四式中戦車 チト
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+開発
1937年にチハ車が「九七式中戦車」として制式化された後、陸軍技術本部は数種類の後継中戦車の開発を推進した。
それらの正式な開発・装備計画が決定されたのは、対米開戦翌年の1942年になってからであった。
新型中戦車(駆逐戦車を除く)としては、2種類が計画された。
1つはすでに開発の最終段階にあった長砲身47mm戦車砲装備のチヘ車(後の一式中戦車)で、もう1つが長砲身57mm戦車砲装備の新規設計のチト車(後の四式中戦車)である。
チト車の開発はチヌ車(後の三式中戦車)よりも比較的早く、1942年後半から着手されていた。
この時期はまだ戦況がそれほど悪化していなかったこともあって、チト車の研究開発には充分な時間を掛けていたようである。
チト車はチハ車に始まってチヌ車に至る、同一車体を利用したそれまでの中戦車群とは全く異なる新設計の強力な戦車であった。
その設計思想は日中戦争勃発時からの歩兵支援用戦車という観念を捨て、対戦車戦闘を主目的に置いた純然たる主力戦車であった。
1939年半ば、満州と外モンゴルの国境ノモンハンで日ソ両軍が衝突する事件が起こり、これに参加した日本軍の戦車部隊は長砲身の45mm戦車砲を装備するソ連軍戦車と砲火を交えた。
そして日本軍が充分に威力があると信じていた、八九式中戦車や九七式中戦車が搭載する短砲身の5.7cm戦車砲は威力不足で対戦車戦闘では使えないことが露呈し、ソ連軍の誇るBT快速戦車と対戦車砲に悩まされ、この草原の戦いで日本軍の戦車は次々と火を噴いた。
このノモンハン事件(ハルハ川戦役)の苦い戦訓から、1939年8月に陸軍技術本部はこれまで研究を進めてきた高初速戦車砲の本格的な試作に入った。
これが後に「一式四十七粍戦車砲」として制式化され、九七式中戦車の改造砲塔に載せられたのは1942年4月のことである。
こうして九七式中戦車改(新砲塔チハ車)が登場したのだが、当時欧米列強の主力戦車はさらに大口径化の方向に進みつつあった。
また太平洋や南方戦域では、アメリカ軍は37mm戦車砲装備のM3軽戦車に代わって、強力な75mm戦車砲を搭載するM4中戦車を投入するようになっていた。
さらにヨーロッパの電撃戦で勝利を収めたドイツ軍も、大口径戦車砲の開発を進めていたのである。
ここにおいて日本軍もこれらの戦車に対抗すべく、より高性能で強武装、重装甲の新型中戦車の開発に踏み切ったのである。
この新型中戦車の秘匿呼称は、「チト車」と呼ばれた。
このチト車の監督部門を担当したのは、陸軍技術本部の第六技術研究所である。
製作は、三菱重工業東京機器製作所丸子工場で行われた。
またその研究技術資料として、日本軍が各戦域で鹵獲した戦車が技術研究所に集められていた。
まず中国大陸からは中国軍が使用したイギリス製のヴィッカーズ豆戦車や水陸両用車、対ソ戦のノモンハンではソ連軍の誇るBT快速戦車や各種装甲車、さらに太平洋戦争が始まってからは米英軍が南方戦線に投入したM3軽戦車などが戦利品として送られてきていた。
また他の参考資料としてソ連やドイツ、イギリスの対戦車砲も集められ、「敵」を知る上での重要な参考品とした。
チト車の開発方針が正式に決められたのは1942年9月のことで、当初の設計では予想重量20t、新開発の5.7cm戦車砲を搭載することになっていた。
この戦車砲は一式機動四十七粍砲の後継砲として開発された試製機動五十七粍砲をベースとした、長砲身の戦車砲であった。
しかし原型砲は厳しい各種試験の結果、装甲貫徹力が不充分であると判定された。
この新型5.7cm戦車砲(試製五糎七戦車砲(新))を搭載したチト車の第1次試作車は、砲塔がそれまでと同じ溶接構造を持ち、後に出現する鋳造砲塔車に比べてやや小型であったが、前記の理由により結局この第1次試作車は1両が製作されただけで制式化には至らなかった。
チト車はその1年後の1943年になって、7.5cm級の戦車砲を載せるように計画が変更された。
それに伴いエンジンや変速・操向機の改修を余儀なくされ、また重量も試作第1号車の20tから大幅に増加することになった。
なお車体やエンジンなどの主要部分は、これまで多くの戦車を生産し続けてきた三菱重工業に依頼した。
技術的にチハ車系列と一線を画す、チト車の本当の意味での開発はこの時点から始まる。
なおこの時、チリ車(後の五式中戦車)の開発も並行して進められることになった。
1944年5月に、チト車の第2次試作車が完成した。
ただし、主砲はまだ試製五糎七戦車砲(新)が装備されていた。
同年8月、主砲を三菱工場でとりあえず九〇式野砲(口径7.5cm)に換装し早速実弾射撃を行い、翌月には機甲整備学校の手で公開運行試験も実施された。
チト車に搭載する新型7.5cm戦車砲は、1943年7月から開発が開始された。
翌44年10月までには試作が終わり、実用試験を経て1945年2月に先に完成していた車体に装備された。
同年3月から、チト車の運行試験が開始された。
欧米列強に遅れること約3年でやっと日本もドイツのIV号、ソ連のT-34、アメリカのM4並みの中戦車を手に入れることになったのである。
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+完成後
「四式中戦車」として制式化されたチト車は、主砲として搭載予定の新型7.5cm戦車砲が完成する以前の1944年末には早くも、三菱重工業東京機器製作所丸子工場で生産態勢に入っていた。
四式中戦車の第1生産ロットは、1945年9月に工場から出てくる計画であった。
しかし、すでに日本は枯渇した鉄材を傾斜的に対空火器の増産に配分していた折で、戦車は後回しにされた。
特に生産車に搭載する分の7.5cm戦車砲は、いつまで待っても工場に来なかったという。
1945年8月の終戦時には四式中戦車は生産型第1号車が未完成であったとも、2両完成とも6両完成ともいわれるが、機甲整備学校に2両があったことは間違いないので総数6両と思われる。
戦時中から五式中戦車の情報を掴んでいたアメリカ軍は四式中戦車を五式、五式中戦車を新型試作車と誤認し、アメリカ・メリーランド州のアバディーン兵器試験場に持ち去ったといわれる。
そして、日本軍の他の戦車・自走砲は今日までに展示または処分が確認されているのだが、四式中戦車と五式中戦車に関してはその後の消息が全く分かっていなかった。
しかし最近になって浜名湖北の猪鼻湖(静岡県三ヶ日町)に終戦後、四式中戦車が砲塔の無い戦車(以前は九七式中戦車と思われていたが、四式中戦車の砲塔を搭載する試験に用いられた三式中戦車の車体という説が最近浮上した)と共に沈められたことが判明している。
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+攻撃力
チト車の主砲に採用された五式七糎半戦車砲は、スウェーデンのボフォース社製の75mm高射砲m/29をコピーした四式七糎半高射砲を基に、砲架などを車載用に改修したものである。
基本となった75mm高射砲m/29は、日中戦争において中国軍が大量に買い求めて装備し、日本軍の航空機を悩ませた火砲の1つでもあった。
日本軍もこの75mm高射砲m/29を鹵獲してその優秀性を熟知しており、しかも他の火砲と比較して砲の重量も戦車への搭載に適し、運搬や射撃操作も容易であった。
新型7.5cm戦車砲は四式七糎半高射砲を基本に砲口初速850m/秒が要求され、また砲身を共通化し七糎半速射砲(自走式)と同一の弾薬を使用できるよう計画された。
この研究は元々チリ車に搭載予定で研究されたものであったが、1944年7月の兵器行政本部第一部研究計画修正事項「◎戦争三七」によりチト車に搭載することになった。
このため、チリ車用に開発した半自動装填装置を取り外して平衡錘を付加し、チト車へ装備することになった。
これが「試製五式七糎半戦車砲(長)II型」で、後に「五式七糎半戦車砲」として仮制式化された。
使用弾薬は一式徹甲弾と試製四式榴弾であり一式徹甲弾を用いた場合、射距離1,000mで厚さ80mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた。
この一式徹甲弾は装甲貫徹力を増大するため弾体を特に強化し、炸薬は戦車内に有効な破壊を与えるようにしてあったが、その薬量はわずか65gであった。
信管には一式徹甲弾一号底信管を使い、目標に命中すると堅牢な先端で装甲板を突き破り、後発信管の作用で戦車内で炸裂するのでまさに対戦車砲弾としては最適のものであった。
チト車の主砲弾薬の搭載数は65発で35発は戦闘室床下に、30発は砲塔後部のバスルに収納した。
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+防御力
チト車の装甲厚は車体が前面75mm、側面35mm、後面50mm、上面16mm、砲塔が前面75mm、側/後面50mm、上面20mmとなっていた。
このチト車の完成によってようやく、日本軍の中戦車も欧米列強の中戦車並みの装甲防御力を持つことになったのである。
チト車の外形、車内レイアウトについてはチハ車を単に大型化したものであったが、装甲板の接合にはチヘ車、チヌ車と同様に溶接が採り入れられていた。
しかしチヘ車、チヌ車の砲塔が全て防弾鋼板の溶接構造となっていたのに対し、チト車の砲塔は一部が鋳造製となっていた。
つまり砲塔の左右側面と後面が防弾鋼の鋳物で、これに前面と上面の圧延防弾鋼板(平板)を組み合わせていたのである。
日本軍の中戦車で砲塔がこのような構造になっていたのはチト車のみで、後から開発されたチリ車の砲塔では再び防弾鋼板の全溶接構造に戻されている。
そもそも鋳造化の眼目とは重量増は忍んでも溶接工程を削減し、量産性を向上させることにある。
しかし当時の日本は大型鋳造の経験が無く、砲塔の一体鋳造ができなかった。
そのためチト車の砲塔は分割鋳造した上、手溶接で組み合わせていたのだが、鋳物の歪みなども生じて1両仕上げるのに必要なマンアワーはほとんど減らなかった。
それなら全部圧延防弾鋼板を溶接して作った方が、より少ない鉄量で同等の強度を得られるわけで、これがチリ車の砲塔設計に反映されたと思われる。
なお、搭載する主砲が大型化したためにチト車の砲塔は巨大になったが、チリ車のような砲塔バスケットは採用されなかった。
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+機動力
チト車の車体幅は国鉄の車両限界一杯で、第4限界の飯田線のトンネルだけが通れなかったという。
チト車の開発において最大の難関は、エンジンであった。
1940年に統制型ディーゼル・エンジンが制定されたが出力は最大でも240hpしか出せず、重量30tのチト車を動かすには力不足であった。
チト車がチヘ車並みの機動力を発揮するには、エンジン出力は400hp程度必要であった。
そこで、新規にチト車用の空冷ディーゼル・エンジンが開発された。
この新型エンジンはV型12気筒で、過給機が装備されていた。
統制型エンジンに比べて内径・行程共に拡大されており、排気量は37.7リットルであった。
空冷ディーゼル・エンジンは重く騒音が大きいなどの欠点が指摘されたが、日本軍は八九式中戦車乙型以来、諸外国に先駆けて戦闘車両用エンジンにはディーゼルを一貫して採用してきた。
この種のエンジンは取り扱いが容易で、寒冷地における凍結や南方での水不足も心配無く、使用燃料の関係から火災発生の危険も少ないなどの利点があった。
特に燃料費が安くて済み、その消費量の少ないことなど経済的な面が喜ばれた。
チト車の変速機には、日本で初めて前進4段/後進1段のシンクロメッシュ方式が採用された。
操向機は従来の遊星歯車付きクラッチ・ブレーキ式であったが、重量が30tにもなると人力のみによる操作は困難なので油圧サーボが用いられた。
足周りはチハ車の伝統を引き継いだ形状となっていたが、巨大な車体を支える必要から転輪はチハ車の片側6個から1個増えて片側7個となった。
転輪は第1と第2、第3と第4、第6と第7転輪がそれぞれペアとなって懸架されており、第5転輪のみが独立して懸架されていた。
また履帯幅も、重量30tのチト車を支えられるようにチヌ車の330mm幅から450mm幅に拡大され、接地圧の低減が図られていた。
これらの結果チト車は路上を40km/hくらいで走り、旋回半径も非常に小さく軽快な機動力を示したという。
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<四式中戦車>
車体長: 6.34m
全幅: 2.86m
全高: 2.67m
全備重量: 30.0t
乗員: 5名
エンジン: 四式 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 412hp/1,800rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 250km
武装: 五式53口径7.5cm戦車砲×1 (65発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (5,400発)
装甲厚: 12〜75mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2016年12月号 戦車対決シリーズ 四式中戦車 vs 巡航戦車コメット」 久米幸雄 著 アルゴノー
ト社 ・「パンツァー2021年4月号 三式/四式/五式中戦車 その開発の足跡」 吉川和篤 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2013年2月号 浜名湖の四式中戦車の潜水調査報告」 小林雅彦 著 アルゴノート社
・「パンツァー2014年3月号 誌上対決 四式中戦車 vs IV号G型」 竹内修 著 アルゴノート社
・「パンツァー2005年7月号 日本陸軍 四式中戦車」 高橋昇/白石光 共著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「グランドパワー2005年5月号 日本陸軍 三式/四式/五式中戦車」 猫山民雄/一戸崇雄 共著 ガリレオ
出版
・「グランドパワー2012年10月号 日本陸軍 四式中戦車」 鈴木邦宏/国本康文 共著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「決定版 世界の最強兵器FILE」 おちあい熊一 著 学研
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
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