38式駆逐戦車ヘッツァー |
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ヘッツァー駆逐戦車 実物大モックアップ ヘッツァー駆逐戦車 極初期型 ヘッツァー駆逐戦車 初期型 ヘッツァー駆逐戦車 中期型 ヘッツァー駆逐戦車 後期型 |
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+開発
連合軍は1943年10月から、ドイツ陸軍の各種戦闘車両の開発・生産を手掛けていたベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトマルク履帯製作所)に対する爆撃を開始した。 アルケット社に対する爆撃は継続して行われ、同年11月26日の爆撃では424tという大量の爆弾が落とされ、同社のベルリン工場は大きな被害を受けた。 このため、ベルリン工場で量産が進められていたIII号突撃砲の生産数は1943年10月が255両であったのに対し、11月は145両、12月は23両と大きく落ち込んでしまった。 当時ベルリン工場が生産を行っていたIII号突撃砲G型は、装甲貫徹力に優れるデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の48口径7.5cm突撃加農砲StuK40を装備し、不足する戦車を補う貴重な対戦車兵器として各戦線で必要とされていたため、これは由々しき問題であった。 このためドイツ陸軍総司令部(OKH)は、アルケット社ベルリン工場が大きな損害を被った1943年11月26日に対策の検討に着手し、以前よりエッセンのクルップ社が提案していた、IV号戦車の車体をベースとする新型突撃砲(後のIV号突撃砲)を急遽生産に移行する一方で、38(t)戦車の車体をベースとする各種自走砲の生産に取り組んでいたチェコ・プラハのBMM社(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik:ボヘミア・モラヴィア機械製作所、旧ČKD社)に対し、III号突撃砲G型の生産を行えないかと打診した。 しかし、1943年12月6日付でアドルフ・ヒトラー総統に送付された報告書において、BMM社は車両の生産に欠かせないクレーンの能力不足と工場施設自体の規模的な問題から、III号突撃砲G型の生産を行うのは不可能との報告を行っている。 それまでBMM社が生産を行ってきた戦車や自走砲の戦闘重量がいずれも10t前後であったのに対し、III号突撃砲G型は戦闘重量が倍以上の24tもあり、しかも車体サイズも一回り大型だったのでこの回答は当然といえる。 ただしBMM社はその代替案として、同社の工場で生産可能な38(t)戦車の車体をベースとする新型軽突撃砲(後のヘッツァー駆逐戦車)の開発を行う提案書を、12月8日にドイツ陸軍兵器局のシェーデ大佐に提出した。 この提案書の内容は戦闘重量10~12tで、極力小型にまとめられた完全密閉式の固定戦闘室を搭載し、かつ前面の装甲厚をIII号突撃砲の80mmから60mmに減じることで重量を抑え、防御力の脆弱さを路上で55~60km/hという最大速度を利して切り抜けるというものであった。 この提案はヒトラーの承認を受け、BMM社は早速本格的な設計作業を開始し、12月17日には早くも新型軽突撃砲の基本案を提出した。 この基本案の内容は、 ・当時BMM社で生産されていた各種自走砲と同じく38(t)戦車のコンポーネントを流用し、加えて新型38(t)戦車で 採用されたコンポーネントも流用する。 ・III号突撃砲G型の主砲と同等の威力を備える、ラインメタル社製の48口径7.5cm対戦車砲PaK39を主砲として装 備する。 ・戦闘重量は、設計の完了時において先の提案をわずかに超える13tとする。 といったものであった。 ちなみに新型38(t)戦車は、兵器局第6課が立案したドイツ陸軍の新型偵察戦車計画に従って、BMM社が38(t)戦車の発展型として1940年7月に開発着手したもので、1941年12月に最初の試作車が完成している。 新型38(t)戦車は偵察戦車としては非常に完成度の高い車両であったが、結局ニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)が開発したVK.13.03(後のII号戦車L型「ルクス」(Luchs:ヤマネコ))との競争に敗れ、不採用となった。 この基本案を審査したヒトラーは、BMM社の工場施設に見合った最良の解決法だと絶賛し、直ちにこの新型軽突撃砲の本格的な開発に取り掛かるよう指示を出した。 新型軽突撃砲の設計作業はBMM社のスタッフに加えて、ドイツ側から兵器局第6課のハンス・バーテル工学士を長とするチームも参加して行われた。 本車は早急な実戦化が求められたため作業は驚異的なスピードで進められ、1944年1月8日に設計が完了し、1月24日には「18式38(t)戦車」の社内呼称が与えられた実物大木製モックアップが完成した。 1月26日に兵器局のトーマレ大佐を中心とした関係者に対する展示が行われたこのモックアップは、履帯や転輪、サスペンション、起動輪といったコンポーネントを38(t)戦車から流用していた。 従来の38(t)戦車車体をベースとした対戦車自走砲と比べて全高はかなり低く、密閉式の戦闘室はオープントップ式の対戦車自走砲より防御力が大きく向上していることは明らかであった。 避弾経始を考慮して外周が適度な傾斜面で構成された密閉式戦闘室は、前面が車体前面上部と面一となっており、細部に変更は見られるものの後の生産型と変わらず、モックアップの段階でヘッツァー駆逐戦車はほぼ完成の域に達していたことが分かる。 この実物大モックアップの審査は兵器局の承認を受け、試験を目的にまず3両の試作車を1944年3月末までに完成させることが命じられ、BMM社は直ちに試作車の製作に着手した。 ヘッツァー駆逐戦車の3両の試作車は予定通り3月に完成し、4月には兵器局の審査部に引き渡された。 4月20日にはヒトラーも含めた関係者の前で走行デモンストレイションが実施されたが、その後3両とも工場に戻された。 実は一部のコンポーネントが未装着であり、完璧な状態ではなかったといわれる。 通常、試作車には耐弾性の無い軟鋼が用いられるが、ヘッツァー駆逐戦車の場合は後の生産型と同じく圧延防弾鋼板を用いて製作されていた。 また試作車には後の生産型と通しの車体製造番号が与えられており、これら3両は試作車というより先行生産型と見るのが実情に近いと思われる。 3両の試作車は一旦工場に戻されて最終艤装が施された後、試作第1号車(車体製造番号321001)と第2号車(321002)は各種試験のためにBMM社に残されたが、第3号車(321003)はドイツ陸軍に引き渡されている。 なお試作第2号車は機関室の左側面に星型アンテナと、周囲に装甲板による防御が施されたアンテナ基部を持つ指揮車仕様であったことが写真で確認されている。 ヘッツァー駆逐戦車の公式呼称の変遷についてであるが、最初に1944年1月7日付の兵器局第6課の文書に記載された呼称は「38(t)軽戦車駆逐車」で、1月28日の総統会議の文書では「38(t)軽突撃砲」とされ、2月1日付の戦力定数指標(K.St.N.)1149において「48口径7.5cm砲PaK39搭載38(t)軽戦車駆逐車」の制式呼称と、「Sd.Kfz.138/2」の特殊車両番号が与えられている。 この「Sd.Kfz.138/2」という特殊車両番号は、ヘッツァー駆逐戦車と同じく38(t)戦車のコンポーネントを用いて製作された15cm自走重歩兵砲「グリレ」(Grille:コオロギ)の「Sd.Kfz.138/1」に続くものである。 その後1944年9月8日付の参謀本部の文書で、本車の制式呼称を「38(t)軽戦車駆逐車」に変更することが通達されたが、これ以降の公式文書では専ら「38式駆逐戦車」という呼称が用いられるようになった。 さらに1944年12月14日付の機甲兵総監部の文書において、「ヘッツァー」(Hetzer:勢子、狩猟の場で鳥獣を追い出したり他へ逃げるのを防いだりする役目の人)を、本車の公式呼称として採用することが通達された。 この「ヘッツァー」という呼称は元々、38式駆逐戦車の部隊配備が開始されて間もない頃に前線の兵士が本車に付けた愛称であり、この愛称が兵士たちの間で広まったことを受けて、機甲兵総監部が「ヘッツァー」を本車の公式呼称として使用することを認めたということである。 |
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+生産
ヘッツァー駆逐戦車は試作車3両の発注に続き、1944年1月28日の総統会議でヒトラーが生産の早急な開始を求めたことを受け、直ちに1,000両の生産が決定したがすぐにこの数字は改められ、1945年3月までにその月産生産数を1,000両とするべく生産予定表が作られた。 もちろんこの生産数はBMM社だけでは不可能であり、このため生産にはチェコの軍事工業のもう一方の雄であるプルゼニのシュコダ製作所も加わることが決められた。 この際に求められたヘッツァー駆逐戦車の月産数は1944年4月が20両(BMM社)、5月が50両(BMM社)、6月が100両(BMM社)、7月が250両(BMM社)/10両(シュコダ社)、8月が250両(BMM社)/50両(シュコダ社)、9月が300両(BMM社)/100両(シュコダ社)、10月が350両(BMM社)/150両(シュコダ社)、11月が400両(BMM社)/200両(シュコダ社)、12月が400両(BMM社)/300両(シュコダ社)、1945年1月が400両(BMM社)/400両(シュコダ社)、2月が450両(BMM社)/450両(シュコダ社)、3月が500両(BMM社)/500両(シュコダ社)となっていた。 同様に1944年2月14日付で、BMM社におけるヘッツァー駆逐戦車の第1次発注分2,000両(試作車3両を含む)に対する車体製造番号が定められ、321001~323000の番号が与えられた。 そしてこの2,000両の生産は、1944年11月までに達成することも通達されている。 さらに11月以降の生産車2,000両が追加発注され、この第2次発注分に対しては325001~327000の車体製造番号が割り振られた。 また、遅れてヘッツァー駆逐戦車の生産に参画するシュコダ社に対しては、1944年2月14日付で第1次発注分として2,000両が生産発注され、323001~325000の車体製造番号が与えられたが、この番号はBMM社に2回に分けて与えられた番号の間に収まっていることが分かる。 さらにシュコダ社に対しても1944年7月12日付で2,000両が追加発注され、この第2次発注分に対しては327001~329000の車体製造番号が与えられた。 加えて1944年10月19日付で、ヘッツァー駆逐戦車の発展型として当時開発が進められていた38D駆逐戦車の第1次発注分として3,000両が生産発注された。 結局38D駆逐戦車は試作車の製作中に1945年5月の終戦を迎えたため、実際に同車の量産が行われることは無かったが、ヘッツァー駆逐戦車が第2次世界大戦後半におけるドイツ陸軍の主要戦闘車両に位置付けられていたことは間違いない。 またヘッツァー駆逐戦車の発注に合わせて、生産に欠かすことのできない装甲板の製作がチェコ・クラドノのヴィトコヴィス鉄工所、ポーランド・ヴロツワフのリンケ・ホフマン・ブッシュ社、コスターブリュッケのルール精錬所、チェコ・ホムトフのポルディ精錬所に、エンジンの製作がBMM社の子会社であるプラハのプラガ社とシュコダ社に、変速・操向機の製作がプラガ社に、主砲の製作がラインメタル社のウンターリュース工場およびバート・クロイツナハのザイツ製作所にそれぞれ発注された。 同様に履帯などの様々なコンポーネントも発注され、ヘッツァー駆逐戦車の本格的な生産がスタートした。 BMM社は1944年3月に製作した3両の試作車に引き続き、当初の生産計画通り4月に20両、5月に50両、6月に100両のヘッツァー駆逐戦車の生産車を完成させた。 しかし7月は予定数である250両を完成させることができず、この月の生産数は100両に留まった。 この生産遅延の原因をBMM社では主砲防盾部の到着遅延としているが、同社はこれ以降も予定生産数を達成することができず、8月に150両、9月に190両、10月に133両、11月に298両、12月に223両、1945年1月に289両、2月に273両、3月に148両、4~5月に70両+の合計2,047両+のヘッツァー駆逐戦車を完成させた。 なおこの生産数には、後述する回収型とシュタール搭載型も含まれている。 この数字を見れば分かるように、1944年10月と1945年2~4月に生産数が落ち込んでいるが、これは連合軍の爆撃の影響によるものであり、特に1945年3月にはBMM社に対する直接的な爆撃が行われ、378tという大量の爆弾が落とされたためプラハ工場は壊滅的な被害を受けた。 このため、BMM社は3月25日の爆撃の後にヘッツァー駆逐戦車の生産をミロヴィッツ工場に移転させており、これが原因で3月以降の生産数が大きく落ち込んだのである。 一方シュコダ社の場合は、1944年6月15日にBMM社との間でヘッツァー駆逐戦車のライセンス生産に関する契約を締結して生産を開始し、7月の10両を皮切りとして8月に20両、9月に30両、10月に57両、11月に89両、12月に104両、1945年1月に145両、2月に125両、3月に153両、4~5月に47両+の合計780両+と、BMM社の1/3程度の生産数に終わった。 とはいえ、BMM社とシュコダ社の工場の生産規模とわずか1年足らずという生産期間、連合軍の爆撃による生産力の低下等を考慮すると、両社合わせて2,827両以上のヘッツァー駆逐戦車を完成させたのは特筆に値する。 ちなみにヘッツァー駆逐戦車の単体製造コストは54,000ライヒスマルクで、パンター戦車の単体製造コスト125,000ライヒスマルクの半分以下という安価な車両であったことが分かる。
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+車体の構造
ヘッツァー駆逐戦車の車体は38(t)戦車のものをベースにしていたが、戦闘室内に7.5cm対戦車砲の砲尾と4名の乗員を収めなければならないため38(t)戦車の車体をそのまま流用することは不可能であり、車内容積を確保するために幅が拡げられた専用の車体が開発された。 この車体は車体幅が38(t)戦車の1,775mmから2,123mmに拡大されており、38(t)戦車では垂直だった車体側面装甲板が15度の傾斜が与えられて上方が外側に傾斜していた。 また車体前面装甲板も、避弾経始を考慮して40度の角度を持つ1枚式傾斜装甲板に改められていた。 これは車体後面装甲板も同様で、15度の角度で前方に傾斜していた。 車体の装甲厚は前面60mm、側/後面20mm、下面10mmでIII号突撃砲と比べるとかなり装甲が薄く、特に側面と後面は小火器弾の直撃や榴弾の破片に耐える程度の防御力しか備えていなかった。 前述のようにヘッツァー駆逐戦車は当初の計画では、重量の軽減を図って装甲を薄くする代わりに、路上最大速度60km/hという高い機動性能を活かして敵の攻撃を回避することを想定していたが、実際に完成した車両は戦闘重量が計画値の13tから16tに大きく増加してしまったため、路上最大速度は計画値を大幅に下回る40km/hに留まり、装甲の脆弱さが最後まで本車の弱点として残ることになった。 ヘッツァー駆逐戦車の車内レイアウトは車体前部が操縦室、車体中央部が戦闘室、車体後部が機関室となっていた。 戦闘室と機関室の間には、機関室の騒音と熱を遮断するための防火壁が設けられていた。 操縦室内には中央に置かれた変速機と結合される形でその前方に操向機、ブレーキ、最終減速機が置かれ、変速機の左側には操縦手席が設けられていた。 本車の原型である38(t)戦車の場合は、元々チェコスロヴァキア陸軍向けに開発された車両であるため、他のドイツ軍車両と異なり操縦手席は右側に配置されていたが、ヘッツァー駆逐戦車は最初からドイツ仕様として設計されたため、操縦手席の位置が左側に変更されたのである。 ヘッツァー駆逐戦車の変速機は38(t)戦車と同じく、イギリスのSCG社(Self-Changing Gears:自動変速ギア会社)からライセンス生産権を得て、プラガ社が独自に改良を加えたプラガ・ウィルソン変速機が採用された。 この変速機は前進5段/後進1段の遊星歯車シンクロメッシュ式変速機で、それぞれの変速比とその速度は1速が10.25で4.1km/h、2速が4.08で10.3km/h、3速が2.55で16.5km/h、4速が1.60で26.2km/h、5速が1.00で42km/h、後進が6.88で6.1km/hとなっていた。 なお操縦室後方の床板には、車内からロック可能な楕円形の脱出用ハッチが設けられていた。 車体側面には最前部に円形の穴が開口されて、起動輪を駆動するための最終減速機とそのカバーが装着されていた。 同様に車体側面の前後2カ所にサスペンション基部が設けられ、その中間にあたる上方には上部支持輪の基部が配されていた。 そして、最後部には前後方向に動く履帯張度調節装置を備える誘導輪の基部が配されていたが、前述のように車体の側面装甲板が傾斜していたため、いずれも地面に対して起動輪や転輪などが垂直になるよう基部の形状が整えられていた。 車体後面には内部にラジエイターとその冷却ファンを収める関係から、38(t)戦車と同様に中央部に大きな円形のボルト止め式点検用ハッチが設けられており、その中央には冬季時などにエンジンを強制始動させるクランク棒の差し込み口と、その装甲カバーが装着されていた点も変わらない。 また、この点検用ハッチの左側には3枚の予備履帯を収めるラックが縦に設けられ、その上方には左にオフセットして、周囲を耐熱用のパンチングメタル板でカバーしたマフラーが装着されていた。 さらに点検用ハッチ部分には牽引用のワイアーが巻かれ、車体後面左上端には円筒形の防水型尾灯が、右下部にはラジエイターの排水口とそのカバーが装着されていた。 1944年3月に完成した3両の試作車と4月に完成した生産車のうち極初期の車両では、車体の前/後面下端に触角形の牽引フック掛けが溶接されていたが、以後の生産車においては強度面を鑑みてこのフック掛けを廃止し、III号戦車J型以降と同様に車体側面装甲板の前/後端上部を張り出す形とし、その中央に穴を開けて牽引フック掛けとするいわゆるアイプレート方式に改めている。 |
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+戦闘室の構造
ヘッツァー駆逐戦車の戦闘室は車体と溶接で一体化され、戦闘室の前面装甲板は避弾経始を考慮して60度という大きな傾斜が与えられており、同様に側面装甲板も40度の傾斜が与えられていた。 戦闘室の装甲厚については前面が60mm、側面が20mm、上面が8mmとなっており、前面以外は小火器弾の直撃や榴弾の破片に耐える程度の防御力しか備えていなかった。 前述のように戦闘室内の左前部には操縦手が配され、その後方に砲手が、さらにその後方には装填手がそれぞれ位置し、主砲の砲尾を挟んで右後方に車長が収まった。 III号突撃砲の乗員配置と比較すると、車長と装填手の位置関係が逆になっていた。 また車長席は機関室に角型に張り出す形で設けられていたが、これはヘッツァー駆逐戦車の開発当初、主砲に「シュタール」(Starr:固定式)と呼ばれる固定砲を採用することを予定していたためである。 シュタールは通常の砲から駐退機構を省いて射撃時に砲が後座しないようにし、砲を車体に固定することで射撃時の反動を車体全体で受け止めようというものであった。 こうすることで砲の軽量化と製造コストの低減を図れる上、後座に必要な空間を他に転用できるというメリットがあった。 ヘッツァー駆逐戦車用のシュタールは、ラインメタル社製の48口径7.5cm対戦車砲PaK39をベースに開発が進められたが、結局本車の生産開始までにシュタールの開発が間に合わないことが判明したため、やむを得ず原型の7.5cm対戦車砲PaK39を搭載して生産を行うことになったのである。 このためヘッツァー駆逐戦車は途中で設計変更を余儀なくされ、前述のように装填手と車長の配置が入れ替えられると共に、射撃時に砲が後座した際に車長に当たらないようにとの配慮から、機関室への張り出し部が設けられたのである。 しかし、装填手を左後方に配置したことで新たな問題が生じた。 7.5cm対戦車砲PaK39の閉鎖機は垂直鎖栓式だったため、装填手の位置が変わっても不都合は無かったが、主砲の左側には後座時の接触を防ぐための防危板が装着されていたため、装填手はこれを跨ぐ形で砲弾を装填しなければならず、さらに閉鎖機構が右側に設けられていたために装填手の評判は芳しくなかったようである。 操縦手の位置関係から、ヘッツァー駆逐戦車の主砲は大きく右にオフセットして搭載されたため、戦闘室前面に開口されたその収容部もかなり右に寄っていた。 このためヘッツァー駆逐戦車は重量バランスが右に偏っており、右側のサスペンションには左側よりも850kg余分に重量が加わったため、機動性能に悪影響を与える結果となった。 戦闘室前面左側には横長長方形の開口部が設けられ、その開口部をカバーする形で前面左右に開口部を備える装甲ブロックを溶接し、その内部にはペリスコープ2基が並列に収められた。 なおこのペリスコープを通して得る視界は、5度傾斜して地面を見易いよう調節されていた。 左側フェンダーの付け根にあたる戦闘室前面前端部には、簡単な支持架をボルトで固定して防空型前照灯(ノーテクライト)が装備されていた。 戦闘室上面装甲板は主砲や変速機の交換を可能とするために、内部に設けられたフレームを介してボルトで固定されていた。 戦闘室上面の主砲上部にあたる部分には、フェルディナント重突撃砲で初めて導入された円弧状の照準機開口部とそれをカバーするスライド式装甲板、およびそのレールが設けられ、開口部の左右にコの字形の鋼板を溶接してガードとしていた。 また戦闘室上面の後方右側には車長用ハッチ、後方左側には装填手用ハッチがそれぞれ設けられていたが、前述のように車長席が機関室に張り出していた関係で車長用ハッチは2枚式とされ、前方ハッチは前開き式、後方ハッチは機関室上面の左右に配された大型の点検用ハッチのうち右側前方のものと共用するという、他に例を見ないスタイルとなっていた。 一方装填手用ハッチは左右開きの2枚式で、車長用ハッチに比べてかなり大型であった。 これは車長以外の全ての乗員が、このハッチを用いて乗降を行うことを想定していたためである。 装填手用ハッチの前方左側には副武装として、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が1挺装備されていた。 この機関銃は従来の車両のように乗員が身を乗り出して操作するのではなく、装填手が車内からの操作で射撃を行うようになっていた。 また装填手用ハッチの左側には車軸に沿って固定式ペリスコープが装着されていたが、車両周囲の視界を得る装備はこのペリスコープと、車長が前方ハッチを開いて使用する双眼式砲隊鏡SF.14Z、そして車長用後方ハッチを兼ねる、機関室上面右側前方の点検用ハッチの後部に装着された固定式ペリスコープしかなく、その視界はかなり限定された。 この視界の悪さは、ヘッツァー駆逐戦車における問題点の1つであった。 戦闘室内の左右には主砲用の7.5cm砲弾が立てた形で収容されており、ドイツ軍の場合ほとんどの車両は専用の弾薬箱もしくはラックを備えるのだが、ヘッツァー駆逐戦車では即用弾の全てをベルトで固定するという簡単な方式が採られた。 その配置は車体内の左壁面に9発、戦闘室内の右壁面に後方に傾斜した形で10発がそれぞれ収められ、これに加えて床下に2個の弾薬箱を設けて、合わせて22発の7.5cm砲弾を収容した。 つまり、即用弾19発+予備弾22発の合計41発の7.5cm砲弾を搭載していたことになる。 加えて副武装の7.92mm機関銃MG34用として、50発の7.92mm機関銃弾を収めるドラム型の弾倉12個が、装填手と砲手の間にあたる左側袖板の上に置かれた。 つまり合計600発の7.92mm機関銃弾を搭載していたことになるが、資料によってはドラム弾倉は左右の袖板の上に各12個ずつ置かれたとしており、その場合の7.92mm機関銃弾の搭載数は1,200発となる。 また装備位置は不明だが左右もしくは後方の防火壁の壁面に、ホルスターに収容された状態で2.7cm照明拳銃34型もしくは42型とその弾薬12発も備えていた。 さらに乗員の個人用自衛火器として、7.92mm突撃銃StG44 2挺を戦闘室前面内側に設けられたラックに装着し、7.92mm小銃弾30発を収めた弾倉6本がキャンバス製の袋に入れられた状態で戦闘室内に置かれたが、その位置も不明である。 防火壁の左端は一部が機関室に食い込む形で窪みが形成され、この部分にラックを収めてベルリンのテレフンケン社製のFu.5無線機を収容した。 Fu.5無線機は周波数27.2~33.3MHzの極超短波無線機で、出力10Wの10WS.c送信機とUKW.EE受信機から成り、必要な電力は変圧器を介してバッテリーから供給された。 その通信距離は音声通信の場合6.4km、電鍵通信の場合9.4kmとなっていた。 設置位置から分かるように、Fu.5無線機の操作は装填手が担当した。 また無線機の装備により、機関室右側には2m長のロッドアンテナとその基部が設けられていた。 |
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+機関室の構造
前述のようにヘッツァー駆逐戦車の車体後部には機関室が設けられており、機関室の上部は戦闘室と一体化されていた。 機関室内の中央には、プラガ社製のAC2800(AC/2やAEとする資料もある) 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(排気量7,754cc、出力200hp/2,800rpm)が設置されていた。 このAC2800エンジンは、BMM社がドイツ陸軍の要求に応じて開発した新型38(t)戦車に搭載されたものであり、鋳鉄製のシリンダーブロックとアルミ合金製のクランクケースが用いられていた。 小型ながら出力は最大200hpと大きかったが、最大出力で駆動した場合エンジンに掛かる負担が大きく破損を誘発するので、実際の運用においては160hpに制限されており、緊急の場合に限り最大出力での使用が認められていた。 エンジンの左右には燃料タンクが設置されており、左側タンクには220リットル、右側タンクには100リットルの燃料が収められていた。 整地での燃費は1.8km/リットル、不整地での燃費は0.4km/リットルとなっていた。 また左側タンクに収められた燃料220リットルの内、49リットルは緊急時の予備燃料とされた。 燃料タンクの下面にあたる床板には燃料タンクよりわずかに小さい開口部が設けられ、その開口部を薄い鋼板をボルトで固定して塞いでいたが、これは燃料が誘爆した際に鋼板が吹き飛ぶことで外部にその爆発力を逃がし、機関室内への影響を軽減することが目的であった。 左側タンクの上にはバッテリーが、後方にはオイルクーラーが置かれ、右側タンクの上にはエアフィルターが配置されていた。 エンジンの後方には50リットル容量のラジエイターがやや前方に傾斜した形で設置され、ラジエイターの後方には円形の冷却ファンが装着されて、機関室上面後部に開口されたグリルより熱気を車外に排出した。 この冷却ファンの駆動にはエンジンから専用の駆動軸が伸ばされたが、このためラジエイターの中央部には駆動軸を通すための開口部が設けられていた。 機関室の側/上面装甲板は、戦闘室と機関室を分ける防火壁部分を頂点とする傾斜装甲板となっており、後端は車体後面装甲板と結合されていた。 また、側面装甲板の張り出し部分の下端には三角形の開口部が設けられており、ここから機関室内に空気を導入した。 このため開口部には、異物などが入り込むのを避けるために金網が張られていた。 機関室の上面は中央に固定装甲板を配し、その左側に1枚式、右側に2枚式の大型の点検用ハッチがそれぞれヒンジを介して装着されていた。 右側の点検用ハッチが前後に分割されていたのは、前述のように右側前方ハッチが車長用ハッチの一部を兼ねていたためである。 このため、右側前方ハッチの後部には車長が後方を視察するための固定式ペリスコープとその開口部が設けられ、上方に湾曲した鋼板を溶接して簡単なカバーとしていた。 また中央の固定装甲板の上には、予備履帯7枚を収めるラックが設けられていた。 さらにこの部分の後方からは、車体後面に横置きの形で装着されたマフラーへの排気管が伸びていた。 固定装甲板と左右の点検用ハッチの後方にあたる機関室上面最後部は3分割され、中央には左に寄った形でラジエイターからの熱気を排出する菱形グリルが設けられ、その上面には異物の混入を防ぐ金網が張られていたが、金網とグリルの間にはスライド式の鋼板が収められていた。 これは、冬季時にこのスライド板で開口部の面積を調節し機関室内の温度を上げ、無線機ラックの下方にあたる防火壁右下に設けられた円筒形のシャッターを介して戦闘区画内に暖気を取り込むためのもので、簡易的な暖房装置である。 ただしこの方式は、ラジエイターの冷却能力を阻害してエンジン自体の温度が上がり過ぎるという問題が存在し、このため操縦手は油温計に注意する必要があった。 またこのグリルの左右には装甲板がボルトで固定されており、必要に応じてこの装甲板を外して左側の注入口から燃料の、右側の注入口からラジエイター冷却水の注入を行った。 右側装甲板の上には車軸と直角の形で予備履帯3枚を収めるラックが設けられ、機関室右側面の前部上方には2m長の標準型ロッドアンテナとその基部が設けられていた。 その下方には車外装備品のバールが装着され、左側面にはパイプを用いた差し込み式の予備アンテナ固定具が、前後の上下に2本溶接されていた。 また、指揮車型への改装を考慮して機関室左側面の予備アンテナの上方には、アンテナ線を車内に引き込むための開口部が設けられており、通常型では円形の鋼板を溶接して開口部を塞いでいたが、指揮車型に改装する際には鋼板を取り外してアンテナとその基部が取り付けられた。 この開口部の前後にはボルト穴が開けられており、通常型ではボルトを差し込んで穴を塞いでいたが、指揮車型ではアンテナ基部保護用の装甲カバーがボルトで固定された。 なおソ連軍歩兵が装備する対戦車銃への対策として、戦闘室側面下端に4カ所、機関室側面下端に2カ所の固定具を設けて3分割式の5mm厚のシュルツェンが装着されたが、その高さはIII号突撃砲のものと比べて極めて低かったため効果のほどは疑問である。 |
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+足周りの構造
ヘッツァー駆逐戦車の足周りは、基本的なレイアウトは38(t)戦車と同様で片側4個の大直径転輪と上部支持輪、前方の起動輪、後方の誘導輪で構成されていたが戦闘重量が増大したため、転輪、起動輪、誘導輪は38(t)戦車のものより大型化した新型38(t)戦車のものが用いられた。 ヘッツァー駆逐戦車の転輪は38(t)戦車のものと同じく6mm厚の鋼板プレス製で、周囲に32本のボルトでゴム縁が取り付けられていた点も同様であったが、直径が38(t)戦車の775mmから825mmに増大していた。 上部支持輪は38(t)戦車の片側2個から1個に減らされたが、支持輪そのものは38(t)戦車のものと同じ直径220mmのゴム縁付きのものが用いられた。 上部支持輪の取り付け位置は38(t)戦車が第1転輪と第2転輪の間と、第2転輪と第3転輪の間だったのに対し、ヘッツァー駆逐戦車の場合は第2転輪と第3転輪の間のみとなっていた。 誘導輪は、38(t)戦車のものと同様に軽量化を図って周囲に12個の肉抜き穴が開けられていたが、直径が38(t)戦車の535mmから620mmに増大していた。 起動輪は38(t)戦車のものと良く似ており、周囲に16個の肉抜き穴が開けられている点も同様だったが、外周に設けられている歯の数が38(t)戦車の19枚から20枚に増加し、直径もやや増大していた。 ヘッツァー駆逐戦車の履帯は戦闘重量の増大に伴う接地圧の増加に対処するため、幅が38(t)戦車用履帯の293mmから350mmに拡大されたKgs.64/350/104履帯が用いられた。 この履帯は38(t)戦車の履帯と同じく内側に2列のセンターガイドを備えていたが、片側の履板枚数は38(t)戦車が94枚だったのに対しヘッツァー駆逐戦車では96枚に増加している。 さらに、III号戦車やIV号戦車と同様に「ヴィンターケッテ」(Winterkette:冬季用履帯)と呼ばれる、雪原走行用の890mm長のグローサー(履帯に取り付ける滑り止め)も開発された。 ヴィンターケッテはスプリング式のクリップを介して履帯の外側に装着されるが、ヴィンターケッテ装着時には干渉を避けるため、車体側面に装着されたシュルツェンを取り外す必要があった。 ヘッツァー駆逐戦車のサスペンションは38(t)戦車のものと同じ方式で、転輪を前後に2個配したボギーの上部に、振り子式のリーフ・スプリング(板ばね)を装着したサスペンション・ユニットを車体の左右側面に各2個ずつ取り付けていたが、戦闘重量の増大に対応して、マルダーIII対戦車自走砲M型用に開発された7mm厚の板16枚で構成される強化型リーフ・スプリングが用いられていた。 起動輪の上方には、戦闘室前面装甲板の左右前端に溶接された支持架を介して前部フェンダーがボルト止めされ、右側の前部フェンダーの上にはジャッキ台が置かれた。 同様に防火壁部分から後方にあたる左右の履帯部分の上方には、車体側面と後面に溶接された支持架を介して後部フェンダーがボルト止めされていた。 右側の後部フェンダー上にはワイアーカッターとジャッキ、ハンマー、ブロウトーチなどの工具が、左側の後部フェンダー上にはS型フックやグローサー15枚を収容するための、周囲に肉抜き穴が開けられた雑具箱が載せられていた。 |
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+武装の構造
前述のようにヘッツァー駆逐戦車の主砲は当初、ラインメタル社製の48口径7.5cm対戦車砲PaK39を原型とする「シュタール」と呼ばれる固定砲が搭載される予定であったが、本車の生産開始までにシュタールの開発が間に合わないことが判明したため、やむを得ずシュタールの開発を続行しながら生産も行うべく、急遽原型の7.5cm対戦車砲PaK39を搭載することになった。 このPaK39は、ドイツ陸軍の主力対戦車砲として用いられてきた牽引式の45口径3.7cm対戦車砲PaK36の後継として、ラインメタル社が新規開発した牽引式の46口径7.5cm対戦車砲PaK40を車載用に改修したものである。 PaK40の車載化にあたっては砲架や駐退・復座機、閉鎖機の変更などが行われた。 PaK39は狭い車内でも砲弾の装填がスムーズに行えるよう、閉鎖機がPaK40の水平鎖栓式から垂直鎖栓式に変更されていた。 閉鎖機の前方には左右に俯仰軸を備える揺架が設けられており、揺架の上方にあたる砲身上部には駐退・復座機が設けられていた。 PaK39の駐退・復座機は油圧式で並列に2本配置されており、この改良型駐退・復座機のおかげでPaK39は射撃時の後座長がPaK40の900mmから630mmに大きく減少したため、小柄で車内スペースが狭いヘッツァー駆逐戦車にも何とか搭載することができた(車長席を機関室に張り出すという強引なやり方ではあるが)。 なおPaK39は元々、プラウエンのフォマーク社(Vogtländische Maschinenfabrik:フォークトラント機械製作所)がIV号戦車の車体をベースに、1942年9月から開発を進めていたIV号駆逐戦車の主砲として開発されたものであったが、PaK39は生産当初、原型のPaK40と同じく砲身先端に二重作動式の砲口制退機が装着されていた。 砲口制退機は、射撃時に砲腔内のガスを横に逃がすことで反動を低減させるためのものであり、射撃時の反動で照準に狂いが生じるのを防ぐ役目をしていた。 しかし1944年1月から実戦投入が開始されたIV号駆逐戦車は、主砲の射撃時に砲口制退機から排出されるガスが土埃を舞い上げて視界を極端に妨げることが判明したため、前線部隊ではほとんど砲口制退機を取り外して運用された。 このためIV号駆逐戦車の1944年6月以降の生産車では、PaK39の砲口制退機が廃止された。 このIV号駆逐戦車の戦訓により、ヘッツァー駆逐戦車の場合は生産当初からPaK39の砲口制退機は未装備とされた。 IV号駆逐戦車やヘッツァー駆逐戦車は砲塔ではなく戦闘室前面に主砲が搭載されているため、射撃時の反動は車両全体に分散するので、砲口制退機を廃止してもそれほど影響は無かったようである。 なお、ヘッツァー駆逐戦車の3両の試作車と1944年4月生産車のうち極初期の車両には、砲身先端に砲口制退機を装着するためのネジ溝が切られたタイプのPaK39が搭載されたが、それ以降の生産車にはネジ溝が廃止された新型砲身のPaK39が搭載された。 PaK39は重量1,235kg、砲身長3,615mmで砲腔内には32条のライフリングが刻まれており、弾種は装甲目標用のAPCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾)、APCR(硬芯徹甲弾)、HEAT(対戦車榴弾)および非装甲目標用のHE(榴弾)が用意されていた。 弾頭重量6.8kgのPz.Gr.39 APCBC-HEを使用した場合、砲口初速750m/秒、射距離1,000mで85mm、1,500mで74mmのRHA(均質圧延装甲板/傾斜角30度)を貫徹可能であった。 さらに、弾芯にタングステンを埋め込んだ弾頭重量4.1kgのPz.Gr.40 APCRを使うと、砲口初速930m/秒、射距離1,000mで97mm、1,500mで77mmのRHA(傾斜角30度)を貫徹できたが、Pz.Gr.40は弾芯に使用するタングステンの不足のため生産数が極めて少なく(PaK39用は未製造ともいわれる)、しかも軽量なために、1,500m以上の射距離では横風などの影響により大幅に命中精度が低下するという欠点も抱えていた。 また対戦車戦闘には、弾頭重量5kgのGr.38HL/C HEATも用いられた。 Gr.38HL/Cは成形炸薬弾であるため、射距離に関わらず100mmのRHAを穿孔可能で、通常弾よりも対装甲威力が大きいという特徴を備えていたが、砲口初速が450m/秒と非常に遅いため、命中精度は通常弾に大きく劣っていた。 対地支援や陣地制圧の際に用いられる弾頭重量5.74kgのSpr.Gr.34 HEは、砲口初速550m/秒で最大3,600mの射程を備えていたが、実際の使用ではこの2/3程度の射距離で用いられたようである。 なお、ドイツ陸軍が実施した射撃試験におけるそれぞれの砲弾の命中精度も公表されていて、Pz.Gr.39の場合は射距離1,000mで99%、1,500mで77%、2,000mで48%、Pz.Gr.40の場合は同条件で95%、66%、21%、Gr.38HL/Cの場合は82%、44%、20%となっていた。 主砲の右側には砲手が用いる倍率5倍、視野角8度のSfl.ZF.1a照準機が設けられており、戦闘室の上面から突出して砲と連動しながら目標を捉えるようになっていた。 なお弾種によりその有効測定距離が異なっていて、Pz.Gr.39の場合は0~3,000m、Pz.Gr.40では0~2,000m、Spr.Gr.34では0~3,600m、そしてGr.38HL/Cは0~2,400mとなっていた。 前述のように、PaK39はヘッツァー駆逐戦車より先にIV号駆逐戦車の主砲として採用されたため、PaK39のヘッツァー駆逐戦車への搭載にあたっては、IV号駆逐戦車で用いられたのと同じ搭載方法が踏襲された。 この搭載方法は「カルダン枠」と呼ばれる角型の枠の左右に軸受けを設けて、主砲の揺架左右の俯仰軸をボルトで固定し、この前方に内側防盾を装着した後に、戦闘室前面装甲板に取り付けられた鋳造製の防盾基部の内側に収め、枠の外側上下に設けられている旋回軸を、防盾基部の上下に設けられている軸受けにボルトで固定するというもので、III号突撃砲などの従来の同種車両のように戦闘室内に架台を設ける必要が無く、軽量化やコスト、製作期間など多くのメリットを備えていた。 ヘッツァー駆逐戦車は前述のように主砲が右に大きくオフセットして搭載されている関係で、砲の旋回角は右が11度、左が5度と左の旋回角が狭かった。 一方俯仰角は、-6~+10度となっていた。 ちなみにIII号突撃砲G型の主砲の旋回角は左右各10度ずつ、俯仰角は-6~+20度であり、ヘッツァー駆逐戦車はIII号突撃砲G型に比べて主砲の射界がかなり狭いことが分かる。 この主砲の射界の狭さは、ヘッツァー駆逐戦車を運用する上で大きな問題となった。 ヘッツァー駆逐戦車の防盾基部は鋳造製の一体式で、3両の試作車と1944年4月の生産車のうち極初期の車両では、いずれも防盾基部の左右に計7カ所(左に4カ所、右に3カ所)のフランジを設けて戦闘室前面装甲板とボルトで固定されていたが、以後の生産車では前方重量軽減のために、このフランジはその形状と位置を改めて上部左右の2カ所のみとされ、防盾基部もよりリファインされた形状に改められた。 なお、このボルトによる固定は強度の向上を目的としたもので、防盾基部の取り外しを可能としたものではなく、いずれの場合も防盾基部は溶接で固定されていた。 そしてこの防盾基部の開口部を塞ぐ形で、その形状から「ザウコプフ」(Saukopf:豚の頭)と呼ばれる円錐形に先が窄まった鋳造製の防盾が、内側防盾と3本のボルトで固定された。 このあたりのレイアウトは、IV号駆逐戦車と全く同一である。 前述のようにヘッツァー駆逐戦車の車内には合計41発の7.5cm砲弾が搭載されたが、その内訳はPz.Gr.39もしくはPz.Gr.40を35発、Spr.Gr.34を6発とするのが標準であったといわれる。 また必要に応じてGr.38HL/Cを加えることもあったが、これらは車長の判断に委ねられていた。 前述のようにヘッツァー駆逐戦車は主砲の他に副武装として、戦闘室内から装填手が操作する7.92mm機関銃MG34が、装填手用ハッチの前方左側に設けられた機関銃架に装備された。 この車内操作式機関銃は元々、III号突撃砲G型への装備を目的に開発されたものであり、機関銃架から車内へ伸びたアームに装着された2本のハンドルを用いて操作を行った。 機関銃は全周射撃が可能で俯仰角は-6~+12度とされ、右側のハンドルに装着された引き金と、機関銃の引き金をケーブルで結合することで射撃が行われた。 また銃身の下側でアームの上端にあたる部分には倍率3倍、視野角8度の照準機が収められており、これを見ながら射撃を行った。 機関銃の機関部の左側には50発の7.92mm機関銃弾を収めるドラム弾倉が装着され、この弾倉と機関部の防御として5mm厚の鋼板を用いたV字形の防盾が装着されていた。 従来の車両のように乗員が身を乗り出すこと無く、車内から安全に射撃が行えるこの車内操作式機関銃は確かに有効な兵器ではあったが、50発の弾薬を撃ち終えるとハッチを開けて身を乗り出し弾倉を交換せねばならず、この際に被害を被る例が多発したという。 このため、200発の7.92mm機関銃弾を収める大型弾倉が開発されて試験に供されたが、結局採用には至らなかった。 なお、ヘッツァー駆逐戦車はこの種の密閉式戦闘室を備える車両には珍しく、近接防御兵器の装備は最初から考慮されなかった。 |
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+生産中の変更箇所
前述のようにヘッツァー駆逐戦車は1944年3月に試作車3両が完成し、4月から生産型の量産が開始された。 3両の試作車を用いて実施された各種試験の結果として、計画時においては戦闘重量が13tと試算されていたのに対し、完成した車両では3t増加して16tとなったためエンジンや変速・操向機、サスペンションなどへの過負荷が問題視されることになった。 また、ヘッツァー駆逐戦車は戦闘室前面に主砲を装備している関係で重量バランスが前に偏っていたため、車体前部が10cmほど沈んでしまい、これが機動性能に悪影響を及ぼした。 このため、重量軽減(特に車体前方)を目的とした装甲厚の削減と新型機関系の開発、サスペンションの改良が提案されたが、結局1945年5月の敗戦までに導入されたのはわずかな前方重量の軽減と、サスペンションに用いるリーフ・スプリングの強化のみであった。 とにかく当時の悪化した戦況により、生産を阻害する大きな変更は極力排除されたのである。 以下、ヘッツァー駆逐戦車の生産中に導入された変更箇所を時系列的に列記する。 ●1944年4月生産車 前述のように4月生産車のうち極初期の車両は、試作車と同様の特徴を備えていた。 それは起動輪の周囲に16個の肉抜き穴が開口されていた点、主砲防盾基部が7カ所のフランジを介して戦闘室前面装甲板にボルトで固定されていた点、車体の前/後面下端に触角形の牽引フック掛けが溶接されていた点である。 また主砲の48口径7.5cm対戦車砲PaK39の砲身先端には、砲口制退機を装着するためのネジ溝が切られていた。 これは前述のように、PaK39は元々砲身先端に二重作動式の砲口制退機を装着していたためである。 ヘッツァー駆逐戦車は、IV号駆逐戦車の戦訓により砲口制退機を未装備とすることが決定されたため、ラインメタル社はそれまで生産を行っていたネジ溝付きのPaK39に代えて、ネジ溝を廃止した新型砲身のPaK39の生産に着手したが、ヘッツァー駆逐戦車の試作車と4月生産車の極初期車両には新型PaK39が間に合わなかったため、従来のネジ溝付きのPaK39が搭載されたのである。 なお、ヘッツァー駆逐戦車の試作車では車体側面のシュルツェンが未装備となっていたが、生産型では3分割式の5mm厚のシュルツェンが装着されるようになった。 ヘッツァー駆逐戦車のモックアップにはシュルツェン(生産型のシュルツェンと形状の異なる大型のもの)が装着されていたので、この時点でシュルツェンの装着は決まっていたはずであるが、なぜ試作車に装着されなかったのかは不明である。 4月生産車の極初期車両に装着されたシュルツェンは、それ以降の生産車とステイの取り付け方法が異なっていた。 極初期車両のステイが、シュルツェン上部の一部分を切り欠いてその部分に外側から溶接されたのに対し、それ以降の生産車では生産性の向上を図って、シュルツェンの上部にステイを内側からリベット止めもしくは溶接で固定するようになった。 一般的に、ヘッツァー駆逐戦車の試作車3両と上記の特徴を備える4月生産車は極初期型、それ以降の4月生産車と5~7月の生産車は初期型として分類される場合が多い。 ヘッツァー駆逐戦車の初期型では生産性の向上を図って、起動輪周囲の16個の肉抜き穴のうち外側の8個が開口されなくなり、後の生産車でもこの新型起動輪が用いられた。 また防盾基部の左右に計7カ所設けられていたフランジは、上部左右の2カ所のみが位置を変更した上で残され、固定用ボルトの数も7本から2本に減らされた。 防盾基部に関するこれらの改良は、生産性の向上と前方重量の軽減を目的としていた。 また車体の前/後面下端に触角形の牽引フック掛けを溶接していたのは、車体側面装甲板の前/後端上部を張り出す形とし、その中央に穴を開けることで牽引フック掛けとした。 この変更は、牽引フック掛けの強度と生産性の向上を目的としていた。 さらに、戦闘室上部の車内操作式機関銃に装着されている防盾が、極初期型では1枚板の横長装甲板の中央に、銃身を通す縦の切り込みを入れてV字形に折り曲げたタイプを使用したのに対し、初期型以降の生産車では、2枚の横長装甲板を機関銃架の左右に2本のボルトでV字形に固定したタイプに変更された。 機関銃防盾の形状については、初期型以降のタイプは極初期型のものに比べて縦幅が増え横幅が短くなった。 また前述のように、主砲が砲身先端のネジ溝を廃止した新型のPaK39に換装され、シュルツェンのステイの取り付け方法も変更されている。 なおチェコ側の資料によると、ヘッツァー駆逐戦車の1944年4~5月の生産車計70両のうち22両は前方重量軽減のために、主砲防盾の構造強度上重要度が低い部分に肉抜き穴を開け、外側から5mm厚の装甲板を溶接して穴を塞いだ軽量型として生産されたとしている。 しかし現在のところ、これを確認できる写真は見つかっていない。 後に戦闘に投入されたこの軽量型ヘッツァーは、脆弱な開口部分がネックとなって被害が相次ぎ、それ以上の段階に進むこと無く終わった。 おそらく軽量型ヘッツァーの残存車は第一線から下げられて、訓練部隊に回されたものと推測される。 ●1944年5~7月生産車 5~7月の生産車では戦訓により、機関室上面最後部の左右に収められていた燃料注入口とラジエイター冷却水注入口への補給の際、ボルトでその部分に固定された装甲板を外すという煩雑さを改めるべく、それぞれの注入口の部分に角型の前開き式のクラッペが新設された。 この措置により、右側の取り外し式装甲板に装着されていた予備履帯3枚を収めるラックが廃止され、代わって車体後面の右側に予備履帯3枚を収めるラックが新設された。 同様に、車長の乗降の際に2枚の車長用ハッチのうち後方ハッチを兼ねる、機関室上面右側前方に設けられた大型点検用ハッチを開閉しなければならないのが実用上不便という判断から、車長用の前方ハッチである戦闘室上面後方右側に設けられた小型の前開き式ハッチと対になるように、同形状の後ろ開き式ハッチが従来の車長用後方ハッチの一部を構成する形で設けられた。 なお、これらの変更は時期を同じくして導入されたのではなく、5~7月の生産期間中に順次導入されていったので、車両によって導入具合にばらつきが見られた。 また改修に関する指示は確認されていないが、5月に完成した第321042号車は車体後面に大きな角型の牽引具を備えており、これは他の車両でも確認できるものの、その装備例は極めて限定されていたようである。 ただしこの牽引具は、後にヘッツァー駆逐戦車の派生型として並行生産された回収型の38式回収戦車で標準装備となっているので、その試験の意味で一部の車両に装着されたとも考えられる。 さらにこの頃に生産された一部のヘッツァー駆逐戦車では、防盾基部の左右側面の一部を一様に浅く窪ませて前方重量の軽減を図ると共に、ザウコプフ防盾の下部と内側防盾の間に生じる隙間を埋めるため装甲ブロックが溶接されたが、この防盾部の改修は結果的に前方重量の増大を招いたため少数の改修に終わったようである。 なお7月生産車からは、マフラーの周囲に装着されていたパンチングメタル製の耐熱板が資材節約のため廃止され、さらにエンジンなどを自力で交換できるよう、組み立て式の簡易2tクレーンを取り付けるための「ピルツ」(Pilz:キノコ)と呼ばれる台座が、戦闘室上面装甲板の3カ所に溶接されるようになった。 また正確な導入時期は不明だが、1944年7月頃以降に生産されたヘッツァー駆逐戦車では、戦闘室の周囲に小枝などの偽装を装着するためのワイアーを掛けるU字リングが溶接されるようになり、車体の前/後端に張り出した牽引フック掛けには強化を目的に三角形の鋼板が溶接されるようになった。 ●1944年8月生産車 8月の生産車では前方重量の軽減を目的に、防盾基部自体のサイズを縮小してその形状もリファインされ、さらにザウコプフ防盾も小型でより滑らかな形状に変更された。 同様に、防盾基部の上部2カ所に設けられていたフランジと固定用ボルトを廃止して、代わりに防盾基部の上端を左右から挟む形で、小さな長方形の装甲ブロックを戦闘室前面装甲板に溶接するという大きな改良が実施された。 防盾部に関するこれらの改良点は後の生産車でも踏襲されたが、1944年末からの生産車では防盾基部上端左右の装甲ブロックが廃止されている。 いずれにせよこの防盾部の改良により、約200kgの前方重量が軽減されたという。 一般的にこの改良型防盾部を備えたヘッツァー駆逐戦車は、中期型として分類される場合が多い。 さらに転輪の形状も変化し、周囲のゴム縁を固定するリム部分が小型化され、固定用ボルトの数も32本から16本へと半減した。 同様に誘導輪もリム部分が簡略化された新型に替わったが、これに続いてその導入時期は不明だが、内側にやや湾曲したプレス製で、肉抜き穴が従来の12個からやや大き目の8個に変更されたタイプや、その間にリブを溶接して強化したタイプ、プレス製で肉抜き穴を6個に減らしたタイプ、そして同じくプレス製で肉抜き穴を4個に減らしたタイプの誘導輪が段階的に導入された。 このように転輪と誘導輪の形状を変更した目的は、構造の簡易化による生産性の向上である。 また操縦手席の上面内壁には、脱出を容易にするため2本の手摺が溶接された。 ●1944年9月生産車 9月の生産車からは、車体側面に装着されるシュルツェンの前/後端が内側に曲げられたが、これは走行中に小枝などに引っ掛かってシュルツェンが破損することを防ぐためで、その取り付け部を見れば分かるようにシュルツェンは脆弱な作りであったため、これは必要な措置であった。 加えてヘッツァー駆逐戦車の生産当初から指摘されていた、重量過大によるサスペンションへの過負荷を軽減するため、前方の転輪2個を懸架するボギー部分のリーフ・スプリングの板厚をそれまでの7mmから9mmに増厚したが、後方部分は以前と同じ7mmのままとされた。 ●1944年10月生産車 10月の生産車からは操縦手の視察ペリスコープを収めている装甲ブロックに、戦闘室前面装甲板に命中した敵弾が滑って直撃するという戦訓を背景として装甲ブロックが廃止され、戦闘室前面の同じ位置にペリスコープ2基の開口部を設ける形に変更された。 そしてその開口部の上方には、雨水の侵入を防ぐため鋼板を用いたコの字形の防護板が溶接された。 また転輪のゴム縁を固定する16本のボルトは、走行中の振動により緩むという問題への対処としてリベットを打ち込む方式に改められて、強度の向上が図られた。 さらに機関室後方に装着されていた横長のマフラーは、夜間走行時に赤熱して遠方からでも容易に発見されてしまうため、それまで機関室上面中央部の固定装甲板からマフラーへ伸ばされていた排気管を短縮し、機関室の上に載る形で短い消炎式のマフラーと結合された。 これらの改修を施されたヘッツァー駆逐戦車は、一般的に後期型として分類される場合が多い。 また外観からは分からないが、ボールベアリングの使用を抑えるために主砲の俯仰機構にローラーベアリングが導入された。 この措置に伴い、主砲の俯仰を補佐して安定を図るスプリング式の平衡器が新設され、燃料を短時間で給油するために燃料タンクへの注入口の拡大と、形状変更を行ったのも10月からである。 その他にも燃料噴射ポンプが従来の電動式から、フランスのサン・ローのソレックス社製の手動ポンプに換装され、車長用ハッチの内側に頭部の保護パッドが取り付けられた。 またヘッツァー駆逐戦車の後期型では、履帯も従来のものと細部が異なる改良型が用いられるようになった。 具体的には履帯表面のリブの数が従来の5本から6本に増え、センターガイド側面の窪みの面積が小さくなっている。 また履帯の結合方法も変化しており、従来は履帯結合ピンの先端をストップリングで固定していたが、後期型では履帯結合ピンの先端に小リングを被せ、結合ピンの先端と小リングをスプリングピンで固定するようになった。 なおヘッツァー駆逐戦車の最後期の生産車では、履帯表面のトレッドに2カ所の窪みが設けられるようになったが、それ以外は後期型履帯と同様であった。 ●1944年11~12月生産車 11月の生産車より、砲手席の左側にあたる袖板の上に置かれていた照準機収容箱が車長席の右側に移され、この空いたスペースを利用して主砲用の7.5cm砲弾5発が追加搭載され、その搭載数は合計46発となった。 加えて冷却水のポンプが能力強化型に換装され、戦闘区画内の暖房効率の向上を図って、防火壁の右下に設けられていた機関室との通気部分が改良型に変更され、バッテリーの収容箱に凍結防止の発熱板が装着されたが、いずれも外側から確認することはできない変化である。 ●1945年1月以降生産車 ヘッツァー駆逐戦車は、固定戦闘室の前面に限定旋回式に主砲を搭載しているため射界が狭く、また主砲が右に大きくオフセットして搭載されたため、射撃の際は目標に主砲を指向するため頻繁に車体の向きを変えなければならなかった。 加えて重量バランスが前に偏っていたため変速機や操向機、最終減速機に掛かる負担が極めて大きく、その結果として故障が多発した。 その解決策として採用されたのが、それまでのギア比12:88のモデル6最終減速機から、ギア比を10:80に変更した新型のモデル6.75最終減速機の導入であった。 このモデル6.75最終減速機は1945年1月中頃からの生産車で用いられたが、外形的な変化を生じるものではなかった。 また正確な導入時期は不明だが、1945年3月前後頃より機関室上面最後部の左右に設けられた燃料およびラジエイター冷却水注入口のクラッペが、生産の簡易化を図ってより単純なものに改められた。 右側のラジエイター水用クラッペはサイズが大きくなってヒンジが内装式に替わり、左側の燃料用クラッペはサイズは変わらないがヒンジが大型のもの1個に変更された。 なお話が前後するが、1944年3月19日にドイツ陸軍機甲兵総監ハインツ・W・グデーリアン上級大将が、ガソリン不足を背景としてヘッツァー駆逐戦車のエンジンをガソリンからディーゼルに変更することを強く求めたため、ヘッツァー駆逐戦車へのディーゼル・エンジンの導入について検討が行われた。 しかし、エンジン換装型の基本案は従来のヘッツァー駆逐戦車と車体前部、転輪、誘導輪しか共通部分がなく、生産に大きく影響することから結局エンジンの変更は行われないことになった。 その代わり、当時開発が進められていたシュタール搭載型ヘッツァーのエンジンを、ディーゼル・エンジンに変更することが決定された。 これに応じてBMM社は1944年3月22日付でチェコ・コプジブニツェのタトラ社に対し、ヘッツァー駆逐戦車用の新型ディーゼル・エンジンの開発を要請した。 BMM社はシュタール搭載型ヘッツァーの先行生産型10両のエンジンを、同社の要請に応じてタトラ社が開発を進めていた928型 V型8気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力180hp)に換装することを計画していたが、このエンジンの開発が先行生産型の生産開始に間に合わないことが判明したため止む無く、通常型のヘッツァー駆逐戦車と同じAC2800 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載して、1944年12月に5両、45年1月に5両をそれぞれドイツ陸軍に引き渡した。 そして1945年3月22日には待望の、928型ディーゼル・エンジンに換装したシュタール搭載型ヘッツァーの先行生産型1両(車体製造番号322971)が完成した。 この車両は、ヒトラーの誕生日を記念して4月20日に開催予定の新型兵器展示会へ参加することも計画されたが、これは戦局の悪化により実現せずに終わった。 |
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+部隊配備
ヘッツァー駆逐戦車は、当初の計画では1944年4月から部隊への配備を開始する予定が立てられていたが、4月に20両が完成した生産車の内14両は各地の兵器局施設に送られて、射撃試験や機動性能の確認、寒冷地域での運用性、そして乗員と整備員のためのマニュアル製作などに供された。 その内訳はクンマースドルフ(5両)、ヒラースレーベン(2両)、ベルゲン(2両)、ヴュンスドルフ(1両)、ベルカ(3両)、プトロス(1両)とされ、すでに製作されていた試作車を含めて7両以上のヘッツァー駆逐戦車がミーラウの戦車猟兵学校に送られて、転換訓練に用いられた。 つまり予定とは異なり、4月末までに実戦部隊に引き渡された車両は1両も無かったのである。 ヘッツァー駆逐戦車は歩兵師団、山岳兵師団、猟兵師団、擲弾兵師団(後の発展形である機甲擲弾兵師団も含む)、国民擲弾兵師団、SS擲弾兵師団/SS騎兵師団(これも後にSS機甲擲弾兵師団と改称)の戦車駆逐大隊への装備が考えられ、1944年2月1日に制定されたK.St.N.1149によりその編制が定められた。 これによると大隊は大隊本部、それぞれ3個小隊から成る中隊および中隊本部3個から構成され、各小隊はヘッツァー駆逐戦車をそれぞれ4両ずつ装備し、中隊本部に2両を装備するので各中隊の装備数は14両となる。 さらに大隊本部にも3両が配備されるので、大隊としての装備数は45両となる。 また大隊本部所属車の中の2両、中隊本部車の中の1両はそれぞれ追加無線機を搭載した指揮車型とすることが定められた。 もちろんこれは定数であり、実際にこの定数を満たした戦車駆逐大隊は少なく、さらに1945年2月にはヘッツァー駆逐戦車装備大隊の増加に伴い、各中隊の定数はそれまでの14両から10両(各小隊3両と中隊本部1両)に削減されることになる。 ヘッツァー駆逐戦車は1944年5月に50両、6月と7月に100両がそれぞれ完成したが、この内38両は6月20日~7月25日にかけて陸軍補充部隊に引き渡され、転換訓練に供された。 ヘッツァー駆逐戦車はこのように試験や訓練に供される一方で実戦部隊への配備も進められ、生産開始から3カ月後の1944年7月4日から、初の実戦部隊として指定された第731戦車駆逐大隊に対する配備が開始された。 同大隊は陸軍直轄の戦車駆逐大隊として、マルダーIII対戦車自走砲を装備して東部戦線で戦っていた部隊であり、1943年末もしくは44年初めまでにその装備を全て失い、本国に帰還してヘッツァー駆逐戦車への装備改変を命じられたものだが、残念ながらその改変期日は不明である。 1944年7月13日までに同大隊は定数である45両のヘッツァー駆逐戦車を受領し、さらに回収型の38(t)回収戦車も4両をその装備に加え、南方軍集団の隷下に入って7月19日から東部戦線に鉄路移動が開始され、7月28日には全車が前線に到着した。 しかし前線に到着した後中央軍集団への異動が決まり、以後同集団の戦区においてソ連軍との戦闘に投入されることになる。 続いて5個の陸軍直轄戦車駆逐大隊に対してヘッツァー駆逐戦車が引き渡されたが、陸軍直轄の戦車駆逐大隊として本車を装備したのはこの6個大隊しかなく、その大半は前述の師団内における戦車駆逐大隊に対して配備が進められた。 第731戦車駆逐大隊に続いてヘッツァー駆逐戦車の配備が行われたのは、第743戦車駆逐大隊(1944年7月、45両)、第741戦車駆逐大隊(1944年9月、45両)、第510戦車駆逐大隊(1945年1月、28両)、第561戦車駆逐大隊(1945年2月、20両)、第744戦車駆逐大隊(1945年3月、31両)で、これらの大隊はいずれも東部戦線に送られたが、このうち第741戦車駆逐大隊のみ東部戦線に送られた後、西部戦線に移動している。 1944年7月末から第731、第743戦車駆逐大隊は実戦に投入されたが、残念ながらその初の実戦記録は残されておらず、ヘッツァー駆逐戦車の名前が初めて記録に登場したのは、1944年8月2日に始まるワルシャワ蜂起においてであった。 この戦いにおいてヘッツァー駆逐戦車は、歩兵の支援無しに市街戦に投入するという誤った戦闘法を採ったため火炎瓶攻撃により1両を失い、1両が鹵獲されるという失態を演じてしまった。 ワルシャワ市民軍はこの鹵獲車両を修復し、「ハヴァト」(向こう見ず)という名前を与えてドイツ軍との戦闘に投入したが、これはヘッツァー駆逐戦車初の鹵獲例であった。 なおハヴァトは第2次世界大戦を生き残り、長らくワルシャワ軍事博物館において展示されていたが、何故かスクラップにされてしまい姿を消した。 1945年1月24日付で、新たな発想に基づいた新しい部隊が編制された。 これが第104戦車駆逐旅団であり旅団本部、装甲偵察中隊クランプニッツ、第1~第6戦車駆逐大隊、第111教導突撃砲大隊、第115装甲偵察大隊、装甲偵察大隊ミュンヘンという他に例を見ない編制となっていた。 それぞれの戦車駆逐大隊はヘッツァー駆逐戦車を14両装備する2個中隊から構成され、偵察中隊には装甲ハーフトラック16両(Sd.Kfz.251/3が1両、Sd.Kfz.250/1が5両、Sd.Kfz.250/3が5両、Sd.Kfz.251/17が5両)が配備されていた。 また第1戦車駆逐大隊のみは3個中隊編制が採られ、1個はIV号突撃砲2両と1両のヘッツァー駆逐戦車を備える偵察中隊となっていた。 この特異な中隊編制は第21、129、203、542、547、551歩兵師団の戦車駆逐大隊や、6a、6b、9bといった学校中隊、そして第510戦車駆逐大隊の第2、第3中隊でも採用されたといわれる。 1945年3月15日におけるヘッツァー駆逐戦車の配備状況は、東部戦線において51個中隊529両が配備され、この内359両が稼働していた。 一方、西部戦線では26個中隊236両が配備されており、このうち稼働車は137両であった。 イタリア戦線では4個中隊56両、うち49両が稼働していた。 これが4月10日になると東部戦線661両(うち稼働車489両)、西部戦線101両(稼働車79両)、イタリア戦線76両(稼働車64両)で、この時期でもちゃんと補充が行われていたことを示しており、ヘッツァー駆逐戦車の主戦場が東部戦線であったことも示している。 なおヘッツァー駆逐戦車はドイツ軍で使用されただけでなく、同盟国に対する供与も行われている。 ヘッツァー駆逐戦車の生産が進められていた1944年夏、ドイツは同盟国に対する本車の供与を決めた。 そのトップバッターとして選ばれたのがルーマニア陸軍で、1944年7月に15両、8月に15両の合わせて30両を供与する予定が立てられたが、ヘッツァー駆逐戦車の生産数は思うようには上がらず、ルーマニアへの供与はひとまず保留とされてしまった。 そして結局、最後まで引き渡しは行われること無く1945年5月の敗戦を迎えている。 独自に戦闘車両の開発を行っていたハンガリーは、国産の40/43MズリーニィII突撃砲に代わる新しい突撃砲を求めて、1944年9月にドイツ陸軍兵器局と会合を行った。 その結果、ハンガリーに対して都合3回に分けて75両のヘッツァー駆逐戦車が供与される運びとなった。 最初の25両は同年12月9日にハンガリーに到着し、次いで12月12日に25両、そして翌45年1月13日に最後の25両が到着して引き渡しを終えた。 当初、ヘッツァー駆逐戦車は数個の突撃砲部隊に少数配備することも考えられたが、最終的に30両ずつを2個突撃砲部隊に配備することを決め、短期間の完熟訓練を経て直ちに、激戦が続いていた首都ブダペストに送られて戦闘に参加した。 そしてこのブダペストにおけるソ連軍との戦闘で、ほとんどの車両を失っている。 その詳細は不明だが、1945年3月8日の時点でエッガー突撃砲隊が15両のヘッツァー駆逐戦車を保有していたことが記録に残されている。 ポーランド人民軍は、3両のヘッツァー駆逐戦車(車体製造番号322649、323339、323358)を1945年3~4月にかけて鹵獲し、修理を加えた後に第6歩兵師団隷下の第5大隊(突撃砲)に「T-38(75mm)」の呼称を与えて配備し、10月まで運用を続けた。 その後第3戦車訓練連隊に引き渡されて、訓練に使用されている。 またソ連軍も、鹵獲したヘッツァー駆逐戦車を多数戦闘に投入したといわれているが、その詳細は明らかにはされていない。 なおソ連軍ではないが、ドイツ側に付いたソ連人捕虜の部隊に配備されたヘッツァー駆逐戦車が、部隊の造反によりドイツ軍と交戦した事例が存在する。 独ソ戦において、ドイツ軍にはイォーシフ・V・スターリン首相のソ連共産党政権打倒を目指す「東方部隊」(ドイツ側に付いたソ連人捕虜の部隊)なる集団が存在したが、1944年9月のドイツ武装親衛隊長官ハインリヒ・L・ヒムラーと東方部隊の特使アンドレイ・A・ヴラソフ中将の合意に基づいて、11月14日にヴラソフを総司令官とする「ロシア解放軍」(ROA)が創設され、1945年1月にROAは東方部隊の指揮権をドイツ軍から譲り受けた。 ROA第1歩兵師団(元ドイツ陸軍第600歩兵師団)は、1945年2月にヘッツァー駆逐戦車10両と38式回収戦車1両を受領している。 4月にチェコの首都プラハ近郊に移動したROA第1歩兵師団は、5月5日に蜂起した現地の対独レジスタンスに支援要請を受け、師団長のセルゲイ・ブニチェンコはレジスタンス側に加勢することを決断した。 ROA第1歩兵師団は現地に駐留していたドイツ武装親衛隊と戦い、ドイツ降伏直前の5月7日にROA第1歩兵師団の手でプラハは解放された。 一方アメリカ軍とイギリス軍では、鹵獲したヘッツァー駆逐戦車を本国で試験に用いただけに終わり、戦闘に使用することは無かった。
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+派生型
●38式駆逐戦車 シュタール搭載型 前述のようにヘッツァー駆逐戦車は開発当初、ラインメタル社製の48口径7.5cm対戦車砲PaK39を原型とする、「シュタール」と呼ばれる固定砲を主砲に採用する予定であった。 シュタールは、PaK39からカルダン枠砲架と駐退・復座機を省略して固定式砲架に搭載し、射撃時の反動を車体全体で受け止めようというものであり、砲の軽量化と製造コストの低減を図れる上、後座に必要な空間を他に転用できるというメリットがあった。 シュタールをIV号戦車やヴェスペ自走榴弾砲に搭載した試験車両を用いて実施した射撃試験の結果、シュタールは通常砲に比べ射撃時に車体に掛かる反動は15~29%程増えただけであったが、負荷で砲そのものの寿命が短くなったり、旋回ハンドルを通じて射撃時の衝撃が砲手の手に伝わり、痺れさせるなどの問題も発生した。 1944年8月末にシュタール搭載型ヘッツァーの試作車3両の製作が発注され、内2両は1944年10月に完成した。 シュタール搭載型ヘッツァーの主砲の取り付け位置は、通常型に比べてやや中央寄りとなった。 続いて同月にシュタール搭載型ヘッツァーの先行生産型10両が発注され、1944年12月~45年1月にかけて全車が完成した。 なお前述のように、BMM社はドイツ側の要求に従ってシュタール搭載型ヘッツァーの先行生産型のエンジンを、タトラ社が開発を進めていた928型ディーゼル・エンジンに換装することを画策した。 しかし、このエンジンの開発が間に合わなかったためやむを得ず、従来通りプラガ社製のAC2800ガソリン・エンジンを搭載してドイツ陸軍に引き渡した。 続いて1945年3月22日に、928型ディーゼル・エンジンに換装したシュタール搭載型ヘッツァーの先行生産型1両が完成した。 結局シュタール搭載型ヘッツァーは、試作車3両と先行生産型11両(内1両はディーゼル・エンジン搭載車)の計14両が完成したに留まった。 さらに戦後、ČKD社(Českomoravská Kolben-Daněk、旧BMM社)は工場に残された部品を用いて14両のヘッツァー駆逐戦車を製作しており、この内7両はシュタール搭載型、残りの7両はPaK39を搭載する通常型として完成した。 ●38式駆逐戦車 指揮車型 ヘッツァー駆逐戦車を装備する部隊の大隊もしくは中隊本部に配備され、前線後方に位置する上級組織との連絡に供することを目的とした車両。 通常型が標準装備としているFu.5無線機に加えて、長距離送信能力を備えたFu.8無線機を追加したのが最大の変化である。 追加されたFu.8無線機は0.83~3MHzの周波数帯を使用する中波無線機で、停止時における通信距離は音声通信の場合50km、電鍵通信の場合120kmとなっていたが、これが走行中になると15kmと50kmに低減した。 指揮車型の生産数や生産比率などは明らかにはされていないが、ヘッツァー駆逐戦車を装備した部隊の数から考えて、少なくとも100両以上が指揮車型として配備されたものと思われる。 ●38D駆逐戦車 兵器局は1944年初めに戦車の生産効率を高めることを背景として将来型戦車の統一化を検討し、III号、IV号戦車の後継としてヘッツァー駆逐戦車の発展型をドイツ国内で開発することを決定した。 この新型駆逐戦車の呼称は、ヘッツァー駆逐戦車の公式呼称である「38式駆逐戦車」(Jagdpanzer 38)に、「ドイツ製」(Deutsche)の頭文字「D」を加えて「38D駆逐戦車」(Jagdpanzer 38D)とされ、グデーリアンの要求に従ってディーゼル・エンジンを導入することになった。 38D駆逐戦車の主砲は、生産当初はヘッツァー駆逐戦車と同じ48口径7.5cm対戦車砲PaK39を搭載するが、早い段階でより強力な70口径7.5cm対戦車砲PaK42に換装することが予定された。 エンジンはタトラ社製の103型 V型12気筒空冷ディーゼル・エンジン(出力207hp)、変速・操向機はZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のAK5-80半自動変速・操向機(前進5段/後進1段)が採用された。 38D駆逐戦車の開発は1944年5月からアルケット社で開始され、1945年に入るとほぼ作業は完了したようで、3月には第1次発注分として1,250両が生産発注され、合計3,000両の量産が計画された。 しかし時期を考えれば分かるようにこれは夢物語に終わり、実際には製作が進められた38D駆逐戦車の試作車1両が、1945年4月20日のヒトラーの誕生日に展示される予定が立てられたものの、結局これも実現しなかった。 ●38式回収戦車 1944年5月~1945年4月にかけて181両が生産された、ヘッツァー駆逐戦車と共通のコンポーネントで構成された戦車回収型。 他に、修理に戻ってきたヘッツァー駆逐戦車から改造されたもの等が64両あった。 38式回収戦車は1944年11月1日付のK.St.N.1160aにより、ヘッツァー駆逐戦車を装備する陸軍直轄の戦車駆逐大隊や歩兵、山岳、猟兵師団の戦車駆逐大隊本部および補給小隊に1両ずつが配備された。 同様に同日付のK.St.N.1152(fg)により、ヘッツァー駆逐戦車を装備する機甲師団と、機甲擲弾兵師団の戦車駆逐大隊の補給小隊にも1両の配備が通達された。 車両はオープントップ式で、エンジンや主砲の交換に用いる組み立て式の簡易2tクレーンを備えていた。 しかしヘッツァー駆逐戦車と同様にエンジン出力が不足気味で、故障・損傷車を牽引した状態では傾斜4度以上の坂を上れず、泥濘地など履帯が沈むような悪路では牽引そのものが不可能であった。 ●38式駆逐戦車 15cm重歩兵砲搭載型 オープントップ化されたヘッツァー駆逐戦車の車体に、ラインメタル社製の11.4口径15cm重歩兵砲sIG33/2を搭載した歩兵の直接火力支援用自走砲。 1944年9月に生産終了した38(t)戦車ベースの15cm自走重歩兵砲グリレの後継として、同月にBMM社が開発に着手し11月に試作車が完成した。 ドイツ側の記録では、15cm重歩兵砲搭載型は1944年12月~45年2月にかけて6両が新規生産され、39両が修理に戻ってきたヘッツァー駆逐戦車から改造されたとされるが、今のところ実戦部隊で運用中の写真は確認されていない。 なお、15cm重歩兵砲搭載型の開発と試作車の製作はBMM社が担当したが、本車の生産とヘッツァー駆逐戦車からの改造作業はドイツ国内で行われたとされている。 ●38式火焔放射戦車 当時計画されていたアルデンヌ地方への大反攻、「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)での使用を念頭に、1944年11月27日付のヒトラーの要求で開発されたヘッツァー駆逐戦車の火焔放射型。 20両のヘッツァー駆逐戦車から主砲など装備を撤去し改造、700リットルの燃料タンクとケーベ社製の1.4cm火焔放射機を搭載した。 38式火焔放射戦車は新編された第352および第353火焔放射中隊にそれぞれ10両ずつが配備され、ラインの守り作戦の支援を目的とする「北風作戦」(Unternehmen Nordwind)で実戦投入された。 またドイツ側の資料には残されていないが、38式回収戦車から2両が38式火焔放射戦車に改造され、戦後チェコスロヴァキア陸軍で用いられたといわれる。 ●38式偵察戦車 「ゲレート564」(564兵器機材)の呼称で、15cm重歩兵砲搭載型と並行して開発が進められたヘッツァー駆逐戦車ベースの威力偵察用戦車。 15cm重歩兵砲搭載型と同様に、ヘッツァー駆逐戦車の車体をオープントップ化して流用していたが、戦闘室はより背の低いものに変わり、主砲もクルップ社製の24口径7.5cm加農砲K51に変更された。 38式偵察戦車の試作車は1944年9月に完成し、早速クンマースドルフ車両試験場に送られて9月29日から試験に供されたが、結局生産には至らずに終わった。 38式偵察戦車が生産に至らなかった理由については、本車と同じ主砲を搭載し、より製造・運用コストが安い8輪装甲車Sd.Kfz.234/3が実用化されていたことが大きいと思われる。 ●ST-I駆逐戦車 戦後、ČKD社がチェコスロヴァキア陸軍向けに開発したヘッツァー駆逐戦車の再生産型。 ヘッツァー駆逐戦車の最後期型とほぼ同仕様の車両であるが、戦闘室前面装甲板の前方中央への大型前照灯の新設、左右前部フェンダーの直後への小さな位置表示灯の新設、左側の位置表示灯の後方へのホーンの追加、戦闘室上部の車内操作式機関銃の廃止などの変更点がある。 ●G-13駆逐戦車 戦後、シュコダ社がスイス陸軍向けに開発したヘッツァー駆逐戦車の再生産型。 ヘッツァー駆逐戦車の最後期型とほぼ同仕様の車両であるが、主砲をIII号突撃砲G型と同じ48口径7.5cm突撃加農砲StuK40に変更し、主砲の変更に合わせて車長と装填手の配置を入れ替えている。 また戦闘室上部の車内操作式機関銃が廃止され、代わりに同じ位置に装甲カバー付きの旋回式視察ブロックが新設され、車長の視界の向上が図られた。 |
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<ヘッツァー駆逐戦車> 全長: 6.27m 車体長: 4.87m 全幅: 2.63m 全高: 2.17m 全備重量: 16.0t 乗員: 4名 エンジン: プラガAC2800 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 160hp/2,800rpm 最大速度: 40km/h 航続距離: 180km 武装: 48口径7.5cm対戦車砲PaK39×1 (41発) 7.92mm機関銃MG34×1 (600発) 装甲厚: 8~60mm |
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兵器諸元 |
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<参考文献> ・「世界の戦車イラストレイテッド14 38式軽駆逐戦車ヘッツァー 1944~1945」 ヒラリー・ドイル/トム・イェンツ 共著 大日本絵画 ・「軽駆逐戦車」 ヴァルター・J・シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「グランドパワー2001年10月号 駆逐戦車ヘッツァー(1) ヘッツァーの開発と構造」 箙浩一 著 デルタ出版 ・「グランドパワー2001年11月号 駆逐戦車ヘッツァー(2) ヘッツァーのバリエーション」 箙浩一 著 デルタ出版 ・「グランドパワー2001年12月号 駆逐戦車ヘッツァー(3) ヘッツァーの部隊配備と戦歴」 箙浩一 著 デルタ出 版 ・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.4 突撃砲/駆逐戦車/自走砲」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.2 AFV:1943~45」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2013年6月号 駆逐戦車ヘッツァー」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「パンツァー2000年11月号 駆逐戦車ヘッツァー その開発と構造」 後藤仁 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2000年12月号 ヘッツァー駆逐戦車の派生型」 後藤仁 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2011年8月号 ドイツ駆逐戦車ヘッツァー」 久米幸雄 著 アルゴノート社 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「ドイツ駆逐戦車ヘッツァー」 ゲンブンマガジン ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
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ヴェスピッドモデル 1/72 38式軽駆逐戦車 ヘッツァー 後期型 プラモデル VS720021 |