新型38(t)戦車
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+開発
1939年9月1日にドイツ軍がポーランド侵攻作戦(Unternehmen Weiß:白作戦)を発動させたことで第2次世界大戦が勃発したが、それまでドイツ陸軍は他国以上に偵察に力を注いできたにも関わらず、実際の戦闘が始まってみると、侵攻偵察にはSd.Kfz.222やSd.Kfz.231など従来の偵察用装甲車を投入するのは火力の面で難があり、かといってI号戦車やII号戦車では火力と速度の面でこれまた問題があった。
このため、ドイツ陸軍が装備する装甲車両の開発を担当する陸軍兵器局第6課は、フランス侵攻作戦終了直後の1940年7月に、ニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)、チェコ・プラハのBMM社(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik:ボヘミア・モラヴィア機械製作所、旧ČKD社)、チェコ・プルゼニのシュコダ製作所の3社に対して新型偵察用軽戦車に関する基本仕様を伝え、原案の取りまとめを要求した。
この際に兵器局第6課が求めたのは、戦闘重量12~13tで路上最大速度50km/h以上というものであった。
この兵器局第6課からの要求に応じて、シュコダ社は同社の手になる35(t)戦車をベースとしたT-15軽戦車、BMM社は同様に38(t)戦車の発展型であるTNH.n.A軽戦車、そしてMAN社はII号戦車の発展型であるII号戦車n.A.の設計案をそれぞれまとめて提出した。
なお、「n.A.」とは「neue Ausführung」(新型式)の頭文字を採ったものであり、これを受けた兵器局第6課はとりあえず各社に試作車の製作を命じた。
BMM社に対しては5両の試作車製作が求められたが、この試作車は最初の1両が軟鋼板をリベット接合して製作することとされ、2両目は軟鋼板を溶接で接合し、3両目はRHA(均質圧延装甲板)をリベットで接合、残る2両はRHAを溶接で接合して完成させることとされていた。
これに従いBMM社は、38(t)戦車の基本レイアウトと足周りなどを踏襲しながら車体と砲塔を新設計とし、同じ3.7cm戦車砲を搭載するTNH.n.A軽戦車の設計案をまとめ上げ、その試作第1号車を1941年12月に完成させて、残る4両の試作車は以後一月ごとに完成させるとの報告書を提出した。
そして報告書通り試作第1号車は1941年12月に完成し、翌42年1月からシュコダ社の試作車であるT-15軽戦車、MAN社の試作車であるVK.13.03軽戦車と共にツォッセンのクンマースドルフ車両試験場での性能比較試験が開始された。
この試験は1942年4月まで続けられ、TNH.n.A.軽戦車は総走行距離3,866kmを記録したが、この間不具合が生じたことは無かったという。
これとは対照的にT-15軽戦車とVK.13.03軽戦車は試験において各部に問題を生じたため、信頼性が高いTNH.n.A軽戦車の優位は明らかであった。
しかし、兵器局第6課は試験の勝者としてMAN社のVK.13.03軽戦車を選択し、800両が生産発注されてその後「II号戦車L型「ルクス」(Luchs:ヤマネコ)」として制式化されることになり、BMM社のTNH.n.A軽戦車は不採用となった。
これは、TNH.n.A軽戦車の路上最大速度がVK.13.03軽戦車の60km/hよりもやや遅い52.5km/hであったことが最大の理由とされているが、それでも兵器局第6課の要求水準は充分満たしていたため、実際はそれまでドイツ陸軍のAFV開発に深く関わってきたMAN社の政治力が影響したものと思われる。
こうしてTNH.n.A軽戦車は不採用に終わったが、従来のII号戦車系列の車両とは大きく設計の異なるルクス戦車の実戦化には時間が掛かることが見込まれたため、それまでのストップギャップとして兵器局第6課はBMM社に対して、38(t)戦車およびTNH.n.A軽戦車のコンポーネントを流用した暫定的な偵察用軽戦車を早急に開発するよう求めた。
この結果開発されたのが「38(t)偵察戦車」(Aufklärungspanzer 38(t))で、「Sd.Kfz.140/1」の特殊車両番号が与えられて70両が生産発注された。
38(t)偵察戦車は1944年1月までに全車が引き渡される予定であったが、実際にはルクス戦車の生産が終了した後の同年3月まで引き渡しがずれ込んでしまった。
このため以前は、38(t)偵察戦車はルクス戦車の後継として開発された偵察用軽戦車であるというのが通説になっていた。
いずれにしろ、この38(t)偵察戦車の実用化に繋がったことや、後にコンポーネントの一部がヘッツァー駆逐戦車に受け継がれたことから、TNH.n.A軽戦車の開発は無駄ではなかったといえよう。
不採用に終わったTNH.n.A軽戦車は、その後様々な試験に供された。
1944年3月19日にドイツ陸軍機甲兵総監ハインツ・W・グデーリアン上級大将が、ガソリン不足を背景としてヘッツァー駆逐戦車のエンジンをガソリンからディーゼルに変更することを強く求めたため、これに応じてBMM社は3月22日付でチェコ・コプジブニツェのタトラ社に対し、ヘッツァー駆逐戦車用の新型ディーゼル・エンジンの開発を要請した。
BMM社はTNH.n.A軽戦車の試作第3号車を自社の試験用として残し、タトラ社がヘッツァー駆逐戦車用に開発した928型 V型8気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力180hp)に換装して試験を行った。
しかし、タトラ社が928型ディーゼル・エンジンの生産準備を整えるのに手間取り、その第1号基が送られてきたのは大戦末期の1945年4月に入ってからだったため、結局ヘッツァー駆逐戦車の生産車にディーゼル・エンジンが搭載されることは無かった。
また、TNH.n.A軽戦車の最後の試作車となった試作第5号車は第2次大戦を生き残り、1949年にはシュコダ社製の半自動装填式57mm戦車砲A25を備える実物大モックアップ砲塔を搭載して、「TNH-57/900」の呼称で試験に供されている。
TNH-57/900軽戦車の試験の結果が良好だったため、本車は外貨獲得のために海外に輸出することが計画されたが、1948年にクレメント・ゴットワルトが率いる共産党が実権を握ったチェコスロヴァキアは、1949年にソ連およびその友好国以外への兵器の輸出を禁止し、ソ連から積極的に兵器の導入を開始したためTNH-57/900軽戦車の輸出計画は断念された。
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+構造
TNH.n.A軽戦車の車体は、38(t)戦車のものと大差無いが若干大型化が図られており、車体と砲塔の装甲厚は前面30mm、側面20mm、後面25mmで、上面と下面は8~10mm、主砲防盾のみ50mmという装甲を備えていた。
戦闘重量は11.5tと38(t)戦車よりもやや増加したが、それでも接地圧は0.6kg/cm2という低い値を維持していた。
車体前部には左側に操縦手、右側に無線手が横に並ぶ形で配されたが、この操縦手左側配置はBMM社の車両としては初めてのもので、後にヘッツァー駆逐戦車などにも踏襲されている。
操縦手と無線手にはそれぞれ車体前面に装甲ヴァイザー、側面に装甲クラッペを設けて視界を確保しており、それぞれの頭上には独立したハッチが備えられていた。
全周旋回式の砲塔は38(t)戦車のイメージを残してはいたものの全くの新設計で、車長用キューポラに代えて砲塔上面中央部を張り出し、この張り出しの前/後面に各2基ずつ視察用装甲ヴァイザー、左右側面に各1基ずつ視察用装甲クラッペをそれぞれ装備することで視界を確保していた。
この結果、張り出しを除いた砲塔高は38(t)戦車よりも低くまとめることに成功した。
また、この張り出しの上面には後ろ開き式のハッチが2枚並列に設けられており、右側が車長用、左側が砲手用となっていた。
主砲は、38(t)戦車に搭載された47.8口径3.7cm戦車砲KwK38(t)の改良型としてシュコダ社が開発した、半自動装填式の3.7cm戦車砲A19が採用された。
主砲の右側にはオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が同軸に装備され、その反対側にあたる左側には砲手用の直接照準機が備えられていた。
またTNH.n.A軽戦車は偵察用戦車ということで、砲塔上面中央の最前部に小型のサーチライトを装備しており、38(t)戦車との外観上の大きな相違点となっていた。
車体後部の機関室には、プラハのプラガ社が38(t)戦車に搭載された同社製のEPA 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力125hp)の出力強化型として開発した、NR V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力220hp)が収められ、推進軸を介して車体前部に置かれたプラガ・ウィルソン手動変速機(前進5段/後進1段)に動力が伝達されて、車体前方左右の起動輪を駆動した。
TNH.n.A軽戦車の出力/重量比は19.1hp/tとかなり大きい値を示しており、ギア比を変更することで旋回半径を減らすこともでき、路上最大速度は60.8km/hに達した。
機関室のレイアウトは原型の38(t)戦車と良く似ており、左右側面に下向きのカバーで覆われた吸気口を設けているところや、上面に左右開き式の大きな点検用ハッチを設けている点などは38(t)戦車そのままと言って良かった。
ただし、エンジンの強化に伴ってラジエイターの容量が拡大されたようで、機関室上面後端に備えられたラジエイターの排気グリルは38(t)戦車よりも大型化されていた。
TNH.n.A軽戦車の足周りは、基本的なレイアウトは38(t)戦車と同様で片側4個の大直径転輪と上部支持輪、前方の起動輪、後方の誘導輪で構成されていたが戦闘重量が増大したため、転輪、起動輪、誘導輪は38(t)戦車のものより大型化された。
転輪は38(t)戦車のものと同じく6mm厚の鋼板プレス製で、周囲に32本のボルトでゴム縁が取り付けられていた点も同様であったが、直径が38(t)戦車の775mmから825mmに増大していた。
上部支持輪は38(t)戦車の片側2個から1個に減らされたが、支持輪そのものは38(t)戦車のものと同じ直径220mmのゴム縁付きのものが用いられた。
上部支持輪の取り付け位置は38(t)戦車が第1転輪と第2転輪の間と、第2転輪と第3転輪の間だったのに対し、TNH.n.A軽戦車の場合は第2転輪と第3転輪の間のみとなっていた。
誘導輪は、38(t)戦車のものと同様に軽量化を図って周囲に12個の肉抜き穴が開けられていたが、直径が38(t)戦車の535mmから620mmに増大していた。
起動輪は38(t)戦車のものと良く似ており、周囲に16個の肉抜き穴が開けられている点も同様だったが、外周に設けられている歯の数が38(t)戦車の19枚から20枚に増加し、直径もやや増大していた。
履帯については38(t)戦車と同じ幅293mmの履帯が用いられたが、片側の履板枚数は38(t)戦車が94枚だったのに対しTNH.n.A軽戦車では96枚に増加している。
なおTNH.n.A軽戦車の足周りは履帯以外、後にヘッツァー駆逐戦車に流用されている。
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<VK.13.03軽戦車>
全長: 4.63m
全幅: 2.48m
全高: 2.21m
全備重量: 11.8t
乗員: 4名
エンジン: マイバッハHL66P 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 180hp/3,200rpm
最大速度: 60km/h
航続距離: 260km
武装: 65口径2cm機関砲KwK38×1 (320~330発)
7.92mm機関銃MG34×1 (2,250発)
装甲厚: 5.5~30mm
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<T-15軽戦車>
全長: 4.58m
全幅: 2.20m
全高: 2.16m
全備重量: 10.0t
乗員: 4名
エンジン: シュコダ 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 220hp/2,800rpm
最大速度: 56km/h
航続距離: 210km
武装: 47.8口径3.7cm戦車砲A19×1
7.92mm機関銃MG37(t)×1
装甲厚: 8~20mm
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<新型38(t)戦車>
全長: 4.70m
全幅: 2.22m
全高: 2.22m
全備重量: 11.5t
乗員: 4名
エンジン: プラガNR 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 220hp/2,200rpm
最大速度: 60.8km/h
航続距離: 175km
武装: 47.8口径3.7cm戦車砲A19×1 (60発)
7.92mm機関銃MG34×1 (2,100発)
装甲厚: 8~50mm
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兵器諸元
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<参考文献>
・「パンツァー2005年9月号 ドイツII号L型軽戦車の開発とバリエーション(後編)」 稲田美秋 著 アルゴノート社
・「パンツァー2007年5月号 第二次大戦のスロバキア戦車隊」 稲田美秋 著 アルゴノート社
・「グランドパワー2003年11月号 II号戦車ルクスと試作軽戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2013年4月号 ドイツ軽戦車 38(t)」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2021年2月号 38(t)派生型」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939~43」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.3 戦車」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版
・「ドイツ試作/計画戦闘車輌」 箙浩一/後藤仁 共著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車輌」 ガリレオ出版
・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画
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