40Mトゥラーン中戦車
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+開発
ハンガリーは第1次世界大戦後世界に一気に広まった民族国家建設の流れの中で、オーストリア・ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア等と共に独立した東欧の新興国家であった。
民族的には、かつてアジアからヨーロッパに侵入したフン族の末裔といわれるマジャール人が主体で、純粋なヨーロッパ系ともスラブ系とも一線を画していた。
そんなハンガリーも1930年代には西のナチス・ドイツ、東のソヴィエト連邦と巨大な独裁的軍事国家の勃興に挟まれ、また周辺諸国と領土問題(例えばルーマニアとの間でのトランシルヴァニア領有権問題)を抱える等、国防に力を入れざるを得ない事情を持っていた。
こうした背景から、国家指導者には海軍(河川艦隊/ハンガリーは内陸国である)司令官のホルティ・ミクローシュ提督が就任し、精強な陸軍の建設に努めた。
ハンガリー陸軍は戦車の導入も積極的に進め、まずイタリアからフィアット・アンサルド社製のCV33快速戦車を143両購入した後、第2次世界大戦直前の1938年からスウェーデンのランツヴェルク社製のL-60B軽戦車のライセンス生産を開始した。
L-60B軽戦車のライセンス生産型は「38Mトルディ軽戦車」として制式化され、1940~41年にかけて合計190両が生産された。
第2次世界大戦が始まるとハンガリー陸軍は引き続き中戦車の調達を企図し、イタリアのM11/39中戦車やドイツのIV号戦車の輸入等も検討したが、ハンガリー陸軍技術研究所は1940年初めに「チェコのシュコダ製作所製中戦車が現在最良のもの」と提言した。
これを受けてハンガリー陸軍は、当時チェコを保護領としていた友好国ドイツに対して、シュコダ社製のS-II-a軽戦車(ドイツ軍呼称:35(t)戦車)の生産供給を要請した。
しかし、当時シュコダ社はドイツ軍向けの生産で手一杯でハンガリー向けまではおぼつかなかったため、ドイツ側は適当な試作中戦車の提供と自国でのライセンス生産を提案した。
元々シュコダ社は1935年以来、自社で「S-III」と呼ばれる中戦車の開発作業を続けていた。
S-III中戦車は35(t)戦車をそのままスケールアップしたような車両で、主武装として47mm戦車砲を装備していた。
しかし、1937年初めにはこのプロジェクトは放棄された。
これに続いてシュコダ社は、さらに新型の中戦車の開発を行った。
これは、チェコスロヴァキア陸軍が新型歩兵戦車としてシュコダ社とČKD社に共同開発させたSP-II-b中戦車(結局キャンセルされた)をベースにした、「S-II-c」と呼ばれる車両であった。
このS-II-c中戦車は35(t)戦車の拡大発展版といって良い車両で戦闘重量16.5t、全周旋回式砲塔にシュコダ社製の43.4口径47mm戦車砲A-11と7.92mm機関銃を装備し、装甲厚は8~50mm、走行装置は多数の小直径転輪をリーフ・スプリングで懸架した古臭いサスペンションであったが、エンジンはシュコダ社製のV-8H
V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力240hp)を搭載し、路上最大速度50km/hの機動性能を発揮することができた。
乗員も4名に増えており、戦闘能力はかなり向上していた。
ただし、35(t)戦車以来の圧縮空気式操向機とブレーキを採用したのは失敗だった。
シュコダ社はS-II-c中戦車を、1938年に行われたチェコスロヴァキア陸軍の新型中戦車選考試験に間に合わせたかったが、試作車はそれまでには完成せず試験は受けられなかったという。
その後、S-II-c中戦車がいつ実際に完成したのかははっきりしないが、1939年に呼称が「T-21」に変更されているのでそのぐらいの時期と思われる。
T-21中戦車は、試験に間に合わなかったので当然チェコスロヴァキア陸軍には採用されず、量産は行なわれなかった(もっともチェコがドイツに併合されてしまったので、採用されたČKD社のV-8-H中戦車も量産されなかったが)。
その後ドイツ軍の要求で1940年に、T-21中戦車の発展型としてエンジンを強化したT-22中戦車が製作された。
また、シュコダ社自身で機械式変速・操向機を搭載した改良型のT-23中戦車も製作されたが、これらはいずれも量産には移されなかった。
ドイツ側は、ハンガリーに対してこのT-21中戦車の提供を申し出た。
ハンガリー側はライセンス生産権の譲渡というならむしろドイツのIII号戦車の方を望んだようだが、これは拒絶されたためドイツからの申し出を受け入れることになった。
提供された2両の試作車を用いたT-21中戦車の実用試験は1940年6月より、ハンガリー陸軍のハジマスケリ演習場で実施された。
各種試験でT-21中戦車は良好な性能を示し、特に走行試験では路上および路外において連続800kmを故障無しに走破するなど、原産国チェコの工業技術の高さを見せ付けるものであった。
ハンガリー陸軍の開発担当部局は、すでに実用化されていた40Mニムロード対空自走砲が装備するスウェーデンのボフォース社製の40mm対空機関砲と砲弾を共用できるように、主砲を51口径40mm戦車砲A-17(38(t)戦車搭載の37mm戦車砲A-7をベースに口径を拡大したもの)とするよう仕様変更した上で、1940年8月7日に「40Mトゥラーン中戦車」として制式採用を決定しライセンス生産契約も締結された。
因みに「トゥラーン」(Turán)とは中央アジアの伝説上の民族・国の名で、ハンガリー人をはじめ多くのアジア系民族の祖と捉えられている。
試作車の仕様変更については、ハンガリーにあるドイツ系企業ヴァイス・マンフレード社の主任技師ヤーノス・コルブリの監督の下にチェコのシュコダ社で実施されることとなり、1940年9月にはハンガリー国内の4社に国防省から生産発注がされている。
内訳はヴァイス・マンフレード社に70両、マグヤル車両に70両、MÁVAG社に40両、ガンズ社に50両の計230両であった。
ほぼ同時期である1940年10月にハンガリーが日・独・伊の3国同盟へ参加することを決定しており、参戦も時間の問題であったことから、ハンガリー陸軍は小口径砲搭載の軽戦車しか持たないハンガリー陸軍機甲部隊の主力となるべき40Mトゥラーン中戦車の戦力化を急いだ。
しかし、実際の量産化はなかなか捗らなかった。
まず仕様変更のための最終設計の終了がずれ込んだため、シュコダ社からの製作図面のハンガリー側への引き渡しが1941年3月になってしまったのである。
そしてこの図面に基づく2両の軟鋼製増加試作車(事実上ハンガリーの手による初の試作車)の完成は、すでにハンガリー軍がドイツ軍と共にソ連領内に侵攻した後の同年7月8日となってしまった。
ハンガリー陸軍当局は広大で過酷な条件が予想されるロシアの戦場を想定して、40Mトゥラーン中戦車を実戦配備する前に前年よりも条件の厳しい試験を課すこととした。
そして1両で6,000km、2両合わせて1万kmにも達した走行試験等各種試験で様々な不具合箇所が指摘され、改善作業に追われることとなった。
当時としてはかなり高度な技術が盛り込まれた兵器である戦車を生産するには、ハンガリーの基礎的な工業技術力が追い付いていなかったものといえる。
結局、ハンガリー陸軍機甲部隊の主力になるはずの40Mトゥラーン中戦車の最初の引き渡しは、1942年5月までずれ込んだ。
そのためすでに対ソ戦も2年目の夏、ドン川、ヴォルガ川を目指す大攻勢が開始されつつあるのに、主力戦車トゥラーンの戦力化の遅れのためハンガリー陸軍は全くの戦車不足に直面してしまうことになったのである。
仕方なく1942年6月にはドイツから緊急に、シュコダ社製の38(t)戦車102両とIV号戦車若干の供給を受け、ハンガリー陸軍第1機甲師団に配備されることとなった。
こうして1942年にようやく軌道に乗った40Mトゥラーン中戦車の量産は1944年まで続けられ、合計285両が生産された。
40Mトゥラーン中戦車は1942年7月からハンガリー陸軍第1機甲師団への配備が開始され、さらに第2機甲師団、第1騎兵師団への配備が行われた。
しかし本車は初期故障が充分克服されておらず、隊員の訓練不足、維持管理体制の不備もあり、初期の40Mトゥラーン中戦車の運用成績は相当悪かったようである。
実際一旦生産された車両も、変速・操向機を始め多くの改修が必要であった。
不幸なことに40Mトゥラーン中戦車がデビューした東部戦線には前年から、性能的にはるかに優れた長砲身76.2mm戦車砲を搭載するT-34中戦車やKV-1重戦車等のソ連軍戦車が登場しており、その40mm戦車砲がドイツ軍のIII号戦車G~J型に搭載されていた42口径5cm戦車砲並みの威力があったとはいえ、40Mトゥラーン中戦車はソ連軍の主力戦車に全く太刀打ちできない状況であった。
それを判断してのことか、ハンガリー軍は本車を逐次戦闘に投入することをせずに温存したため、第2次世界大戦末期に至ってもヨーロッパにおける同盟国の中では一番最後までドイツ側で戦ったハンガリー軍の戦列に、40mm戦車砲搭載で全く時代遅れとなった40Mトゥラーン中戦車が留まっていたのである。
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+構造
40Mトゥラーン中戦車の原型となったチェコのシュコダ社製のT-21中戦車は、基本的に同社製の35(t)戦車の拡大発展版であり全体的なデザインは良く似ていた。
トゥラーン中戦車はこのT-21中戦車と基本的に同様の車両であったが、細かい部分に各種の改良、変更が加えられていた。
装甲厚は8~60mmに強化されており、車体、砲塔のわずかながらの大型化もあり戦闘重量は18.2tに増加していた。
車体と砲塔はいずれも防弾鋼板のリベット接合構造となっており、溶接構造を採用していた列強の戦車に比べると技術的に遅れていたが、当時のハンガリーの工業技術力では仕方なかった。
トゥラーン中戦車の車体は原型のT-21中戦車よりサイズがわずかに大型化し、上部構造物のデザインも変更されていた。
車内レイアウトは一般的な戦車と同様で車体前部が操縦室、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室となっていた。
操縦室内には右側に操縦手、左側に無線手兼機関銃手が位置した。
操縦手席の前面には開閉式の視察用クラッペが設けられていたがその他は開口部は無く、砲塔を含めて視察装置は全てペリスコープとなっておりこれはなかなか進歩的であった。
車体機関銃は、T-21中戦車では機関銃手席前面にも視察用クラッペがあった関係で車体中央に寄っていたが、トゥラーン中戦車ではクラッペが無くなったおかげで車体左寄りに移動している。
なお車体機関銃は、ハンガリー軍規格の8mm機関銃34/40AMに変更されていた。
操縦手席の上面には左右開き式のハッチが設けられていたが、機関銃手席側にはハッチは無かった。
なおトゥラーン中戦車はリアドライブ方式であったため、フロントドライブ方式の戦車と異なり操縦室の足元には邪魔な変速・操向機は置かれていなかった。
原型のT-21中戦車とトゥラーン中戦車で最も大きく変わった部分は、砲塔と武装である。
砲塔についてはT-21中戦車が2名用砲塔だったのに対して、それでは不便としてトゥラーン中戦車では3名が搭乗できる若干大型のものに改められている。
特徴的なのは、砲塔上面中央やや後部寄りが一段飛び出していたことである。
これは車長の頭が入るスペースだったがキューポラのような視察装置は取り付けられておらず、本当にただの張り出しとなっていた。
なおこの張り出しの上面には、左右開き式の車長用ハッチが設けられていた。
さらに砲塔左右側面の後部寄りにもそれぞれハッチが設けられており、T-21中戦車では砲塔にハッチが1つしかなかったのに比べて、ドイツ軍戦車同様砲塔乗員分のハッチがあるわけで優れたデザインといえる。
当時列強の戦車は75mmクラスの主砲を搭載するのが主流になっていたが、トゥラーン中戦車の主砲はあえて口径の小さい51口径40mm戦車砲41Mが採用されていた。
これはハンガリー軍が対戦車砲や対空砲に40mm砲を使用していた関係で、口径を共通化した方が良いという考えからであった。
この砲の性能ははっきりしないが、射距離500mで50mm程度の装甲貫徹力を持っていたと推測される。
なお砲塔前面右側には、ボールマウント式(主砲同軸ではない)に8mm機関銃34/40AMが装備されていた。
トゥラーン中戦車のエンジンは、T-21中戦車に搭載されていたシュコダ社製のV-8H V型8気筒液冷ガソリン・エンジンをヴァイス・マンフレード社でライセンス生産したものを搭載しており、原型よりも若干出力が増加していた。
エンジンは機関室内に若干左側に寄せて搭載され、右側には冷却装置が配置されていた。
機関室上面には左側にエンジン点検用の大型ハッチがあり、右側には換気口が設けられていた。
変速・操向機はエンジンの後方に配置され、やはり上面には点検用ハッチが設けられていた。
変速・操向機の左右には、排気マフラーが取り付けられていた。
トゥラーン中戦車は、路上最大速度47km/hの機動性能を発揮できた。
接地圧が若干増加しているため全く同一の機動力とはいえないものの、ほぼ原型のT-21中戦車に準じるものであったと思われる。
もっとも足周りに関しては小直径転輪2個をペアにしてアームに取り付け、さらにそれを2組組み合わせてリーフ・スプリングで緩衝し、それを片側2組ビームで固定して車体に取り付けるという古臭いサスペンション方式を用いており、緩衝性能はあまり高くなかったと思われる。
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+発展型と戦歴
結局、登場早々に旧式化の憂き目を見た40Mトゥラーン中戦車であったが、ハンガリー陸軍は早くも1941年5月から本車に75mm戦車砲を搭載することを企図し、前年来使用していたT-21中戦車の試作車への搭載を模索し始めていた。
そして1942年1月、トゥラーン中戦車の試験車体としての役目を終えていたT-21中戦車の内の1両に、MÁVAG社が開発した25口径75mm戦車砲41Mを搭載した試作車が完成した。
主砲の換装にあたっては砲基部が変更された他、特に俯角をかけた時の砲尾のクリアランスのため、砲塔上面に車長用張り出しを前方に延長するような大きな張り出しが設けられた。
副武装や装甲厚等は、トゥラーン中戦車と同じであった。
戦闘重量が19.2tに増えたがエンジン等に変更は無く、路上最大速度43km/hと機動性能はわずかながら低下していた。
1942年5月までに実用試験を経て、本車は「41Mトゥラーン重戦車」(といっても他国の軽戦車と中戦車の中間くらいの重量しかない)として制式採用が決まった。
また41Mトゥラーン重戦車の完成をもって従来の40mm戦車砲搭載型を「トゥラーンI」、75mm戦車砲搭載の本型を「トゥラーンII」と称するようになった。
トゥラーンIIは中期以降の生産車では、ドイツ軍戦車と同様のシュルツェン(5mm厚程度の着脱鋼板による空間装甲)を車体と砲塔の側面に取り付ける改良が施された。
41MトゥラーンII重戦車の量産は1943年春に開始され、最初の4両が軍に引き渡されたのが同年の5月であった。
量産は1944年6月まで40MトゥラーンI中戦車と並行して続けられ、合計139両が完成したという。
トゥラーンIIはトゥラーンIと同様にハンガリー陸軍第1、第2機甲師団や第1騎兵師団などに配備された。
また、突撃砲の代わりに突撃砲大隊にも配備されている。
なおトゥラーンIIの派生型として、指揮戦車型の43Mトゥラーン無線戦車(ベゼルトゥラーン)が製作されている。
これはトゥラーンIIの武装を撤去して、砲塔内に3種類の無線機を搭載したものである。
なお指揮戦車であることが分からないように、ベゼルトゥラーンの砲塔前面にはダミー砲が取り付けられていた。
こうしてようやく1943年半ば以降にまとまった数の戦力化がされたトゥラーン戦車シリーズであるが、その初陣は遅く、1944年4月のコロミヤ地区におけるソ連軍に対する反撃作戦にハンガリー陸軍第2機甲師団が参加した時であった。
本作戦は森林と湿地の多い地区で行われた困難な反撃作戦で、トゥラーンI・II合わせて約100両を装備した第2機甲師団はソ連軍により30両を撃破または鹵獲されてしまった。
また1944年7月10~15日の北部ガリシア地区、ルニネク~ブレスト間の防衛戦闘に参加したハンガリー陸軍第1騎兵師団は、トゥラーンI・IIから成る戦車連隊を全滅させられている。
同年秋にはハンガリーに侵攻したソ連軍に対して、124両のトゥラーン戦車から成る第1機甲師団が防御戦闘を展開している。
しかしブダペスト地区まで後退した同師団の残余は、10月末にソ連側に寝返ってドイツ軍を攻撃している。
また、ドイツ軍側に最後まで付き従ったハンガリー軍部隊も若干のトゥラーン戦車をもって戦闘を継続しており、それらはオーストリアやチェコスロヴァキアまで後退した上1945年4月に降伏した。
トゥラーン戦車は、突撃砲のベースにもなった。
ドイツ軍のIII号突撃砲の成功に刺激されたハンガリー軍は、本車のシャシーを使って40/43MズリーニィII突撃砲を1943年に実用化した。
これは、トゥラーン戦車の車体上部に最大装甲厚75mmの背の低い固定式戦闘室を設け、MÁVAG社が開発した20.5口径105mm榴弾砲40/43Mを搭載したもので、1943~44年にかけて66両が生産された。
また、同じ車体に43口径75mm戦車砲43Mを搭載した対戦車型の44MズリーニィI突撃砲も計画されていたが、4両が完成したのみであった。
これらはいずれもハンガリー国内での戦闘に投入され、1両がソ連軍に鹵獲された他は全て破壊された模様である。
またトゥラーン戦車シリーズの最後の生産型として、1943年2月に43MトゥラーンIII重戦車の開発が開始された。
トゥラーンIIIは、激烈な東部戦線での戦いに対応した武装および装甲強化型であった。
主砲には44MズリーニィI突撃砲と同じく43口径75mm戦車砲43Mが採用され、それに合わせて砲塔はかなりの改設計が行われていた。
ただそのデザインはいかにも間に合わせという感じで、かなり不恰好ではあった。
詳細は不明だがタイプIとタイプIIがあったらしく、装甲厚はタイプIで最大90mm、タイプIIで最大95mmという強力なものであった。
戦闘重量はタイプIが23.3t、タイプIIが22tであった。
エンジンはトゥラーンI・IIと同じ、ヴァイス・マンフレード社製のV-8H V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力260hp)のままだったが、戦闘重量が増加したため路上最大速度は40km/hに低下していた。
トゥラーンIIIは、1943年8月にトゥラーンIの車体を改造してモックアップ砲を搭載した試作車が、ヴァイス・マンフレード社で製作された。
同年12月には搭載砲の実物が組み込まれることが予定されたが、結局1944年6月に至っても試作車は完成しなかった。
結局43MトゥラーンIII重戦車は量産には至らず(ガンズ社で6両が生産されたという説もある)、実戦には間に合わなかった。
性能的にはドイツ軍のIV号戦車長砲身型に匹敵する車両であり、実用化できなかったことが惜しまれる。
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<40MトゥラーンI中戦車>
全長: 5.55m
全幅: 2.44m
全高: 2.39m
全備重量: 18.2t
乗員: 5名
エンジン: ヴァイス・マンフレードV-8H 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 260hp/2,200rpm
最大速度: 47km/h
航続距離: 165km
武装: 51口径40mm戦車砲41M-40/51×1 (101発)
8mm機関銃34/40AM×2 (3,000発)
装甲厚: 8~60mm
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<41MトゥラーンII重戦車>
全長: 5.55m
全幅: 2.44m
全高: 2.43m
全備重量: 19.2t
乗員: 5名
エンジン: ヴァイス・マンフレードV-8H 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 260hp/2,200rpm
最大速度: 43km/h
航続距離: 150km
武装: 25口径75mm戦車砲41M-75/25×1 (56発)
8mm機関銃34/40AM×2 (1,800発)
装甲厚: 8~60mm
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<43MトゥラーンIII重戦車>
全長: 7.00m
全幅: 2.44m
全高: 2.43m
全備重量: 23.3t
乗員: 5名
エンジン: ヴァイス・マンフレードV-8H 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 260hp/2,200rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 120km
武装: 43口径75mm戦車砲43M-75/43×1 (32発)
8mm機関銃34/40AM×2 (1,800発)
装甲厚: 8~90mm
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兵器諸元(40MトゥラーンI中戦車)
兵器諸元(41MトゥラーンII重戦車)
兵器諸元(43MトゥラーンIII重戦車)
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<参考文献>
・「グランドパワー2006年9月号 ドイツとともに戦った枢軸小国の戦車:2
ハンガリー編(2)」 斎木伸生 著 ガリ
レオ出版
・「グランドパワー2012年11月号 ハンガリー軍の突撃砲ズリーニ」 斎木伸生 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2017年9月号 ハンガリーのトゥラーン中戦車」 斎木伸生 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車
1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「パンツァー1999年10月号 ハンガリーのトゥラン戦車」 真出好一 著 アルゴノート社
・「パンツァー2009年1月号 ハンガリー陸軍戦車小史」 上田暁 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2018年2月号 KUBINKA 2017」 布留川司 著 アルゴノート社
・「世界の無名戦車」 斎木伸生 著 三修社
・「戦車名鑑
1939~45」 コーエー
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