一式中戦車 チヘ
|
|
+開発
一式中戦車はその”1”という年式数字とは裏腹に、完成を予定した皇紀2601年(1941年)にはまだ形になっていなかった。
その理由は日中戦争の泥沼化で現有車両の量産が最優先され、新型戦車の研究は細々と続けるしかない状態だったからである。
1939年5〜9月にかけて、日本軍とソ連軍が満州-外モンゴル国境で武力衝突したノモンハン事件(ハルハ川戦役)において、火力に勝るソ連軍のT-26軽戦車やBT快速戦車と交戦した日本軍戦車は大損害を被り、日本陸軍首脳部は火力と防御力の改善を図った新型戦車の必要性を強く認識するようになった。
そして「チヘ車」の秘匿呼称で新型戦車を開発することが決定し、1940年から車体の開発に着手された。
またノモンハン事件の戦訓から、九七式中戦車(チハ車)の対戦車戦闘能力を向上させるため、1939年8月から高初速で装甲貫徹力の高い新型47mm戦車砲の研究が開始されており、チヘ車にもこの砲を搭載することになった。
この新型47mm戦車砲は1942年に完成し、同年4月に「一式四十七粍戦車砲」として制式化されている。
この砲を装備する新型砲塔を搭載した九七式中戦車は「九七式中戦車改」、「新砲塔チハ車」と呼ばれ1942年5月から実戦投入されている。
一方チヘ車の方は同年9月にようやく試作車体が完成し、三菱重工業で試運転が行われた。
試運転の後も細部調整が行われ、結局チヘ車の開発が完了したのは翌43年6月になってからである。
一式中戦車は基本的に九七式中戦車の改良型であり、九七式中戦車から多くのコンポーネントを流用していたため、一式中戦車と同じ砲塔を搭載する九七式中戦車改と外見は良く似ていたが、細かく見ると多くの相違点が存在した。
まず車体前面装甲板が九七式中戦車の凸面リベット接合構成から、一式中戦車では平面ボルト&溶接構成に変わっていた。
前照灯は九七式中戦車では車体前部中央に1個装備していたが、一式中戦車は左右フェンダー上に各1個ずつ計2個装備していた。
次に側面から見ると、九七式中戦車では前部フェンダーは起動輪中央の位置までだったが、一式中戦車では起動輪前端までフェンダーが延長されている。
機関室の長さは九七式中戦車改では誘導輪より前までだったが、一式中戦車ではエンジンが大型化したため機関室は誘導輪より後ろまで張り出していた。
|
+生産と部隊配備
一式中戦車は完成はしたものの対米・対英戦の緒戦は好調に推移しており、わざわざ新規の工場設備投資をするまでも無いように思われた。
九七式中戦車の主砲である低初速の九七式五糎七戦車砲が、敵M3軽戦車に対して無力であることは判明していたが、それに対してはすでに、高初速の一式四十七粍戦車砲を装備する新型砲塔を搭載した九七式中戦車改があった。
九七式中戦車改と同じ砲塔を搭載し車体だけが異なるに過ぎない一式中戦車は、その後2年間近く陸軍から顧みられなかった。
しかし戦況が悪化すると俄然新型戦車を希求する声が強まり、これに応じて1944年2月末から一式中戦車の公開運行試験が行われた。
そして、同年の春から量産が開始される。
前年までに一式中戦車は試作などで15両が作られていたが、1944年に155両を本格量産したところで同年末からは、「新砲塔チヘ車」ともいうべき三式中戦車(チヌ車)に生産が切り替えられた。
しかし、一式中戦車の総生産数を587両とする資料もある。
1944年末からフィリピンのルソン島およびレイテ島の防衛に当たった戦車第二師団には、主力戦車として九七式中戦車改と共に一式中戦車が装備されていた。
フィリピン以外では、一式中戦車は全て内地の部隊に配備された。
戦車第十九連隊(久留米)、第二十九連隊(千葉)、第三十連隊(習志野)、戦車第五連隊(埼玉)等が知られている。
しかし、本土決戦用の主力戦車としては三式または四式中戦車(チト車)が予定されており、一式中戦車は補助任務に回されていた。
|
+攻撃力
一式中戦車の主砲である一式四十七粍戦車砲は砲身長2,450mm、砲口初速810〜832m/秒、発射速度は10発/分、装甲貫徹力は一式徹甲弾を用いた場合射距離500mで65mm、1,000mで50mmとなっていた。
主砲用の47mm砲弾は、121発(九七式中戦車改では100発)が搭載された。
30発は6発入りコンテナで砲手の左側と左後方に、30発は砲塔の後部右側に、12発は車長席の右側に、7発は砲塔の後部左側に、そして42発は戦闘室の床下に置かれた。
副武装としては九七式中戦車改と同様、戦闘室前面左側および砲塔後面左側に九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を各1挺ずつ装備していた。
7.7mm機関銃弾は4,220発搭載しており車体機関銃の分は銃手席の前に、砲塔機関銃の分は砲塔後部右側にそれぞれ搭載された。
砲塔の旋回と主砲の俯仰はハンドルを用いた手動式で、九七式中戦車にあった肩当による主砲の旋回機構は廃止されている。
砲塔内の乗員が九七式中戦車の2名から3名に増やされ、車長が指揮に専念できるようになったことは一式中戦車の戦闘力の向上に貢献している。
|
+防御力
一式中戦車は車体サイズがわずかに大型になっている他は、九七式中戦車との大きな差異は無いように見えるが、装甲厚が最大50mmに強化され車体と砲塔が溶接構造となった意味は大きい。
陸軍が行った試験によれば溶接車体は15cm榴弾砲の至近弾を受けても持ち堪えたが、リベット接合車体は爆風でバラバラになってしまったという。
また最大装甲厚が50mmに強化されたことで、本車はM3軽戦車の37mm戦車砲に抗堪できるようになった。
|
+機動力
一式中戦車のエンジンは、新設計の統制型一〇〇式空冷ディーゼル・エンジンが搭載された。
統制型エンジンとは単気筒の規格寸法を共通化した一群のエンジンの総称で、一式中戦車の気筒数は最大の12であった。
気筒直径120mm、ピストン・ストローク160mm、予燃焼式で出力240hp(九七式中戦車では170hp)と、当時の日本の戦車用ディーゼル・エンジンとしては最大出力を誇っていた。
なお、戦車の重量が13tを超えるとそれを吊り上げるクレーンを持つ輸送船は8,000t級以上に限られ、南方輸送には制約が出た。
しかし17t未満であれば、九九式三舟重門で水上輸送ができた。
従って、戦闘重量17.2tの一式中戦車は九九式三舟重門で輸送できる限界であった。
|
<一式中戦車>
全長: 5.73m
全幅: 2.33m
全高: 2.38m
全備重量: 17.2t
乗員: 5名
エンジン: 統制型一〇〇式 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 240hp/2,000rpm
最大速度: 44km/h
航続距離: 210km
武装: 一式48口径47mm戦車砲×1 (121発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (4,220発)
装甲厚: 8〜50mm
|
兵器諸元
|
<参考文献>
・「グランドパワー2010年12月号 日本陸軍 一式/三式中戦車と二式砲戦車」 鈴木邦宏/浦野雄一/国本康
文 共著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2004年5月号 日本軍中戦車(2)」 真出好一 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「グランドパワー2001年4月号 日本軍機甲部隊の編成・装備(3)」 敷浪迪 著 デルタ出版
・「帝国陸海軍の戦闘用車両」 デルタ出版
・「パンツァー2015年7月号 誌上対決 一式中戦車57mm砲搭載型 vs クルセイダーMk.III」 久米幸雄 著
アルゴノート社
・「パンツァー2013年9月号 帝国陸軍の戦車武装 戦車砲と車載機銃(下)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2011年6月号 一式中戦車(57mm) vs III号戦車(L型)」 宮永忠将 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年7月号 終戦時における日本戦車」 伊吹竜太郎 著 アルゴノート社
・「パンツァー2006年5月号 日本陸軍 一式中戦車(チヘ)」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー1999年8月号 一式中戦車 vs M13/40」 白石光 著 アルゴノート社
・「日本の戦車と装甲車輌」 アルゴノート社
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー
|
関連商品 |
ファインモールド 1/35 World of Tanks 一式中戦車 チヘ プラモデル 24001 |
ファインモールド 1/35 帝国陸軍 一式中戦車 チヘ プラモデル FM57 |