+概要
1942年秋に、エッセンのクルップ社は軽対空戦車の開発に着手した。
車体はVK.13.03軽戦車(後のII号戦車L型ルクス)の部品をベースとし、武装はオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の65口径2cm4連装対空機関砲Flakvierling38、またはデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の57口径3.7cm対空機関砲FlaK36を搭載する予定であった。
そして結局1942年10月1日の段階で、この軽対空戦車のベース車体の候補としてVK.13.03軽戦車と、VK.16.02レオパルト軽戦車の2者が残った。
しかし両者共に対空戦車用には利用されず、レオパルト軽戦車に至っては車両自体の開発も1943年1月20日に中止されてしまった。
なぜなら、対空戦車の開発計画がIV号戦車をベース車体とすることに変更されたからである。
クルップ社が1943年2月22日に最初に示したこの対空戦車の原案は、IV号戦車シャシーをそのまま使用するのではなく、あくまでその部品を流用した別シャシーによるものであった。
転輪は、ゴムクッション内蔵の複列式鋼製転輪を片側6個用いることになった。
履帯も、500mm幅の幅広型に変更された。
戦闘室上部を構成する起倒式装甲板の側面部は10mm厚の二重装甲板になる予定で、搭載砲は2cm4連装対空機関砲Flakvierling38、3.7cm対空機関砲FlaK36、FlaK43、それに5cm対空機関砲FlaK41が想定された。
その後1943年6月までの会合で、戦車部隊に随伴する対空戦車が早急に必要なことを理由にIV号戦車シャシーをそのまま流用した、2cm4連装対空機関砲Flakvierling38を搭載する対空戦車を製造することが決定された。
この対空戦車の試作車は、同年9月末までに完成した。
本車はベースとなったIV号戦車H型の戦闘室幅を拡張し、その側面は戦車型と違って直線のデザインとされた。
戦闘室内には回転台座にFlakvierling38がほぼ無改造で搭載されており、前方には無線手と操縦手用のハッチが装備されていた。
砲の周囲には前後左右に4枚の展開可能な起倒式装甲板が装備されており、これは閉/半開/全開の3つのポジションで固定することができた。
もちろん上部はオープンで閉状態でも射撃は可能であったが、地上目標への攻撃の際は装甲板を全開する必要があった。
完成した試作車は、10月16日にはツォッセンのクンマースドルフ車両試験場にて審査された。
そして1944年4月から、月産20両のペースで生産することが決定された。
しかしドイツ陸軍兵器局第6課では、より破壊力のある57口径3.7cm対空機関砲FlaK43を、2cm4連装対空機関砲Flakvierling38の代わりに搭載することを1943年12月21日に決定し、Flakvierling38搭載型の生産は中止された。
もっともこの中止命令は、クンマースドルフにおける10月の公開試験を見たアドルフ・ヒトラー総統が、すでにこの時点で出していたというのがこれまでの定説になっている。
なお、武装を3.7cm対空機関砲FlaK43に換装することが決定された際、クルップ社はこの対空戦車の開発初期に計画していた、足周りを片側6個の鋼製転輪に変更する案をヒトラーに提示したが、結局これは却下された。
3.7cm対空機関砲FlaK43搭載型のIV号対空自走砲は、当時開発が開始されたばかりであった、Flakvierling38をオープントップの全周旋回式砲塔に搭載するIV号対空戦車(後のヴィルベルヴィント)と共に、対空戦車小隊に配属すべく1944年2月から月20両の割合で生産することとされた。
3.7cm対空機関砲FlaK43搭載型は、砲のシルエットが低くなったことにより戦闘室上部の起倒式装甲板も高さが約250mm削られ、デザインも多少変更された。
このうち側面の装甲板は、生産型第20号車まで12mm厚軟鋼板の2枚重ねで作られていた。
これは次の25両分において10mm厚装甲板の2枚重ねに置き換えられ、それ以降は25mm厚の1枚装甲板となった。
主武装の3.7cm対空機関砲FlaK43は全周旋回が可能で、俯仰角は-7~+90度であった。
最大射程は4,200mで、3.7cm機関砲弾の携行弾数はSpr.Gr.(榴弾)が320発、Pz.Gr.(徹甲弾)が80発の計400発であった。
乗員は車長、砲手2名、装填手、無線手、操縦手の計6名で、無線機はFu.5およびFu.2が搭載されていた。
副武装はマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が2挺、エアフルトのエルマ製作所製の9mm機関短銃MP40が1挺であった(車体機関銃は装備されていない)。
本車の制式呼称は、「3.7cm対空機関砲FlaK43搭載IV号対空自走砲」(特殊車両番号:Sd.Kfz.161/3)とされたが、戦闘室部分の箱型のデザインから兵士たちに「メーベルヴァーゲン」(Möbelwagen:家具運搬車)と呼ばれるようになり、後にこれが制式呼称として採用されたようである。
メーベルヴァーゲン対空自走砲は当初、ドイツ軍対空戦車の本命と目されていた、IV号戦車シャシーに45口径3cm連装対空機関砲Flakzwilling103/38を搭載するクーゲルブリッツ対空戦車や、パンター戦車シャシーに57口径3.7cm連装対空機関砲Flakzwilling44を搭載するケーリアン対空戦車の生産が軌道に乗るまでの、場繋ぎとして生産される予定であった。
しかし、本命車両の開発が一向に進まなかったため後に月産30両に引き上げられ、終戦まで作られ続けた。
生産はドイツ製鋼所のシュターリン工場で行われ、シャシーはクルップ社の子会社であるマクデブルクのグルゾン製作所から供給された。
最初の20両は1944年3月末までに完成し、1945年3月までに合計で240両が生産されている。
メーベルヴァーゲン対空自走砲は8両をもって対空戦車小隊を構成し、1944年6月15日付で最初にこれを装備したのは第9機甲師団、第11機甲師団、第116機甲師団であったが、これはいずれも西部戦線に配置された。
翌7月には第6機甲師団、第19機甲師団にも配備され、これらは東部戦線に送られた。
また8~9月にかけて第101~110戦車旅団の戦車大隊に4両編制の対空戦車小隊が配備され、4個大隊が西部戦線、6個大隊が東部戦線に送られた。
例外として、SS第10機甲師団の戦車連隊には戦車駆逐大隊と同様に、8両の対空戦車(メーベルヴァーゲン対空自走砲4両と、ヴィルベルヴィント対空戦車4両)が対空戦車小隊に配備された。
SS第10機甲師団は、1945年1月に西部戦線で実施された「北風作戦」(Unternehmen Nordwind)の後、東部戦線へと転戦した。
|