40/43MズリーニィII突撃砲
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+開発
第2次世界大戦中、ドイツと共に連合軍と戦ったハンガリーはドイツに比べると戦車後進国であり、国産戦車をゼロから開発する能力は持たなかった。
しかしそれでも、スウェーデンのランツヴェルク社製のL-60軽戦車を38Mトルディ軽戦車として、チェコのシュコダ製作所製のT-21中戦車を40Mトゥラーン中戦車として、またランツヴェルク社製のL-62対空自走砲を40Mニムロード対空自走砲としてライセンス生産して戦車生産の実力を高めた。
そのハンガリーがトゥラーン中戦車の車体をベースとして独自に設計し、量産・実用化した突撃砲が40/43MズリーニィIIであった。
ズリーニィII突撃砲の開発の端緒となったのは、ドイツ軍と共に東部戦線で戦うハンガリー軍将兵が散見したドイツ軍の開発したIII号突撃砲等の、各種戦車車体を改造した突撃砲、自走砲、駆逐戦車などの有効性であった。
旋回式砲塔を持つ戦車よりも大口径の砲を搭載でき、かつ製造コストが安い突撃砲は戦車不足に悩むハンガリー軍にとって、最良の兵器に成り得ると考えられた。
これを受けて1942年7月にハンガリー国防省自動車戦闘車両課は、機甲師団に所属する砲兵部隊が戦車部隊に随伴支援する能力のある突撃砲の開発を提案した。
この提案は関係各部で了承され、同年8月にはブダペストのヴァイス・マンフレード社によって突撃砲の開発のための基礎研究が開始された。
国防省の要求は、当時主力戦車として使用されていた41MトゥラーンII重戦車に搭載された25口径75mm戦車砲41M-75/25よりも強力な武装を積み、装甲防御力、機動力共に当時存在したハンガリー軍戦車を上回ることが要求された。
新型突撃砲の設計に当たったのは、ヴァイス・マンフレード社のエルネー・コヴァーチュハーズィ技師であった。
ハンガリーには突撃砲をゼロから開発する能力が無かったことと、開発期間を短縮する必要性から、新型突撃砲は既存の戦車車体をベースに開発されることになった。
大口径の主砲を搭載することが予定されたため、ベース車体の候補としては当時のハンガリー製装甲車両の中ではトゥラーン中戦車しか無かった。
トゥラーン中戦車は旧式ではあったが、車体構造、エンジン、走行装置その他は変速・操向機が壊れ易いこと以外は問題は無かった。
主砲については、ブダペストのMÁVAG社(Magyar Királyi Államvasutak Gépgyára:ハンガリー王立鉄道機械製作所)製の105mm榴弾砲40Mが使用されることになった。
この砲は元々牽引式野戦榴弾砲として設計されたものであったが、駐退機のスプリングに設計上の問題があり大量生産には至らず、60門分の砲身がデッドストックになっていた。
新型突撃砲の主砲に流用することは、貴重な資材の有効活用になり絶好の在庫処分であった。
ヴァイス・マンフレード社ではまず木製モックアップを製作し、設計の適否を検討した。
新型突撃砲の車体幅は原型のトゥラーン中戦車に比べて400mm拡大されていたが、これは主砲に充分な旋回角を与えるためであった。
それだけでなく、このことは戦闘室内容積を拡大するのにも貢献した。
そのおかげで巨大な105mm榴弾砲も容易に搭載でき、乗員、弾薬を収容するための充分な広さが確保できた。
主砲は車両の中心線上から若干左にオフセットして搭載されたが、これは車体下部を走る推進軸との干渉を防ぐためであったと思われる。
モックアップ試験の成功を受けて新型突撃砲の試作車を製作することが決定し、1942年10月に軟鋼製の試作車の製作がヴァイス・マンフレード社に発注された。
この新型突撃砲には1943年5月に「40/43Mズリーニィ105」の呼称が与えられているが、呼称の「ズリーニィ」(Zrínyi)は16世紀にトルコ軍との戦いで活躍し、後に太守となったハンガリーの国民的英雄ズリーニィ・ミクローシュに因む。
ズリーニィ105突撃砲の試作車の製作には、トゥラーン中戦車の軟鋼製試作車の車体を流用することになった。
トゥラーン中戦車の試作車からは砲塔が取り外され、下部車体が拡げられた上で新しい上部戦闘室が組み立てられた。
戦闘室の装甲厚は前面75mm、側面25mm、後面15mm、上面13mmとなっていた。
また車体前面の装甲厚も、原型のトゥラーン中戦車では50mmであったものが25mm厚の装甲板が追加されて75mmに強化された。
主砲の105mm榴弾砲40/43Mは、内装式の球形防盾を介して戦闘室前面に限定旋回式に搭載された。
主砲の旋回角は左右各11度ずつで、俯仰角は-5~+25度となっていた。
砲身長は20口径で、弾薬は重量15.04kgの38/33M榴散弾と重量17kgの42M榴弾が使用された。
この砲は分離薬莢式で、発射速度は6発/分となっていた。
弾薬搭載数は52発が定数となっていたが、実際には90~95発が積み込まれることもあったという。
ズリーニィ105突撃砲は、戦闘重量がトゥラーン中戦車の18.2tから21.5tに増加したにも関わらず、エンジンはトゥラーン中戦車と同じヴァイス・マンフレード社製のV-8H
V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力260hp)のままだった。
このため若干機動力は低下したものの、路上最大速度は43km/hを発揮することができた。
一方で燃料タンクを追加した関係で、路上航続距離は220kmまで増加していた。
ズリーニィ105突撃砲の見た目のイメージは、ドイツ軍のIII号突撃砲よりもイタリア軍のセモヴェンテに酷似していた。
ただし本車の方がセモヴェンテより一回り大きく、攻撃力、防御力、機動力全ての面で性能的に勝っていた。
ズリーニィ105突撃砲の試作車は1942年12月末までには完成し、ブダペストのブダ王宮でホルティ提督や軍幹部に対して披露された。
なおこの試作車は、1943年秋に新編されたハンガリー軍第1突撃砲大隊に引き渡されて訓練用に使用された。
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+生産と部隊配備
ズリーニィ105突撃砲の試作車の完成を受けて、1942年12月12日~1943年1月12日にかけて砲兵射撃学校においての試験が行なわれた。
この試験で判明した問題点としては主砲が分離薬莢式で発射速度が遅いこと、変速・操向機に問題があることが指摘された。
さらに試験中にエンジン・トラブル等もあり、最終試験は1943年2月5日まで延期されたりしたが、それでも基本的にズリーニィ105突撃砲そのものの性能は良好と認められた。
これを受けて1943年1月26日にまだ試験中ではあったが、国防省はヴァイス・マンフレード社に対してズリーニィ105突撃砲40両の量産発注を行なった。
本車の生産にはヴァイス・マンフレード社だけでなく、多くのハンガリー企業が加わった。
主砲はMÁVAG社が、装甲板はオズドにある鉄工所で製作された。
しかしハンガリーの工業技術水準の限界か、こうした多数の下請け企業が加わった複雑な作業は生産遅延をもたらした。
最初の3両のズリーニィ105突撃砲が第1突撃砲大隊に引き渡されたのは、遅れに遅れて1943年の9月のことであった。
しかも、この3両は試作車と同様に軟鋼製で戦闘には用いることができず、訓練用にしか使用できなかった。
残りの37両のズリーニィ105突撃砲は1943年10~12月に各10両ずつ、1944年1月に7両が完成した。
その後第2ロットとして50両、第3ロットとして20両の生産が発注されたが、連合軍の爆撃で工場が破壊される等の被害があり、結局31両が完成したに留まった。
生産型のズリーニィ105突撃砲は、試作車とは若干の相違点があった。
まず車体の左右側面に、ドイツ軍戦車のシュルツェンと同様の装甲スカートが取り付けられた点である。
面白いことにこのスカートは通常の装甲板ではなく、細かい穴の開けられたパンチング・プレートが使用されたが、これは大戦後期のドイツ軍戦車が資材の節約のために、シュルツェンを成形炸薬弾対策だけに絞った金網のものに変更したのと同様の理由ではないかと思われる。
また車体前面のパーツに若干の違いがあり、操縦手用視察口が最初の3両ではトゥラーン中戦車と同じもの、後の生産型では長方形のクラッペに変更されている。
そして主砲の左側に直接照準用の円形開口部があったものが、砲防盾に照準口が移動したことで廃止されている。
その他戦闘室上面のハッチ、ペリスコープ類の配置にも若干の相違点があった。
ズリーニィ105突撃砲の量産決定後の1943年4月に、ハンガリー軍事委員会はドイツの戦車生産事情の視察を行なった。
そこで発見した事実は、ドイツ軍が歩兵支援の突撃砲から対戦車戦闘を中心とした駆逐戦車へと自走砲の生産を切り替えていることだった。
またハンガリー国内の事情として、主力戦車であるトゥラーン中戦車の改良が行なわれていたものの、この戦車はもはや改良の限界でとてもこれ以上主力戦車として使用できそうになかった。
このためトゥラーン中戦車の生産を打ち切って、ズリーニィ105突撃砲の生産に集中することが決定された。
これに関連して提起されたのが、火力支援用に開発されたズリーニィ105突撃砲の発展型として、対戦車戦闘用の駆逐戦車を開発する構想であった。
これは、ドイツ軍がIII号突撃砲を駆逐戦車化したのと軌を一にしている。
この車両は「44Mズリーニィ75」と呼ばれ、ズリーニィ105突撃砲の車体を流用して、MÁVAG社が43MトゥラーンIII重戦車用に開発した43口径75mm戦車砲43Mを搭載するものとされた。
なおズリーニィ75をズリーニィI、ズリーニィ105をズリーニィIIと呼ぶこともあるが、なぜ先に開発されたズリーニィ105がズリーニィIIで、後に開発されたズリーニィ75がズリーニィIとなったのかはよく分かっていない。
ズリーニィ75突撃砲の試作車は、ズリーニィ105突撃砲の試作車の車体を流用して製作された。
車体その他にはほとんど手が加えられず、防盾周りの設計を変更することで105mm榴弾砲に替えて75mm戦車砲を装備することができた。
ただし戦闘室前面の装甲厚は、対戦車戦闘を主眼とする故かズリーニィ105突撃砲の75mmから100mmに強化されていた。
ハンガリー軍は、ズリーニィ75突撃砲に期待して量産発注を行なった。
それによれば1944年9月までにズリーニィ105突撃砲を50両完成させた後は、ズリーニィ75突撃砲110両の大量生産が予定されていた。
しかし結局、ズリーニィ75突撃砲は試作車が完成しただけで大量生産は行なわれなかった。
これは何と、ディオーシュギエールにある銃砲工場が資材不足のため、必要な75mm戦車砲を生産することが不可能だったからだといわれる。
これが、当時のハンガリーの工業力の限界だったのである。
ズリーニィ105突撃砲の量産決定と同時に、ハンガリー軍では本車を配備する突撃砲部隊の編制を計画した。
この計画では、各10両の突撃砲を装備する砲兵中隊3個から成る突撃砲大隊を編制し、歩兵師団、機甲師団にそれぞれ1個充て所属させようというもので、ドイツ軍の突撃砲部隊の運用に似たものであった。
各中隊の装備車両は第1、第2中隊と部隊長車がズリーニィ75突撃砲で、第3中隊がズリーニィ105突撃砲となる予定であった。
しかし実際にはズリーニィ75突撃砲が生産されなかったため、このような編制が採られた大隊は1つも無かった。
突撃砲大隊は、最初に生産した40両のズリーニィ105突撃砲の練成を図るため、第1突撃砲大隊を1944年3月までに編制することが命じられ、1944年中に3個、さらに1945年中に5個の突撃砲大隊の編制が命じられた。
これに基づき、ズリーニィ105突撃砲は7つの突撃砲大隊に配属(ほとんどは訓練用に1~2両のみ)されたが、結局最終的に4つの突撃砲大隊に集められ戦闘に投入された。
ズリーニィ105突撃砲を最初に装備した大隊は、前述したように第1突撃砲大隊であった。
同大隊は1944年4月にハンガリー東方、ポーランドのガリツィアに送られ、ソ連第18軍第27戦車旅団の攻撃を受けた。
ここで明らかになったのは、ズリーニィ105突撃砲の主砲である105mm榴弾砲は対装甲威力が低く、T-34中戦車等のソ連軍戦車に全く対抗できないことであった。
大隊はハンガリー軍の中でも数少ない強力な装甲部隊として善戦したが、多くの装備を失いハンガリー領内へと後退した。
大隊は最終的に、ブダペスト周辺で戦い壊滅している。
次にズリーニィ105突撃砲を使用したのは、第10突撃砲大隊であった。
同大隊は1944年9月にハンガリー南方、トランシルヴァニアのトゥルダに投入された。
10月中旬まで大隊は防衛戦闘を続けたがその後後退に転じ、途中燃料切れ等でほとんどの装備を失った。
第20突撃砲大隊はズリーニィ105突撃砲と、チェコのBMM社(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik:ボヘミア・モラヴィア機械製作所)製のヘッツァー駆逐戦車を混成装備していた。
同大隊はハンガリーのエニイングで戦い、その1個中隊はブダペスト陥落で消滅した。
最後に第24突撃砲大隊はスロヴァキア領内で戦闘に参加し、その最後の1両のズリーニィ105突撃砲はブラチスラヴァで失われている。
現在、ズリーニィ105突撃砲はハンガリー国内には存在していない。
唯一の現存車両はソ連軍が鹵獲したもので現在、ドイツ軍からの鹵獲車両等と共にクビンカの兵器試験所博物館に展示されている。
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<40/43MズリーニィII突撃砲>
全長: 5.90m
車体長: 5.45m
全幅: 2.89m
全高: 1.90m
全備重量: 21.5t
乗員: 4名
エンジン: ヴァイス・マンフレードV-8H 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 260hp/2,200rpm
最大速度: 43km/h
航続距離: 220km
武装: 20口径105mm榴弾砲40/43M×1 (52発)
装甲厚: 13~75mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「グランドパワー2006年9月号 ドイツとともに戦った枢軸小国の戦車:2
ハンガリー編(2)」 斎木伸生 著 ガリ
レオ出版
・「グランドパワー2012年11月号 ハンガリー軍の突撃砲ズリーニ」 斎木伸生 著 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(1)
装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版
・「パンツァー2000年6月号 ハンガリー軍突撃砲ズィリニィ」 水上眞澄 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年10月号 ハンガリーのトゥラン戦車」 真出好一 著 アルゴノート社
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版
・「世界の無名戦車」 斎木伸生 著 三修社
・「戦車名鑑
1939~45」 コーエー
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