V号駆逐戦車ヤークトパンター |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+開発
第2次世界大戦においてドイツ陸軍は、対戦車自走砲の貧弱な装甲防御力を改善するため、厚い装甲板で構成された完全密閉式の戦闘室を備える「駆逐戦車」(Jagdpanzer)という独自のジャンルの車両を生み出し、多くの車種を開発したがその中でも、大戦後半に主力戦車の座に就いたパンター戦車をベースにして開発されたヤークトパンター駆逐戦車は、走・攻・守の全ての要素で最もバランスの取れた駆逐戦車として高い評価が与えられている。 ヤークトパンター駆逐戦車の歴史はそう古いものではなく、1941年後期にエッセンのクルップ社が当時開発を進めていた71口径8.8cm対戦車砲PaK43を、同社が開発したIV号c2型装甲車台に搭載する対戦車自走砲を開発することを計画したことに端を発する。 クルップ社は1942年1月6日付で、ドイツ陸軍兵器局第6課に対してこの車両の基本案を提出した。 この基本案は図面が残されていないものの、密閉式戦闘室を備えるものであったようで、そのデータは戦闘重量30t、装甲厚は車体前面80mm、側面40mm、路上最大速度40km/hというもので、1942年4月2日には木製のモックアップが兵器局第6課による審査を受けている。 この際、兵器局第6課は改良を加えることを条件として、「IV号d型」の呼称で同年6月9日付で試作車3両を発注した。 また当初、この試作車の製作はクルップ社の子会社である、マクデブルクのグルゾン製作所が行うよう指示されたが、同社は当時IV号戦車の生産と改良に追われていたため、その妨げにならないように、試作車の製作はデュイスブルクのドイツ製鋼所が行うこととされた。 しかし1942年8月3日付で、車台には当時開発の最終段階にあったパンター戦車を流用することが通達され、同年10月15日に軍需省で行われた会議において、以後の開発作業はベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社に移すことが決定された。 クルップ社はダイムラー・ベンツ社の設計を支援することになり、また主砲と砲架の開発を担当した。 この結果、ヤークトパンター駆逐戦車が産声を上げることになる。 1943年1月5日には、この新型重突撃砲(当時はこのような呼称が与えられていた)に関する基本的なレイアウトがまとめられた。 これによると車体前面の装甲厚は上部が100mm、下部は60mmで共に傾斜角は55度、戦闘室上面、車体下面および後面の装甲厚は30mmとなっていた。 主砲の防盾はモリブデンを含有しない鋳鋼製で、必要な時にすぐ主砲を交換できるように車体前面にボルト止めされ、この開口部から変速・操向機の交換も行うこととされた。 試作車の完成は1943年夏頃とされ、生産車の引き渡しは同年12月を予定しており、当初はパンター戦車の後継として開発が進められていた、パンターII戦車(後に開発中止となる)の車台を用いる予定となっていた。 1943年5月24日には、ブラウンシュヴァイクのMIAG社(Mühlenbau und Industrie AG:製粉・機械製作所)がダイムラー・ベンツ社から開発を委任されることになり、MIAG社ではパンターII戦車の開発経過を見て、車体側面が後方まで1枚装甲板となることから車重は800kg増加すると計算し、その対策として車体前面下部の装甲厚を50mmに減らし、さらに地雷に備えて30mm厚となっていた車体下面前部を25mmに減じる等の手を打つこととした。 そして重量の増加を550kgに留めることが可能と試算して、ダイムラー・ベンツ社に報告書を送った。 この提案はそのまま活かされることになり、続いて6月9日付で基本仕様が決定された。 この時すでにパンターII戦車の開発計画は棚上げとなっていたため、車体はパンター戦車A型のものを用いることとされ、乗員は6名(車長、砲手、操縦手、無線手、装填手2名)、装甲厚は車体前面上部80mm、前面下部50mm、車体側面上部50mm、車体後面および車体側面下部40mm、車体下面前部25mm、戦闘室上面と車体下面後部が16mm。 主砲には71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を装備して旋回角は左右各12度ずつ、俯仰角は-8~+14度で5カ所のガンポートを備え、車体前方機関銃は未装備とされていた。 この時期においても車体前方機関銃が要求されていない理由は、まだ100mmの装甲厚を超える装甲板に適合するボールマウント式銃架が完成していなかったためと思われる。 戦闘室の上面に車長と装填手のハッチをそれぞれ備え、戦闘室後面には脱出用ハッチを兼ねる主砲交換用ハッチを設け、主砲用照準機はSf14Z1aを用い夜間戦闘用の赤外線暗視装置を搭載する等で、この基本要求に沿って実物大モックアップが製作され、1943年10月20日にアドルフ・ヒトラー総統に提示された。 この際にはティーガーII戦車、ヤークトティーガー駆逐戦車のモックアップも並べられていたが、ヒトラーはことのほかヤークトパンター駆逐戦車に感銘を受けたと伝えられている。 これにわずかに遅れてヤークトパンター駆逐戦車の試作車が完成したが、すでにパンター戦車A型で車体前面のボールマウント式機関銃が装備されていたこともあり、この試作車にもそのまま受け継がれていた。 全体に良好な避弾経始を持ち戦闘室前面は車体前面上部と、戦闘室側面は車体側面上部とそれぞれ一体化された極めてシンプルな形状にまとめられていた。 しかし、巨大な71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を装備するため戦闘室が大型化することは避けられず、その全高は2.715mと、IV号駆逐戦車と比べるとかなり背が高くなってしまったが、これはベースとなったパンター戦車の車体自体が腰高だったこともあり、主砲の俯角を考慮した結果これ以上低くすることは不可能だったようである。 当初の計画では装填手が2名搭乗する予定であったが、これは後に1名に変更されている。 また装甲厚は車体前面上部80mm、前面下部50mm、車体側面上部45mm、車体後面40mmで、その戦闘重量は45.5tとパンター戦車A型より若干重めになったが、機関系等はそのまま流用されている。 ヤークトパンター駆逐戦車の試作車は1943年12月16日にヒトラーに展示されたが、これを見たヒトラーは、同じ主砲を搭載するティーガーII戦車よりも優れているとの見解を明らかにし、早速生産を行うように要求した。 開発当初は「重突撃砲」と呼称されていた本車だが、その後「パンター車台の戦車駆逐車」、「戦車駆逐車パンター」等の様々な呼称で呼ばれ、最終的に「ヤークトパンター」(Jagdpanther:狩りをする豹)となったのは1944年2月27日付の総統命令によるもので、同年4月24日付の機甲兵総監部文書に初めてその名が記載され、以後この呼称で呼ばれるようになった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+生産
ヤークトパンター駆逐戦車の生産はMIAG社が担当し、1944年1月に最初の生産型5両が兵器局に引き渡された。 そして、わずかな生産台数で生産が続けられた。 1944年2月は7両、3月は8両、4月は10両、5月は10両、6月の生産台数は空襲の影響で6両に減少した。 だが、生産遅延の主因はヤークトパンターの改良作業にあった。 改良の中心は変速機、操向機および駆動系の部品の強化であった。 1944年6月末までに、合計46両のヤークトパンターが工場から送り出された。 全車合わせても、重駆逐戦車大隊1個の需要を満たすのがやっとという程度に過ぎなかった。 しかし生産計画では、160両のヤークトパンターの完成を見込んでいた。 3個の重駆逐戦車大隊を編制し、さらにヤークトパンターを今後の試験および訓練用に回せるはずであった。 1944年7月には月産15両に増えたが、度重なる空襲のため8月には14両に落ちた。 MIAG社は繰り返し、労働力不足を訴えた。 これ以上の生産遅延を避けるために、300名の増員が約束された。 兵器局はまず160名の人員を派遣し、彼らは1944年8月4日に作業に就いた。 続いて、160名から成る一団が送られてきた。 これらの人員は、16個の機甲猟兵補充大隊からそれぞれ10名ずつが派遣されてきたのである。 これらの労働力を得て、ようやくMIAG社は1944年9月には21両のヤークトパンターを生産した。 だが10月の爆撃により、再び生産台数は8両に落ちた。 ドイツ陸軍総司令部も兵器局もこの生産状況をこのまま放置する訳にはいかず、MIAG社以外の2社にもヤークトパンターの生産を委託することになった。 MIAG社は、すでに1943年以来パンター戦車を生産していたハノーファーのMNH社(Maschinenfabrik Niedersachsen-Hannover:ニーダーザクセン・ハノーファー機械製作所)に対し、装甲車体80両分を供給した。 MNH社は1944年11月には20両、12月には44両、1945年1月には30両のヤークトパンターを生産し、それ以後は再びそれまで手掛けていた計画に復帰することになった。 それは新顔の第3の企業の作業が円滑に滑り出し、高生産数を維持できるようになるまで、MNH社がその隙間を生める役割を果たすということであった。 新顔とは、ポツダムのMBA社(Maschinenbau und Bahnbedarf AG:機械製造・鉄道敷設企業)である。 同社はこの時点まで、およそ装甲車両なるものを生産したことが無かった。 ただ、この企業は戦車生産に充分な広さを有していた。 MBA社では生産計画の習得過程を考慮して、1944年11月はヤークトパンター5両、12月には10両の生産に抑えることを求めた。 1945年の計画台数は、次の通りであった。 すなわち1月は20両、2月は30両、3月は45両、4月は60両、5月は80両、6月は90両、7月以降は月産100両である。 MNH社およびMBA社の支援を受けて、ヤークトパンターの生産台数は1944年11月には55両、12月には67両に伸びた。 そして、1945年1月には最高の72両となった。 MIAG社とMBA社が予定生産数をこなせなかったため、MNH社に対して1945年6月まで引き続きヤークトパンターを生産するよう要請が出された。 状況上やむを得ず機甲兵総監ハインツ・グデーリアンは1945年2月初旬、戦車生産のための緊急プログラムを作成しなければならなかった。 その場合には、まだわずかに残っている重要な装甲車両のための資金資材も投ずることになるはずであった。 ヤークトパンターの生産計画は、次のように定められた。
1945年6月以降の計画月産台数は、100両であった。 しかし、連合軍に占領される以前の各社のヤークトパンター生産台数は空襲、エネルギー不足、輸送能力の低下によって1945年2月は42両、3月は52両、4月は34両に過ぎなかった。 毎月のヤークトパンター生産台数の推移は下表の通りで、1945年4月の生産終了までに合計で415両が完成している。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+改良点
ヤークトパンター駆逐戦車は他の車両と同様に、生産中に段階的に改良が加えられていった。 1年強の短い生産期間にも関わらず、その変更箇所は結構多い。 以下、生産中における変更点を順を追って挙げていく。 2両が製作されたヤークトパンターの試作車はその後の生産型と大差無かったが、それでも各部に変更が見られる。 試作第1号車では操縦手用ペリスコープが2個装備されていたが、試作第2号車では左側のペリスコープが廃止された。 開口部はそのまま残されていたが、内側から鋼板で塞がれていたようである。 また試作第2号車では、ペリスコープにカバーが装着されたことも変更点として挙げられる。 さらに試作第2号車では主砲防盾前端の絞り込みが短くなり、正面から見ると前端が試作第1号車よりも面積がやや大きくなっていた。 同様に履帯も試作第1号車と第2号車では異なり、第2号車は原型のパンター戦車で1943年9月の生産車から採用された、履帯表面に防滑用のモールドが施された新型履帯を装着していた。 なお試作第1、第2号車共に戦闘室側面(右側2カ所、左側1カ所)と後面(2カ所)にガンポートが設けられていたが、生産型においては廃止された。 これは防御力の向上を図ったためであるが、その背景には近接防御兵器が開発されたことがあった。 もっともこれは期待したほどには生産が順調に進まず、初期の生産車では装備用の孔が開けられたものの、後日装備として鋼板で孔を塞いだ状態で完成させた。 生産段階で近接防御兵器の装備が開始されたのは、1944年6月からであった。 ヤークトパンターの生産型は前述のように1944年1月から登場したが、全体のレイアウトは試作車と変わらず、試作第2号車と同様に操縦手用ペリスコープは右側のみとされたが、当初戦闘室の前面にはペリスコープ2基の孔が開口されており、左側の孔は外側から15mm厚の鋼板で塞がれていた。 また車体後面に設けられていたエンジン点検用ハッチに、牽引ホールドが追加されたのも生産型の特徴である。 このホールドの装備により、点検用ハッチの上に装着されていたジャッキは排気管の間に立てる形で装着されたが、これはパンター戦車と同様であった。 機関室の上面装甲板はパンター戦車A型のものが流用されたが、前部の吸気用グリルは前後の幅が狭いヤークトパンター独自のものが用いられていた。 また機関室の後部に設けられた吸気用の開口部と、左側のアンテナ基部は鋼板で塞がれた。 1944年4月からの生産車では主砲が、それまでの一体成型のものからより生産が容易な2分割式のものに変更され、左側の排気管の左右には冷却空気導入用のパイプが追加された。 しかし主砲はストックがあったために、直ちに分割式のものに替わった訳ではなく、しばらくは新旧双方が並行して使用されており、完全に新型に切り替わったのは1944年11月からであった。 それまで鋼板で塞がれていた機関室の吸気口とアンテナ基部は、この頃から開口部が無いものが用いられるようになり、車体後面の雑具箱はそれまでの車体上面から支柱で吊っていた方式から、パンター戦車G型と同様に車体後面に設けられた差し込み口に装着する方式に改められた。 さらに、戦闘室左後面に工具収容箱が設けられたのもこの頃の生産車からであった。 1944年6月からの生産車は、「ピルツ」(Pilz:きのこ)と呼ばれる組み立て式簡易クレーン取り付け具が戦闘室の上面に装着され、さらに主砲防盾にも吊り下げ用アダプターを装着するネジ込みが追加された。 またこの頃の生産車から、近接防御兵器が生産時に装備されるようになった他、6月もしくは7月からの生産車では、4月に装備が始められた戦闘室左後面の工具箱が廃止されている。 9月からの生産車では、同月9日に出されたツィンメリット・コーティングの廃止通達を受けて塗布が取り止められることになり、それまで内側で固定していた主砲防盾基部は大型化され、上下それぞれ4本ずつのボルトで外側から固定する方式に改められた。 これは、変速・操向機の交換を容易に行えるよう考慮したものと思われる。 しかし、その後の生産車でも旧型の主砲防盾基部の使用が続けられており、完全に新型防盾に切り替わったのは11月に入ってからといわれる。 1944年10月からの生産車では、前月に変更された新型防盾の防御力向上と、その取り付けボルトの破損を避けるために、厚みを増し下側に延長する形でさらに大型化が図られた。 一般的に、この新しい大型の主砲防盾基部を備えたヤークトパンターを後期生産車、従来の防盾基部を備えた車両を初期(前期)生産車と分類することが多い。 また夜間に排気管が灼熱して、遠距離からでも発見されてしまうことへの対処として、排気管を覆う鋼板のカバーが追加された。 さらに、従来の誘導輪は泥や雪などが詰まり易かったので、直径を660mmに増やし、走行中に泥等を排除できるようにリブの形状を改めた新型誘導輪が導入された。 車体後部のショック・アブソーバーが廃止されたのも、この10月生産車からであった。 11~12月にかけて生産された車両の一部は、戦闘室右上面に設けられていた吸気口を戦闘室前部中央に移している。 この頃になると、戦闘室前面に開口されていたペリスコープ用の孔は最初から右側のもののみとなっている。 1944年12月からは、パンターA型の部品のストックが無くなったためにパンターG型の部品が用いられるようになり、機関室上面の吸気用グリルは前後とも幅が狭いものに変わり、円形の排気用グリルの直径もやや小型となった。 さらに、機関室の後部には装甲カバー付きの吸気口が新設され、一部の車両では左側の排気用グリルに暖房装置を装着していたが、これらはいずれもパンターG型と共通のものである。 また、機関室点検用ハッチの後方にハンマーが装着されたが、これはヤークトパンター独自のものであった。 左側の排気管もパンターG型と同様に再び1本に戻されたが、翌45年3月の時点でも左側排気管は、左右に冷却用のパイプを備える旧型を用いた車両も存在していた。 さらに、一部の車両では消炎式排気管を備えていたが、大半はシンプルな排気管とカバーが用いられた。 1945年に入ってからはほとんど改修は無く、2月27日付でそれまで戦闘室左後面に装備していた工具箱の廃止が通達された程度だが、3月前後からの生産車では、車体側面に装着されていた工具を戦闘室と車体の後面に移して、小口径弾や砲弾の破片による破損を防いでいる。 戦闘室上面のピルツも装着位置が変更されたが、これらに関する通達命令はまだ確認されていない。 なお、1944年6月のノルマンディー戦において初陣を飾った第654重駆逐戦車大隊のヤークトパンターでは、同年7月末前後から独自に工具を戦闘室や車体の後面に移しており、これはその後に渡って他の部隊との識別点となっている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+構造
ヤークトパンター駆逐戦車は、機関系や足周り等はベースとなったパンター戦車と基本的に同一であったが、全周旋回式砲塔の代わりに完全密閉式の固定戦闘室を搭載し、パンター戦車より強力な主砲を装備していた点が大きく異なっていた。 戦闘室内には最前部左側に操縦手、変速・操向機を挟んで右側に機関銃手を兼ねる無線手が位置し、無線手の後方には車長、操縦手の後ろに砲手が、そして最後尾に装填手がそれぞれ配されていた。 ヤークトパンターは車内容積は小さくなかったが、巨大な71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を搭載するために見た目ほどはゆとりが無く、居住性は良好とはいい難かった。 戦闘室内の最前部に位置する操縦手と無線手は、大きく傾斜した戦闘室前面装甲板と中央に置かれた変速・操向機のために着座するとほとんど動けない状態で、砲手もまた、主砲左側に取り付けられた極めて簡易な座席に長時間着座しなければならなかった。 車長、装填手に至っては座席自体が折り畳み式で、特に車長は戦闘に際し無線手の後方で立ったまま、視界が限定される旋回式ペリスコープと砲隊鏡を用いて指揮を執らなければならず、その大きなサイズとは裏腹に作業環境は決して良好とはいえなかった。 ヤークトパンターの装甲厚は、戦闘室前面と一体となった車体前面上部が80mm/55度、車体前面下部が60mm/55度、戦闘室側面と一体となった車体側面上部が50mm/29度、側面下部が40mm/0度、車体および戦闘室後面が40mm/30度、車体および戦闘室上面が25mm/0度、車体下面前部が25mm/0度、下面後部が15mm/0度で、避弾経始を考慮して装甲板に適度な傾斜が与えられていたため、実質的な装甲厚は戦闘室前面で140mmに達し、連合軍戦車が正面から本車を撃破することは困難であった。 車体前部中央には、ZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のAK7-200変速機(前進7段/後進1段)と、クルップ社製の操向機が配され、これらの修理や交換等は防盾基部を外すことで行った。 変速・操向機の後方には砲座が設けられ、主砲である71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3が搭載されていた。 この砲は、クルップ社が開発した牽引式の8.8cm対戦車砲PaK43を車載化したものであり、フェルディナント重突撃砲やティーガーII戦車の主砲と同系列のものであった。 Pz.Gr.39/43 APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾)を用いた場合、砲口初速1,000m/秒、射距離1,000mで189mm、2,000mで154mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹でき、当時の全ての連合軍戦車をその射程外から攻撃して、前面装甲板を貫徹することが可能であった。 さらに、新型のタングステン弾芯を持ったPz.Gr.40/43 APCR(硬芯徹甲弾)を使うと、砲口初速1,130m/秒、射距離1,000mで245mm、2,000mで184mmのRHAを貫徹可能であった。 砲架には金属パイプを介して左側に簡易な座席が取り付けられており、ここに砲手が着座するようになっていた。 主砲用の弾薬は、戦闘室内左右の袖板の上に前後2カ所に分けて設けられた弾薬ラックに収められ、各種弾薬合わせて60発を搭載したが、1945年2月の生産車から内部レイアウトが一部変更されたため58発に減っている。 主砲用弾薬は薬莢が一体となったタイプで、重量は弾種によってやや異なるが23kg前後で、全長は82.2cmとかなり大きかった。 戦闘室の上面には、フェルディナント重突撃砲で初めて採用された円弧状のスライド式照準機の装甲カバーが前部左側に備えられ、右側には車長用旋回式ペリスコープと砲隊鏡用クラッペが装備されており、その後方に左右開き式の円形の車長用ハッチが設けられていた。 スライド式照準機の装甲カバーの後方には近接防御兵器が装備されていたが、前述の通り初期生産車では未装備であった。 車長用ハッチの後方には装甲カバーが付いた吸気口が設けられ、中央後部にはヴェンチレイターが、後方左側には左右開き式の円形の装填手用ハッチが備えられており、右側には旋回式のペリスコープが装備されていた。 また戦闘室後面には、主砲の交換にも用いる下開き式の四角い脱出用ハッチが設けられていた。 戦闘室と隔壁で仕切られた最後部の機関室には、パンター戦車D型の生産途中から導入されたのと同じ、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL230P30 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量23,095cc、出力700hp/3,000rpm)が配され、戦闘室の床下を通って前方の変速機まで推進軸が走っていた。 ラジエイターはエンジンを挟む形で前後に備えられ、その中間には前後のグリルから空気を導入し、ラジエイターの熱気を車外に排出する冷却ファンが備えられていたが、この辺りのレイアウトもパンター戦車と同じであった。 足周りは、ドイツ陸軍の重量級戦車に共通するオーバーラップ式転輪配置と、トーションバー(捩り棒)式サスペンションの組み合わせが採用されていたが、トーションバーは1本の転輪アームに対して2本を装備する、いわゆるダブル・トーションバーが用いられていた。 オーバーラップ式転輪配置は、接地圧を均等にし射撃の際の振動を最小限とするもので、いかにもドイツらしい発想だが交換や整備の面で問題があるため、戦後に開発された戦車ではほとんど採用されなくなっている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+部隊配備
ヤークトパンター駆逐戦車は1944年4月末から生産型の引き渡しが開始されたが、これに先立ち、1944年3月1日付のK.St.N.(Kriegsstärkenachweisung:戦力定数指標)1149cによりヤークトパンターの中隊定数が、K.St.N.154aにより大隊本部定数が定められた。 これによると、大隊本部にはヤークトパンター指揮車型3両が配備され、各中隊は4両のヤークトパンター駆逐戦車を備える小隊3個から編制され、中隊本部には2両が割り当てられたので各中隊の装備数は14両となる。 この中隊3個で大隊を編制するので、本部車両を合わせると大隊定数は45両となるが、この定数を満たした大隊はほとんど無かった。 ヤークトパンターを装備する大隊として最初に選定されたのは、フェルディナント重突撃砲を装備して1943年7月の「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)に参戦した第654重駆逐戦車大隊で、同年8月にヤークトパンターへの改編命令が出され、同大隊は残存車を第653重駆逐戦車大隊に引き渡してドイツに帰還した。 しかし、ドイツに到着しても肝心のヤークトパンターはまだ形も無く、訓練用としてベルゲパンター戦車回収車8両を受領したのは1944年2月に入ってからのことであった。 そして、ヤークトパンターを同大隊に引き渡すべく貨車に載せたのは4月28日で、しかもその数は8両と2個小隊分しかなかった。 1944年6月6日に連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸したことを受けて、6月11日には第1、第2中隊の出撃準備が整ったとヒトラーに報告された。 当初大隊本部に3両、第1中隊には12両、第2中隊には13両のヤークトパンターの配備が予定されたが、実際にはこの時点において、同大隊が保有していたのはヤークトパンターが8両、ベルゲパンターが5両という始末で、とても戦力と呼べるものではなかった。 6月14日には、同大隊向けとして17両のヤークトパンターが貨車に載せられて発送されたが、この到着を待たずに、6月15日に第2中隊は装備する8両のヤークトパンターと共に、ノルマンディー戦線へ向かって旅立った。 そして6月27~29日までは教導機甲師団に配備されたが、その後は直轄部隊として運用され、7月1日の時点では発送された17両のヤークトパンターも無事戦線に到着し、25両を保有する運びとなった。 第2、第3中隊はこの25両をもって主にイギリス軍と交戦し、車両を持たない第1中隊はメイイ・ル・カンに下がり車両の到着を待ったが、第1中隊が出撃可能となったのは8月10日のことであった。 8月1日付で出された同大隊の報告書によると稼働車両は8両で、13両は短期間の修理を行っており、3両は長期間の修理を受けているとある。 それまでの戦闘で失われた車両はヤークトパンター2両、ベルゲパンター1両で兵員11名を失ったと伝えられている。 それでも7月31日には8両、8月14日にもさらに8両の補充が行われたが、ファレーズの包囲戦とそれに続く後退戦において同大隊は17両のヤークトパンターを失い、セーヌ川を渡って後退した時点で同大隊が装備するヤークトパンターは23両となった。 9月9日には同大隊に対して本国への帰還命令が出され、グラフェンヴェール演習場に後退して再編制が行われた。 そして10月14日に9両、10月23日に9両、11月15日に6両のヤークトパンターがそれぞれ補充され、さらにヴィルベルヴィント対空戦車とメーベルヴァーゲン対空自走砲、それぞれ4両ずつの配備を受けている。 またベルゲパンターも4両配備され、大隊の定数を満たした同大隊は11月18日に西部戦線に向かって鉄路輸送を開始し、11月20~30日まで戦闘に投入された。 この際敵戦車52両を撃破し、対戦車砲9門を破壊、加えて戦車9両の中破を報告している。 一方同大隊の損害はヤークトパンター18両、ヴィルベルヴィント3両であった。 1944年9月11日付でヒトラーは、ヤークトパンターとIV号駆逐戦車もしくはIII号突撃砲を混成装備する大隊の試験的編制を命じた。 これは、45両のヤークトパンターを定数とする大隊の保有を嫌ったことによるもので、この場合、混成大隊はヤークトパンター1個中隊、IV号駆逐戦車もしくはIII号突撃砲2個中隊で編制された。 その最初の大隊として改編命令を受けたのが、マルダーIII対戦車自走砲を装備して東部戦線に展開したものの、全ての車両を失ってミーラウ演習場に帰還していた第559駆逐戦車大隊であり、続いて、同じくナースホルン対戦車自走砲を装備してイタリア戦線で戦っていた第525重駆逐戦車大隊が改編命令を受けたが、結局これは実現しないまま終わった。 さらに、ナースホルンを装備していた第519、第560、第655各重駆逐戦車大隊にも改編命令が下され、こちらは改編が実施されている。 記録では、このヒトラーの命令が出る以前から第559重駆逐戦車大隊に対する改編は開始されており、1944年5月18日には最初の5両を受領している。 そして、8月25日にはヤークトパンター11両とIII号突撃砲28両が引き渡され、9月初めにはさらに17両のヤークトパンターを受領しており、その数は33両と通常の2個中隊定数よりも多かった。 同大隊は西部戦線への投入が計画されたが、訓練中に多くの故障車を出し、10月4日の時点における報告ではヤークトパンターの稼働車はわずかに3両、III号突撃砲も5両ととても戦力と呼べる状況ではなかった。 この状態は12月になっても変わらず、30日付の報告では稼働するヤークトパンター2両、整備中のもの2両という惨状だった。 この間新たにヤークトパンター14両の補充が行われていたが、12月16日に始まる「秋霧作戦」(Unternehmen Herbstnebel)に同大隊が投入できたヤークトパンターはわずか5両にしか過ぎず、この内1両を戦闘で失っている。 一方、第519重駆逐戦車大隊も同様の状況であり、1944年7月までに装備するナースホルン全てをソ連軍との戦闘で失い、8月1日にミーラウ演習場で再編作業に入り、8月22日までにヤークトパンター17両、III号突撃砲28両を受領し、大隊の定数を満たして再編を完了した。 再編終了後西部戦線に送られた同大隊であったが、戦闘における消耗や故障車等により、秋霧作戦開始直前の12月13日におけるヤークトパンター保有数は9両に減り、その稼働車はわずかに4両で5両は整備状態にあった。 第560重駆逐戦車大隊はナースホルンを装備して東部戦線で戦い、1944年4月に本国に帰還して、5月26日付でヤークトパンター装備部隊に改編された部隊であるが、第1陣のヤークトパンター4両が引き渡されたのは10月25日のことで、12月6日までにさらに11両の配備を受け、加えてIV号戦車/70(A) 31両を受領して大隊の定数を満たしている(しかも1両多い)。 12月3日より西部戦線に送られた同大隊は、12月8日に前線に到着し秋霧作戦の発動を待ったが、作戦開始時における稼働数は11両と記録に残されている。 最後の第655重駆逐戦車大隊も、ナースホルンを装備していた部隊を改編したもので、1944年8月に第1、第2中隊の要員がミーラウ演習場に戻って、ヤークトパンターへの改編を待つことになる。 計画では1個中隊分14両を配備する予定が立てられたが、秋霧作戦開始時までに装備することはできず、このため11月25日に28両、12月7日に大隊本部用として3両のIV号戦車/70(V)がそれぞれ引き渡されて秋霧作戦に投入された。 資料により数字は異なるが、結局秋霧作戦に用意された重駆逐戦車大隊5個が装備するヤークトパンターの総数は52両前後、このうち稼働車は17両前後で戦力とはなり得ず、各個撃破されていった。 一方東部戦線においては、重駆逐戦車大隊としては唯一第563重駆逐戦車大隊が、1944年11月25日にマルダーIIもしくはIII対戦車自走砲からヤークトパンターへ改編されたが、実際に引き渡された車両数は不明である。 これ以外に東部戦線では、国防軍や武装親衛隊の機甲師団に対してヤークトパンターの配備が行われている。 また、西部戦線においては独立した重駆逐戦車大隊が投入されたので、機甲師団等でのヤークトパンターの装備例は教導機甲師団と第2機甲師団のみに留まった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<ヤークトパンター駆逐戦車> 全長: 9.87m 車体長: 6.87m 全幅: 3.27m 全高: 2.715m 全備重量: 45.5t 乗員: 5名 エンジン: マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 700hp/3,000rpm 最大速度: 55km/h 航続距離: 250km 武装: 71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3×1 (60発) 7.92mm機関銃MG34×1 (600発) 装甲厚: 16~80mm |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兵器諸元(ヤークトパンター駆逐戦車 初期型) 兵器諸元(ヤークトパンター駆逐戦車 後期型) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<参考文献> ・「世界の戦車イラストレイテッド11 パンター戦車と派生型 1942~1945」 ヒラリー・ドイル/トム・イェンツ 共著 大日本絵画 ・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「パンター戦車」 ヴァルター・J・シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「重駆逐戦車」 ヴァルター・J・シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「パンツァー2014年11月号 歴代戦車砲ベストテン」 荒木雅也/久米幸雄/三鷹聡 共著 アルゴノート社 ・「パンツァー2020年5月号 「王虎」の牙を持つ「狩豹」 ヤークトパンター物語」 白石光 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2001年5月号 ヤークトパンター駆逐戦車」 後藤仁 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2001年7月号 ヤークトパンター駆逐戦車」 後藤仁 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル パンター戦車」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2012年5月号 ヤークトパンターの開発と構造」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2010年2月号 ヤークトパンターカラーズ」 寺田光男 著 ガリレオ出版 ・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版 ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||