試製五式軽戦車 ケホ
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+開発
試製五式軽戦車(ケホ車)は、第2次世界大戦において日本陸軍が最後に開発を計画した軽戦車である。
本車の開発が計画されたのは意外に早く、高初速の一式四十七粍戦車砲を搭載した九七式中戦車改(新砲塔チハ車)が生産に入り、同じ主砲を装備し最大50mmの装甲を誇る一式中戦車(チヘ車)の試作車が完成したのと同じ1942年のことであった。
ちょうど日本軍戦車の武装が、従来の歩兵支援用から対戦車戦闘用へと移り変わっていった時期である。
「ケホ車」の秘匿呼称で開発が開始された本車は、新砲塔チハ車やチヘ車と同じ一式四十七粍戦車砲を軽戦車クラスの軽快な車両に搭載し、防御力は犠牲にしてでも強力な対戦車能力を持たせることを主目的として開発が進められた。
日野重工業が開発を担当したケホ車は、技術的には同社が開発を手掛けた九八式軽戦車(ケニ車)、二式軽戦車(ケト車)を発展させたものと思われるが、同社が終戦時にケホ車の資料を焼却処分したため詳細については不明である。
ケホ車に搭載された砲塔は、一式四十七粍戦車砲を装備する新砲塔チハ車の2名用砲塔をベースに軽量化を図ったものと思われる。
この砲塔は軽戦車のものとしてはかなり大型なため、ケホ車はこの大型砲塔を搭載するために車体も大型化せざるを得ず、全長4.38mと軽戦車としてはかなり大柄になってしまった。
しかし日本軍の軽戦車の制限重量は10tでそれを超えると中戦車に分類されてしまうため、重量が10t以内に収まるように装甲厚を薄くせざるを得なかった。
このためケホ車は最も厚い車体前面でも装甲厚は20mmしかなく、M3軽戦車の37mm戦車砲に遠距離から簡単に貫徹されてしまう防御力しか備えていなかった。
ケホ車に搭載されたエンジンはチヘ車と同じ統制型一〇〇式空冷ディーゼル・エンジンで、気筒数がチヘ車の半分の6気筒に減らされていたため出力もチヘ車の約半分の130hpに留まった。
そこでケホ車のエンジンにはスーパーチャージャーが装着され、過給することでエンジン出力を150hpに向上させた。
これにより、ケホ車は九五式軽戦車(ハ号車)を大きく上回る路上最大速度50km/hの機動性能を発揮できるようになり、装甲の薄さを高い機動力で補うことができた。
ケホ車は1942年に開発が計画されたものの、陸軍は主力である中戦車およびその搭載火砲の開発を優先したためケホ車の開発は遅れ、大戦末期の1945年になってようやく試作車が完成した。
日野重工業で製作されたケホ車の試作車は実用に支障無く、軽戦車に強力な対戦車能力を与えたとして高い評価を受けたが結局生産に入ることは無かった。
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+攻撃力
ケホ車の主砲の原型となった一式四十七粍戦車砲は砲身長2,450mm、砲口初速810m/秒、発射速度は10発/分、装甲貫徹力は一式徹甲弾を用いた場合射距離500mで65mm、1,000mで50mmとなっていた。
一式四十七粍戦車砲は軽戦車の武装としてはかなり強力な部類に入るもので、他国でもこのクラスの車両でこれだけの強武装を装備したものは少ない。
主砲用の47mm砲弾は、90発が搭載された。
なお一式四十七粍戦車砲は強力な対装甲威力を持つ反面、射撃時の反動が大きいため軽戦車に搭載するのに若干問題があった。
そこでケホ車の開発と並行して、一式四十七粍戦車砲をベースに射撃時の反動を抑えたタイプの戦車砲を開発することになった。
この戦車砲には「試製四十七粍(短)戦車砲」の呼称が与えられ、1942年9月に開発が開始された。
予定では同年12月に完成するはずだったがケホ車と同様、試製四十七粍(短)戦車砲の開発も大幅に遅れ、戦争末期の1945年3月にようやく完成したとも、終戦までに完成しなかったともいわれている。
試製四十七粍(短)戦車砲の詳細な性能については不明であるが、砲口初速が一式四十七粍戦車砲の810m/秒から740m/秒に低下しているので装甲貫徹力も若干低下しているものと思われる。
ケホ車の副武装としては、砲塔後面左側に九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を1挺装備していた。
日本軍の戦車は砲塔機関銃以外に戦闘室前面左側にも機関銃を装備するのが普通であったが、ケホ車はなぜか車体機関銃を装備していなかったようである(逆に車体機関銃を装備しており、砲塔機関銃を装備していなかったとする資料や、砲塔と車体両方に機関銃を装備していたとする資料もある)。
7.7mm機関銃弾は4,000発搭載しており、車内に20発入りのクリップが200個搭載されていた。
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+防御力
ケホ車の車体と砲塔は圧延防弾鋼板の溶接構造となっており、装甲厚は車体が前面20mm、側面16mm、後/上面12mm、下面6mm、砲塔が前面20mm、側/後面16mm、上面6mmとなっていた。
本車は試製四十七粍(短)戦車砲を備える大型砲塔を搭載し、かつ軽戦車の制限重量10t以内に収めなければならなかったため、止むを得ず装甲を薄くせざるを得なかった。
ケホ車の装甲厚を他国の軽戦車と比較するとドイツのII号戦車よりはやや厚く、ソ連のT-26軽戦車とは同程度で、ライバルであるアメリカのM3軽戦車に比べるとかなり薄かった。
反面主砲の威力ではケホ車の方がM3軽戦車を上回るので、両者が対決したならばほぼ互角の戦いをしたのではないかと推測される。
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+機動力
ケホ車のエンジンは、新設計の統制型一〇〇式空冷ディーゼル・エンジンが搭載された。
統制型エンジンとは単気筒の規格寸法を共通化した一群のエンジンの総称で、ケホ車の気筒数はチヘ車の半分の6気筒であった。
気筒直径120mm、ピストン・ストローク160mm、予燃焼式で出力130hpの最大出力を発揮した。
ケホ車ではさらに出力を向上させるためにエンジンにスーパーチャージャーが装着され、過給することで最大出力を150hpに向上させた。
これによりケホ車は路上最大速度50km/hの機動性能を発揮できるようになり、装甲の薄さを高い機動力で補うことができた。
なおケホ車のエンジンについては、1937年に軽戦車用に試作開発された東京瓦斯電気工業製のちよだEC型 直列6気筒空冷ディーゼル・エンジンを搭載したとする資料も存在する。
ケホ車のサスペンションはケニ車やケト車と同じシーソー式サスペンションで、転輪数も同様に片側6個となっていたが、ケニ車やケト車がサスペンションを保護するためにアーム以外を車体内部に収めていたのに対し、ケホ車のサスペンションは他の日本軍戦車と同様に車体外部に露出していた。
これは、サスペンションを内蔵式にすると車内スペースが狭くなって作業効率が悪化し、弾薬や燃料の搭載量も減ってしまうため、外装式に戻されたものと思われる。
またケホ車は従来の軽戦車に比べて重量が増加したため、接地圧を下げるために300mmの幅広の履帯が採用された。
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<試製五式軽戦車>
全長: 4.38m
全幅: 2.24m
全高: 2.23m
全備重量: 10.0t
乗員: 4名
エンジン: 統制型一〇〇式 4ストローク直列6気筒空冷スーパーチャージド・ディーゼル
最大出力: 150hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離:
武装: 試製48口径47mm(短)戦車砲×1 (90発)
九七式車載7.7mm重機関銃×1 (4,000発)
装甲厚: 6〜20mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「日本軍戦闘車両大全 装軌および装甲車両のすべて」 大日本絵画
・「日本の戦車 1927〜1945」 アルゴノート社
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
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