヘンシュタウフェンに配属されたこの部隊は、1944年4月12日に複数のソ連軍防御陣地を攻撃しある程度の戦果を挙げた。 1944年4月17日、第653重戦車駆逐大隊は稼働可能なエレファント重突撃砲12両と共に撤収した。 1944年夏における第653重戦車駆逐大隊のエレファント重突撃砲の稼働状況は、以下の通りである。
1944年7月18日の北ウクライナ軍集団に対するソ連軍の大攻勢は、ドイツ軍前線の各陣地に深い突破口を開いた。 1944年7月21日、第653重戦車駆逐大隊の投入地域北方でも広い範囲に渡ってソ連軍に前線突破され、複数のドイツ軍部隊が包囲された。 第653重戦車駆逐大隊は、ソ連軍の南翼に対して投入された。 1944年7月22日、同大隊はソ連第6機械化親衛軍団の前線突破によって撤退を余儀なくされた。 第653重戦車駆逐大隊は、わずかに12両のエレファント重突撃砲を残すのみとなった。 1944年8月3日、同大隊は遂に補充再編のためにクラクフへ移動した。 再度14両のエレファント重突撃砲の修理が行われ、1944年9月19日に第17軍(A軍集団)の前線部隊に送られた。 これらの車両は、第653重戦車駆逐大隊の作戦行動可能な1個中隊に編合された。 1944年9~10月の期間は、故障もなく無事であった。 1944年10月、第653重戦車駆逐大隊に対してヤークトティーガー重駆逐戦車への装備改編命令が出された。 稼働可能なエレファント重突撃砲の全車が、東部戦線に残る第614重戦車駆逐中隊に再び編合された。 この中隊は、A軍集団第4戦車軍の指揮下に入った。 1944年12月5日、部隊は投入兵力をエレファント重突撃砲13両と申告した(別に1両が修理中)。 1944年12月30日に申告された投入兵力は、エレファント重突撃砲14両であった。 1945年2月25日、第614重戦車駆逐中隊は前線から撤収後、ヴュンスドルフ西方のシュタンスドルフ地域にあった。 この時点で、同中隊にはまだ4両のエレファント重突撃砲が残っていた。 その内、2~3両は修理が必要であった。 1945年4月22日が、第614重戦車駆逐中隊の最後の出撃となった。 同中隊はベルリン南方ツォッセン周辺地域の防衛戦で、4両のエレファント重突撃砲を駆ってリッター戦闘団を支援した。 |
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<エレファント重突撃砲> 全長: 8.14m 車体長: 6.97m 全幅: 3.38m 全高: 2.97m 全備重量: 65.0t 乗員: 6名 エンジン: マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン×2 最大出力: 600hp/3,000rpm 最大速度: 30km/h 航続距離: 150km 武装: 71口径8.8cm対戦車砲PaK43/2×1 (50発) 7.92mm機関銃MG34×1 (600発) 装甲厚: 20~200mm |
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兵器諸元(フェルディナント重突撃砲) 兵器諸元(エレファント重突撃砲) |
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<参考文献> ・「パンツァー2020年6月号 「王虎」の牙を持つ「巨象」 フェルディナント物語」 白石光 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年6月号 ドイツ重駆逐戦車 エレファント」 稲田美秋 著 アルゴノート社 ・「グランドパワー2001年1月号 クルスク戦のフェルディナント」 箙浩一/古是三春 共著 デルタ出版 ・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「グランドパワー2005年10月号 フェルディナント & VK45.01(P)図面集」 箙浩一 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.2 AFV:1943~45」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2013年7月号 エレファントの開発と構造」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2006年6月号 重駆逐戦車エレファント」 箙浩一 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車輌」 ガリレオ出版 ・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「ティーガー戦車」 W.J.シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「重駆逐戦車」 W.J.シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
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