+概要
ベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトマルク履帯製作所)で、1940年1~2月にかけて38両生産されたI号15cm自走重歩兵砲は、I号戦車B型の車体上部に、デュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社が開発した、牽引型の15cm重歩兵砲sIG33を車輪ごとそのまま搭載した、見るからに応急然とした不格好な車両であり、腰高のシルエット、非力な装甲など問題も多かったものの、1940年5月10日に開始されたフランス侵攻作戦において実戦に投入してみると、意外なほど高い評価を受けることになった。
それまでトラックや馬などで牽引され、布陣なども人力で行わなければならなかった15cm重歩兵砲sIG33が自力で走行でき、歩兵との共同作戦において実に有効な兵器であることが判明したからである。
一方、フランス侵攻作戦が開始される以前の1940年初めに、I号15cm自走重歩兵砲と同じ要領で、より大型のII号戦車C型の車体をベースに、15cm重歩兵砲sIG33を車輪ごと搭載した自走砲がアルケット社で試作され、ドイツ陸軍兵器局兵器実験部による試験に供された。
しかし、この車両は砲の搭載位置が高いために射撃時の反動が大きく、試験は失敗に終わった。
続いて1940年6月には車輪を外した状態で、II号戦車C型の車内に15cm重歩兵砲sIG33を収めた自走砲がアルケット社で試作され、ツォッセンのクンマースドルフ車両試験場で試験が行われた。
ドイツ陸軍兵器局第6課はこの試験の結果を基に、脚を装着した状態で15cm重歩兵砲sIG33をII号戦車の車内に収めた自走砲の開発を、アルケット社に命じた。
これは必要に応じて車輪を装着し、通常の牽引砲として用いることを考えていたためで、1940年10月にはII号戦車C型の車体をそのまま用いた試作車が完成した。
しかしこの試作車を用いた試験の結果、15cm重歩兵砲sIG33の操作を行い、車内に15cm砲弾を収容するには車内スペースが充分でないことが分かり、採用は却下された。
兵器局第6課は1941年8月にII号戦車の車体後部を67cm延長し、転輪を1個追加して片側6個とし、併せて全幅も32cm広げることで必要なスペースを確保することをアルケット社に指示し、II号15cm自走重歩兵砲の生産型12両を発注した。
当初の計画では、1941年9月12日までに12両を完成させることになっていたが、専用の治具を用意しなければならないことなどもあり、実際にII号15cm自走重歩兵砲の生産が開始されたのは1941年末になってからで、1941年12月に7両、1942年1月に5両が製作された。
ちなみに、本車の正式呼称は「15cm重歩兵砲sIG33搭載II号戦車車台(自走式)」である。
I号15cm自走重歩兵砲の場合は、15cm重歩兵砲sIG33を車輪まで装着した状態で搭載したために、全高2.70mと非常にシルエットが高くなってしまったが、II号15cm自走重歩兵砲ではその反省を込めて、全高を1.98mと大きく減少させたことが目立った変化となっている。
車体は前述のように既存のII号戦車の流用ではなく、コンポーネントを流用しただけで全く新たに製作されており、車内に脚を装着したままの状態で11.4口径15cm重歩兵砲sIG33を搭載していた。
砲は、車軸を車内の左右側面下部に設けられた軸受けに差し込むことにより固定されていた。
本車が生産された時期はII号戦車F型の生産時期と重なっているので、コンポーネントはF型のものが流用されていると思われるが、残された写真を見る限り誘導輪は旧型のものが用いられているため、必ずしもそうではなかったのかも知れない。
車体上面前部には四角い装甲ボックスが左右に設けられていたが、左側の装甲ボックスは操縦室、右側の装甲ボックスは操縦室のダミーであった。
操縦室ボックスの上面には、前開き式の四角い操縦手用ハッチが設けられており、前面に装甲視察ヴァイザー、左側面に視察ブロックが装備されていた。
反対側のダミーボックスはフェンダー上まで張り出しており、これは雑具箱として使用された。
ダミーボックスには視察ヴァイザー等は無く、右側面に下開き式のハッチが設けられていた。
装甲ボックスの後方には、15cm重歩兵砲sIG33の前面と左右側面を14.5mm厚の装甲板で囲んだ、オープントップ式の戦闘室が設けられていた。
この戦闘室は車体最後部まで続いており、車長、砲手、そして無線手を兼ねる装填手の3名を収容した。
また車内には10発の15cm砲弾と、副武装としてオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34が1挺搭載されていた。
本車は15cmという大口径の歩兵砲を搭載したことと、それに伴って車体を拡大したことにより戦闘重量は16tと、II号戦車F型の9.5tに比べて6.5tも増加してしまった。
このため機動性の低下を避けるために、エンジンがII号戦車F型に用いられたフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL62TRM 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力140hp)から、ブラウンシュヴァイクのビューシンクNAG社製のGS型
V型8気筒液冷ガソリン・エンジン(出力155hp)に強化されていた。
また本車は、当初からアフリカ軍団に配備されることが決まっていたため、機関室の上面にはエンジンのオーバーヒート対策として観音開き式の大型ハッチが設けられ、これは開いた位置で固定することができた。
完成した12両のII号15cm自走重歩兵砲は、新たに編制された第707、第708の2個の重歩兵砲(自走式)中隊に6両ずつ配備されることになった。
第707重歩兵砲中隊は1941年9月12日に、第708重歩兵砲中隊は9月18日にそれぞれ編制されたが、II号15cm自走重歩兵砲の生産の遅れにより、第708重歩兵砲中隊の6両が北アフリカのトリポリ(リビア)に到着したのは1942年2月2日であり、第707重歩兵砲中隊に至っては1942年4月にようやく到着した。
この2個重歩兵砲中隊は、エルヴィン・ロンメル将軍指揮下の第90、第164軽師団に配属され、ガザラでの春季攻勢を始めとして北アフリカでの主な作戦全てに参加したが、1942年12月2日までに全車が失われた。
なお、イギリス軍の報告によればエル・アラメインの戦いの後、放棄された修理中のII号15cm自走重歩兵砲6両が鹵獲され、少なくとも1両が、1948年の第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)においてエジプト軍により使用されたという。
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