+概要
1937年5月10日、ミュンヘンのクラウス・マッファイ社はドイツ陸軍兵器局第6課より3t級の新型高速軽戦車の開発を命じられた。
この車両は、ドイツ軍ハーフトラックのトーションバー式サスペンションとオーバーラップ式転輪配置を組み合わせた足周りの考案者である兵器局第6課のクニープカンプ工学博士が、戦車にも同様の足周りを採用して機動性の向上を図ることを画策したことが開発の発端となっている。
当時クラウス・マッファイ社は主としてハーフトラックの生産を行っており、この経験が買われて同じ足周りを持つ新型軽戦車の開発を任されたようである。
兵器局第6課がクラウス・マッファイ社に提示した新型軽戦車の要求仕様は戦闘重量3t、乗員4名、路上最大速度80km/h、登坂力24度というものであった。
クラウス・マッファイ社では、この車両を「VK.3t」の試作呼称で開発を進めた。
VK.3tはI号戦車B型と同様、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のNL38TR 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)を搭載し、ハーフトラックと同じトーションバー式サスペンションとオーバーラップ式転輪配置の足周りを持つ車両として開発が進められたが、この時点でVK.3tの戦闘重量が予定を大きく上回る5.5tになることが見込まれたため呼称の変更が行われ、5t級の軽戦車「VK.5t」として開発が続けられることになった。
1938年1月にはエンジンが、マイバッハ社製のHL61 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力130hp)に変更された。
この結果、路上最大速度はほぼ要求仕様の78km/hを達成可能となった。
また戦闘重量が6tに増えたため再び呼称変更が行われ、この車両は「VK.6t」と呼ばれることになった。
VK.6tにはトーションバー式サスペンションが使用され、こうした軽量車両としては初めてクレトラック式変速・操向機が採用された。
この車両は2両試作され、さらに試験が続けられた。
VK.6tの試験は1938年を通じて続けられ、その結果兵器局第6課は「VK.6.01」の呼称で6両の増加試作車を製作することを命じた。
VK.6.01のエンジンには、Sd.Kfz.250/251ハーフトラックに使用されたマイバッハ社製のHL42 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力100hp)を改良してボアアップし、出力を150hpに増強したHL45P
直列6気筒液冷ガソリン・エンジンが採用された。
なお、このエンジンはI号、II号戦車シリーズの一部にも試験的に採用されている。
VK.6.01の上部構造物の製作はベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社、砲塔の製作はカッセルのヴェクマン社があたった。
VK.6.01の上部構造物は、ドイツ軍戦車の標準スタイルである平面装甲板を組み合わせたものであったが、面の数を減らしてよりシンプルなデザインにされていた。
車体の装甲厚は前面30mm、側面14.5mm、後面20mm、上面10mm、下面5mmであった。
VK.6.01の砲塔は、I号戦車よりはII号戦車の砲塔に似た形状をしていた。
武装はオベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所製の7.92mm対戦車銃EW141と、同社製の7.92mm機関銃MG34を砲塔防盾に左右並列に装備していたが、左側に装備された7.92mm対戦車銃EW141(Einbauwaffe
141:据付武器141型)は銃身長が1,085mmもあり、銃口初速は1,170m/秒と非常に速く、射距離300mで30mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹できた。
使用弾薬はEW141が7.92mm×94、MG34が7.92mm×57で、携行弾薬数はEW141用が94発、MG34用が2,100発となっていた。
砲塔の装甲厚は前面30mm、側/後面20mm、上面10mmとなっていた。
乗員は2名で車内の乗員配置は車体前部に操縦手、砲塔内に車長兼銃手が位置したが、車長1名で視察、指揮、武装の操作の全てをこなすのは相当困難であったと思われる。
VK.6.01で特徴的なのはオーバーラップ配置の大直径転輪を採用し、上部支持輪を廃止したことで、この足周りはティーガーI戦車以降のドイツ軍戦車の標準となった。
なお増加試作車では戦闘重量が8tに増加したため、路上最大速度は65km/hに低下した。
1939年9月15日、兵器局第6課は正式にクラウス・マッファイ社に対して40両のVK.6.01の生産を命じた。
VK.6.01は1941年7月に「「I号戦車新型」(Panzerkampfwagen I n.A.)の公式呼称が与えられ、後に「I号戦車C型」(Panzerkampfwagen
I Ausf. C)の制式呼称が与えられたがその期日は不明である。
この制式呼称はあくまでも便宜的なものであり、前述のようにI号戦車A/B型とは全く別物の車両である。
I号戦車C型は、軽偵察戦車および空挺戦車として使用される予定であった。
生産は決定したもののI号戦車C型の生産型の完成は遅れに遅れ、1942年7〜12月にかけてようやく初回発注の40両が完成した。
その理由ははっきりしないが、1939年9月に第2次世界大戦が勃発したことで主力戦車の生産が優先され、I号戦車C型のような緊急度の低い車両は後回しにされたのではないかと推測される。
なお生産型では、履帯がハーフトラック式の湿式履帯から通常の戦車タイプの乾式履帯に変更されている。
またクラウス・マッファイ社では1942年に、I号戦車C型のエンジンをマイバッハ社製のHL61 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力180hp)に換装し、新型の変速・操向機を搭載した改良型のVK.6.02を設計したが生産はされなかった。
I号戦車C型は2両が1943年初頭に第1機甲師団に配属され、東部戦線において実戦試験を受けた。
その他の38両は、1943年に第18予備戦車軍団の予備部隊に配属されて訓練に使用された。
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