+概要
IV号戦車は、1931年の自動車化部隊参謀長ハインツ・グデーリアン中佐の構想に基づく、ドイツ陸軍の機甲兵力整備方針に則って開発されたもので、第2次世界大戦の開戦から終戦までを主力として活躍した最も代表的なドイツ戦車である。
IV号戦車の開発はIII号戦車に先駆けて1930年より始められたが、III号戦車が現代で定義するところの主力戦車として開発されたのに対し、このIV号戦車は火力支援を目的としていたのが大きな相違点であった。
開発にあたって「BW」(Begleitwagen:随伴車)の秘匿呼称が与えられ、その基本仕様はIII号戦車とほぼ同一であったが、重量は当時のドイツの河川に架かる橋の限度荷重が25tであったことから18t級とし、主砲にはIII号戦車の装甲貫徹力では不充分な目標を攻撃するために、当時としては破格の大口径である7.5cm戦車砲を備えることとされた。
当初、BWの開発はデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社とエッセンのクルップ社の2社があたっていたが、後にニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik
Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)も参加している。
ラインメタル社の設計案は、直前に開発したNb.Fz.戦車をベースとして開発を進めたため独特の足周りとされたが、他2社の設計案はオーバーラップ式転輪配置とトーションバー(捩り棒)式サスペンションを採用していた。
1935~36年に行われた試験の結果、ドイツ陸軍兵器局第6課は最終的にクルップ社をBWの開発・生産メーカーに指定し、1936年4月3日にBWは「IV号戦車」(Panzerkampfwagen
IV)の制式呼称で開発が進められることになった。
なおBWの砲塔の設計については、あらかじめクルップ社が担当することに決まっていた。
BWの設計案ではトーションバー式サスペンション、オーバーラップ式転輪配置などの新機軸を採用したクルップ社であったが、実際の開発にあたってはNb.Fz.戦車から一部の部品を流用することとされ、さらに足周りは片側8個の小転輪を2個ずつペアにしてリーフ・スプリング(板ばね)で支えるという、やや旧式な方式が採用されることになった。
1936年12月には、IV号戦車の最初の生産型であるA型が35両発注された。
IV号戦車A型の生産は1937年10月~1938年3月にかけて、クルップ社の子会社であるマクデブルクのグルゾン製作所で行われ、1938年半ばにドイツ陸軍に引き渡された。
以後、IV号戦車は多くの型式が開発されることになるが基本形はほとんど変わっておらず、IV号戦車はすでにA型からほぼ完成された姿だったといえる。
とはいえ、A型は後の生産型とは色々と細かい相違点も見られた。
上部車体については全体的デザインは同じであったが、左右フェンダー上にはみだした袖部の大きさが違っていた。
下部車体では、前面装甲板が丸く曲げられて曲面装甲板になっていたのが特徴であった。
砲塔もほぼデザイン的にはまとまっていたが若干前後長が短く、前部左右下部の切り欠きの形状が異なっていた。
また砲塔上部に設けられた車長用キューポラも、ダストピン型と呼ばれる比較的単純な視察口が開口したタイプであった。
そして砲塔前面左右の視察口の装甲カバーも、単純な1枚板で上に跳ね上げて開くようになっていた。
IV号戦車A型の装甲厚は車体が前/側/後面共に14.5mm、砲塔が20mmと後の生産型に比べて薄かったが、これはこの段階では充分と考えられていた。
戦闘重量は18.4tで、エンジンはフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL108TR V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量10,838cc、出力250hp)が搭載されていた。
変速機はZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のSFG75で前進5段/後進1段、操向機はクラッチ・ブレーキ式で路上最大速度は35km/hであった。
また、砲塔旋回用に専用の補助エンジンが装備されていた。
主砲は、クルップ社製の24口径7.5cm戦車砲KwK37を砲塔防盾に装備していた。
副武装は、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34 1挺が主砲と同軸に、さらにもう1挺が操縦室前面右側のボールマウント式銃架に装備されていた。
また車体左側には、機関銃を取り付けることのできるピントルマウントが設けられていた。
乗員は5名で操縦手、無線手の2名が車内に収まり、砲手と装填手、車長の3名が砲塔内に位置するようになっていた。
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