+概要
D型の生産に入る前から、アドルフ・ヒトラー総統はパンター戦車の装甲厚の強化を強く望んでいた。
これは彼一流の判断に基づくもので、将来登場するであろう連合軍の新型戦車に対抗するには、80mmの前面装甲厚では充分でないという考えがあったからである。
まずD型の生産に取り掛かって間もない1942年12月27日付で、パンター戦車の装甲強化の1方策として30~50mm厚の増加装甲板を空間装甲式に取り付けることが提案された。
しかしIII号戦車やIV号戦車のような比較的面積の小さい車体前面とは異なり、パンター戦車は車体前面が一体化された大面積のため、増加装甲板の重量もかなり過大となってしまうのでこの案は退けられた。
これに続いて、各部の装甲厚を強化した発展型が計画されることになる。
これがパンターII戦車で、1943年1月に行われた会議でヒトラーはパンター戦車の車体前面を100mm、側面を60mmに強化した新型戦車の開発を決め、ニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik
Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)の手により開発がスタートした。
1943年2月に行われた会議では、MAN社の担当者であるヴェーベッケ工学博士がパンター戦車はまだ実戦に参加していないため、装甲が不充分か否かは分からないとしてこれを単なる装甲強化に留めないで、当時開発が進められていたティーガー3(後のティーガーII)戦車とコンポーネントの共通化を図った方が、生産面で望ましいという案を出した。
そしてこの新型戦車には「パンター2」の呼称が与えられ、開発を行うことが決まった(これに伴ってパンターD型は「パンター1」と呼ばれることになった)。
この案ではエンジン、変速・操向機は共通でトーションバー(捩り棒)式サスペンション、鋼製転輪も共通(パンター2が片側7個、ティーガー3が片側9個)とされた。
履帯幅は660mmとして、ティーガー3戦車の鉄道輸送用履帯と共通化を図ることとされた。
砲塔は独自のものが新たに設計されることになり、1943年4月には呼称がローマ数字の「パンターII」に変更された(併せてパンター1も「パンターI」に呼称が変更された)。
このパンターII戦車用の砲塔は、砲塔リング径が最大で1,570mm(後にハッチとの干渉を避けるため1,565mmになる)で、機関室上面の点検用ハッチとの干渉を避けるため、砲塔リングの中心と機関室隔壁との距離が1,240mmと決められていた。
1943年11月の図面ではそれはいわゆる「シュマールトゥルム」(小砲塔)であるようだったが、後にパンター戦車F型に採用されたものとは異なっていた。
このパンターII戦車用砲塔は開発が進められたものの、結局完成すること無く終わっている。
計画では1943年9月より、パンターI戦車に代わってパンターII戦車の生産に入る予定が立てられていた。
特に、新たに生産に加わるベルリン・シュターケンのデマーク車両製作所は、パンターI戦車の生産には参加せず最初からパンターII戦車の生産に専念することになっていた。
しかもパンターII戦車は増加試作シリーズを作らずに、最初からフル生産する計画であった。
しかし、当時はいずれの工場もパンターI戦車の生産でオーバーワーク状態となっており、パンターII戦車の生産を開始できるのは早くとも1944年の末からとの報告が出された。
しかしドイツ陸軍兵器局第6課は強引に生産を要求し、MAN社に対して1943年4月5日付で、8月の半ばまでにパンターII戦車の試作第1号車を引き渡すようにとの要求を出した。
1943年4月29日にアルベルト・シュペーア軍需大臣の官邸で開かれた会議で、パンターI戦車をヤークトパンター駆逐戦車のベース車体にすると共に、パンターI戦車の生産の続行が決定された。
これはパンターI戦車の車体側面にシュルツェンを取り付けることで、側面下部が40mm厚の装甲のままでもソ連軍の14.5mm対戦車銃に耐えられることが明らかになったからである。
パンターII戦車の開発作業も続けられることになっていたが、生産切り替えの必要性は減少した。
唯一の要因は、鋼製転輪の採用問題であった。
鋼製転輪は通常の転輪とは異なり、転輪の外側にゴムを巻かないで内側にゴムを組み込んだもので、戦略資源のゴムの節約に効果があった。
もし鋼製転輪がパンターI戦車に採用できなければ、必然的にパンターII戦車の生産が始められることになっており、すぐにテストを行う必要があった。
しかし鋼製転輪採用の結果、パンターI戦車の戦闘重量は50tになることが見込まれた。
当初の見積りではパンターI戦車で46.5t、パンターII戦車で52.5tになるはずだったものが、どうしてそうなったかは分からない。
しかしこれは、鋼製転輪導入の是非を再検討させるのに充分な理由となった。
1943年5月にMAN社で会議が行われたが、ここではパンターI戦車からパンターII戦車への生産切り替えへ懐疑的な意見が相次いだ。
それよりはパンターII戦車開発の過程で得られた改善点を、パンターI戦車に盛り込んだほうが現実的であるという意見が多数を占めたのである。
MAN社は5月4日に生産性を高めるために、パンターII戦車の車体はパンターI戦車と共用した方が良いとの白書をまとめた。
そしてこの白書の中で、パンターII戦車開発の過程において得られたデータを基に、装甲強化と生産性の向上を図った改良型のパンターI戦車が提案された。
これが後に「パンター戦車G型」として生産されることとなり、パンターII戦車はいつの間にか立ち消えとなってしまった。
これは、MAN社が提案した改良型のパンターI戦車(後にG型となる)が兵器局第6課を満足させたことの証で、何も生産ラインを切り替えてまでパンターII戦車を生産するメリットは無いと判断されたのであろう。
以後パンターII戦車が会議の話題に上ることは無く、見方を変えればパンターII戦車はパンター戦車G型として具現したと考えることもできる。
第2次世界大戦終了後、実戦に投入されたパンターII戦車があったかどうかの連合国からの問いに対して、MAN社の代表者は直接以下のように回答した。
「パンターII戦車の試作車体2両の発注を受け、1両のみ完成させました。
この完成した1両の車体は、実戦に投入させることもできたはずです。」
この唯1両製作されたパンターII戦車の試作車体は大戦後、すでに完成していたパンター戦車G型の砲塔と一緒にアメリカ・メリーランド州のアバディーン車両試験場に搬送された。
このパンターII試作車体にはテストのためミシガン州のデトロイトへ搬送される時に、新たに大きな丸い支持ナットが取り付けられている。
その後1945年以降にアメリカで、パンター戦車G型の砲塔が搭載された。
さらに、このG型砲塔付きのパンターII試作車体はケンタッキー州フォート・ノックスにあるパットン戦車博物館に移され、そこで修復作業が施され現在も陳列されている。
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