| 試製56式105mm自走砲
 
 
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      | +開発 
      1954年7月1日に陸・海・空の3自衛隊とそれを管轄する組織である防衛庁が設立されたが、陸上自衛隊は設立当初、アメリカ軍から供与された牽引式の105mm/155mm榴弾砲や迫撃砲しか砲兵装備を保有しておらず、砲兵の機械化が遅れた軍隊となってしまっていた。
 そこで1956年に防衛庁から出された要求により、「試製56式105mm自走砲」の呼称で国産の105mm自走榴弾砲が開発されることになった。
 
 といっても、第2次世界大戦の敗北により兵器の開発を禁止されていた期間が長かった当時の日本にとって、一から新規に自走榴弾砲を開発するのは技術的に困難であったため、アメリカ軍がM24軽戦車をベースに大戦末期に開発したM37
      105mm自走榴弾砲を参考にして、これに準ずる性能の車両として開発されることになった。
 この国産自走榴弾砲には「SY」の試作呼称が与えられたが、SYはエンジンをM37自走榴弾砲のガソリンからディーゼルに換装して、変速・操向機も新型に改めることなどが求められた。
 
 防衛庁技術研究所の手になるSYの基本設計は1957年に終了し、続いて日本製鋼所広島工場において主砲の改造作業が行われた。
 SYの主砲はM37自走榴弾砲と同じく、アメリカのロックアイランド工廠製の牽引式22.5口径105mm榴弾砲M2A1を車載化したものを搭載することになっており、砲架の改造と防盾の新設が行われた。
 一方、三菱重工業下丸子工場ではSYの車体の製作が行われた。
 
 SYの車体はM37自走榴弾砲と同じくM24軽戦車をベースにしており、砲塔を除去した車体の上部に、操縦室後方にあたる部分から車体後端までを覆う大きな密閉式戦闘室が設置された。
 そしてこの中に、日本製鋼所より送られてきた改造済みの105mm榴弾砲M2A1を搭載した。
 M37自走榴弾砲の場合は、乗員の作業の便を優先して戦闘室はオープントップ式とされたが、SYは乗員の防護を優先して密閉式戦闘室を採用したため、M37に比べて重量が増加する結果となった。
 
 このことが後に、本車の機動性の低下を招く原因の1つとなった。
 1958年にSYの第1次試作車が完成し、直ちに第1次技術試験に供され、続いて6〜9月にかけて第2次技術試験が実施された。
 第1次技術試験でエンジンの過熱が指摘されたことを受けて、第2次技術試験の前に改修作業が行われている。
 
 さらに10月から翌59年にかけて第3次技術試験を行った後、1〜2月まで北海道の島松演習場で寒冷地試験を実施、5〜8月にかけて静岡県の陸上自衛隊富士学校で実用試験が行われた。
 この試験中における走行距離は約6,000kmに達し、その結果としてSYは重量増加に伴う機動性の低下が指摘され、エンジンからの出力を損なうことが無いように変速・操向機をハイドラマチック自動式に換装することとなり、第2次試作が行われた。
 
 しかし試験ではまだ機動性が不充分と判断され、新たに本車専用の新設計の車体を開発することなどが考慮されたものの、そもそもSYはM37自走榴弾砲を模倣して手軽に新型自走榴弾砲を開発することを目的とした車両であり、車体を新規設計するのであれば元々の開発目的に反することになってしまうため、結局試作の段階を出ないまま計画は中止されてしまった。
 
 SYは日本ならではのユニークな発想から生まれた試作自走榴弾砲だったが、戦後の技術的空白期のために他国に比べて遅れていた当時の日本の技術力では新型AFVを実用化することが困難であることを認識させ、その後の国産AFVの開発において苦い教訓となった。
 SYの開発が失敗したことで陸上自衛隊はその後も、1960年代半ばにアメリカ軍からM44A1 155mm自走榴弾砲(10両)とM52A1 105mm自走榴弾砲(30両)の供与を受けるまで、自走榴弾砲を保有しない時代が長く続いた。
 
 
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      | +構造 
      前述のように、SYの車体はアメリカ軍から供与されたM24軽戦車を三菱重工業の手で改造したものが用いられており、砲塔を除去した車体の上部に、操縦室後方にあたる部分から車体後端までを覆う大きな密閉式戦闘室を設置していた。
 足周りは片側5個の複列式転輪と片側3個の上部支持輪の組み合わせで、起動輪を前方に配するフロントドライブ方式を採用していた。
 
 サスペンションは旧日本軍戦車に用いられたシーソー式サスペンションよりも先進的な、トーションバー(捩り棒)式サスペンションが採用されていた。
 SYのエンジンは、M24軽戦車のガソリン・エンジンに代えて国産のディーゼル・エンジンを搭載することになったため、三菱重工業が当時「SU-II」の試作呼称で開発を進めていた装軌式APC(後の60式装甲車)用に開発された8HA
      V型8気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力220hp)が搭載されることになった。
 
 一方変速・操向機については、SYの第2次試作車からM24軽戦車のハイドラマチック自動変速・操向機を模倣して三菱重工業が製作した国産のハイドラマチック自動変速・操向機が採用されたが、当時の日本の技術力ではこの先進的な自動変速・操向機を模倣することは難しく、想定した性能を発揮できなかったようである。
 これはエンジンについても同様で、SYに搭載された8HAディーゼル・エンジンはカタログスペック上はM24軽戦車のガソリン・エンジンと出力が同等であったが、SYはM24軽戦車に比べて加速性能が劣っていた。
 
 SYの主砲に採用されたのは、前述のようにアメリカ軍から供与された牽引式の22.5口径105mm榴弾砲M2A1を日本製鋼所で車載用に改造したものである。
 105mm榴弾砲M2A1は、それまでアメリカ軍が運用していたフランス製の36口径75mm加農砲M1897の後継として1941年に開発されたもので、牽引砲の場合左右各23度ずつの旋回角、−5〜+65度の俯仰角を有していた。
 
 砲口初速472m/秒の榴弾を使用して最大発射速度16発/分、最大射程は11,160mに達し、当時としては優れた性能を持つ榴弾砲であった。
 しかし、日本に供与されたM2A1の数は限られていたため自走砲の主砲に転用できる余剰な砲など存在せず、そのことがSYの開発中止の原因の1つになったともいわれている。
 
 なお105mm榴弾砲M2A1の不足を補うため、防衛庁の要求により日本製鋼所と神戸製鋼所において「58式105mm榴弾砲」の呼称でM2A1のデッドコピーが少数生産されたが、この58式は射撃時の圧力で砲身に亀裂が生じるなど不具合が多く、原型のM2A1には到底及ばない代物であったため大量生産はあきらめられたという。
 これは当時の日本の冶金技術が他国に比べて遅れていた証拠であり、やはり戦後の技術的空白期が影を落としている。
 
 SYは副武装として、参考にしたM37自走榴弾砲と同じく戦闘室の右前方にリングマウントを設けて、アメリカのブラウニング火器製作所製の12.7mm重機関銃M2を装備していた。
 M2重機関銃は現在に至るまでアメリカ軍の自走砲の標準的な副武装として用いられており、これに倣って陸上自衛隊の自走砲も現在に至るまで、ほとんどの車両がM2重機関銃を副武装として装備している。
 
 
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      | <試製56式105mm自走砲>
 
 全長:    5.592m
 車体長:   5.006m
 全幅:    2.844m
 全高:    2.340m
 全備重量:
 乗員:    7名
 エンジン:  三菱8HA 4ストロークV型8気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル
 最大出力: 220hp/2,400rpm
 最大速度:
 航続距離:
 武装:    22.5口径105mm榴弾砲M2A1×1
 12.7mm重機関銃M2×1
 装甲厚:
 
 
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      | <参考文献>
 
 ・「パンツァー1999年4月号 陸上自衛隊75式自走155mm榴弾砲 その開発過程と構造・機能」 林磐男/田村尚
 也 共著  アルゴノート社
 ・「戦後日本の戦車開発史 特車から90式戦車へ」 林磐男 著  潮書房光人新社
 ・「陸上自衛隊の装備車輌 Vol.1 ’60年代編」  ガリレオ出版
 
 
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