+概要
1942年9月10~22日の総統会議で、スターリングラードの市内に突入した歩兵が、有効な支援を受けられないまま敵に撃破されたことを戦訓とし、III号戦車またはIV号戦車の車体をベースとして密閉式戦闘室に15cm重歩兵砲を搭載する自走砲の開発が要求され、これに従いベルリンのアルケット社(Altmärkische
Kettenwerke:アルトマルク履帯製作所)で開発、生産されたのがIII号突撃歩兵砲であるが、同車はIII号戦車の車体をベースとしていたため極めて窮屈な設計であった。
そこでアルケット社では1942年10月に入ってから、よりサイズの大きいIV号戦車の車体をベースとし、密閉式戦闘室に15cm重歩兵砲を搭載する自走砲の計画案をアドルフ・ヒトラー総統に提出した。
この自走砲はIII号突撃歩兵砲と比べるとはるかに完成度が高く、ヒトラーは早急に40~60両を生産すべしとの命令を出した。
しかし本格的な開発に着手すると、戦闘重量が計画時の25tから28.2tに増加すると計算されたため、この対処として足周りに改良を加えることが必要であると判断された。
しかしヒトラーは、1943年5月に東部戦線で予定していた「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)に本車も投入することを考えており、5月12日までに40両を完成せよとの厳命を出し、さらに20両を追加発注した。
こうなると足周りの改良などは不可能で、結局IV号戦車G型の車体をそのまま流用して生産が行われることになった。
IV号突撃戦車「ブルムベーア」(Brummbär:気難し屋)として制式化された本車は、IV号戦車G型の砲塔と車体上部構造を撤去し、代わりにチェコのシュコダ製作所で生産された12口径15cm突撃榴弾砲StuH43を備える密閉式戦闘室を搭載しており、ベースとなった車両が異なるだけでIII号突撃歩兵砲と基本的に同じ構造であった。
しかしIII号突撃歩兵砲と比べて、ブルムベーア突撃戦車の戦闘室は各部の傾斜角がより大きくなり、戦闘室上面には車長、砲手、装填手それぞれに専用のハッチが設けられ、後面にも砲の交換や脱出に用いるハッチが用意されていた。
また戦闘室の装甲厚は当初前面80mmが予定されていたが、ヒトラーの要求により戦闘室前面の装甲厚は100mmに強化されている。
同様に車体前面の増加装甲も50mmに強化され、戦闘室左前部に小さな張り出しを設けて操縦室とされた。
操縦室の前面には、ティーガーI戦車から流用した装甲ヴァイザーが設けられていた。
ブルムベーア突撃戦車の車体はオーストリアのニーベルンゲン製作所、戦闘室はアイゼナハのビスマルク精錬所でそれぞれ製作され、これをシュコダ社まで運んで最終組み立てが行われた。
1943年4月よりブルムベーア突撃戦車の第1生産ロットの量産が開始され、同年5月には60両が完成したが、この内8両はIV号戦車からの改造車であった。
1943年12月から生産された第2生産ロットではIV号戦車H型車体が用いられ、操縦室の張り出しをさらに大型とし、被害を受け易い装甲ヴァイザーに代えて操縦室上部に旋回式ペリスコープが設けられた。
また戦闘室後面の換気口が姿を消し、上面にヴェンチレイターが新設され、砲手用ハッチも無くなり、スライド式照準口が新たに用いられた。
第2生産ロットのブルムベーア突撃戦車は、1944年4月までに60両前後が完成している。
1944年4月から生産された第3生産ロットでは戦闘室がリファインされ、それまでの車長用ハッチに代えてキューポラが採用され、装填手用ハッチも無くなって小さなハッチ2枚に置き換えられた。
また戦闘室前面左側に張り出しを設けて、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34がボールマウント式に新設され、戦闘室後面のハッチも張り出しを設けて大型化された。
第3生産ロットの車両は1945年3月までに180両前後が完成したが、多くはIV号戦車J型車体が用いられた。
合計で306両が生産されたブルムベーア突撃戦車は突撃砲大隊に配属され、東部、西部、イタリアの各戦線で活躍している。
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