III/IV号15cm自走榴弾砲フンメル |
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+開発
ドイツ軍は第2次世界大戦が始まって間もない1940年に、すでに戦車としては旧式化していたI号戦車の車台を用いて、チェコ・プルゼニのシュコダ製作所製の43.4口径4.7cm対戦車砲PaK(t)を搭載したI号4.7cm対戦車自走砲や、デュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の11.4口径15cm重歩兵砲sIG33を搭載したI号15cm自走重歩兵砲を実用化した。 1940年5月10日に開始されたフランス侵攻作戦で実戦に投入されたこれらの車両の活躍は、ドイツ軍に自走砲の有効性を強く認識させることになった。 さらに、1941年6月22日にソ連侵攻作戦(Unternehmen Barbarossa:バルバロッサ作戦)を開始したドイツ軍は、戦訓からより強力な対戦車自走砲の必要性を認識すると共に、まだ着手していなかった榴弾砲の自走化も早急に行う必要があるとの認識を高めることになった。 当時、ドイツ軍の主要榴弾砲にはラインメタル社が1935年に開発した28口径10.5cm軽榴弾砲leFH18と、ラインメタル社とエッセンのクルップ社が1933年に共同開発した30口径15cm重榴弾砲sFH18が存在していた。 しかし当時、ドイツ軍にはこれらの榴弾砲を搭載するのに適当な戦車車台が見当たらなかった。 後述のように10.5cm軽榴弾砲leFH18は、後にII号戦車の車台に搭載されてヴェスペ自走榴弾砲となったが、この時には、同時期に開発が進められたマルダーII対戦車自走砲の生産が急務であったことと、10.5cm軽榴弾砲leFH18は、マルダーII対戦車自走砲に搭載されたソ連製の48.4口径7.62cm対戦車砲PaK36(r)や、ラインメタル社製の46口径7.5cm対戦車砲PaK40より重く、弾薬庫および作業スペースも多く必要なため、II号戦車の車台では小さいと判断されたようである。 そこで、10.5cm軽榴弾砲leFH18を搭載する自走砲専用車台が新規開発されることになった。 一方15cm重榴弾砲sFH18の方は、この時点ではまだ自走化することは考えられていなかったようである。 自走砲専用車台は、1941年9月の段階でIII号戦車およびIV号戦車のコンポーネントをできるだけ流用し、これを使用した自走榴弾砲の戦闘重量は23.5tとすることが、すでにドイツ陸軍兵器局で検討されていた。 自走砲専用車台の開発設計は、ベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトマルク履帯製作所)が担当し、呼称はとりあえず「III/IV号火砲搭載車両」とされた。 III/IV号車台の開発は1942年になって本格化したが、その進行状況は急ピッチというものでもなかったようである。 というのも、III/IV号車台に搭載すべき砲について再検討が行われていたからである。 なぜならIII/IV号車台は大型なので、10.5cm軽榴弾砲leFH18搭載用としてはオーバースペックと思われたからであった。 やがて1942年7月になって、10.5cm軽榴弾砲leFH18はII号戦車の車台に搭載可能ということが判明したため、アルケット社の手で、II号戦車の車台にleFH18を搭載した自走榴弾砲(後のヴェスペ)の開発が開始された。 このためIII/IV号車台には15cm重榴弾砲もしくは、8.8cm高射砲の搭載を新たに検討することになった。 結局1942年7月23日からの総統会議において、III/IV号車台に15cm重榴弾砲sFH18を搭載することをアドルフ・ヒトラー総統は決断し、これは7月25日に命令された。 この自走榴弾砲の試作車は1942年10月に完成し、ヒトラーに披露された。 この試作車は後の生産型とは異なり、III/IV号車台が用いられておらず、IV号戦車の車台がそのまま用いられており、戦闘室に比べてかなり車体が短かった。 また、15cm重榴弾砲sFH18には後座量を減らすために単作動式の砲口制退機が装着されていたが、これも生産型では廃止されている。 ヒトラーはさらに、III/IV号車台に8.8cm対戦車砲を搭載した車両(後のナースホルン対戦車自走砲)の開発も要求した。 III/IV号車台を用いた自走榴弾砲はこの時点ではまだ愛称は無く、1943年2月6日になって、「III/IV号火砲搭載車両によるsFH18/1自走砲 フンメル」(特殊車両番号:Sd.Kfz.165)と決められた。 しかしこれは、1944年2月27日にヒトラーの命令により変更されている。 「フンメル」(Hummel:マルハナバチ)の愛称は却下され、sFH(重野戦榴弾砲)はsPH(重装甲榴弾砲)に変えられた。 そのため制式呼称は「III/IV号火砲搭載車両によるsPH18/1自走砲」となったが、実情としてはフンメルの呼称も依然として使用されていた。 |
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+主砲の構造
フンメル自走榴弾砲の主砲に採用された30口径15cm重榴弾砲sFH18は元々、ドイツ軍が第1次世界大戦で使用したクルップ社製の17口径15cm重榴弾砲sFH13の後継として開発されたものであった。 開発研究は1920年代中頃から進められ、1933年に制式採用されている。 従って本来なら「sFH33」と名付けられるものなのだが、ヴェルサイユ条約のために兵器の開発が表立ってできなかったので、第1次大戦中の1918年の開発に見せ掛けたわけである。 この砲は砲部をラインメタル社が、砲架部をクルップ社が担当開発しており、同様にして製造された52口径10.5cm野戦加農砲K18とは砲架部が同じで、姉妹関係にあたっている。 砲弾は分離薬莢式で、弾頭はGr.19 HE(榴弾)や、Gr.39Hl/A HEAT(対戦車榴弾)を主に使用した。 薬莢は装薬量を調整できるようになっており、分離式の装薬を通常は6個まで用いた。 6個の装薬は、1番装薬から6番装薬までそれぞれ容量が違っていた。 また装薬には平べったいタイプと棒状のタイプが存在し、3+4番装薬および5+6番装薬というのもあった。 この他に特大の7番装薬と8番装薬があったが、これは6番までの装薬で飛距離が足りない場合に、指揮官の認可によって初めて使用することができた。 弾頭重量43.5kgのGr.19 HEを8番装薬を用いて発射した場合、砲口初速495m/秒、最大射程は13,250mに達した。 15cm重榴弾砲sFH13の最大射程は8,900mなので、射程が大幅に向上したことが分かる。 またsFH13の旋回角が左右各3.5度ずつだったのに対し、sFH18では左右各30度ずつと自由度が高かった。 これはsFH13が単脚式だったのに対し、sFH18は開脚式になっていたためである。 このように、15cm重榴弾砲sFH18は非常に優秀な中型火砲であったが、sFH13の重量が2,270kgだったのに対し、sFH18の重量は倍以上の5,512kgもあり、運用面では砲兵に重労働が強いられることになった。 従って、このsFH18を自走化したフンメル自走榴弾砲は、砲兵にとってまさに理想的な火砲となったのである。 15cm重榴弾砲sFH18の生産は1934年から始められ、戦前/戦中を通して約7,000門近くも作られており、ドイツ軍の中型火砲の中核装備となった。 当初はラインメタル社のみで生産を行っていたが、増産態勢のため後にベルリンのシュプレー製作所、ニュルンベルクのMAN社、パド・ヴァルンブルンのデリース・フュルナー社、チェコのシュコダ社が生産に参加している。 フンメル自走榴弾砲への搭載にあたって、15cm重榴弾砲sFH18は野戦型砲架および脚が取り外され、新たに車体側に自走砲用砲架が設けられた。 砲自体は特に変化なく性能も野戦型と同じであったが、揺架前方には円弧状の防盾が取り付けられ、自走砲用型式として「sFH18/1」という呼称が与えられた(後に「sPH18/1」に変更)。 また車載化によって、砲の作動角範囲が野戦型から変化しており、旋回角は左13度/右15度、俯仰角は-3~+42度(野戦型では-3~+45度)となっていた。 照準機は展望式のRblf.36で、これは野戦型と同じであった。 フンメル自走榴弾砲の車内には、18発の15cm砲弾が搭載された。 |
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+車体の構造
フンメル自走榴弾砲に使用されたIII/IV号車台は、一見IV号戦車の車台を延長しただけのように感じられるが、IV号戦車のコンポーネントを流用しているだけで完全な新設計になっている。 IV号戦車では車体後部にあった機関室は車体中央部に移されており、機関室の上に15cm重榴弾砲sFH18/1の砲架をそのまま搭載することで、車体後部に広い戦闘区画を取ることができた。 車体の装甲厚は前面30mm、下面前部17mm、上面前部および下面15mm、側面20mm、後面22mmとなっていた。 これらは戦車とは違って、終戦まで増厚変更されることは無かった。 車体長は自走砲用とあってかなり長く設定されていたが、転輪/サスペンションの数や配置はIV号戦車と変わっていない。 延長されたのは主に最終転輪以降の車体部分で、起動輪と第1転輪の間隔もIV号戦車より広くなっていた。 車体幅はIV号戦車より若干広く、III号戦車と同一に設定されていた。 また前面装甲板は、IV号戦車より上下幅が大きくなっていた。 IV号戦車と違って車体前部に独立した牽引具は無く、側面装甲板が前方に飛び出しており、その上部に設けられた穴付きの張り出しが牽引具の代わりになっていた。 これはIII号戦車からの設計流用で、車体前面に取り付ける予備履帯用のラック部品も、III号戦車もしくはIII号突撃砲からの流用であった。 ただしそのL型金具の取り付けは、III号戦車が外側なのに対し本車では内側になっていた。 車体上面前部の構造は、まず最前部の両サイド部分に三角形の装甲板が溶接されており、そこにIV号戦車と同一の通気口装甲カバーおよび、主砲用トラヴェリング・クランプの基部が取り付けられていた。 その他の部分は、機関室の手前まで大きな1枚装甲板をボルトで固定する構造になっていた。 これは、変速・操向機およびブレーキユニットのメインテナンスのための配慮であった。 このため、この装甲板を持ち上げるためのフックが前後4カ所に取り付けられていた。 またこの装甲板の左側後方には、操縦室の張り出し部が溶接されていた。 操縦室の張り出しは前面から見ると台形で、側面は前後に2段折れになっていた。 操縦室前面の装甲厚は30mmで、防弾ガラス装備のスリット付き視察ヴァイザーが取り付けられていた。 また、操縦室の左右側面にはそれぞれ視察ブロックが装備されていた。 操縦室の上面は水平で、円形の操縦手用ハッチが備えられており、これは前方へ開くようになっていた。 また、操縦室の前方には跳弾板が溶接されていた。 操縦室の反対にあたる右側後方には無線手用の円形ハッチが設けられており、やはり前方へ開くようになっていた。 なお、フンメル自走榴弾砲の後期生産車では操縦室の張り出しは車幅いっぱいの新設計のものとなり、操縦室の前面には操縦手と無線手それぞれに視察ヴァイザーが備えられ、操縦室の左右側面には視察ブロックが装備された。 操縦室の上面には、操縦手と無線手用にそれぞれ円形ハッチが備えられた。 そしてこの操縦室部は独立した部品として製作されたため、操縦室より前の装甲板と2分されることになった。 そのため吊り上げ用フックはそれぞれの装甲板に取り付けられるようになり、前方装甲板に3つ、操縦室部の前面に2つ、上面に2つが設けられた。 この装甲板の下にあたる車内前部には、ZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のSSG77変速機(前進6段/後進1段)を始めとするブレーキユニット等の、駆動伝達コントロール装置が設置されていた。 これらのユニットは、III号戦車H/J型と共通のものであった。 なお、無線手席の直後には床に脱出用ハッチが設けられていたが、これはIV号戦車とは違って円形ではなく角形をしていた。 車体中央部は機関室となっており、前部とは隔壁で仕切られていた。 機関室には推進軸で結合された、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL120TRM V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(300hp/3,000rpm)が収められていた。 エンジンの左側にはラジエイター、右側にはデュアル冷却ファンが装備されており、このあたりの機器およびその配置はIV号戦車とほぼ同じであった。 ただし、フンメル自走榴弾砲の機関室の上部には15cm重榴弾砲sFH18/1の砲架が搭載されていたため、IV号戦車と違って機関室上面には点検用ハッチが設けられていなかった。 機関室の上部構造物は一体式に作られ、ボルトで固定するようになっていた。 そのため上部構造物の最前部と最後部の斜め部分に、吊り上げ用のフックが2個ずつ装備されていた。 また、上部構造物の最前部には戦闘室内の乗員を保護するための跳弾板が取り付けられていた。 機関室より後方は、戦闘室の作業空間となっていた。 床板は上げ底になっており、機関室との境目あたりにエンジンのエア・フィルターが設置されていた。 また床下には2個の燃料タンク(合計470リットル)があり、その注入口が床板より上に2個突出していた。 後部左右の床は、履帯張度調整装置用のアクセス・ハッチになっていた。 履帯張度調整装置はIV号戦車のものを流用していたが、ハウジングの形状は戦車型と全く同じというわけではなかった。 車体の側面装甲板は戦車型のように上下に2分割されておらず、大きな1枚板になっていた。 車体側面前方に取り付けられた起動輪用の最終減速機およびそのカバーは、III号戦車からの流用部品がそのまま使用されていた。 機関室の左右側面上部にはそれぞれ角型の通気口が設けられており、左側が吸気用、右側が排気用であった。 また、機関室の左側面には円形のハッチがボルト止めされていたが、これは冬季時に使用する冷却水加温装置用の装備であった。 車体右側面上部の無線手席のあたりには、無線機用アンテナの基部が取り付けられていた。 無線機は、Fu.Spr.fが搭載されていた。 側面装甲板の最後部には、履帯ピンの抜け落ち防止用板が取り付けられていた。 エンジン用排気管は、車体両側面の上部から取り出されていた。 極初期の生産車ではこの排気管を、車体後面に取り付けたIV号戦車型の横型排気マフラーに接続していたが、マフラーは早い段階で廃止され、その後は車体後面位置で排気管はカットされた。 そのため車体後面の空いたスペースを利用して中央に乗降用の小ステップ、両サイドに1個ずつの予備転輪を装備するのが標準になった。 その他、車体後面には中央下部にトレイラー用の牽引部、および上部両側面に牽引フックが装備されていたが、これらはIV号戦車からの流用であった。 このうち牽引フックに関しては、極初期の生産車では開口部が下向きに取り付けられていたが、後の標準仕様では上向きに変更された。 |
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+戦闘室の構造
フンメル自走榴弾砲の戦闘室は適度な傾斜角で多面体に構成されており、装甲厚は全て10mmであった。 戦闘室上面はオープンとなっており、主砲上部の復座管は戦闘室より上に飛び出していた。 戦闘室の側面は車体からオーバーハングしており、側面装甲板の底部は車体側面に溶接されたアングル材に止められていた。 このアングル材は前方部に延びており、フェンダーを取り付けるのにも用いられていた。 フェンダーは戦闘室より前方にしかなく、最前部には泥除けが付いていた。 ただし、極初期の生産車では後部にも泥除けが取り付けられていた。 戦闘室の前/側/後面の装甲板は溶接で結合されていたが、側面および後面の装甲板は中央部で分割されており、車体へはボルトで結合されていた。 また側面装甲板の前方下部には、機関室側面の通気口に合わせてグリルが装備されていた。 最後期に近い生産車ではここにカバーが装備され、通気はその上部から行うようになっていた。 戦闘室後面には大きな観音開き式のドアが設けられており、乗降および作業用に使用された。 戦闘室内の後面左右には砲弾弾頭用の収納ボックスがあり、これには計14発を収納できた。 規定の18発には4発足りないが、残りの4発は床下に収納されたのではないかと思われる。 戦闘室内の右側面には、後方に15本分の薬莢庫が備えられていた。 その上部には予備アンテナと、砲弾を砲尾に押し込むためのラマーが装備されていた。 右側面の前方には副武装として、オベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が1挺ラックに取り付けられ、その左側にはMG用の弾薬箱が装備されていた。 左側面の後方にはブラケットが備えられていたが、装備品については不明である。 左側面の前方には、上部に2個の雑具箱とその下に工具箱があった。 その他に消火器や、エアフルトのエルマ製作所製の9mm機関短銃MP40の装備が確認されている。 戦闘室内の側面下部には、弾頭用収納ボックスの前方に吊り上げ用アイプレートが溶接されていた。 また側面下部の中央には、砲架固定用のトラヴェリング・ロックの取り付け基部があった。 トラヴェリング・ロックはパイプ溶接式で、中央で分離できる構造になっていた。 ただし、トラヴェリング・ロックの装備が確認できるのは初期の生産車のみで、その後は廃止された模様であるが、取り付け基部だけは後期の生産車でも残されていた。 その他、車外装備品としては左右の前部フェンダー上に、ゲルリンゲンのロバート・ボッシュ社製の前照灯が装備されていたが、これは後期において左側のみの取り付けとなった。 その他、フェンダー上には左側にジャッキ、右側にジャッキ台が装備された。 車体上面前部には最前部に左右分離式のトラヴェリング・クランプが設けられており、無線手席の前方にはワイアーロープが装備されていた。 このワイアーロープは、後期生産車ではトラヴェリング・クランプの間に移されている。 戦闘室後面の観音開き式ドアの下には、照準調整用の標定ロッドを3本装備していた。 |
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+走行装置の構造
フンメル自走榴弾砲の起動輪はIII号戦車からの流用で、H型以降のタイプが標準になっていた。 転輪、リーフ・スプリング式サスペンション、ダンパーおよび上部支持輪はIV号戦車からの流用で、使用数量も同じであった。 これらはほとんどIV号戦車F型と同一部品であったが、転輪のハブキャップは生産が進むにつれて、IV号戦車H型と同じく新型に変更した車両もあった。 上部支持輪は、後期生産車では全鋼製のものに変更された。 ただし、ダンパーは後期においても新型には変更されていなかったようである。 誘導輪は当初IV号戦車D型用のものが用いられていたが、これはすぐにF型用のパイプ溶接式誘導輪に変更されている。 履帯はIV号戦車用の40cm幅標準型(Kgs.61/400/120)で、ヴィンターケッテ(雪上走行用の滑り止めパターンを持つ履帯)も用いられた。 1944年6月からは、オストケッテ(東部戦線用の幅広履帯)も導入された。 履板数は、片側104枚が標準であった。 |
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+生産と部隊配備
フンメル自走榴弾砲は、装甲関係をミューレンハイムにあるドイツ圧延所が供給し、組み立て生産はデュースブルクのドイツ製鋼所で行われた。 当初は200両が生産発注されていたが、1942年10月に試作車が完成後、ヒトラーの意向により100両分は、ラインメタル社とクルップ社が共同開発した71口径8.8cm対戦車砲PaK43/1を搭載する、ナースホルン対戦車自走砲の生産に振り分けられている。 残りの100両は1943年5月までに完成することが要求されたが、これは一般的に、当時東部戦線で計画されていた「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)に投入するためであったとされている。 フンメル自走榴弾砲の生産は1943年2月から開始され、1943年5月までに115両が完成し、1943年7月5日に開始された城塞作戦が初陣となったが、この時前線へ投入されたのは55両のみであった。 フンメル自走榴弾砲の生産は終戦まで続けられ、1943年に368両、1944年に289両、1945年に57両が生産され、合計で714両が完成したとされている。 月別の生産数については、以下の通りである。
なお、フンメル自走榴弾砲は15cm砲弾を18発しか搭載できず、携行弾数の少なさが問題となったがこの対処として、同じくIII/IV号車台を用いた専用の弾薬運搬車が合計で157両生産されている。 この弾薬運搬車はフンメル自走榴弾砲とほぼ同じ構造で、砲および砲架を搭載せず、機関室上面装甲板の形状を変更し、戦闘室前面を装甲板で塞いでいた。 フンメル自走榴弾砲は、ヴェスペ自走榴弾砲と共に機甲師団の装甲砲兵連隊に主に配備された。 ただし、これら自走榴弾砲が配備されたのは1個大隊のみが通常で、稀に2個大隊に装備した連隊もあった。 大隊は3個中隊編制で、第1および2中隊がヴェスペ自走榴弾砲、第3中隊がフンメル自走榴弾砲を装備するのが一般的な配置であった。 フンメル中隊は6両編制で、これに弾薬運搬車が2両付属するのが規定数であった。 1943年7月の城塞作戦時にフンメル自走榴弾砲を所有していた師団は第2、第4、第7、第9、第11機甲師団、機甲擲弾兵師団グロースドイッチュラント、SS第1~第3機甲擲弾兵師団である。 この後、これら以外でフンメル自走榴弾砲の配備を受けた主な師団は第1、第3、第5、第6、第8、第12、第13、第14、第16、第17、第19、第24、第25、第26、第27、第116、FHH1、HG、Lehr機甲師団、第3、第10、第29機甲擲弾兵師団、そしてSS第5、第9、第10、第12機甲師団が挙げられる。 |
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<III/IV号15cm自走榴弾砲フンメル> 全長: 7.17m 全幅: 2.97m 全高: 2.81m 全備重量: 23.5t 乗員: 6~7名 エンジン: マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 300hp/3,000rpm 最大速度: 42km/h 航続距離: 215km 武装: 30口径15cm重榴弾砲sFH18/1×1 (18発) 7.92mm機関銃MG34×1 (600発) 9mm機関短銃MP40×2 装甲厚: 10~30mm |
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兵器諸元 |
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<参考文献> ・「パンツァー2013年7月号 ドイツ自走砲の集大成となったフンメルとナスホルン」 久米幸雄 著 アルゴノート 社 ・「パンツァー2023年8月号 W.W.II AFV FILE 2 15cm自走榴弾砲”フンメル”」 遠藤慧 著 アルゴノート社 ・「パンツァー1999年7月号 ドイツ陸軍の重砲」 水野靖夫 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル 第2次大戦ドイツ自走砲」 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ドイツ軍自走砲」 アルゴノート社 ・「第2次大戦 AFVファイル Vol.5 フンメル&軽装甲偵察車」 佐藤光一 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.2 AFV:1943~45」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2012年12月号 自走榴弾砲フンメル」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2000年3月号 ドイツ自走砲”フンメル”」 佐藤光一 著 デルタ出版 ・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917~1945」 デルタ出版 ・「ジャーマンタンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「ドイツの火砲 制圧兵器の徹底研究」 広田厚司 著 光人社 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
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