III/IV号8.8cm対戦車自走砲ホルニッセ/ナースホルン |
|||||
+開発
ドイツ陸軍は第2次世界大戦中に多くの対戦車自走砲を実戦化したが、1941年6月に開始された独ソ戦でT-34中戦車やKV-1重戦車などの強力な敵戦車に遭遇したことにより、さらにその傾向は強くなった。 これらのソ連軍戦車に対抗するために強力な火砲を備える戦車が望まれたものの、短時間での実戦化は不可能でありこのため、既存の車両に大口径の砲を搭載することで開発と生産の時間を大きく短縮できる、対戦車自走砲の装備に力を注ぐことは当然の帰結であった。 当初はソ連軍から鹵獲した48.4口径76.2mm師団砲F-22(M1936)や、デュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社が開発した46口径7.5cm対戦車砲PaK40を、II号戦車や38(t)戦車の車台に搭載した対戦車自走砲が多用されたが、1942年10月にアドルフ・ヒトラー総統の要求により、さらにアウトレンジからの撃破を図って強力な8.8cm対戦車砲を装備する対戦車自走砲の開発がスタートした。 話が前後するがドイツ陸軍兵器局は独ソ戦開始後、当時のドイツ陸軍の主力軽榴弾砲であったラインメタル社製の28口径10.5cm軽榴弾砲leFH18を搭載する装軌式自走砲の開発を計画した。 しかし、当時のドイツにはleFH18を搭載するのに適当な装軌式車台が存在しなかったため、兵器局は大型の自走砲専用車台を新たに開発することを決定した。 開発期間とコストの低減を図るため、自走砲専用車台は1941年9月の段階でIII号戦車およびIV号戦車のコンポーネントをできるだけ流用し、これを使用した自走榴弾砲の戦闘重量は23.5tとすることが検討されていた。 自走砲専用車台の開発設計はベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトメルキシェ装軌車両製作所)が担当し、名称はとりあえず「III/IV号火砲搭載車両」とされた。 III/IV号車台の開発は1942年になって本格化したが、その進行状況は急ピッチというものでもなかったようである。 というのも、III/IV号車台に搭載すべき砲について再検討が行われていたからである。 なぜならIII/IV号車台は大型なので、10.5cm軽榴弾砲leFH18搭載用としてはオーバースペックと思われたからであった。 やがて1942年7月になって、leFH18はII号戦車の車台に搭載可能ということが判明したため、アルケット社でII号戦車の車台にleFH18を搭載した自走榴弾砲(後のヴェスペ)の開発が開始された。 このためIII/IV号車台には15cm重榴弾砲もしくは、8.8cm高射砲の搭載を新たに検討することになった。 結局1942年7月23日からの総統会議において、III/IV号車台にラインメタル社とエッセンのクルップ社が共同開発した30口径15cm重榴弾砲sFH18を搭載することをヒトラーは決断し、これは7月25日に命令された。 この新型自走榴弾砲(後のフンメル)の試作車は1942年10月に完成し、ヒトラーに披露された。 新型自走榴弾砲の試作車は後の生産型とは異なりIII/IV号車台が用いられておらず、IV号戦車の車台がそのまま用いられており戦闘室に比べてかなり車体が短かった。 また、15cm重榴弾砲sFH18には後座量を減らすために単作動式の砲口制退機が装着されていたが、これも生産型では廃止されている。 ヒトラーはさらに、III/IV号車台に8.8cm対戦車砲を搭載した新型対戦車自走砲(後のホルニッセ/ナースホルン)の開発も要求した。 この頃ドイツ陸軍の8.8cm砲は、クルップ社が1928年に開発した8.8cm高射砲FlaK18から発展し、ティーガーI戦車の主砲として車載化された56口径8.8cm戦車砲KwK36が存在したが、これとは別に、1942年初めから同社が開発に着手していた71口径という長砲身の8.8cm対戦車砲PaK43があり、1943年に実用化されるであろう新型対戦車自走砲にはこのPaK43が搭載されることになった。 新型対戦車自走砲は車体をアルケット社、主砲をクルップ社がそれぞれ担当して開発が進められたが、主砲に予定していた8.8cm対戦車砲PaK43は、砲身の生産ペースに比べて十字型砲架の生産が遅延気味であった。 このためラインメタル社の手で、PaK43の砲身と砲弾を流用してすぐに量産可能な暫定型対戦車砲を開発することとなった。 こうして開発された暫定型対戦車砲PaK43/41は砲身こそPaK43と同じものを用いていたが、撃発装置と閉鎖機は7.5cm対戦車砲PaK40のものをベースに拡大・改良したものが用いられており、これに10.5cm軽榴弾砲leFH18の脚や15cm重榴弾砲sFH18の車輪など極力既存の部品を組み合わせていた。 そしてこのPaK43/41を車載型とした71口径8.8cm対戦車砲PaK43/1が、そのまま新型対戦車自走砲の主砲として採用されることとなった。 新型対戦車自走砲の試作車は1942年10月末頃には完成したが、この試作車の写真は残されていないため車両の詳細については不明である。 ただし、先立って完成した新型自走榴弾砲の試作車が、III/IV号車台を用いずにIV号戦車の車台をベースに製作されていたことを考えると、新型対戦車自走砲の試作車も同様にIV号戦車の車台をベースとしていた可能性が高い。 当初、15cm重榴弾砲sFH18を搭載する新型自走榴弾砲は第1生産ロットとして200両を生産することが予定されていたが、ヒトラーは当時東部戦線で予定されていた大攻勢(後の「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle))に、8.8cm対戦車砲搭載の新型対戦車自走砲を投入することを思い付き、この大攻勢に間に合わせるために1943年5月12日までに自走榴弾砲型と対戦車自走砲型を100両ずつ完成させることを命じた。 1943年2月6日付で、15cm重榴弾砲sFH18搭載の自走榴弾砲型は「フンメル」(Hummel:マルハナバチ、特殊車両番号:Sd.Kfz.165)、8.8cm対戦車砲PaK43/1搭載の対戦車自走砲型は「ホルニッセ」(Hornisse:スズメバチ、特殊車両番号:Sd.Kfz.164)の呼称が与えられたが、ヒトラーが虫の名前を付けることを嫌ったため、1944年1月27日付で自走榴弾砲型の「フンメル」の呼称は廃止され、対戦車自走砲型の呼称は「ナースホルン」(Nashorn:サイ)に変更された。 |
|||||
+車体の構造
第2次大戦半ば以降に開発されたドイツ陸軍のオープントップ式自走砲は、車体前部に操縦室、車体中央部に機関室を配し、車体後部を戦闘区画とする共通の車内レイアウトを採用していたが、このレイアウトはフンメル自走榴弾砲が先鞭を付けたものであった。 フンメルと同様にIII/IV号車台を用いているナースホルン対戦車自走砲も、当然ながら同様の車内レイアウトを採用していた。 このようなレイアウトにすることで、車体後部に主砲と操砲要員を収容する広い戦闘区画を設けることができ、巨大な主砲を搭載しても車両の重量バランスが安定するようになっていた。 前述のように、III/IV号車台は開発期間とコストの低減を図って大型の自走砲専用車台を開発するというコンセプトの元に生み出されたもので、各部にIII号戦車とIV号戦車のコンポーネントが流用されていた。 III/IV号車台はサスペンションと転輪、誘導輪がIV号戦車と共通しており、さらに車台各部にもIV号戦車の部品が用いられているため、一見するとIV号戦車車体をベースとしているように思われるが、実際には車体幅はIII号戦車と共通であり、車体前面もIII号戦車のものが用いられているので、基本的にはIII号戦車車体を延長したものと見るのが正しい。 それならば転輪もIII号戦車のものを流用すればと考えるかも知れないが、III号戦車はトーションバー(捩り棒)をサスペンションに用いているためこれを車内に収める必要があり、このため床板の位置が高くなって、ひいては車体高自体も高くなるという弊害を避けてIV号戦車のものを採用したと思われる。 しかもIV号戦車のサスペンション・ユニットは外装式で、車内スペースを占有しない点が幸いしたようである。 この他、III/IV号車台に流用されたコンポーネントを列記すると転輪、サスペンション、上部支持輪、ダンパー、誘導輪とその基部、履帯、履帯張度調節装置、エアフィルター、ラジエイター、強制冷却ファン、冷却ファン用テンションローラー、マフラーをIV号戦車から、起動輪、左右駆動軸、最終減速機、操向機、変速機、エンジン、燃料ポンプ、燃料フィルター、強制冷却ファン・ベルト、バッテリーがIII号戦車からとなり、両車の部品が平均して用いられたことが分かる。 この他に推進軸と排気マニフォールド、オイルタンク注入口キャップ、強制冷却ファン駆動軸、そして左右のフェンダーは専用のものが新たに開発された。 前述のようにIII/IV号車台の足周りはIV号戦車と共通で、片側8個の小転輪を2個ずつペアにしてリーフ・スプリング(板ばね)で支えていた。 ただしIV号戦車に比べて車体長が延長されているため、第1ボギーの前方と第4ボギーの後方のスペースが広くなっており、履帯の履板数もIV号戦車の片側99枚から104枚に増加していた。 III/IV号車台の車体前部はIII号戦車と形状が共通であり、車体中央部の機関室を頂点として機関室前端から車体前面までなだらかなスロープを描いて装甲板が傾斜していた。 この車体前部と機関室はそれぞれ別に作ってから車台に溶接するという手法が採られ、それぞれはボルトで結合され、変速・操向機とエンジンの整備、交換のために10mm厚の上面装甲板もボルトで固定されていた。 もっともエンジンの交換と一口にいっても、実際には戦闘室の前部と主砲を外してから行わなければならないので大仕事となるが、これはこのような車内レイアウトを採る以上仕方ないことだった。 ナースホルンのパワープラントは、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL120TRM V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力300hp)と、ZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のSSG77シンクロメッシュ式手動変速機(前進6段/後進1段)の組み合わせとなっており、路上最大速度42km/hという主力戦車並みの機動力を発揮することが可能であった。 乗員は操縦手、無線手、砲手、装填手、車長の計5名となっていた。 ナースホルンの車体前部左側には操縦室が設けられ、その直上にあたる上面装甲板は開口されて独立した突出部が溶接されたが、これは操縦手の視界を得ながら頭部をクリアする構造になっていた。 突出部の上面には前開き式の円形ハッチが装着され、前面には防弾ガラスを入れた開口部と、それをカバーする横長のスリットの付いた上開き式の装甲ヴァイザーが装備されており、左右側面にも同様の開口部があったが、こちらは固定式のスリット付き装甲カバーとされた。 通常は装甲ヴァイザーを開いた状態で広い視界を得て操縦を行ったが、ひとたび戦闘が始まるとヴァイザーは閉められて、細いスリットから外部の視界を得ていた。 もっとも、操縦室の突出部は被弾確率の高い場所にありながら装甲は薄く、しかも突出部の中には操縦手の頭部が収まっていたため、攻撃に対しては極めて脆弱だったことはいうまでもない。 ナースホルンは生産当初、IV号戦車G型と同様に左右の前部フェンダー上に管制型前照灯(ボッシュライト)を装備していたが、その後早い段階で左側のみに変更された。 また後期生産車の一部では、車体中央部に前照灯を移動している。 車体前部右側の上面装甲板にも、操縦室突出部の上面に設けられているのと同じ前開き式の円形ハッチが装着されており、ナースホルンは生産当初この場所に無線手が位置していた。 無線手席の脇には無線機ラックが設けられ、Fu.5無線機(フンメルと同じFu.Spr.f無線機とする資料もある)が収められていた。 同じIII/IV号車台を用いているフンメルの場合は、生産終了時まで一貫してここに無線手が配されていたが、ナースホルンの場合は生産の早い段階で無線手が廃止されたようである。 無線手の廃止後は戦闘室内の後部右側に無線機ラックとFu.5無線機が移設され、装填手が無線手の任務を兼ねるようになった。 ナースホルンの車体前端には走行時に主砲を固定するためのトラヴェリング・クランプが装着されていたが、初期生産車ではフンメルと同じく左右から砲身を挟む形で固定するものが用いられていた。 しかしこれでは対戦車戦闘には不向きのため、生産の早い段階で戦闘室内からワイアーで遠隔操作してロックを外し、車体との装着部に取り付けられたスプリングにより、主砲にわずかな仰角を与えることで後方に倒れる機構を持つ新型に替わった。 この新型トラヴェリング・クランプも、当初はクランプの前方に解除ロック機構を備えた一体式のものが用いられていたが、これまた早い段階で砲身側にクランプに差し込む棒を備える固定部が装着され、これをクランプ上面に設けられたロック用の開口部に差し込むという方式に改めている。 この機構の方が、ロック解除から射撃までの時間を短縮できたものと思われる。 車内からロックの解除を操作するために、操縦室突出部の右側には操作ワイアーを収める細いパイプが取り付けられ、戦闘室左側の防盾下部と車体に生じる隙間を埋めるための装甲板に開口部を設け、ワイアーは戦闘室内に導かれていた。 なお、このパイプの後端には操作用のハンドルが設けられていた。 車体左側面の中央部には円形の回転式カバーが設けられていたが、これは冬季時におけるエンジン始動を容易にするためのラジエイター冷却水交換口をカバーするためのものであった。 なおナースホルンと同じ車体を用いているフンメルの場合は、この円形カバーをボルト止めしていたがこの相違の理由については不明である。 |
|||||
+戦闘室の構造
ナースホルン対戦車自走砲の戦闘室は、車体中央部の機関室から車体後部の戦闘区画までを被う極めて大きなオープントップ式のもので、装甲厚は主砲防盾も含めて全て10mmであった。 オープントップ式の戦闘室は砲弾の破片等が飛び込んできたり、敵歩兵に手榴弾を投げ込まれる危険があるなどのデメリットがあったが、反面、密閉式の戦闘室を持つ車両に比べて視界が広いというメリットもあった。 また現地改造で、手榴弾などを投げ込まれるのを防ぐためフレームに網を張った車両も存在した。 ナースホルンの戦闘室は前述のようにエンジン交換を考慮して、側面装甲板を車体袖板に溶接して固定し、これに前面装甲板をボルト止めして取り外しを可能としていた。 戦闘室の側面装甲板は中央部で2分割されており、裏側に補強板が溶接されていたが、これは側面を1枚板とした場合、装甲板が大き過ぎて加工がし難く生産性の妨げとなるために採られた措置と思われる。 戦闘室の後面装甲板は車体後面に溶接されていたが、装甲板の中央部には観音開き式の乗降用ドアが設けられていた。 機関室は上面に主砲の砲架が載る関係で、上方から冷却空気の導入と排出を行うことができないため、戦闘室の左右側面前方にグリルを設けて、エンジンを挟んだ右に設けられた2基のファンを駆動することで左側のグリルから空気を吸い込み、エンジン左側に置かれたラジエイターを経た空気を右側のグリルから排出するという、IV号戦車と同じ冷却方式が採られた。 エンジンからの排気は左右それぞれ車体側面から排気管が外に出され、後方に導かれて後端部を外側に曲げて排出していたが、初期に生産されたナースホルンでは、IV号戦車と同じマフラーに左右から延ばされた排気管が結合されていた。 またナースホルンの初期生産車では、戦闘室最後部の左右下側に用途不明の小さな四角い箱が装着されており、この結果、フンメル自走榴弾砲で車体のこの部分に溶接されていた後部牽引フックは未装着となっていた。 この用途不明の箱は生産の早い段階で姿を消し、フンメルと同様に牽引フックが溶接されるようになった。 ナースホルンの戦闘室内後部には、左右にそれぞれ2列4段の主砲弾薬を収める弾薬庫が設けられており、合計16発の主砲弾薬が収納された。 本車の主砲弾薬搭載数は40発となっているので残りの弾薬は床下に収められたと推測されるが、ここには2基合わせて470リットル容量の燃料タンクが配されており(このため、戦闘室内の床板左には前後に燃料注入口が設けられていた)、24発の主砲弾薬を収めることは難しいと思われるが、実際にどのように主砲弾薬を収納していたのかは不明である。 ナースホルンに用いられたIII/IV号車台はIII号、IV号戦車に比べて車体が延長されているため、それらで車体後面に備えられていた誘導輪調節装置が戦闘室内に移されていた。 これは戦闘室後部の床上に突出する形で取り付けられ、操作の際は左右の床板を後方に開き、専用の工具を差し込んで調整を行った。 この部分は独立した箱状となっており、燃料タンクを避けるため戦闘室の床下はこの調整部を収める箱の部分を除いた右側のみとなっていた。 このことからも、24発もの主砲弾薬を床下に収納できたとは考え難い。 また、戦闘室内の前部には車内幅に渡る主砲のトラヴェリング・ロックが装着されており、これを前方に立てて主砲の駐退レール後端の固定具に掛けてロックする。 射撃時にはロックを外して後方に倒され、操作の妨げにならないよう配慮されていた。 なお、このトラヴェリング・ロックは生産途中で廃止されたが、おそらく、車内からワイアーによる遠隔操作でロックの解除ができる新型トラヴェリング・クランプが導入されたために採られた措置であろう。 このトラヴェリング・ロックがあると、床下の主砲弾薬を取り出すのに立てたり倒したりしなければならないので、廃止されたのは理解できる。 |
|||||
+主砲の構造
ナースホルン対戦車自走砲の主砲である71口径8.8cm対戦車砲PaK43/1は、前述のようにクルップ社が開発した8.8cm対戦車砲PaK43の砲身に、ラインメタル社が7.5cm対戦車砲PaK40のものをベースに拡大・改良した撃発装置と閉鎖機を組み合わせ、これに10.5cm軽榴弾砲leFH18の脚や、15cm重榴弾砲sFH18の車輪などを流用して製作した8.8cm対戦車砲PaK43/41を車載化したものである。 PaK43/41の車載化に際しては脚や車輪、防盾などは姿を消し、ナースホルンの戦闘室に合わせた大きな防盾が装着された。 PaK43/41は砲身がPaK43と同一なので今一つ感じられないかも知れないが、砲尾はPaK43が垂直鎖栓式なのに対しPaK43/41は水平鎖栓式で、砲の駐退機構も全く異なり、PaK43では備えていない砲の駐退レールを持つなど、実際には両者は別物といって良いほど異なっていた。 もっとも、PaK43/41の照準機はPaK43と同じSflZF1a直接照準機が用いられており、必要に応じてパノラマ式照準機Rblf36を使用することもできた。 またPaK43/41は性能などはPaK43と同一で、Pz.Gr.39/43 APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾、弾丸重量10.2kg、弾薬重量23kg)を用いた場合砲口初速1,000m/秒、射距離100mで203mm、500mで185mm、1,000mで165mmのRHA(均質圧延装甲板、傾斜角30度)を貫徹することが可能であった。 これが、タングステン弾芯を鋳込んだPz.Gr.40/43 APCR(硬芯徹甲弾、弾丸重量7.3kg、弾薬重量20.3kg)を用いた場合には砲口初速1,130m/秒、同条件のRHAに対して射距離100mで237mm、500mで217mm、さらに2,000mでさえ153mmという驚異的な装甲貫徹力を発揮することができた。 しかし残念なことにドイツではタングステン鉱は輸入に頼るしかなく、このためPz.Gr.40/43を実戦で用いる機会はほとんど無かった。 それでも、当時の連合軍戦車をアウトレンジで撃破するのにはPz.Gr.39/43で全く問題は無く、アルバート・エルンスト大尉を始めとして多くのナースホルン・エースが誕生した。 例えば射距離3,500mで6両のT-34中戦車を瞬く内に撃破したことや、600mの射距離でT-34中戦車を車体後部から射撃した際、エンジンが5m吹き飛び、キューポラは15m吹き飛んだという記録も残されている。 ナースホルンの主砲弾種は上記のPz.Gr.39/43、Pz.Gr.40/43に加えて、Spr.Gr.43 HE(榴弾、弾丸重量9.4kg、弾薬重量19.3kg)、Gr.39/43HL HEAT(対戦車榴弾、弾丸重量7.65kg、弾薬重量16kg)が用いられた。 なお、Spr.Gr.43を用いた場合の最大射程は17,500mであった。 ナースホルンが装着した10mm厚装甲板を用いた主砲防盾は、戦闘室前面の大きな開口部を塞ぎ、かつ主砲を左右に振っても隙間を生じないよう、極めて大きく湾曲した構造になっていた。 この防盾は主砲を通すために左右で分割され、主砲に固定板を溶接し、砲に仰角を掛けた際に生じる左右防盾の開口部を塞ぐための装甲板を取り付けていた。 また防盾下部と機関室上面の間には隙間が生じるため、その直前にあたる機関室上面には湾曲した背の低い装甲板が、左右防盾の前面に溶接されていた。 なおこの部分は主砲を除いて、同じIII/IV号車台を用いているフンメル自走榴弾砲との最大の識別点となっている。 ナースホルンの主砲の射界は旋回角が左右各15度ずつ、俯仰角が-5~+20度となっていた。 全周旋回式の砲塔を持つ戦車に比べると、主砲の射界が限定されているナースホルンは扱い難い車両ではあったが、本車の絶大な主砲威力はその欠点を補って余りあるものであった。 |
|||||
+生産
前述のように、ナースホルン対戦車自走砲は1942年10月に第1生産ロットとして100両が発注され、東部戦線で予定されていた大攻勢に間に合わせるために1943年5月12日までに完成させるものとされた。 本車の生産はドイツ軍の他の装甲車両と同様に各地の工場でコンポーネントを製作し、最終的に1カ所に集めたコンポーネントの組み立てを行って完成させるという方式が採られていた。 車台はドイツ製鋼所のデュースブルク工場が、上部車体と装甲板はチェコのヴィトコヴィッツ製鋼所が製作し、これらに加えてマイバッハ社からエンジンが、ラインメタル社から主砲がといったように、官給品扱いの部品や各種下請けメーカーの手で製作された艤装品などがドイツ製鋼所のチェコ・テプリツェ工場に集められ、ここで最終的な組み立てが行われてナースホルンとしてロールアウトしていった。 ベースとして用いられたIII/IV号車台の開発が遅れたため、ナースホルンの最初の生産型が完成したのは1943年2月に入ってからのことであった。 同じくIII/IV号車台をベースとするフンメル自走榴弾砲の方は、計画通り100両以上が1943年5月までに完成したが、ナースホルンに関しては残念ながら月次生産数が判明していないため、実際に当初要求された100両が5月までに完成したか否かは不明である。 クールスク突出部の奪回を目指して1943年7月5日に開始された城塞作戦に投入されたナースホルンは、第560重戦車駆逐大隊が定数である45両を持って参戦したのみに留まったが、スターリングラードで壊滅した第521、第611、第670戦車駆逐大隊の残余兵を持って新編された第655重戦車駆逐大隊が、5月7日の時点でやはり45両のナースホルンを保有していた。 さらに第3戦車駆逐訓練大隊が5月18日に1両、同じく第43戦車駆逐訓練大隊が5月20日に2両、ヴュンスドルフ機甲学校に5月21日に2両、第525重戦車駆逐大隊が3両のナースホルンを5月22日に保有していたことが記録に残されているので、これらを足すと98両となり100両完成しているのはまず間違いないようである。 なお、1943年6月末の時点でナースホルン85両が第一線で運用されているとの記録があるので、90両が実戦参加したことから見て、城塞作戦と他の東部戦線での緒戦で5両が撃破されたことになる。 ナースホルンは第1生産ロット100両以降も追加発注が継続して行われ、1945年3月までに合計494両が完成している。 前述のように月次生産数については判明していないが、年次生産数については1943年が345両、1944年が133両、1945年が16両となっている。 なお車体製造番号は310001~310494と、生産数と同じ番号が与えられている。 この総生産数494両というのは、同じIII/IV号車台ベースのフンメルの総生産数714両の半分強の数字であるが、ナースホルンは当初の計画では1943年5月から月産45両が予定されていたものの、自走榴弾砲と比べて対戦車自走砲は多くの車種が存在していたこと、対戦車車両の主力がより高い防御力を備える駆逐戦車に移行しつつあったこと、自走榴弾砲の配備が早急に望まれていた等の理由からナースホルンの月産数は20両に減らされ、最終的に500両弱の生産数に落ち着いたものと思われる。 |
|||||
+部隊配備
ナースホルン対戦車自走砲は絶大な主砲火力を誇るため、そのほとんどが大切な虎の子として軍または軍団直轄で独立運用される重戦車駆逐大隊に配属された。 その定数は1943年4月1日付の戦力定数指標(K.St.N.)1148bで定められたが、このK.St.N.1148bは中隊編制に関するものであり、4両のナースホルンを装備する小隊3個で1個中隊を編制し、中隊本部にはナースホルンを2両配備し、この中隊3個で1個大隊が編制されるので、その数は合わせて42両となる。 これに続く5月1日付のK.St.N.1155bで、大隊本部中隊にはナースホルンを3両配備するとの指令が出されているので、これらを足すと重戦車駆逐大隊の定数は45両となる。 この後、度々装備変更の指令が出されているが、それらは大隊に配備された各小隊が備える各種装備車両に関するもので、このナースホルンの装備定数自体は最後まで変更されなかった。 本車の主戦場は東部戦線であったが、一部は西部戦線とイタリア戦線でも用いられ、何名かの有名なナースホルン・エースも生み出している。 最初に実戦投入されたのは第560重戦車駆逐大隊で、定数45両をもってクールスク南部戦区に投入されている。 城塞作戦に参加したナースホルン部隊は、これだけであった。 この後、東部戦線には第655、第519、第93、第88といった重戦車駆逐大隊が配備された。 このうち第93重戦車駆逐大隊は1943年夏には西部戦線にあったが、晩秋に東部戦線へ移動したのであった。 このため西部戦線には当面ナースホルンは存在しておらず、1944年6月のノルマンディー戦にも投入されていない。 1944年暮れ頃になるとようやく必要に迫られてか、ナースホルン装備部隊が新たに西部戦線に配置されているが、これらは通常の重戦車駆逐大隊ではなかった。 1つは第16機甲師団隷下の第2戦車連隊を原隊とする、第2戦車連隊第II大隊で独立運用された。 もう1つは第93重戦車駆逐中隊で、これは第93重戦車駆逐大隊の第2中隊が独立したものであった。 一方、イタリアでは早い段階から第525重戦車駆逐大隊によってナースホルンが使用されていたが、これがイタリア戦線に展開した唯一のナースホルン装備部隊であった。 以下、各ナースホルン装備部隊の詳細について記述する。 ●第560重戦車駆逐大隊 1942年に東部戦線で編制された第560戦車駆逐大隊がそのルーツで、1942年9月20日付で第27機甲師団の第127戦車駆逐大隊を改称して開隊され、同師団と行動を共にしたが、翌43年2月8日に同師団が全滅したため、第7機甲師団の第42戦車駆逐大隊に残余の兵と装備が編入された。 そして同年春には第37、第41、第42戦車駆逐大隊の第4中隊として分散配備が行われ、4月3日付で西方軍司令の命により、これらの戦車駆逐大隊から兵を引き抜いて3個中隊を編制し、新たに第560重戦車駆逐大隊の呼称が与えられることになった。 4月中にフランスに展開する第7軍の指揮下で装備改変作業が行われ、23日には第1中隊と第3中隊合わせて30両のナースホルンを装備して、東部戦線南部方面へと旅立った。 これは城塞作戦への投入を目的としたもので、これに遅れる5月には第2中隊も15両のナースホルンを受領して移動を行い、14日には戦線に到着、この結果同大隊は城塞作戦には定数を持って参加することができた。 城塞作戦開始に先立つ6月17日付の同大隊から送られた報告書では、まだ技術的な問題により実戦参加の状況には至っていないとの報告が出されているが、この問題を克服したようで、クールスク突出部の南翼に攻撃を仕掛けたケンプフ軍支隊の一翼を担って攻撃に投入されている。 その後も東部戦線での戦いに従事し、12月末から翌44年1月にかけて第52機甲軍の指揮下に入ってキロヴォグラード防衛戦に参加し、4月には東部戦線を離れてミーラウ戦車訓練場に帰還した。 これはヤークトパンター駆逐戦車への装備改変を目的としたものであり、この時点で同大隊とナースホルンの関係は切れることになった。 ●第655重戦車駆逐大隊 1943年4月15日に、スターリングラード戦で壊滅した第521、第611、第670戦車駆逐大隊の残余の将兵から新編された部隊で、4月から6月末にかけて西方軍集団の指揮下でフランスにおいてナースホルンの受領と訓練が行われた。 当初、城塞作戦へのナースホルン投入を考えて新編された部隊で、6月末には中央軍集団への移動が開始されたが時すでに遅く、結局城塞作戦には間に合わなかった。 従来の説で城塞作戦に参加していたという同大隊の行動は誤りだったことが判明したが、城塞作戦が実質的に終わった7月12日以降の後退戦には参加しており、その後も東部戦線において各地を転戦し、1944年5月30日付で中央軍集団から北方軍集団に移動して、ポーランドまで続く後退戦で大きな戦果を挙げた。 8月にはヤークトパンターへの装備改変が決まり、ミーラウ戦車訓練場へ帰還して改変作業を開始したが、ヤークトパンターの生産は思うようには進まず、結局第1、第2中隊はヤークトパンターとIV号戦車/70(V)との混成装備とされ、第3中隊は以前と同じくナースホルンを装備することになった。 そして第1、第2中隊は再び東部戦線に戻って戦闘に投入されたが、第3中隊は移動すること無く、11月25日付で第669重戦車駆逐大隊として西部戦線での戦闘に参加することになった。 ●第525重戦車駆逐大隊 1939年8月26日に第1機甲師団の第37戦車大隊第3中隊を基幹として新編された第525装甲防御大隊がそのルーツで、9月に第1軍に配備されその後間もなく第525重装甲防衛部隊に改編、8.8cm高射砲FlaK18の配備を受け、任務も新たに掩蔽壕と戦車攻撃がその任務とされた。 1940年5~6月のフランス侵攻作戦において第30軍団の一翼として実戦に投入され、マジノ・ライン攻撃に参加した。 フランス戦終了後、ラインメタル社製の63.5口径5cm対戦車砲PaK38と45口径3.7cm対戦車砲PaK36を装備に加え、第525戦車駆逐大隊と改称してバルカン方面の侵攻作戦に参加したが、これは同作戦に加わった唯一の戦車駆逐大隊でもあった。 その後、ソ連侵攻では南方軍集団に配備されて1943年まで南部戦区を転戦し、4月17日付でナースホルンへの装備改変が決まり、呼称も第525重戦車駆逐大隊と改め、5月よりナースホルンの導入が始められた。 6月8日にはフランスに移動し、6月末より北イタリアに派遣され第371歩兵師団、第90機甲擲弾兵師団、SS突撃旅団RF-SSと共に沿岸防衛任務に就いている。 12月には第3機甲擲弾兵師団の隷下に入ってローマに移動したが、同月末には第1降下軍団の隷下に移されて、翌44年1月3日に第3中隊は第29機甲擲弾兵師団に組み込まれ、カッシーノ防衛戦に投入された。 残る大隊本部と第1、第2中隊は1月23日に第3機甲擲弾兵師団に配備され、アンツィオ戦区へ派遣された。 その後も同大隊はイタリアで唯一ナースホルンを装備する部隊として戦闘を続け、1944年9月9日付で第1中隊がヤークトパンターへの装備改変を命じられ、残存車を残る第2、第3中隊に譲渡して兵員はミーラウ戦車訓練場に移動したが、結局ヤークトパンターへの改変は行われず、第2、第3中隊はイタリア戦線で戦い続け、最後はアメリカ軍に降伏してその歴史を閉じた。 ●第93重戦車駆逐大隊 1935年に第23歩兵師団の第23装甲防御大隊として編制された部隊をルーツとし、その後第23戦車駆逐大隊と改称し、1942年9月14日付で第23歩兵師団が第26機甲師団に改編された後の10月19日付で、呼称を第93戦車駆逐大隊と改めた。 そして、第26機甲師団がフランスで訓練を行っていた1943年6月16日付でナースホルンへの装備改変が決まり、これに併せて呼称も第93重戦車駆逐大隊と変更された。 7月23日に同大隊は戦闘参加が可能な部隊となり、同月末に第7軍の隷下に入り西フランスに移動、再編された第21機甲師団と共同訓練を行った後、9月に東部戦線に移動して南方軍集団の指揮下に入り、ドニェプル川を巡る攻防戦において初めて戦闘に投入された。 その後、東部戦線を転戦した同大隊は1944年10月までに装備車両の大半を失って、部隊としての行動は不能となってしまった。 このため、11月に第3駆逐戦車補給大隊の手で装備改変作業が行われることになり、同月末に第2中隊が西部戦線に送られたと記録には残されているが、残る第1、第3中隊の行動については不明である。 第2中隊は第93重戦車駆逐中隊と改称され、1945年3月第一週にニールの町の近くで同中隊のナースホルンが500mという至近距離から、アメリカ軍の新鋭重戦車M26パーシングを撃破している。 ●第519重戦車駆逐大隊 1943年6月1日に第3支援コマンドより要員を抽出して新編され、8月15日に第519重戦車駆逐大隊の呼称が与えられでナースホルンの配備が開始された。 しかしナースホルンの配備は思ったほど順調には進まず、最後の車両が引き渡されたのは11月に入ってからで、編制終了後直ちに東部戦線に移動して中央軍集団の一翼を担い、第20機甲師団第21戦車連隊の支援を皮切りとして戦闘に参加した。 以後各地を転戦し1944年6月23日には第4軍の指揮下に入ったが、前年11月の戦闘開始から1944年6月30日までに同大隊が撃破したソ連軍戦車の数は112両に達した。 その後、7月までにはほとんどの車両を失い戦闘力が無くなったためミーラウ戦車訓練場に帰還し、再編制作業に取り掛かった。 しかし、すでにナースホルンの数は不足しており、この結果ナースホルン15両と戦車(不明)および突撃砲合わせて7両という混成装備を採らざるを得なかった。 同月末には再び東部戦線に戻ったがすでに勝機は無く、8月15日までに全てのナースホルンを失い、8月中にまたもやミーラウに戻って、今度は新鋭ヤークトパンターへの装備改変が開始された。 しかしヤークトパンターの生産は遅れており、このためヤークトパンターとIII号突撃砲との混成装備となり、西部戦線に送られて12月16日に開始された「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)に投入された。 なお、同大隊には最強のナースホルン・エースといわれるアルバート・エルンスト大尉が所属していた。 彼の搭乗するナースホルン「ビュッフェル」(Büffel:水牛)号は、東部戦線において80両のソ連軍戦車を撃破したといわれ、エルンストはその功績により1944年2月7日に騎士鉄十字章を授与されている。 ●第88重戦車駆逐大隊 1940年10月29日付で第4駆逐戦車補充大隊と第52歩兵連隊第14中隊、第101歩兵連隊第14中隊から要員を抽出して新編され、9月29日に編制されたばかりの第18機甲師団に配備された。 1943年9月29日に同師団が解散したのに伴い第18機甲擲弾兵師団に配備先を変え、11月末にミーラウ戦車訓練場に移動してナースホルンへの装備改変作業に入り、呼称も第88重戦車駆逐大隊と改められた。 訓練終了後、34両のナースホルンを持って1944年2~3月にかけて東部戦線に移動し、戦闘に投入されることになったが、5月にナースホルンとしては初めてのIS-2重戦車撃破を記録したことは特筆できよう。 その後も東部戦線を転戦し1945年1月には赤外線暗視機材を試験しており、これまたナースホルンとしては初の試みであった。 3月6日には同大隊に残存するナースホルンはわずか4両となり、ほとんど組織的な戦闘もできないまま5月にチェコのプラハ北方でソ連軍に降伏した。 ●第669重戦車駆逐大隊 1944年1月に、ナースホルン24両を装備する第655重戦車駆逐大隊第3中隊が独立して第655戦闘中隊を新編し、第4機甲軍隷下で東部戦線において戦闘に投入された。 1月25日付で同中隊は第669重戦車駆逐大隊と改称されたが、この時点でのナースホルン装備数は13両に減っており、第17機甲師団と共に東部戦線での防衛戦に従事し、1945年5月8日のドイツ降伏に伴いプラハの北方でソ連軍に降伏したが、この際には残存車はほとんど無かったものと思われる。 ●第664重戦車駆逐大隊 1943年8月1日付で第3機甲軍隷下の第291戦車駆逐大隊の大隊本部と第1中隊、第263戦車駆逐大隊の第2、第3中隊から新編されたもので、当初牽引式の8.8cm対戦車砲PaK43を装備していたが、1944年11月19日に第1中隊がミーラウ戦車訓練場に移動して、ナースホルンへの装備改変を命じられた。 1944年12月末の時点における同大隊の報告書に9両のナースホルンの装備が記されているので、12月中には改変作業が終了したものと思われる。 しかしその戦闘記録などは不明で、西部戦線での戦闘に従事したことしか判明していない。 ●第37戦車駆逐大隊 第1機甲師団の編制に組み込まれていた戦車駆逐大隊で、本来ならばナースホルンの配備を受ける部隊ではなくマルダーII、III対戦車自走砲を装備していたが、1944年12月から翌45年3月末までの同師団装備報告書においてナースホルン4両の装備がリストアップされており、装備していたことは間違いないようである。 しかし、1945年4月初めにIV号戦車/70(V)への装備改変が命じられているので、これに伴いナースホルンは装備から外れたようである。 ●クンマースドルフ戦車中隊 ツォッセンのクンマースドルフ車両試験場において試験されていた各種車両から大戦末期に編制された部隊で、1945年3月1日付の報告書において第2小隊に1両のナースホルンが装備されていたとある。 4月23日付で同中隊はメーブス戦闘団に配備され、ソ連軍との戦闘に投入された。 この他、1944年12月にSS第2機甲師団からの報告書で、ナースホルン20両が装備されているとの記載があるが、これについては不明である。 |
|||||
<III/IV号8.8cm対戦車自走砲ホルニッセ/ナースホルン> 全長: 8.44m 車体長: 7.26m 全幅: 2.95m 全高: 2.65m 全備重量: 24.0t 乗員: 4~5名 エンジン: マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 300hp/3,000rpm 最大速度: 42km/h 航続距離: 235km 武装: 71口径8.8cm対戦車砲PaK43/1×1 (40発) 7.92mm機関銃MG34またはMG42×1 (600発) 9mm機関短銃MP40×2 (384発) 装甲厚: 10~30mm |
|||||
兵器諸元 |
|||||
<参考文献> ・「パンツァー2013年7月号 ドイツ自走砲の集大成となったフンメルとナスホルン」 久米幸雄 著 アルゴノート 社 ・「パンツァー2023年6月号 W.W.II AFV FILE 重対戦車自走砲”ナースホルン”」 遠藤慧 著 アルゴノート社 ・「戦闘車輌大百科」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2000年5月号 ドイツ重対戦車自走砲の開発/構造/戦歴」 佐藤光一 著 デルタ出版 ・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「グランドパワー2014年5月号 ドイツ対戦車自走砲 ナースホルン写真集」 横須賀稔 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2003年2月号 ドイツ軍対戦車自走砲 ナスホルン」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.4 突撃砲/駆逐戦車/自走砲」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.2 AFV:1943~45」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「ジャーマンタンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「世界の戦車パーフェクトBOOK 最新版」 コスミック出版 ・「ザ・タンクブック 世界の戦車カタログ」 グラフィック社 ・「世界の戦車・装甲車」 竹内昭 著 学研 ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
|||||
関連商品 | |||||
AFVクラブ 1/35 III号/IV号戦車用 40cm幅中期型履帯 AF35179 |