+構造
IV号a型対戦車自走砲の車体はIV号戦車D/E型をベースにしており、エンジンや変速・操向機といった駆動/伝達系も同じものが使用されていた。
車体は自走砲用に延長されてはおらず、走行装置もIV号戦車のものがそのまま使用されていた。
残された写真によると走行装置は基本的にD型のものであるが、起動輪はE型のものが用いられている。
なお戦車型では、車体左側面の第2、第3上部支持輪の後方にそれぞれ燃料注入口が設けられていたが、本車では第3上部支持輪後方の燃料注入口が廃止されており、代わりに、車体右側面の第2上部支持輪の後方に新たに燃料注入口が設けられていた。
自走砲化にあたってIV号戦車の上部構造は撤去され、車体中央部から後部にかけてオープントップ式の固定戦闘室が新たに設けられており、車体中央部に砲架を設けて、52口径10.5cm加農砲K18を限定旋回式に搭載していた。
砲の旋回角は左右各8度ずつで、俯仰角は−15〜+10度となっていた。
戦闘室の左右側面は、内部容積を稼ぐためにフェンダー側に張り出していたが、車体とは溶接されていた。
戦闘室の装甲厚は前面が30mm、側/後面が20mm、上面が12mmとなっていた。
戦車型では車体後部に配置されていた動力装置は、自走砲化にあたって車体中央部の主砲の下側に移されたらしいが詳細は不明である。
砲尾の下側には大きな箱型のカバーが設けられており、この中にエンジンが収められていたものと思われる。
このカバーは車体後部にまで延びており、後部外側に取り付けられた90度上に向けた蓋付きのダクトに接続されていた。
左右のフェンダーは戦車型と同様に車体側面全体に取り付けられていたが、前部の泥除けは最初から装備していなかった。
エンジン用排気管は、後に登場するナースホルン対戦車自走砲のように車体側面中央部から外に出されていたが、その位置はフェンダーの上でしかも車体の右側に1つしかなかった。
排気管は、右側フェンダーの後方に取り付けられた排気マフラーに接続されていた。
戦闘室内の砲架左右の壁にはラジエイター用の通気ダクトが取り付けられており、開口部グリルは戦闘室の上面にあった。
ナースホルン対戦車自走砲と同じく、左側が吸気用で右側が排気用だったのかは定かではない。
車体後面の装甲板は戦闘室と一体構造になっており、中央に前述したエンジン用通気ダクトがあり、ダクトの左右には外開き式の角型の乗降用ドアが設けられていた。
それ以外の装備は、ほぼIV号戦車に準じていた。
車体上面前部の装甲板は大きく延長されており、ブレーキ点検用ハッチはIV号戦車E型と同様に装甲板と面一構造になっていた。
戦闘室前方の車体上面には左右に四角い装甲ボックスが設けられており、左側のボックスは操縦室、右側のボックスは操縦室のダミーで、ダミーボックスの方は雑具箱として使用されていたらしい。
操縦室ボックスの上面には後ろ開き式の四角い操縦手用ハッチが設けられており、前面には視察用の装甲ヴァイザーと双眼式のペリスコープ孔が装備されていた。
また左側面には視察用ブロックが設けられており、右側面には小さな円形のハッチがあった。
反対側のダミーボックスには、視察用ヴァイザー等は設けられていなかった。
戦闘室後部の上面は傾斜の付いた天井がわずかにあり、そこにほぼ横幅いっぱいに円弧状断面のラックが取り付けられていた。
このラックの下には、砲身のクリーニング用ロッドが装備されていた。
また車体後面装甲板のエンジン用通気ダクトの後ろには、予備転輪1個を装着できるラックが装備されていた。
戦闘室外側の左側面にはスコップと履帯連結工具が装備されており、右側面には上方に牽引用ワイアーロープが取り付けられていた。
戦闘室後面装甲板の内側上部には、砲弾を砲尾に押し込むためのラマーが装備されており、その下には信号弾ピストルや信号弾ボックス、それに手榴弾(合計6本)ラック等があった。
戦闘室左右側面のフェンダー側に張り出しているバスル部の内側には、最後部に弾頭用収納ボックスがあり、その前に薬莢収納ボックス(ラック)があった。
これは左右対称配置で弾頭は計12発、薬莢は計16発が収納できた。
また、戦闘室よりも前の車体右側面に薬莢8発分のラックが確認できるので、薬莢の搭載数は計24発となる。
従来の資料では、IV号a型対戦車自走砲には約25発分の弾頭と薬莢が搭載されていたことになっているが、弾頭の収納ボックスは他に見当たらない。
戦闘室内の前方には、10.5cm加農砲K18の砲架を挟んで左側に砲手席、右側に車長席が設けられていた。
座席の前方には照準機やペリスコープのケースが置かれており、車内装備としてオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が1挺搭載されていたとされているが、その収納部の位置は判然としていない。
戦闘室内の座席よりも前の部分には天井があり、その左右には開口部があって、左側は照準機用(前/左側面に跳弾板がある)で、右側は双眼式の観測ペリスコープ用(円形ハッチによる)であった。
通常の砲隊双眼鏡用の支持架もあり、これは右側ラジエイター・ダクト後部の側壁に装備されていた。
本車はFu.5無線機を搭載していたとされているが、その搭載位置は不明である。
ただし、アンテナの基部は戦闘室の右側上部前方に取り付けられていたので、無線機は戦闘室内の右側前方にあった可能性が高いと思われる。
車体上面前部には当初、防空型前照灯(ノーテクライト)しかなかったが、戦場写真ではトラヴェリング・クランプが追加装備されているのが確認できる。
左側フェンダーの上には前からボックス型ライト、2リンク分の予備履板、ホーン、消火器、履帯張度調整装置用スパナ、斧、ワイアーカッター、大小金梃、メガネレンチ、間隔表示灯が順に装備されていた。
右側フェンダーの上には前からボックス型ライト、2リンク分の予備履板、ジャッキ台、ジャッキ、排気マフラーが順に装備されていた。
IV号a型対戦車自走砲の主砲の原型となった10.5cm野戦加農砲K18は、第1次世界大戦でドイツ陸軍が使用した10.5cm野戦加農砲K17に代わる新型砲として、1926年〜30年にかけて開発されたものである。
開発は当初、クルップ社とデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社の競作とされたが、結局双方の合作とされ砲部はラインメタル社、砲架や脚といった搬送部分は15cm重榴弾砲sFH18と同一のクルップ社のものが採用された。
10.5cm野戦加農砲K18の生産はベルリン・シュパンダウにあるシュプレー製作所で行われ、最初の配備は1933〜34年にかけて行われている。
第2次世界大戦の初期には野砲として使用されたが、10cmクラスという位置付けが次第に中途半端な存在となり、1942年以降は沿岸砲に転用され一部はブルガリア軍に売却された。
この砲はジャケット付きの単肉砲身で、砲尾は横型スライドブロック式の鎖栓になっていた。
砲架はV型開脚式で、左右に金属プレス製ホイールにソリッドゴムのタイヤが装備されていた。
搬送時は脚後部に2輪式のリンバーを取り付け、馬または車両によって牽引した。
砲弾は分離薬莢式で弾頭は榴弾の場合Gr.19を使用したが、これにはKPS型(銅バンド付き)とFES型(鉄バンド付き)があった。
徹甲弾もPz.Gr.rot(レッドスモーク付き)がKPSとFESで用意されており、この他Gr.38Nbという発煙弾も使用できた。
薬莢は、飛距離に応じて装薬量の違うものが使用された。
砲の性能は弾頭重量15.14kgのGr.19榴弾を使用した場合、近距離射撃では砲口初速550m/秒で最大射程12,725m、中距離射撃では同690m/秒で15,750m、遠距離射撃では同835m/秒で19,075mであった。
弾頭重量15.56kgのPz.Gr.rot徹甲弾を使用した場合は、中距離射撃では同682m/秒で13,850m、遠距離射撃では同827m/秒で16,000mであった。
徹甲弾を使用した場合射距離100mで164mm、同2,000mでも109mmの均質圧延装甲板(傾斜角0度)を貫徹することが可能であった。
IV号a型対戦車自走砲に搭載された10.5cm加農砲K18は基本的に牽引型と同じであるが、車載にあたって駐退、復座、平衡機等が変更されたために砲尾のディテールも変化しており、揺架も牽引型とは違っている。
また砲身先端には、二重作動式の大型の砲口制退機が新たに取り付けられた。
照準機は牽引型ではパノラマ式のRblf.32あたりが使用されたが、自走砲用にはペリスコープ式直接照準機(Sfl.ZF.1a)が装備された。
砲の性能は基本的に牽引型と同じだが、牽引型が+45度まで仰角を取れたのに対し、自走砲搭載型では仰角が+10度までに限定されたため、最大射程は牽引型より短かかったのは確実である。
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