+概要
1939年11月9日、ドイツ陸軍兵器局第6課はミュンヘンのクラウス・マッファイ社に対して「VK.18.01」の試作呼称で重装甲の歩兵支援戦車を開発し、1940年3月までに完成するよう命じた。
最大装甲厚はその当時知られていた全ての対戦車兵器に対して充分な防御力を有する、何と80mmの厚さが要求された。
この戦車の開発目的は、マジノ・ラインの突破にあった。
マジノ・ラインというのはフランスが1930~36年にかけてドイツとの国境沿いに構築した要塞線で、当時難攻不落といわれていた。
当然、多数の対戦車兵器があると考えられる。
VK.18.01はこの時歩兵部隊の攻撃を支援しつつその重装甲で敵弾を一身に引き受け、攻撃の成功を図ると共に併せて他の装甲部隊から敵の注意を逸らす役割も期待されていた。
クラウス・マッファイ社は車体の設計と製作にあたり、ベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社が上部構造物と砲塔の設計製作を受け持った。
一方、兵器局第6課は1939年12月にニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)にも、やはりマジノ・ライン攻略用に「VK.16.01」の試作呼称で重装甲の歩兵支援戦車の設計と製作を命じている(後のII号戦車J型)。
ちょうどこの時期にクラウス・マッファイ社の方はVK.18.01の開発を進行中であり、このため両社は車両の開発について協議を行い、多くのコンポーネントを共通化することになった。
両社共に4両の試作車と30両の先行生産型を生産することになっていたが、そのための作業分担が両社で行われた。
クラウス・マッファイ社では走行装置をMAN社の試作車用に供給し、MAN社ではブレーキ、最終減速機等、変速・操向機関係のパーツをクラウス・マッファイ社に供給した。
車体およびトーションバー・スプリング等は、それぞれ専用に製作された。
またエンジンは両社共に、I号戦車C型と同じフリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のHL45P 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力150hp)を使用していた。
VK.18.01の車内レイアウトは当時のドイツ戦車の標準的なもので、車体前部に変速・操向機と起動輪を配し、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部がエンジンや冷却装置を収めた機関室となっていた。
全体的な外観は、ティーガーI戦車をそのまま小さくしたような感じであった。
車体側面に設けられた脱出用ハッチは、他に例を見ない独特なものであった。
車体の装甲厚は前面80mm、側/後面50mm、上/下面25mmとなっており、とても軽戦車とは思えない重装甲の車両であった。
砲塔は車体サイズに比べて極端に小さく、I号戦車A/B型の砲塔とサイズも形状も良く似ていた。
武装も、砲塔防盾にオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34を2挺、左右並列に装備しているのみであった。
しかし装甲厚についてはI号戦車A/B型の砲塔よりもはるかに厚く、前面80mm、側/後面50mm、上面25mmとなっていた。
乗員は2名で車体前部に操縦手、砲塔に車長兼銃手がそれぞれ位置した。
足周りはI号戦車C型と同じく、トーションバー(捩り棒)式サスペンションで懸架した大直径転輪をオーバーラップ(重ね合わせ)式に配置していた。
最大厚80mmという重装甲を施したせいでVK.18.01の戦闘重量は21tにも達してしまったため、接地圧の低減を図って履帯は54cmと非常に幅の広いものが採用された。
VK.18.01は、戦闘重量がI号戦車C型の3倍近くあったにも関わらずエンジンは同じものが搭載されたため、当然ながら機動性能は大きく低下し路上最大速度は25km/hに過ぎなかった。
1940年6月17日、VK.18.01の試作第1号車が完成した。
生産型の量産は1940年の終わりより開始され、1942年4~12月の間に30両が完成した。
さらに100両の追加生産が発注されたが、これについては量産開始前に取り消された。
またVK.18.01の変速・操向機を予約選択機構付きのLG45RおよびVG15319に換装し、各部を改修した改良型のVK.18.02が試作されたが生産はされなかった。
VK.18.01の制式呼称は、「I号戦車新型・強化型」または「I号戦車F型」である。
I号戦車F型は8両が1943年初頭に第1機甲師団に配属されて、同年夏に東部戦線で実戦試験を受けた。
また同じく1943年7月1日には、第12機甲師団もI号戦車F型を7両保有し内3両稼働となっているが、これが別個に配備されたものかは不明である。
他の車両については、操縦学校で訓練に使用されたとのことである。
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