II号戦車L型ルクス |
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+開発
II号戦車L型「ルクス」(Luchs:ヤマネコ)は、長らく続けられていた新型II号戦車開発計画の中から誕生した車両であり、集大成的な存在として唯一大量生産が行われたものである。 本車の開発は、1939年9月15日にドイツ陸軍兵器局第6検査部が装軌式の偵察装甲車両の開発を第6兵器試験部に要求したことに端を発する。 この時、ドイツ軍はちょうど「ポーランド侵攻作戦」(Unternehmen Weiß:白作戦)の最中で、首都ワルシャワへの攻撃が開始された頃であった。 当時、ドイツ軍の偵察部隊が運用していた装甲車両はいずれも装輪式であった。 これらは路上最大速度が70km/h以上であり、迅速な偵察活動が行えるものであった。 ただし、それは路上もしくは固く平坦な地形での話であった。 ポーランドでの実戦経験で路上から外れた不整地では装輪式車両は機動力が大きく低下し、偵察活動が満足に行えないことが問題視された。 ポーランド戦終了の後、第2軽師団からの報告書でそれは指摘され、走行速度よりも不整地走破能力を有し、後進走行時の操縦性を重視した軽師団用の装甲偵察車両の開発が必要であると提案された。 兵器局第6兵器試験部は、この新しい構想の車両を「VK.13.01」計画として開発を行うものとした。 もっとも、この開発計画は完全に新しいものではなく、1938年からすでに開発を進めていた「VK.9.01」計画を発展させたものであった。 VK.9.01(後のII号戦車G型)は当時「新型II号戦車」と呼ばれていたが、その実態は従来のII号戦車シリーズとは大きく設計の異なる装軌式の高速偵察装甲車両であり、高い不整地走破能力を有していた。 ただし、第2軽師団が要求した後進走行時の操縦性は考慮されていなかった。 その代わり、操向機は3重半径式で小回りが利くように設計され、装輪式車両に近い路上最大速度を発揮することができた。 VK.13.01は基本的にVK.9.01の機能を踏襲していたが、VK.9.01との決定的な違いは乗員数を3名から4名に増やしたことであった。 追加された1名は砲手で、これにより車長は砲の操作から解放され、偵察と指揮に専念することが可能になった。 VK.13.01の開発は、元々VK.9.01の開発を行っていたニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)と、ベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社が担当することになった。 開発分担もVK.9.01と同様に割り当てられ、シャシーの設計をMAN社、上部車体と砲塔の設計をダイムラー・ベンツ社が担当することになった。 ちなみに「VK.13.01」は、計画重量13tの装軌式車両(Vollketten-Kraftfahrzeug)VK.13の1ゼーリエ(第1シリーズ)を表した計画コードであり、その設計には先行して開発されていたVK.9.01の設計や部品の多くが流用されていた。 MAN社は最初にVK.13.01の試作シャシーを製作することにし、これは1941年7月までに完成している。 この試作シャシーにはVK.9.01と同じく、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL45P 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力150hp)、前進8段/後進1段の変速機、それに3重半径式操向機が搭載されていた。 また前面装甲板は30mm厚、側面装甲板は20mm厚であった。 上部車体と砲塔を搭載した場合の想定重量は11tで、路上最大速度は70km/hと算出していた。 砲塔の武装は、外装式防盾にオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の2cm機関砲KwK38と、同社製の7.92mm機関銃MG34を1挺ずつ搭載するものとしていた。 なお、VK.13.01に搭載される2cm機関砲KwK38は通常の砲身長1,100mm(55口径)のタイプではなく、原型となった2cm対空機関砲FlaK38と同じく砲身長を1,300mm(65口径)に延長したタイプとされた。 1941年7月の段階における試作シャシー完成後の予定では、VK.13.01の試作車Vゼーリエを15両生産するように第6兵器試験部から指示されていた。 しかし、その後にVK.13.01として完成した車両は無く、全ての装甲部品はその後の開発車両「VK.13.03」のために使用された。 VK.13.03の前に「VK.13.02」計画が存在したはずであるが、おそらく短期間の内にVK.13.03計画が浮上したために、計画破棄されたらしく記録が残っていない。 VK.13.03の大量生産計画は1941年8月1日に提示されており、少なくともこの時期には開発が始められていたことになる。 VK.13.03がVK.13.01と違う点は、VK.9.01に対して大型化した車両におけるエンジンの強化や、良好な機動力を得るために履帯幅を広げて接地圧を低くするなどの対策を盛り込んだところであった。 MAN社はVK.13.01に代わるVK.13.03の試作シャシーを1942年4月初旬に完成させ、生産型の製造を同年9月から開始させた。 当初、VK.13.01はVK.9.01に引き続いて「新型II号戦車VK.13.01」と呼ばれていたが、VK.13.03からは「新型II号戦車」とされる場合と、「II号偵察装甲車両」とされる2通りの場合があった。 「ルクス」という呼称は、1942年7月の段階で公式文書に記されるようになっている。 そして、実際に製造された車両の製造番号プレートには「II号戦車L型」と記載されているので、少なくともその呼称は1942年9月までに決定していたはずである。 VK.13.03は当初、試作車Vゼーリエを経ずにいきなり生産型の量産を開始する構想であったが、実際には4両のVゼーリエ・シャシーが製作された。 最初のVゼーリエは1942年4月に完成したが、その後に4両全てのVK.13.03 Vゼーリエを完成させるために、生産型の量産が予定より1カ月遅れたとMAN社は報告した。 記録に残るVゼーリエはV26、V29、V30、V31の4両で、これらはその後に様々な試験や改良のベースとして利用された。 第6兵器試験部は、1944年3月22日にツォッセンのクンマースドルフ試験場に所在する車両試験部に、VK.13.03にチェコ・コプジブニツェのタトラ社製の空冷ディーゼル・エンジンを搭載したVゼーリエ V29の試験を依頼した。 このV29は3月末までにクンマースドルフ試験場に搬入されて、その後ベルカ試験場において走行試験が行われる予定とされた。 ただし、記録ではV29は1944年5月8日に燃料消費量測定のために、チェコのプラハからドイツのアイゼナハに向かったとある。 その後にサスペンションの故障で走行不能となり、クンマースドルフ試験場へ鉄道輸送されている。 タトラ社製ディーゼル・エンジン搭載のVゼーリエ V29は、単にエンジンを換装しただけではなく、全体を傾斜装甲板で構成した新設計の上部車体とシャシーの前後を仮設していた。 これらの仮設車体は本来の車体の上から取り付けられており、かなり薄い鋼板で作られていた。 またシャシーの後面には、エンジン点検用の大型長方形ハッチが設けられていたのも特徴であった。 V29には砲塔も搭載されていたが、それはVK.13.03用ではなくVK.9.01のものを武装を撤去して流用していた。 |
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+生産
1941年1月8日にドイツ陸軍兵器生産局第6部は、MAN社との間でVK.9.03(II号戦車H型)の生産型500両の生産契約を結んだが、これは同年8月1日までに250両のVK.9.03と250両のVK.13.03の生産に変更された。 そして1942年3月末にVK.9.03の生産はキャンセルされ、500両全てがVK.13.03の生産契約に置き換えられた。 1942年6月23日にアドルフ・ヒトラー総統は、東部戦線での春の攻勢に間に合わせるため、1943年5月12日までに合計131両のVK.13.03を完成させる予定であるとの報告を受けた。 そして1942年7月1日までに、VK.13.03の生産契約は800両にまで増大された。 当初、VK.13.03の131両の生産型の内、最初の100両までは2cm機関砲KwK38搭載型として完成させ、101両目からはデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の60口径5cm戦車砲KwK39/1搭載型として組み立て、1943年4月から引き渡しが行われるものとしていた。 しかし、この5cm戦車砲搭載型VK.13.03は実現されること無く、1943年2月初旬までに生産計画が破棄され、2cm機関砲搭載型のVK.13.03を100両組み立てたところで生産を中止することが決定された。 5cm戦車砲搭載型のVK.13.03が生産に至らなかった背景には、同じ主砲を搭載する8輪重装甲車Sd.Kfz.234/2の実用化があったと思われる。 装甲防御力ではVK.13.03の方が上回っていたものの路上での機動力はSd.Kfz.234/2が大きく上回っており、装輪式車両であるため製造・運用コストも安価であった。 偵察用途には装輪式のSd.Kfz.234/2で充分であり、かといって戦闘に使用するにはVK.13.03は火力・装甲とも不充分であったため、この生産中止は妥当な判断であったといえよう。 VK.13.03用の車体と砲塔の装甲筐体はハノーファーのドイツ製鋼所エーデル工場が提供したが、VK.13.03として製造したのは85両分であった。 残りの15両分は、以前にVK.13.01のVゼーリエ用に製造していたものが流用された。 VK.13.03の組み立て生産は全てMAN社で行われたが、最初の15両分の砲塔だけは納期を守るためにダイムラー・ベンツ社が組み立てを代行した。 ダイムラー・ベンツ社の記録では、VK.13.01用の砲塔と上部車体をそれぞれ15両分組み立てたとしており、その後それらはMAN社に納品された。 2cm機関砲KwK38搭載型VK.13.03の生産開始は1942年8月を予定していたが、実際の生産は9月から始められた。 月次生産数は平均1桁台で生産完了予定は大幅に遅れ、1943年中に全数は完成せず、最後の100両目が完成したのは1944年1月のことであった。 遅延の理由の1つは、MAN社が所在するニュルンベルクへの連合軍の航空爆撃による被害で、もう1つは、MAN社が担当していたV号戦車「パンター」(Panther:豹)の組み立て生産が最優先されていたからであった。 VK.13.03の月次生産数は下表の通りである。
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+シャシーの構造
VK.13.03の車体は、下部(シャシー)と上部(戦闘室、機関室)共にVK.9.01を拡大したような形状で、非常によく似ていた。 シャシーと上部車体との結合方法は、基本的にはドイツ軍戦車で一般的なアングル材によるフランジ合わせのボルト結合式になっていた。 なお、少なくとも前面装甲板は表面硬化型が使用されており、側面や後面の装甲板も表面硬化型であった可能性がある。 シャシーの前面装甲板は30mm厚であったが、その下部面と前方上面の装甲板は20mm厚であった。 前方上面装甲板の中央奥にはVK.9.01と同様に変速機とブレーキ用の排熱口があったが、そのカバーは鋳造製で4本のボルトで固定されていた。 またVK.13.03ではVK.9.01でシャシー前端にあった牽引用フックは無く、その代わりにシャシー側面装甲板を前方に突出させて牽引用の穴を開けたアイプレート方式が採用されていた。 この牽引用アイプレートは、シャシーの後部にも設けられていた。 VK.13.03のシャシー形状が決定的にVK.9.01と異なっていたのが、車体後面の形状である。 VK.13.03ではエンジン用冷却空気の排出口を機関室後部の上面に設けたので、VK.9.01のように機関室上部がシャシーよりも後ろに出っ張る形状ではなく、シャシー後面板が機関室の後面までをカバーする、上部が後方へ傾斜した1枚装甲板で構成されていた。 この後面装甲板はシャシー側面と溶接されていたが、機関室上面とはボルトで結合するようになっていた。 シャシー後面装甲板の中央部やや上にはエンジン用排気管の出口と、それをカバーする排気管基部装甲ガードが5本のボルトで固定されていた。 排気管基部装甲ガードは縦長の丸みを帯びたフランジ付きの鋳造製で、同じMAN社が設計したパンター戦車用の排気管基部とよく似たものであった。 排気管基部の上部から出た排気管はすぐに左側に曲げられて、横置きの排気マフラーに接続された。 この排気マフラーは断面が枕型で、後面装甲板の左側上端部に取り付けられていた。 マフラーの排気口はその左側にあり、斜め後方に向けた排気管がフランジによりボルト止めされていたが、その排気管は非常に短いものであった。 後面装甲板の中央最下部にはトレイラー用牽引具が溶接されており、そのすぐ上にはエンジン始動機のシャフト差し込み口があり、その左右にはエンジン始動機の接続用ロッドが溶接されていた。 差し込み口には菱形の装甲カバー板があり、左右2カ所をボルトと蝶ナットで固定していた。 そして開ける時はナットを緩めて、左側のボルトを軸に反時計回りにカバー板を回転スライドさせた。 さらにエンジン始動シャフト差し込み口の左上には、4本のボルトで固定された円形の装甲カバー板で覆われたエンジン点検口があった。 1942年9月に生産が開始されたVK.13.03であったが、翌10月からエンジン用の冷却水加温装置の搭載が開始された。 これは、冬季寒冷地で凍結したオイルクーラーの冷却水を外部からトーチランプ(手持ち式バーナー)により加熱する装置で、トーチを火炎ブローするための接続口がシャシー後面装甲板の左側下部に追加され、円形装甲カバー板が2本のボルトで固定されていた。 また、このカバー板の左側にはリフレクターが装備された。 |
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+戦闘室の構造
VK.13.03の戦闘室は、左右がシャシーより張り出していた。 側面は前方部から3/5程度までは後方に向かって広がっており、それ以降はシャシー側面と平行になっていた。 前面装甲板は30mm厚で、側面装甲板は20mm厚であった。 上面装甲板は、資料によって12mm厚と10mm厚の2つの説がある。 戦闘室上面中央部のやや後方には砲塔用の開口部(直径1,180mm)と砲塔リングがあり、その前方区画は左側が操縦手席、右側が無線手席となっていた。 前面装甲板には、左右に操縦手と無線手のための30型装甲視察ヴァイザーが装備されていた。 これはIII号戦車G型で採用された、30mm厚装甲板に対応したヴァイザーが回転式のものであった。 左右の装甲視察ヴァイザーの間には、欺瞞のためにダミーの装甲視察ヴァイザーがボルト止めされたが、これはアルミ合金製ではなく、薄い金属板を折り曲げて作ったアイディア部品であった。 また操縦手は、前面装甲視察ヴァイザーを閉じた状態で使用する双眼式のK.F.F.2ペリスコープを車内に装備していたので、そのための開口部が操縦手用前方装甲視察ヴァイザーの上に2つあった。 このK.F.F.2ペリスコープは1943年2月に装備が廃止されたが、戦闘室の装甲筐体は同月に全数が完成しており、ペリスコープ用の穴はすでに加工されていた。 この他、操縦手は左側面に、無線手は右側面にそれぞれスリット付きの跳ね上げ式視察ヴァイザーが用意されていた。 これは20mm厚装甲板に対応した20型視察ヴァイザーで、おそらくIV号戦車D/E型の側面視察ヴァイザーと同型と思われる。 もし同型であればスリット幅は8mmで、車体内側に固定装備された交換式の積層式防護ガラスは厚さが90mmであったはずである。 戦闘室右側面の中央部付近には、Fu.12無線機用のアンテナの取り付け基部が装備されていた。 アンテナ基部は通常のII号戦車用とは異なり、リーフ・スプリング(板ばね)で支えるタイプではなくゴム部品で保持するタイプであった。 このアンテナ基部は、円筒形の装甲ポッドの上に取り付けられていた。 Fu.12無線機は高出力のため、装甲ポッドの中には大型の碍子による絶縁部品があった。 このアンテナ用装甲ポッドは、側面装甲板から出された円筒形の首に対し直角に取り付けられていた。 基部に取り付けられたアンテナは通常星型(D型)であったので、垂直状態で使用された。 従って、フェンダー上にアンテナを収納するアンテナ受け台は存在しない。 ただし、アンテナ用装甲ポッドは前後に傾けられる機能を持っていた。 VK.13.03の戦闘室上面はVK.9.01と同様、前端部に山形断面の跳弾板が直線で幅一杯に取り付けられていた。 その直後には、操縦手と無線手の乗降用ハッチが左右に装備されていた。 これらのハッチは砲塔リングに干渉しないように、後方内側が斜めにカットされた変形5角形の形状になっていた。 ハッチは外側に開くと砲塔に干渉するため内側に開く構造になっており、そのヒンジは車内側にあった。 1つのハッチに対してヒンジは2個で、車体の外側方向に取り付けられていた。 このため、乗降用ハッチはシャシー側面装甲板の近くに垂直に垂れ下がるように開いた。 乗降用ハッチのロック機構は戦闘室側にあり、ハッチ内側前方の戦闘室上面にはそのための鍵穴とカバー板が装備されていた。 これは車外からハッチを開閉できることを意味しており、そのためにハッチの上面にはコの字形の把手が取り付けられていた。 この他、戦闘室上面には四隅に吊り上げ用フックが装備されていた。 |
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+機関室の構造
VK.13.03の機関室はシャシーと同じ幅で、上面の前端部は戦闘室と同じ高さになっており、後方は傾斜角5度で下げられていた。 前方部の左右には、ラジエイターの吸気口用の張り出しがあった。 この張り出し部は戦闘室の幅に合わせた位置まで出ており、内側は機関室側に食い込んでいた。 この吸気口上部は水平になっており、機関室の傾斜部からその外殻が少し上に出っ張っていた。 開口部は仕切りにより9つの区画に分かれており、前後の仕切りと外殻の前後はアーチ状に膨らんだ形状で、その上に異物混入防止のために金属メッシュが張られていた。 これらの特徴は他のドイツ軍戦車には見られない設計であったが、さらにVK.13.03では左右の吸気口で長さが異なるという珍しい特徴を持っていた。 機関室上面の前方2/3は、横長の1枚式長方形ハッチで占められていた。 これは後方に2個取り付けられたヒンジで、後ろに跳ね上げて開くようになっていた。 このハッチはエンジンやエア・フィルターの点検、それに燃料やラジエイター水の補給用として使用された。 このハッチには前後に横長のエンジン用吸気口があり、その上を長方形の装甲カバーで保護していた。 大型ハッチの直後には非常に小さな長方形の点検用ハッチがあり、後ろ側のヒンジ1個で取り付けられていた。 小型ハッチの後方には、ラジエイターの冷却空気排気口が幅一杯に設けられていた。 この排気口と大型ハッチの間の機関室上面部分には、牽引ケーブル装備用のホルダーが5カ所に設けられていた。 冷却空気排気口は左右に大きく3分割されており、それぞれの排気口はさらに大小のフレームにより細かく仕切られていた。 この内、中央の排気口の仕切り板は前後4カ所でボルト止めする構造になっており、取り外して点検口として使えるようになっていた。 ただし、排気口上部全体には異物混入防止用の金属メッシュが取り付けられていたので、点検口として使用するにはまずこのメッシュを外す必要があった。 VK.13.03に採用されたエンジンは、VK.9.03に搭載予定であったものと同じマイバッハ社製のHL66P 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンで、シリンダーは内径102mm、ストローク130mm、排気量は6,754cc、出力は最大で200hp(定格180hp)、定格回転数3,200rpmであった。 エンジンには最大出力600Wの発電機が付属しており、2基のバッテリーに電力を供給した。 バッテリーは2基接続の場合、定格12Vの60Aを出力したが、切り替えスイッチで1基のみの接続とした場合は12Vの105Aを出力した。 エンジンは機関室の大型ハッチの下ほぼ中央に設置されており、その上部前方にはカービュレイター(フランスのサン・ローのソレックス社製ダブルバレル型)用のオイルバス式エア・フィルターが備えられていた。 エンジンの右側には容量235リットルの燃料タンクが設置されており、左側にはバッテリーが置かれていた。 エンジンの左右後方にはそれぞれラジエイターが配置され、その後面に排気用のファンが装備されていた。 エンジンの出力軸は機関室前方の防火隔壁から出て車体前方に伸ばされ、変速機に接続された。 その後、動力は操向機とブレーキユニットを経て最終減速機に伝達され、駆動軸を介して起動輪を動かした。 VK.13.03の変速機は、当初の計画ではマイバッハ社製の半自動操作式の前進8段/後進1段のものを搭載する予定であった。 しかし、この変速機は試験により解決すべき多くの問題点が発覚し、短期間での修正は不可能と判断された。 そのため、代替の変速機としてZF社製のSSG48変速機が搭載された。 この変速機は手動変速同期式で、前進6段/後進1段であった。 変速機に接続される操向機は、VK.9.01と同様に3重半径式とされた。 ただし、この3重半径式操向機は頻繁にトラブルを引き起こしたため、1943年6~7月にクラッチ・ブレーキ式操向機に交換された。 |
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+走行装置の構造
VK.13.03の起動輪はシャシー両側面の前方に配置されており、23枚歯の複列式で、表側にはU字断面のスポークが6本あった。 中央のハブ面は平らで、12本のボルトで最終減速機に固定されていた。 ハブカバーは1段突出しており、中心部の2本の大きなボルトで固定され、外周近くにグリースニップルが1つ取り付けられていた。 転輪はソリッドゴムタイヤ付きの大型のもので、タイヤは外直径720mm、厚さ65mmであった。 この大直径転輪の採用で、上部支持輪は不必要とされた。 また転輪は複列式で片側5個あり、オーバーラップ式の複合配置型であった。 第1、第3、第5転輪は2枚が合わせになっており、第2、第4転輪がそれを外側から挟み込む構成であった。 転輪は放射状に波形をプレスしたディッシュ型で、第1、第3、第5転輪は凸部が3カ所、第2、第4転輪は凸部が8カ所あった。 サスペンションはトーションバー(捩り棒)とスウィングアームで構成され、第1、第5転輪用としてヘムシャイト社製のHT60油圧ショック・アブソーバーがシャシー側面に装備されていた。 誘導輪は直径560mmでVK.13.03の試作シャシーでは鋼製リム型であったが、生産型ではソリッドゴムタイヤと鋼製リムを交換できる独自の型式に変更されていた。 誘導輪本体は6本スポークの鋼製であったが、その外周部に60度の扇形に6分割されたゴムタイヤリムもしくは鋼製リムを、2本のボルトで本体に取り付けられるようになっていた。 ただし、ゴムタイヤリムはすぐに消耗してしまうためか、装着例は極初期の車両にしか確認できない。 戦場写真では、鋼製リムを装備しているのが標準であった。 VK.13.03の履帯は、専用のKgs.63/360/90履帯であった。 これはドライピン式のダブルガイド型履帯で、2列の台形ガイドプレートが第1、第3、第5転輪と第2、第4転輪の間を通過するようになっていた。 履帯幅はVK.9.01が300mmであったのに対し、VK.13.03では360mmに拡げられていた。 これは、接地圧を下げて機動性と操縦性を高めるのが目的で行われた。 そのため、VK.9.01では接地圧が0.97kg/cm2であったが、総重量が1.3t上回るVK.13.03では0.77kg/cm2でしかなかった。 履帯のピッチは90mmで、履板のリンク数は片側96枚であった。 VK.13.03のフェンダーは、戦闘室の前方から機関室の途中まではシャシー上端面に水平に取り付けられていた。 その前方部は若干傾斜して下がり、シャシーの前面装甲板前端部付近で終わっていた。 その前端部には円弧状の前部泥除けが、2個のクリップで固定されていた。 後方部は誘導輪の上辺りでカットされ、その先には後方に傾斜した後部泥除けがボルトで固定されていた。 この後部泥除けは後部アイプレートと重なるため、内側を削ぐような形状にされており、牽引用アイにフックが掛けられるようになっていた。 前部泥除け、フェンダー、それに後部泥除けの表面には、外側寄りに補強用のプレスラインが前後方向に加工されていた。 またフェンダー部分には、中央よりやや外側にもう1本プレスラインが入っていた。 フェンダーステイは、シャシー前面上部装甲板部に1本と戦闘室側面に2本あり、後部泥除け用として機関室側面に1本ステイがあった。 フェンダー上に装備されたOVM(車外装備品)は露出しているものは少な目で、消火器やハンマーそれに斧などは見当たらない。 おそらくそれらは、工具箱の中に収納されていたものと思われる。 ただし、部隊配備後に装備は配置がアレンジされる場合もあり、消火器を装備したり独自の収納箱を追加したりした車両が確認できる。 基本的な装備としては、右側フェンダーではまず前端部外側に車間表示バーがあった。 そして、第1ステイの後ろにゲルリンゲンのロバート・ボッシュ社製の前照灯があり、この配線は真横に伸びて、フェンダー近くのシャシー前面上部装甲板に設けられた円錐台形状の装甲配線基部に引き込まれていた。 前照灯の後ろにはシャベルがあり、その後方には長い専用工具箱が据え付けられていた。 おそらくこの中には、アンテナの延長ロッドなどが収納されていたと思われる。 そして、後部泥除けの先端部にはジャッキ台があった。 なおジャッキ自体はフェンダー上には無く、機関室の右側面に取り付けられていた。 また右フェンダー上のボッシュ社製前照灯は、1943年8月から装備が廃止されている。 左側フェンダーでは、車間表示バーとボッシュ社製前照灯についての装備は右側と同じであった。 前照灯の後方にはワイアーカッターがあり、その外側にはバールが装備されていた。 その後方には、側面にX形のプレスラインのある収納箱が2つ前後に連結されたものがあり、上部にヒンジで開閉する蓋がそれぞれにあった。 そしてその後方には、単独のX形のプレスライン入りの収納箱が取り付けられていた。 左側の後部泥除けではステイの後ろ側に角型間隔表示灯が装備され、その後方の泥除け上にはS字フックが2個左右に並べて取り付けられていた。 なおフェンダー上以外に、砲塔側面や後面にもジェリカンや収納ボックスを装備している車両が存在したことが戦場写真で確認できるが、それは部隊仕様であって正規の装備品ということではない。 |
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+砲塔の構造
VK.13.03の砲塔は偵察車両として独創的な概念で設計されていたので、軽戦車ベースとしては他には見られない特徴があった。 まず、車長と砲手の2名用の砲塔であるところが最大の特徴である。 しかも、ドイツ軍戦車の砲手は通常左側に位置するが、VK.13.03では右側に配置されていた。 このため、照準機も防盾の右側に装備されるという特殊な配置であった。 砲塔上面には、従来のII号戦車シリーズに定番装備されていた車長用のキューポラは設置されず、代わりに全周旋回可能なペリスコープを装備した円形ハッチが設けられていた。 また、砲塔後面に大型の長方形ハッチが設けられていた点も大きな特徴であった。 砲塔の装甲筐体は、平面構成の溶接構造であった。 全体の形状はVK.9.01の砲塔に似ていたが、後面にハッチを設けたので後面装甲板は前方に傾斜した1枚式となっていた。 同時に側面後方下部に、三角形の面取り部が新たに設けられていた。 前方部はVK.9.01と同様に武装を外装式防盾に装備したので、砲塔前面装甲板の長方形開口部に内側からボルト止めされた左右の砲耳にセットする、III号戦車の5cm砲用防盾と同じ方式で装備されていた。 砲塔の前面装甲板と主砲防盾は30mm厚で、側面と後面は20mm厚装甲板であった。 上面装甲板の厚さは、資料によって12mmと10mmの2つの説がある。 砲塔前面は大部分が主砲防盾でカバーされており、防盾の中央には主武装の2cm機関砲KwK38が、その左側には副武装の7.92mm機関銃MG34が同軸に装備されていた。 同軸機関銃の配置は、通常のドイツ軍戦車とは逆位置である。 KwK38の右側に配置された照準機は単眼式のため、防盾の穴も1つであった。 照準機は右目で見るため、額当ての右側にアイピースがあった。 このため、照準機の位置はかなり右側に寄っていた。 照準機はT.Z.F.6型(倍率2.5倍、視野角24度)で、KwK38とMG34のために射距離1,200mまで対応した距離目盛が100m間隔で表示されていた。 この距離目盛は調整が可能で、砲手は選択した目標の射距離を登録することができた。 なお、防盾内側の左上部には武装によるバランスを取るために、歯車とコイル・スプリング(螺旋ばね)による平衡機が砲塔内部に取り付けられていた。 砲手席は背もたれ付きの長方形の座席で、砲塔後部左側に吊り下げられていた。 砲手は前方右側にある砲塔旋回装置のホイールハンドルを手動で回すことにより、砲塔を360度旋回させた。 また、左側のKwK38の下にあるホイールハンドルを回して防盾を俯仰させた。 これによるKwK38とMG34の俯仰角範囲は、-10~+20度であった。 なお、これらのホイールハンドルにはトリガーがあり、左側のハンドルトリガーでKwK38を、そして右側のハンドルトリガーでMG34を発射操作した。 砲塔側面には、右側後部に砲手用の20型視察ヴァイザーが1個装備されていた。 その他は、前方上部に吊り上げ用フックが左右に取り付けられていたのみである。 ただし、この部分には1942年9月以降に3連式の発煙弾発射機が左右に装備されるようになった。 しかし、この発射機は銃弾や砲弾の破片により誤作動し、VK.13.03自体の視界を遮って行動不能にするため、1943年5月以降は廃止された。 少なくとも車体製造番号200160のVK.13.03には、この装備は行われていなかった。 この他、左側面の上部後端にFu.Spr.Ger.aもしくはf無線機のアンテナ基部2型用の台座が取り付けられていた。 ただし台座の固定板は砲塔上面にあり、2本のボルトで止められていた。 また1943年1月以降の生産車では、左側面の中央部に星型アンテナD型用の延長ロッド取り付け基部が追加溶接されていた。 砲塔後面には長方形の大型ハッチがあり、下部に取り付けられたロッドと2個のヒンジで外側へ水平に開いた。 ハッチの幅は後面幅の約5割あり、取り付け位置は右側(砲手側)に寄っていた。 ただしこれはVK.13.01用の砲塔の場合で、前述のようにVK.13.03の最初の15両の砲塔はダイムラー・ベンツ社が組み立てたVK.13.01のVゼーリエのものが流用されたため、このような特徴を備えていた。 1943年1月以降に生産された残りの85両のVK.13.03の砲塔では、後面ハッチが左側(車長側)に延長されて幅が拡大され、取っ手やロック機構など細部が変更されていた。 なお水平に開いた後面ハッチには、車長や砲手が外に出た状態で腰掛けられるようになっていた。 この他、砲塔後面には上部左右に吊り上げ用フックが取り付けられていた。 砲塔上面では後部左側に車長用の円形ハッチがあり、ヒンジ2個で後ろに跳ね上げて開くようになっていた。 車長用ハッチの中央にはボールベアリングで全周旋回できる円盤があり、その中心部よりやや外側にペリスコープが装備されていた。 ペリスコープ用開口部の外側には、大型の側面が傾斜した装甲ガードが左右に2本のボルトで固定されていた。 また円盤の内側中央にはヘッドクッションがあり、ペリスコープの右側に円盤の旋回とロックを行うハンドルがあった。 車長用ハッチのすぐ右側には、小さな信号用円形ハッチがあった。 これは切削加工によるハッチで、後ろにある1個のヒンジで開閉された。 この信号用ハッチは、信号旗と信号拳銃による信号弾フレアのために使用された。 信号用ハッチの斜め右前方には、砲手用の全周旋回式ペリスコープが設けられていた。 これは、車長用ハッチに装備された旋回円盤を直接砲塔上面に設置したもので、ハッチとして開閉使用することはできなかった。 ペリスコープはより外周に近いところにあり、上部の装甲ガードは小型で側面は垂直になっていた。 以上の仕様は、VK.13.03の初期生産車15両に搭載されたダイムラー・ベンツ社製のVK.13.01用砲塔の場合である。 1943年1月からMAN社で生産されたVK.13.03用砲塔では、以下の点で仕様が変更されていた。 まず車長用ハッチであるが薄かったハッチの厚みが増加され、その分出っ張っていた旋回円盤との段差が少なくなっていた。 この旋回円盤は砲手用と同じものとされ、ペリスコープは外側に移動し、装甲ガードも同じ小型のものとされた。 そしてハッチのヒンジ上部にストッパー板が溶接され、ハッチを開けた時に垂直に近い位置で止められるようにされた。 また、信号用ハッチは切削加工品から鋳造製のものに変更され、上部のエッジが丸みを帯びたものとされた。 この他、砲塔上面前方傾斜部の中央に、上部を水平としたコの字形の小さな板金製台座が溶接されるようになった。 これは方位磁石を取り付けるためのもので、磁気の影響を受けないように装甲板から離されており、方位磁石自体も背の高い太いロッド状のものとなっていった。 ただし1943年7月以降は、方位磁石用の板金製台座は再び装備されなくなった。 その理由については定かでないが使用頻度が低かったせいか、あるいは方位磁石の供給量が少なかったせいではないかと推測される。 |
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+武装と無線設備の構造
VK.13.03の主武装である2cm機関砲KwK38は、前述のように2cm対空機関砲FlaK38を車載用に改造したものである。 FlaK38は元々、ラインメタル社が開発した2cm対空機関砲FlaK30の発射速度を向上させるためにマウザー製作所が開発したものであった。 発射速度はKwK30が最大280発/分であったのに対し、KwK38は450発/分に進化していた。 ただし弾薬マガジンは手動で取り換えなくてはならなかったので、実用発射速度はKwK30が120発/分でKwK38は220発/分であった。 当初のKwK38はKwK30と同じく砲身長が1,100mm(55口径)しかなかったが、VK.13.03に搭載されたKwK38は原型のFlaK38と同じく砲身長が1,300mm(65口径)に延長されており、装甲貫徹力が向上していた。 使用弾薬は通常徹甲弾のPz.Gr.とタングステン弾芯弾のPz.Gr.40、それに榴弾Sp.Gr.の3種類で、いずれも有効射程は地上目標に対しては1,200mであった。 装甲貫徹力については弾頭重量0.148kgのPz.Gr.を使用した場合、砲口初速830m/秒、射距離100mで23mm、500mで15mm、1,000mで9mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた。 さらに弾頭重量0.1kgのPz.Gr.40を用いると砲口初速1.050m/秒、射距離100mで40mm、500mで20mmのRHAを貫徹することが可能であった。 2cm砲弾の補給は全て10発入りのカートリッジマガジンで行われ、車内に32個もしくは33個のマガジンが収納されていた。 一方副武装の7.92mm機関銃MG34は、ラインメタル社が開発した7.92mm機関銃MG30をやはりマウザー製作所が改良したもので、VK.13.03に搭載されたのは装甲スリーブ付きのMG34(P)と呼ばれるタイプであった。 7.92mm銃弾はSmK徹甲弾が使用され、銃弾の銃口初速は755m/秒、発射速度は900発/分であった。 7.92mm銃弾は、150発のベルト付き弾薬袋で車内に15袋(2,250発)が収納されていた。 この他、護身用としてエアフルトのエルマ製作所製の9mm機関短銃MP40が1挺携行されており、機関短銃用の9mm弾薬マガジン3本を収めたバッグが2個収納されていた。 VK.13.03の基本装備無線機はFu.Spr.Ger.a(無線通話装置a型)で、24.11~25.01MHzの周波数帯域で動作する短波無線機であった。 これは移動中の音声通話範囲が1kmで、隊内通話を目的とした短距離連絡用であった。 なお、1943年になるとこの無線機はFu.Spr.Ger.f(無線通話装置f型)に変更された。 f型の周波数帯域は若干狭く、19.99~21.47MHzであった。 a型とf型の主な違いはチャンネル数で、a型が10であったのに対しf型は60あった。 また使用アンテナはa型では1.4mロッド型で、f型は2mロッド型を使用し、砲塔上面左側後部に取り付けられたアンテナ用基部に取り付けられた。 中隊長、小隊長、分隊長用の車両では大隊本部などとの連絡用として、長距離用の中波帯域で高出力の無線機が追加装備された。 それはFu.12無線機セットで、これは835~3,000KHz周波数帯域のMW.c型受信機と、1,120~2,300KHzの周波数帯域による出力80Wのc型送信機の2つから構成されていた。 Fu.12無線機は移動中の音声通話範囲が25kmで、アンテナは1.8mの星型を使用した。 また、星型アンテナは延長ロッドを追加することで約4.5mに伸ばすこともできた。 ただし、これは車両が停車している場合に限っており、1943年1月以降の車両では、砲塔左側面に設けられたアンテナ基部にそれを取り付けて高さを稼ぐようになっていた。 Fu.12無線機は戦闘室右側前方の無線手の前方(シャシー前面上部装甲板の下)と、前面左側(戦闘室前面装甲板中央部)に装備された。 そして、車内通話用としてインターコム設備が搭載されていた。 Fu.12無線機搭載車両の場合、短距離通話用のFu.Spr.Ger.aもしくはf無線機は、砲塔内後部に並んで取り付けられた車長と砲手用座席のフレーム間に装備された。 電力の供給は旋回式電気接点装置によりシャシーから砲塔へ行われ、無線機の他に車内灯や照準機の照明に用いられた。 砲塔側に装備されたこの無線機は、車長が操作したと考えられる。 ただしFu.12無線機を搭載しない通常車両の場合は、その位置だと無線手が搭乗する意味が失われるので、Fu.Spr.Ger.aもしくはf無線機は無線手の前方に装備され、アンテナも車体側に取り付けたのではないかと推測される。 |
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+部隊配備
●第9装甲偵察大隊 II号戦車L型をまとまった数で配備した部隊は少なく、1個中隊規模で運用した部隊としては第9機甲師団と第4機甲師団が知られている。 最初、II号戦車L型を装備する装甲偵察中隊bの編制のために戦力定数指標(K.St.N.)1162bが1943年1月10日に発行された。 これにより、II号戦車L型は中隊本部に中隊長用として1両割り当てられた。 中隊は4個小隊から成り、各小隊に7両のII号戦車L型が置かれるものとされた。 つまり、K.St.N.によるII号戦車L型は29両が定数とされていた。 中隊が保有する装甲車両はこの他に補給部隊にSd.Kfz.250/1が4両あるのみで、それ以外はソフトスキン車両で構成されていた。 その後、装甲偵察中隊bは1943年4月30日に第9装甲偵察大隊第2装甲偵察中隊に改称された。 第9機甲師団は1943年4月からオリョールの南で戦力の回復のために再編制されたが、その期間中の5月27日にII号戦車L型とSd.Kfz.250/1を装備した第2装甲偵察中隊が到着した。 この中隊は、第9機甲師団第9装甲偵察大隊の所属とされた。 ちなみに、同大隊の第1装甲偵察中隊の装備は8輪重装甲偵察車であった。 第9機甲師団はその後「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)でクールスク戦区に投入されたが、1943年8月下旬には離脱して南部のアゾフ海方面に移動した。 そしてドニェプル川付近に到達した9月26日に、第9装甲偵察大隊第2装甲偵察中隊は戦力消耗のために解隊された。 もっともII号戦車L型の全損数は意外と少なく、解隊までに行動不能となったII号戦車L型25両がオーバーホールのためにドイツに返送されている。 その最大の理由は3重半径式操向機の欠陥で、現地で不具合を修正することができなかったことである。 第9機甲師団から返送されてきたII号戦車L型はMAN社によってオーバーホールされ、問題となっていた3重半径式操向機はよりシンプルなクラッチ・ブレーキ式操向機に換装された。 オーバーホールされた25両のII号戦車L型(VK.13.01ベースの初期生産車も含まれていた)は陸軍検査部に納入され、その後兵器庫から再び第9機甲師団に引き渡された。 1943年9月30日~1944年3月11日までに全数25両のII号戦車L型が出荷され、II号戦車L型を装備する部隊として再起した第9装甲偵察大隊第1装甲偵察中隊がこれを受領した。 編制は1944年3月1日に発行されたK.St.N.1162bに従っており、その構成は以前のものと同じで中隊は4個小隊であったが、各小隊が保有するII号戦車L型は以前の7両から6両に減らされた。 従って、II号戦車L型は中隊長に1両が割り当てられるので合計で25両となっている。 そして、以前装備されていたSd.Kfz.250/1は姿を消した。 第9装甲偵察大隊第1装甲偵察中隊の休暇と再編制はフランス南部で行われていたが、1944年7月27日にノルマンディー戦線を補強する出動命令が下された。 そして8月10日にはアランソンに到着し、12日にはその北にあるファレーズでの戦闘に参加した。 その後、ファレーズの包囲を突破してセーヌ川まで後退し部隊はドイツに帰還できたが、8月末までに全てのII号戦車L型を失っていた。 ●第4装甲偵察大隊 1943年2月5日付で発行されたK.St.N.1162bに従って、新たに装甲偵察中隊bが編制された。 これが後に、第4機甲師団の第4装甲偵察大隊第2装甲偵察中隊となった。 第4装甲偵察大隊は1943年4月30日に編制されたが、当初第2装甲偵察中隊は抹消されており、9月になって装甲偵察中隊bが第2装甲偵察中隊として登録された。 このために、第4装甲偵察大隊第2装甲偵察中隊がII号戦車L型装備で編制された。 中隊はII号戦車L型7両から成る小隊4個で編制され、中隊長車1両を含めてII号戦車L型の定数は29両であった。 そして第9装甲偵察大隊の場合と同じく、補給部隊にSd.Kfz.250/1が4両存在した。 配備された29両のII号戦車L型は全て操向機をクラッチ・ブレーキ式に変更していたので、稼働率は良かったようである。 第4装甲偵察大隊はクールスク戦の後(第2装甲偵察中隊はクールスク戦には間に合っていない)に北上し、ウクライナからベラルーシへと転戦し、1944年3月にはポーランド東部に移動した。 そして1944年8月にはリトアニアへ移り、さらにクールラントへ転戦して1945年1月にポーランドのグダニスクまで後退し、その後その周辺で5月まで戦った。 第2装甲偵察中隊のII号戦車L型は1943年10月に早くも4両が失われたが、1944年3~10月までに17両のII号戦車L型が補充されており、1945年2月の段階でもまだ16両の運用が報告されている。 ●その他の部隊 II号戦車L型が第9装甲偵察大隊と第4装甲偵察大隊以外にどこに配備されたかについては、完全には判明していない。 断片的な情報では、1944年12月30日の段階で第4騎兵旅団に5両、降下機甲軍団ヘルマン・ゲーリングに1両があったと記録されている。 また1945年3月1日の段階では、訓練/補充部隊が3両を保有していたことが報告されている。 この他、1944年2月8日にK.St.N.447によって突撃砲大隊のための偵察、哨戒、対空防衛を行う随伴戦車中隊の編制が決定されている。 これは中隊本部に2両、3個小隊に各4両、合計14両のII号戦車L型で構成されるものとしていた。 実際に突撃砲大隊随伴戦車中隊の編制が行われたのは、1944年4月と6月に4個中隊のみであった。 それでも4個中隊分では56両となり、100両しか生産されなかったII号戦車L型では数が明らかに不足となる。 従って、おそらく大部分は別の車両で補っていたはずである。 |
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<II号戦車L型ルクス> 全長: 4.63m 全幅: 2.48m 全高: 2.21m 全備重量: 11.8t 乗員: 4名 エンジン: マイバッハHL66P 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 180hp/3,200rpm 最大速度: 60km/h 航続距離: 260km 武装: 65口径2cm機関砲KwK38×1 (320~330発) 7.92mm機関銃MG34×1 (2,250発) 装甲厚: 5.5~30mm |
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兵器諸元 |
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<参考文献> ・「パンツァー2005年8月号 ドイツII号L型軽戦車の開発とバリエーション(前編)」 稲田美秋 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2005年9月号 ドイツII号L型軽戦車の開発とバリエーション(後編)」 稲田美秋 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2002年6月号 AFV比較論 九八式軽戦車/ルクス」 齋木伸生 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2012年11月号 AFV比較論 M5軽戦車とルクス」 久米幸雄 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2024年10月号 ドイツの未成戦車・計画戦車」 宮永忠将 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2015年12月号 II号L型ルクス軽戦車」 水野靖雄 著 アルゴノート社 ・「グランドパワー2003年11月号 II号戦車ルクスと試作軽戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2012年8月号 ドイツ戦車の装甲と武装」 国本康文 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2011年6月号 ドイツII号戦車シリーズ」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2020年10月号 ドイツII号戦車(3)」 寺田光男 著 ガリレオ出版 ・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.3 戦車」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車 1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「ジャーマンタンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
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