38(t)戦車A/B型
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+38(t)戦車の開発
プルゼニのシュコダ製作所と並ぶチェコスロヴァキア軍事工業の一方の雄であるプラハのČKD社(Českomoravská Kolben-Daněk)は、1930年代半ばより海外への兵器輸出に力を注ぎ、近代的な内容を備えたTNH軽戦車とAH-IV豆戦車を開発した。
この両車はイランへの売り込みが図られ1935年5月にTNH軽戦車26両、AH-IV豆戦車30両の販売契約を結ぶことに成功した。
TNH軽戦車は37mm戦車砲を、AH-IV豆戦車は7.92mm機関銃をそれぞれ備えており、その外観は非常にまとまりが良く近代戦車と呼ぶにふさわしい内容を備えていた。
試作車は1935年9月に武装が未装備の状態で完成し、これを見たイランの使節団は大きな感銘を受け、両車とも発注数を50両に増やしたほどだった。
このイランの発注後もTNH軽戦車とAH-IV豆戦車は順調に輸出が行われたが、一方チェコスロヴァキア陸軍の次期軽戦車としての採用を狙ってČKD社が開発したP-II-a軽戦車は、シュコダ社のS-II-a軽戦車との競争の末に残念ながら敗れてしまった。
シュコダ社のS-II-a軽戦車は「LTvz.35」(Lehký Tank vzor 35:35式軽戦車)の制式呼称でチェコスロヴァキア陸軍に採用されたが、部隊での運用を開始してみると独特の圧縮空気を利用した変速機にトラブルが多発してしまった。
このためチェコスロヴァキア陸軍は1937年10月に、当初予定していたLTvz.35軽戦車300両の追加発注をキャンセルし、シュコダ社とČKD社に対して代替となる新型軽戦車の開発を行うよう求めた。
この要求に対してシュコダ社はS-II-a軽戦車を発展させたS-II-aR1軽戦車とS-II-aR2軽戦車を提案し、ČKD社はLTvz.34軽戦車の発展型vz.34R軽戦車と、TNH軽戦車をベースに改良を盛り込んだTNH-S軽戦車を提案した。
1938年1月より、両社の試作車を用いた性能比較試験が開始された。
シュコダ社の車両はさすがに変速機を通常の機械式に替えてはいたものの、相変わらずサスペンション機構はS-II-a軽戦車の古臭い方式を踏襲していたため機動性能は良くなかった。
一方、ČKD社が開発したTNH-S軽戦車は大直径転輪を2個ずつリーフ・スプリング(板ばね)で懸架したサスペンション機構を採用しており、走行試験において高い機動性能を発揮した。
このためチェコスロヴァキア陸軍は1938年7月にTNH-S軽戦車を勝者と認め、「LTvz.38」(Lehký Tank vzor 38:38式軽戦車)として制式化すると共に150両の生産契約を結んだ。
当時チェコスロヴァキアはズデーテン地方を巡ってドイツとの間に緊張が高まっていたため、LTvz.38軽戦車は早急な生産が望まれて最初の20両は1938年末までに、残りも1939年3月までに引き渡しを終えることが求められた。
しかしミュンヘン会議の結果、チェコスロヴァキアはズデーテン地方をドイツに譲渡することになり、このため緊張は緩和されたとしてLTvz.38軽戦車の生産ペースも落とされ、さらに1939年3月15日にチェコスロヴァキアは保護領という形でドイツに併合されてしまった。
結局LTvz.38軽戦車が本格的な生産を開始したのは1939年5月からで、しかも自国のためにではなくドイツ軍の装備する戦車としてであったのは何とも皮肉である。
さらにはČKD社自体も、いかにもドイツ風な「BMM」(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik:ボヘミア・モラヴィア機械製作所)と社名を改められるというオマケまで付いていた。
一方のドイツ軍にとっては、自国のIII号戦車と比べても勝るとも劣らない戦車を入手でき、西方電撃戦からソ連侵攻まで多用できたことがこの間の勝利の要因の1つとなったことは疑いない。
同じくチェコスロヴァキア併合により入手したLTvz.35軽戦車の場合は、すでに生産されていた車両を「35(t)戦車」(Panzerkampfwagen
35(t))の呼称で使用しただけで追加生産は行わなかったのに対し、このLTvz.38軽戦車はまだ完成車が無かったこともあるが、「38(t)戦車」(Panzerkampfwagen
38(t))の呼称を与えて大量生産を行った。
しかも大戦半ばからは各種自走砲のベース車台として広く用いられ、ドイツ軍に欠かすことのできない車両となったのは本車の優秀性を示すものであろう。
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+38(t)戦車A型
チェコスロヴァキア陸軍向けの車両として発注された150両のLTvz.38軽戦車は、一部装備を改めただけでそのままドイツ陸軍向けとして完成した。
「38(t)戦車A型」(Panzerkampfwagen 38(t) Ausf. A)の型式名は、この150両に対して与えられたものである。
A型の車体製造番号は1~150で、生産は1939年5~11月にかけて行われた。
38(t)戦車A型の車体構造は最前部に変速機と操向機を置き、その後方に操縦室と戦闘室、そして後部に機関室というドイツ戦車と共通するレイアウトで、車体、砲塔ともボルトとリベットを用いて装甲板を接合していた。
装甲厚は車体と砲塔の前面が25mm、側/後面15mm、上面8mm、機関室上面10mmと、軽戦車としては充分な装甲防御力を備えていた。
エンジンはスウェーデンのスカニア・ヴァビス社製の1664型ガソリン・エンジンを、プラハのプラガ社でライセンス生産したTNHP/S 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力125hp)が用いられ、エンジンの直後にラジエイターを配しその後ろに冷却ファンを備えていた。
冷却空気は機関室左右のオーバーハングした開口部から取り入れられ、熱気は機関室最後部のグリルから車外に排出した。
排気は車体右後部に排気管を伸ばし、横置きに設けられたマフラーに導かれた。
また機関室の床下は燃料タンクに充てられ、燃料110リットルが収容された。
機関室の中央部に置かれたエンジンからは推進軸が前方に伸ばされ、イギリスのSCG社(Self-Changing Gears:自動変速ギア会社)からライセンス生産権を得てプラガ社が独自に改良を加えた、前進5段/後進1段のプラガ・ウィルソン変速・操向機に導かれ、最終減速機を経て前部の起動輪を駆動するという方式はドイツ戦車と同様であった。
操縦室は変速・操向機の後方に位置し、右側に操縦手、左側に無線手が着座した。
前面の装甲板にはそれぞれに視察用のペリスコープが備えられていたが、無線手用ペリスコープは開閉式の装甲カバー付きが用いられ、開口部のサイズも異なっていた。
両者の間にはボールマウント式銃架にブルノ工廠製の7.92mm機関銃ZBvz.37が装備されており、通常は無線手が射撃を行ったが必要に応じて操縦手が射撃を行うことも可能であった。
この点は同じチェコ製の35(t)戦車と同様だが、この38(t)戦車では車体前部に操縦手用の直接照準棒が装着されていたのが目立つ。
無線手席の上部にはハッチが備えられており、車体床板の中央には円形の脱出用ハッチが用意されていた。
38(t)戦車A型の砲塔には前面中央にシュコダ社製の47.8口径3.7cm戦車砲UVvz.38、その右側に設けられたボールマウント式銃架に7.92mm機関銃ZBvz.37が装備されていた。
この3.7cm戦車砲UVvz.38は35(t)戦車で用いられた3.7cm戦車砲UVvz.34の改良型であり、重量などが増加しているが装甲貫徹力等のデータは発表されていない。
搭載弾薬数は3.7cm砲弾が6発収容の弾薬ケース15個を収容しているので、その総数は90発と35(t)戦車より増えたが、7.92mm機関銃弾は300発のベルト9本で2,700発と変化は無い。
なお38(t)戦車では砲塔内に装填手が追加されたので、砲手を兼ねる車長の作業量は少し軽減された。
砲塔上面には車長用キューポラが装備され、周囲に4基のペリスコープが装着されていた。
また車長用キューポラの前方には全周旋回式で視野角20度、2.6倍の倍率を持つ望遠式ペリスコープが備えられていたが、装填手側には視察装置は一切用意されていなかった。
LTvz.38軽戦車を入手したドイツ陸軍はLTvz.35軽戦車と同様に装備品をドイツ製に改めたり、追加装備を施した。
まず車体と砲塔のボールマウント式機関銃の周囲に円形の防護鋼板をボルト止めして追加し、さらに左フェンダーの前部に防空型管制灯(ノーテクライト)を新設し、併せて電気系統をドイツ・ゲルリンゲンのロバート・ボッシュ社製のものに改めた。
また車体後部には間隔表示灯とブレーキランプが追加されたが、ノーテクライト共々38(t)戦車A型の全車に装備されたか否かは不明である。
38(t)戦車A型の後期生産車では車体左側面を這うような形で備えられていた太いアンテナを廃止したが、これは前線で改修作業を行った車両もあった。
この太いアンテナは「バトルアンテナ」と呼ばれるもので、車体前部に設けられていたアンテナの基部には通常のロッドアンテナが生産時より立てられていたので、バトルアンテナを廃止したからといって特にアンテナを追加したわけではない。
38(t)戦車A型は59両がドイツ陸軍第3軽機甲師団の第67戦車大隊に配属されて、1939年9月のポーランド侵攻作戦(Unternehmen
Weiß:白作戦)に使用された。
さらに15両が、1940年4月のノルウェイ侵攻作戦(Unternehmen Weserübung:ヴェーザー演習作戦)にも投入されている。
その後も、生き残った車両はアフリカを除く全ての戦場で使用されている。
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+38(t)戦車B型
38(t)戦車A型の本格的な生産が開始された翌月の1939年6月、325両の38(t)戦車が追加発注された。
B型はこの内1940年1~5月にかけて生産された、車体製造番号151~260の110両に対して与えられた呼称で基本的にはA型と同仕様だが、無線機はチェコ製のFu.37(t)からドイツ製のFu.2とFu.5に換装され、最初からノーテクライトや間隔表示灯等を装備して完成している。
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<38(t)戦車A/B型>
全長: 4.56m
全幅: 2.15m
全高: 2.26m
全備重量: 9.725t
乗員: 4名
エンジン: プラガEPA 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 125hp/2,200rpm
最大速度: 42km/h
航続距離: 210km
武装: 47.8口径3.7cm戦車砲KwK38(t)×1 (90発)
7.92mm機関銃MG37(t)×2 (2,700発)
装甲厚: 8~25mm
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<参考文献>
・「グランドパワー2006年12月号 ドイツとともに戦った枢軸小国の戦車:3 スロバキア・フィンランド編」 齋木伸生
著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2007年6月号 マーダーIII対戦車自走砲H型」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2013年4月号 ドイツ軽戦車
38(t)」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2020年12月号 38(t)軽戦車」 寺田光男 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1)
第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「グランドパワー1999年9月号 ドイツ38(t)軽戦車」 佐藤光一 著 デルタ出版
・「パンツァー2014年4月号 誌上対決 38(t)戦車 vs M3軽戦車」 久米幸雄 著 アルゴノート社
・「パンツァー2007年5月号 第二次大戦のスロバキア戦車隊」 稲田美秋 著 アルゴノート社
・「ピクトリアル ドイツ軽戦車」 アルゴノート社
・「世界の戦車
1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画
・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー
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