I号戦車C型 |
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+開発の発端
後にI号戦車C型と公式に名付けられた新型軽戦車は、呼称こそI号戦車となってはいるがI号戦車A/B型の発展型ではなく、全く概念の異なる車両として開発が行われた。 従来、ドイツ陸軍の戦車開発はまず設計仕様を陸軍兵器局第6検査部(装甲部隊部門)が作成し、その仕様に基づく戦車の製造を第6兵器試験部(戦車とエンジン部門)がメーカーに発注するのが基本的な流れであったが、この新型軽戦車に関しては第6兵器試験部による自由度の高い独自開発が許されていた。 本車の仕様を決定したのは、当時第6兵器試験部の技師長であったハインリヒ・エルンスト・クニープカンプ工学博士であった。 彼は、戦車に高速走行性能が必要であるとの構想を持っており、充分な火力と防御力の他に求められる重要な要素と位置付けていた。 クニープカンプは、III号戦車E型の開発に関与した時もこの構想を持ち込み、ゴムパッド付きの湿式履帯と、トーションバー(捩り棒)式サスペンションによる路上最大速度70km/hを実現したが、履帯ゴムパッドの破損により実用化できず、結局トーションバー式サスペンションだけが採用されるという苦い経験をしている。 これは、I号戦車C型の開発を行っている最中のことであった。 クニープカンプは独自に設計仕様を作成し、必要な機器の開発を専門メーカーと契約を行った。 しかし、それらを組み付ける肝心の車体を製作するメーカーとして、当てにしていたエッセンのクルップ社が契約を拒否したため、新たな開発メーカーを模索しなくてはならなかった。 そこで白羽の矢が立ったのが、8tハーフトラック(Sd.Kfz.7)の開発で知られるミュンヘンのクラウス・マッファイ社であった。 クニープカンプは1932年以来、同社におけるハーフトラックの開発に関与していたので、信頼できるメーカーであると判断したものと思われる。 こうして、クラウス・マッファイ社はこのI号戦車C型において初めて、戦車開発事業に参加することになったのである。 |
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+VK.3t
1937年10月12日に第6兵器試験部はクラウス・マッファイ社に対して、新型軽戦車の設計仕様を提示した。 本車は戦闘重量3t級の軽戦車とされ、「VK.3t」(Vollketten 3t:3t級の装軌式車両)の試作呼称が与えられた。 VK.3tの乗員は4名で、路上最大速度80km/h、登坂能力24度が必要とされた。 クラウス・マッファイ社は1938年4月までに、VK.3tの概念設計を完了させた。 搭載エンジンは、フリードリヒスハーフェンのマイバッハ発動機製作所製のNL38TR 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(I号戦車B型と同じもの)で、3,000rpmでの定格出力が100hpであった。 このエンジンに接続する変速機は、ZF社(Zahnradfabrik Friedrichshafen:フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製の7段式で、その先にクレトラック多段式操向機が設置されていた。 操向ギアは4段で、旋回半径を4.275m、23.6m、115m、560mに設定できた。 なお、最終減速機による起動輪の減速比は3.9:1であった。 VK.3tの履帯はハーフトラックと同様な、連結部に潤滑油を封入した湿式で、ピッチ160mm、幅240mmとされた。 起動輪はフロントドライブ方式で、12個のローラーにより履帯を動かすものであった。 転輪は直径700mmで、トーションバー式サスペンションにより片側に4個配置され、上部支持輪は取り付けられなかった。 履帯の接地長は2,300mm、左右履帯間距離は1,500mmに設定されていた。 VK.3tの設計が進行すると、総重量が5.5tにまで増加する試算結果が出た。 このため、重量増加に対する強化設計が必要となり、VK.3tは製造されることは無かった。 |
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+VK.5t
そして1938年4月までに、新型軽戦車の試作呼称は「VK.5t」に改められた。 このVK.5tでは重量の増加に対応して、エンジンをより高出力のもの(マイバッハ社製のHL61 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン、2,600rpmでの定格出力130hp)に換装する予定であった。 変速機はZF社製の8段式に変更され、各段数における路上最大速度は1段が6km/h、2段が8.6km/h、3段が12.5km/h、4段が18km/h、5段が25.8km/h、6段が37.2km/h、7段が53.6km/h、8段が77km/hであった。 なお、VK.5tの路上最大速度を78km/hとする資料もある。 操向機による旋回半径は25m、125m、800mの3段階で構想されていたが、ZF社は第6兵器試験部の指示により最大半径を206mに修正した。 なお、直径210mmの操向ブレーキ用ブレーキドラムは、駐車ブレーキとしても使用できた。 VK.5tの履帯と転輪、それに起動輪はVK.3tに準じていた。 ただし転輪の配置間隔が異なるために、履帯接地長は2,285mmとわずかに短くなっていた。 また、左右履帯間距離は1,660mmに拡大されていた。 サスペンションも変わらずトーションバー方式が採用されたが、このトーションバーは直径27mm、弾性長1,000mm、サスペンション移動量236mmとなっていた。 |
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+VK.6t
開発が進むにつれて、新型軽戦車の重量はさらに増加することが見込まれ、それに対応して試作呼称が「VK.6t」に改められた。 VK.6tのエンジンは、VK.5tのエンジンよりやや出力の低いもの(マイバッハ社製のHL54TRM 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン、2,600rpmでの定格出力115hp)が搭載された。 またVK.6tのために、ベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社、ポーランド・ヴロツワフのFAMO社(Fahrzeug und Motoren Werke:車両・発動機製作所)、カッセルのヘンシェル&ゾーン社、クラウス・マッファイ社、ニュルンベルクのMAN社(Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg:アウクスブルク・ニュルンベルク機械製作所)は、無段変速機の開発を行った。 このような変速機が小型戦車に搭載されるのは、1939年におけるVK.6tが初めての試みであった。 ただし、結局これは実現せずに終わっており、変速機はマイバッハ社製の8段式がこの後に採用されており、8段目における路上最大速度は67.5km/hと計算された。 VK.6tの転輪はゴムタイヤ付きの直径700mm、幅51mmのものが、トーションバー式サスペンションによって片側4個配置されていた。 そして第1転輪と第4転輪には、油圧ショック・アブソーバーがシャシー側面に装備された。 履帯は幅240mmで、接地面にゴムパッドを備えた湿式のZpw.51/240/160型が採用され、履板のリンク数は片側62個であった。 この履帯は、1tハーフトラック(Sd.Kfz.10)用と同一のものであった。 履帯接地長は2,295mmで、左右履帯間距離は1,660mmであった。 このVK.6tは1939年8月以降に2台のシャシーが製造され、同年9月以降にツォッセンのクンマースドルフ車両試験場で、第6兵器試験部により試験が実施された模様である。 |
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+VK.6.01
第6兵器試験部は、1938年10月にVK.6tのさらなる試験のために「VK.6.01」の試作呼称で、実験用シャシーを6台製作する契約をクラウス・マッファイ社と締結した。 VK.6.01のエンジンは第6兵器試験部の指示により、高出力のマイバッハ社製HL45P 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンに変更された。 1939年12月20日には、VK.6.01に搭載されるVG15319変速機8基と、LGR15319操向機8基の生産契約がクラウス・マッファイ社に与えられた。 そして、6台の実験用シャシー完成後の1939年9月15日に、VK.6.01の増加試作車0ゼーリエを40両生産する許可が出され、その後生産契約が結ばれた。 1940年2月17日には0ゼーリエ用のVG15319変速機と、LGR15319操向機40基ずつの生産契約もクラウス・マッファイ社は獲得した。 ほぼ同時期にダイムラー・ベンツ社はVK.6.01用の上部車体と砲塔の設計と、40両分の製造契約を第6兵器試験部と結んだ。 また、VK.6.01の砲塔に主武装として搭載される長銃身の7.92mm対戦車銃の開発が、1938年7月にオーベルンドルフ・アム・ネッカーのマウザー製作所に発注された。 マウザー製作所はこのために既存の7.92mm機関銃MG141を改造することにより、7.92mm対戦車銃「ゲレート318」(318兵器機材)、別名「EW141」(Einbauwaffe 141:固定武装141型)の開発を開始した。 なおVK.6.01は公式文書において1941年7月から、「新型I号戦車」(Panzerkampfwagen I n.A.)と呼ばれ、1942年7月1日以降は「I号戦車C型」(Panzerkampfwagen I Ausf. C)が正式呼称として用いられた。 ただし、この呼称はあくまでも便宜的なものであり、I号戦車C型は従来のI号戦車A/B型とは全く別物の車両であった。 |
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+VK.6.02
1938年7月2日、ドイツ陸軍兵器局はVK.6.01に8段式変速機と、マイバッハ社製のHL61 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(2,600rpmでの定格出力130hp)を装備した車両として、VK.6.02を計画した。 同年7月28日にはこれに、通常のディファレンシャル操向機を取り付けることにされた。 一方、クラウス・マッファイ社は1940年に無段操向機を提案したが、これは実現しなかった。 そして1941年7月に、VK.6.01実験用シャシー6台の内2台を利用してVK.6.02が完成された。 その後、1941年10月にクラウス・マッファイ社は簡略化した2段操向機を提案し、1942年にはより多彩な旋回半径の操向機と変速機の改訂を企画した。 さらにマイバッハ社は1942年にエンジンを、より高出力のHL50 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(4,000rpmで定格出力200hp)に換装することを計画したが、いずれも実現していない。 その後、軽戦車の存在意義が急速に薄れたため、I号戦車C型(VK.6.01、VK.6.02)の量産計画は破棄されてしまった。 |
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+生産と部隊配備
1939年9月に、40両の増加試作車0ゼーリエ(車体製造番号150101~150140)の生産が第6兵器試験部に認可されたVK.6.01は、1940年になって第6検査部にも認可され、空挺部隊用や植民地用を目的とする車両と定められた。 40両の0ゼーリエVK.6.01の生産は、実験用シャシー6台製作後の1941年3~9月を予定したが、生産は急を要するものではなかったので、他の重要度の高い戦車の生産を妨げないことが条件とされた。 第6検査部はまた、同時期にMAN社が開発していたVK.9.01(新型II号戦車)が失敗した場合に、同様なカテゴリー車両であったVK.6.01をその代替として、新たに1,000両発注することも計画していた。 VK.6.01実験用シャシーは、1941年7月までに2台が完成した。 0ゼーリエのシャシーが完成しだしたのは、同年10月のことであった。 従って、それまでに実験用シャシー6台が完成していたものと思われる。 マウザー製作所はVK.6.01と、RK9(ウィーンのオーストリア・ザウラー製作所製の装甲偵察車両)用として、7.92mm対戦車銃EW141を60挺生産する契約を獲得し、1940年11月22日までに5挺、1941年5月9日までに35挺を完成させていた。 またダイムラー・ベンツ社は、1940年にVK.6.01の上部車体と砲塔の設計と、これらの40両分の製造契約を得ていたが、砲塔の組み立て生産はカッセルのヴェクマン社が行った。 なお、クラウス・マッファイ社が生産したLGR15319操向機は、MAN社開発によるVK.9.01用としても使用された。 上部車体と砲塔を載せたVK.6.01 0ゼーリエは、少なくとも1941年後半に1両完成した。 ただしこれ以後の生産記録は不明で、おそらく1942年5月までに40両が完成したのではないかと推測される。 その間の1942年1月、クラウス・マッファイ社はVK.6.01実験用シャシー2台を熱帯地仕様として、冷却ファンドライブを強化する契約を得た。 また1942年5月21日、VK.6.01実験用シャシーのV106号車はアウトバーンでミュンヘンからダッハウまで走行し、一般道や路外走行に戻って3重半径操向機に必要な最小油圧の試験を行った。 この操向機には旋回半径を1.22mに減らすため、より小さいギアが取り付けられていた。 1942年5月24日に、全てのVK.6.01に対して履帯をゴムパッドの無い新型とし、操向機の仕様変更と燃料タンクの容量変更を伴う変換が決定された。 これらがどのくらいの期間で変換されたのかは定かでないが、1942年7~12月にかけて変換されたとする資料もある。 VK.6.01は2両が第1戦車連隊第II大隊に実戦配備され、東部戦線で使用された。 この内の1両は、車体製造番号150101の増加試作第1号車であった。 配備が確認できる最も早い日付は1943年3月5日で、1両はその後に失われ、もう1両は同年12月10日までに修理のため本国に返送されている。 その他の38両のVK.6.01は、1943年9月6日以降に第LVIII機甲軍団の予備部隊に配備され、フランスにて訓練戦車として使用された。 |
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+装甲の構造
I号戦車C型の最大装甲厚は30mmで、シャシーと戦闘室、それに砲塔の前面に使用された。 この装甲板は表面硬化型で、2cm徹甲弾を防ぐ性能があった。 その他の装甲板は均質圧延板で、表面硬化型ではなかった。 砲塔の側面と後面の装甲厚は14.5mmで、これは7.92mm徹甲弾への耐性があった。 シャシー側面も実験用シャシーでは14.5mm厚であったが、0ゼーリエ生産企画段階で、これに5.5mm厚の増加装甲板を溶接する仕様に変更された。 なお前述のようにI号戦車C型は、開発当初のVK.3tの時点では乗員4名という仕様で設計されていたが、VK.6.01に至るまでに乗員数が2名(操縦手兼無線手と車長兼銃手)に修正された。 I号戦車C型の各部の装甲厚と取り付け角度は、下表の通りである。
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+シャシーの構造
I号戦車C型のシャシーには、前面上部の後方やや右側に変速・操向機用の通気口があった。 これには、円筒型を組み合わせた装甲カバーが上部に取り付けられており、開口部は後ろ側にあった。 また、シャシーの前面と前面上部の接合ライン上の左右には、牽引用フックがボルト止めされていた。 板が覆う構造でこれをボルト止めすることで、機関室との結合を行うようになっていた。 ただしシャシーと機関室側面とは、フランジレール同士をボルト止めする方法で結合させていた。 シャシーの後面上部はIII号戦車のように、下面に冷却空気の排出口を設けたオーバーハング構造になっており、排気流を地面に当てないように後ろに偏向させる整流板が、開口部の下側に取り付けられていた。 整流板の下には横長のエンジン用排気マフラーが1本装備されており、その排気口は左側端から後方に向けて開口されていた。 I号戦車C型には、シャシー後面に牽引用フックやトレイラー牽引具の装備は無く、中央にエンジン始動用クランクシャフトの差し込み口と思われる、小さな円形ハッチが存在していた。 |
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+戦闘室の構造
I号戦車C型の戦闘室前面左側には、操縦手用の30型装甲視察ヴァイザーが装備されていた。 これは、III号戦車G型用に類似した回転式であった。 また、その上には視察ヴァイザーを閉じた時に、車内に装備された双眼式のK.F.F.2ペリスコープを使用するための、穴が2つ開けられていた。 操縦手用として左側面後方にも視察ヴァイザーが装備されており、これはスリット付きの20型であった。 そして、操縦手席の上面には乗降用ハッチが設けられていた。 これは、車内の左側に取り付けられた2個のヒンジにより開閉したが、外側に開くと前方に向いた砲塔と干渉するので、内側に開く方式であった。 また上面の前端部には、山型断面の跳弾ブロックが横幅一杯に取り付けられていた。 その他、跳弾ブロックの後ろ左右と、戦闘室側面の後方上部左右には、吊り上げ用フックが装備されていた。 |
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+機関室の構造
I号戦車C型の機関室はIII号戦車のように、冷却空気の採り入れ口が側面左右に張り出して構築されており、開口部が上面に開けられていた。 開口部は6区画に仕切られており、外側の3区画は機関室よりも高くせり出していた。 機関室上面には前方に観音開き式のエンジン用大型ハッチが設けられており、それぞれのハッチは外側2個のヒンジで取り付けられていた。 各ハッチには前後方向に細長い通気口が4つあり、この開口部には跳弾用として装甲板が内側方向に傾斜して溶接されていた。 通気口は基本的に左右ハッチで同じ配置であったが、右側ハッチはロック機構とハンドルを設置する都合上、一番内側の通気口が短くなっていた。 機関室上面の後方には横に細長いハッチがあり、これは2個のヒンジで前方へ跳ね上げる構造であった。 このハッチはおそらく、ラジエイターファンドライブの点検用と思われる。 この他、機関室上面の四隅には吊り上げ用フックが取り付けられていた。 1941年5月3日付のクラウス・マッファイ社の設計データによると、VK.6.01の戦闘重量は6,400kgであった(ただし、これはシャシー側面に増加装甲板を取り付ける前のデータで、取り付け後は7,300kgに増えていた)。 |
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+エンジンの構造
戦闘室と防火隔壁で仕切られた機関室内には、マイバッハ社製のHL45P 直列6気筒液冷ガソリン・エンジンが中央に設置された。 このエンジンは、最小スペースで最大出力を狙って開発された。 このためマイバッハ社は、既存のHL42ガソリン・エンジン(Sd.Kfz.251装甲兵員輸送車などに搭載)をボアアップさせて、出力の向上を図った。 シリンダーのボア×ストロークは、HL42エンジンの90×100mmから95×110mmに変更された。 しかし、HL42エンジンの通常回転速度である3,000rpmでは期待した高出力が得られなかったため、HL45Pエンジンの回転速度は3,800rpmまで引き上げられ、排気量4,678ccの出力150hpを得るに至った。 このような高回転のエンジンはドイツ軍ではほとんど使用されなかったので、HL45Pはかなり特殊なエンジンであった。 |
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+変速機の構造
HL45Pガソリン・エンジンの出力は推進軸を介して、戦闘室内前方のマイバッハ社製VG15319変速機(「VG」はVorwählgetriebe:予約選択機構の略語)に接続された。 この変速機は左側の操縦手席スペースを確保するために、右側に張り出した形状をしていた。 これは、マイバッハ社の特許による湿式マルチプレートクラッチを介して爪接続する形式で、8段変速式(前進8段/後進1段)のものであった。 8段目における路上最大速度は79km/h(3,800rpm)であったが、あまり高速で走行すると履帯や転輪の損傷を招くために、65km/h(3,200rpm)に制限されていた。 また燃料タンクの容量は180リットルで、燃料の標準消費量は250g/hp/hとなっていた。 各ギアシフトと路上最大速度の関係は、下表の通りである。
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+操向機の構造
VG15319変速機に接続する操向機は、マイバッハ社とクラウス・マッファイ社の共同開発による3重半径のLGR15319操向機であった。 これは油圧でクラッチ操作を行うもので、操向操作にはホイールハンドルが使用された。 この操作による旋回半径は24種類から選択でき、最小は1段ギアシフトの3.2mで、最大は8段ギアシフトの264mであった。 そして、車両は停止位置を変えること無く方向転換することができたとされるので、これは、左右の履帯を逆方向に動かす超信地旋回ができたということになる。 なお、機関室内におけるラジエイターや冷却ファン、それに燃料タンクの配置は残念ながら明らかになっていない。 |
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+起動輪の構造
I号戦車C型の起動輪はフロントドライブ方式で、スプロケットに160mmピッチから成る12個のローラーがあり、履帯を駆動させた。 最終減速機による減速比は、5.5:1であった。 ゴムタイヤ付き転輪は直径650mmの幅32mmで、片側5個をオーバーラップ式の複列配置としたために、以前よりも履帯接地長が短くなった(1,736mm)。 |
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+転輪の構造
転輪は2枚1組の複列式で、第1、第3、第5転輪は6本スポーク型になっており、第2、第4転輪はそれを外側から挟み込むように取り付けられた波状ディスク型になっていた。 転輪のサスペンションはトーションバーとスウィングアームで構成され、第1、第5転輪にはフォイヒトのヘムシャイト社製のHT50油圧ショック・アブソーバーが、シャシー側面に装備された。 後部に配置された誘導輪は直径540mmで、これにも32mm幅のゴムタイヤが取り付けられていた。 |
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+誘導輪の構造
I号戦車C型の誘導輪は履帯張度調節装置も兼ねていたが、この誘導輪のクランクアームにもトーションバー式サスペンションが装備されており、他の戦車にはあまり見られない本車の特徴になっていた。 履帯は、連結部にニードルベアリングとグリースが封入された、湿式ゴムパッド付きのKgw.53/260/160履帯が片側52リンク装備された。 左右履帯間距離は1,600mmであった。 |
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+履帯の構造
I号戦車C型はVK.6.01実験用シャシー6台も含めて、生産後の1942年5月14日までに履帯をドライピン式のKgs.62/290/90履帯に変更することが決定された。 この履帯は幅290mmのピッチ90mmで、片側のリンク数は89であった。 履帯幅が増しても左右履帯間距離は1,600mmのままであったが、1,630mmに増加したとする資料もある。 履帯はゴムパッドの無いスケルトン式であったので、2,010mmあった全高が1,945mmに減少した。 履帯の変更に伴って起動輪も再設計され、スプロケットは91.5mmピッチの21枚歯リング型となった。 この履帯の変更はIII号戦車E型の事例と同じく、高速走行でのゴムパッドの損傷が原因ではないかと思われる。 ただし、III号戦車E型では路上最大速度を40km/hに制限したが、I号戦車C型の場合は基本定義が偵察戦車なので、65km/hが維持されていた。 この他にLGR15319操向機の仕様も変更になり、旋回半径は最小を1.2m、最大を389mとするように範囲が拡大された。 また、容量180リットルであった燃料タンクは170リットルに縮小された。 これらの変更後、I号戦車C型の戦闘重量は8,000kgに増加していた。 |
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+フェンダーの構造
履帯の上に水平に取り付けられたフェンダーは、I号戦車A/B型と違って上面に滑り止めのパターンが無い鋼板製であった。 フェンダーの前端は下に向けてカーブしており、その先に取り付けられた前部泥除けもその形状を維持していた。 前部泥除けはフェンダーとヒンジ結合で跳ね上げ可能であったが、通常は2つの金具で固定されていた。 後部泥除けは平面状で後ろに傾斜していたが、上部の1/3ほどは固定されており、下部の約2/3がヒンジにより可動できた。 泥除けの内側にはコイル・スプリング(螺旋ばね)が取り付けられていたので、上げた状態や下げた状態の維持が可能であったと考えられる。 |
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+砲塔の形状と装備品の配置
I号戦車C型の砲塔は、A/B型よりもむしろII号戦車に近い形状で、周囲は馬蹄形状ではなく多面構成となっており、避弾経始を考慮して、側面の前方および後方の左右下部は切り欠かれ、三角面の装甲板で塞がれていた。 砲塔の周囲には視察ヴァイザーは無く、吊り上げ用フックが左右側面前方と後面中央上部の3カ所にあるだけであった。 車長の視界は砲塔上面後部に設けられた、III号突撃砲のものに似た車長用キューポラで得られるようになっていた。 この車長用キューポラは、乗降用円形ハッチの周囲に8個のペリスコープを装備したもので、ペリスコープの上部には装甲板によるガードリングが取り付けられていた。 そして乗降用ハッチの中央には、信号用もしくはペリスコープ用と思われる小さな円形ハッチがあった。 この他、砲塔上面の左側後部には無線機用のアンテナ基部が装備されていた。 これは、車長用キューポラのガードリングの高さまで伸ばされたパイプの上に、ゴム製の基部が取り付けられたものであった。 |
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+主砲防盾の俯仰と砲塔の旋回
I号戦車C型の主砲防盾は横長の外装式で、構造的にはIII号戦車の5cm戦車砲用防盾に類似していた。 防盾の右側にはマウザー製作所製の7.92mm機関銃MG34を1挺、左側には同社製の7.92mm対戦車銃EW141を1挺同軸に装備していた。 防盾中央にはEW141用の光学望遠照準機T.Z.F.10が装備され、そのための穴が開けられていた。 武装の俯仰は防盾の動きに依存し、その操作は砲塔内左側に設けられた俯仰ハンドルで行うようになっていた。 武装の俯仰角は、-10~+20度となっていた。 一方旋回角は、砲塔の動きに依存するため360度であった。 I号戦車C型の砲塔は、戦闘室上面の右寄りにオフセットして設けられた砲塔リング部にある、ベアリングリングに搭載された。 そして、ラック&ピニオンギア機構を操作する旋回ハンドルが砲塔内の右側に装備され、旋回操作が行われた。 砲塔旋回用の動力装置は無く、砲塔内の車長が旋回ハンドルを操作して、手動で旋回するようになっていた。 T.Z.F.10照準機は関節式であったことが分かっているだけで、その他の仕様は不明である。 なお照準機用の照明や、無線機と変圧器やアンテナの接続配線のために、砲塔リング中心位置に当たる車体床面には、旋回式電気接点装置が設けられていた。 接点装置から砲塔への配線は、砲塔内後部の車長席取り付け用フレームを利用して行われていた。 |
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+武装の構造
マウザー製作所が開発した主武装の7.92mm対戦車銃EW141は、同社製の7.92mm機関銃MG141を基にしており、同様にベルト給弾式であったが単一射撃専用に設計し直され、ブローバック後の回転ボルトロックにより、次弾を反動で装填する半自動装填式になっていた。 なおEW141の銃身には、軽め穴の無い装甲銃身ジャケットが装備されていた。 弾薬は、歩兵が携行する7.92mm対戦車銃PzB38/39用と同じタングステン弾芯を備える、7.92×94mmのPatr.318 SmKH APCR(硬芯徹甲弾)が使用された。 その他のEW141に関するデータは、下表の通りである。
I号戦車A/B型では武装の俯仰と砲塔の旋回を、ハンドル機構と切り離して人力で行えるようになっていたが、C型ではそのような機構の記述は見当たらない。 ただし、砲塔内左側の俯仰ハンドルに武装のトリガーがあったとされているので、やはりI号戦車A/B型と同じく、主武装の7.92mm対戦車銃EW141は俯仰ハンドルに、副武装の7.92mm機関銃MG34は砲塔内右側の旋回ハンドルに、リモートケーブルに接続されたトリガーがあったものと推測される。 |
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+無線機の構造
操縦手が操作する無線機は、操縦手席右側の戦闘室天井から吊り下げられたスプリングクッション付きのラックに収められていた。 この無線機は、通常の戦車部隊用のFu.5無線機等とは異なる偵察戦車専用で、Fu.Spr.a(Funksprechgerät a:a型無線機)という型式であった。 この機材は送受信兼用で、24.11~25.01MHzの周波数帯で10種類のチャンネルを使用することができた。 有効範囲は音声通信で静止時に2~3km、移動時に1kmであった。 無線機用のアンテナは砲塔上面の基部に、長さ1.4mのロッド型が取り付けられた。 |
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+車内装備品
I号戦車C型の車内装備は完全には判明していないが、かなりの部分が明らかになっている。 操縦手席前方の戦闘室内前面に装甲視察ヴァイザーがあり、その上の天井にK.F.F.2ペリスコープがスライドレールに取り付けられていた。 戦闘室内の前面装甲板の下には計器盤が取り付けられ、その中央下部から操向用のホイールハンドルが出ていた。 操縦手席の右側には下部に変速・操向機があり、上部前方にはジャイロコンパスが装備されていた。 変速・操向機の直上には、7.92mm機関銃MG34の予備銃身2本を収めたケースが取り付けられ、左側にはガスマスクケースがあった。 その前方のシャシー前面上部装甲板の内側には、救急箱が装備されていた。 シャシー左側の内部には、上段にMG34用給弾袋が横に並んでおり、おそらく6個あった。 下段には前方に視察ヴァイザー用の予備ガラスブロック2個があり、その後ろは7.92mm対戦車銃EW141用弾薬箱が少なくとも4つ並んでいた。 そして上端部には、EW141の予備銃身1本が剥き出しで取り付けられていた。 戦闘室内の左側では、前方視察ヴァイザーの後ろに操縦手用のマイクとヘッドフォンを置く場所があり、その後ろには操縦手用装甲視察ヴァイザーの予備ガラスブロック2個、ペリスコープ収納ボックス、予備ミラー収納ボックスと、その上に磁石付き懐中電灯が順に並べられ、一番後ろにはMG34用給弾袋が2個取り付けられていた。 車長用のマイクとヘッドフォンセットは、この給弾袋の手前に置くスペースがあった。 シャシー右側の内部には前方に飯盒が縦に2つ装備され、その後ろに上下2段にEW141用弾薬箱が少なくとも合計4つ取り付けられていた。 その後ろには水筒1つと無線機前面カバー板があり、防火隔壁の手前にガスマスクケースが装備されていた。 戦闘室内の右側は前方部が不明となっているが、おそらくはMG34用給弾袋があったものと思われる。 後方部にはMG34用給弾袋が2個取り付けられていたことと、その後ろの防火隔壁右側に水筒があったことが分かっている。 シャシーの床は、トーションバーの上に滑り止めパターンのある床板が取り付けられていた。 床面の砲塔の真下(シャシー内後方やや右側)には旋回式電気接点装置があり、その左側に消火器(四塩化炭素消火剤容量2リットル型)が取り付けられていた。 消火器の左側床はハッチになっており、その下部にEW141用のパーツボックスが収納されていた。 砲塔内には後部に、車長用の背もたれ付き座席が吊り下げられており、左側の後部には無線機用の変圧器が装備されていた。 左真横の下部には防盾武装の俯仰ハンドルがあり、反対の右側には砲塔の旋回ハンドルがあった。 砲塔内右側には後部に照準機収納ボックスがあり、その他に防盾武装用のアクセサリーやパーツ用ボックスがあった。 |
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+車外装備品
I号戦車C型の車外装備品の多くは、フェンダー上に取り付けられた。 左右のフェンダー前方には前照灯があり、その配線はシャシー前面上部の脇に引き込まれていた。 左側フェンダーでは前照灯の右側やや前方に、ミュンヘンのノヴァ・テヒニク社製の防空型管制灯(ノーテクライト)を取り付けていたが、その基部はフェンダーから右側に張り出していた。 前照灯の後ろには外側に大きなバール、内側にシャベルが装備され、それらに被さるように大型のシャベルが取り付けられていた。 その後ろには、ジェリカンが板金ラックに装備された。 その後ろに斧と消火器、それにS型フックが取り付けられていた。 そして最後尾には、角型間隔表示灯が装備されていた。 さらに、泥除け上部の固定部に円形尾灯がボルト止めされていた。 右側フェンダーでは、前照灯の左側(車体側)に細いフレームを突き出して、そこにホーンが取り付けられていた。 また前照灯のすぐ後ろには、発煙弾発射機が装備された。 これは向きの異なる発射管が3つ、フレームを立てて前照灯の上に被さるように取り付けられていた。 その右側にはワイアーカッターがあり、そしてワイアーカッターの後ろ半分を覆うように脚付きの工具箱が取り付けられていた。 その後ろにももう1つ工具箱があり、さらにジャッキとジェリカンの装備が続いた。 そして、右側の泥除け上部にも円形尾灯があった。 フェンダー上以外の車外装備品としては、機関室上面後部に1本の牽引ケーブルがあった。 これはI号戦車A/B型と同じ、10m長さの6t用であったものと思われる。 これ用の取り付け金具は、後部ハッチの前方左右の2カ所にあった。 また機関室の後面には、予備履帯が装備された。 これは、後面装甲板に上下2本のラックフレームバーが溶接され、それぞれ10リンクの連結された予備履帯を取り付けるものであった。 機関室後面装甲板は予備履帯2段分より面積が小さかったので、上段の予備履帯は機関室上面よりも飛び出していた。 車外装備品は、砲塔の後面にもあった。 その中央にはジャッキ台が取り付けられ、それを囲うようにもう1本の牽引ケーブルが装備されていた。 |
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<I号戦車C型(VK.6.01)> 全長: 4.195m 全幅: 1.92m 全高: 1.945m 全備重量: 8.0t 乗員: 2名 エンジン: マイバッハHL45P 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 150hp/3,800rpm 最大速度: 79km/h 航続距離: 300km 武装: 7.92mm対戦車銃EW141×1 (94発) 7.92mm機関銃MG34×1 (2,100発) 装甲厚: 5~30mm |
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<参考文献> ・「パンツァー2005年3月号 ドイツ戦車史の中でユニークな流れを形成するI号C/F型戦車」 稲田美秋 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ドイツ軽戦車」 アルゴノート社 ・「グランドパワー2003年11月号 II号戦車ルクスと試作軽戦車」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2012年8月号 ドイツ戦車の装甲と武装」 国本康文 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2011年1月号 ドイツI号戦車シリーズ」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2020年2月号 ドイツI号戦車(2)」 寺田光男 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939~43」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「ドイツ陸軍兵器集 Vol.3 戦車」 後藤仁/箙浩一 共著 ガリレオ出版 ・「ドイツ試作/計画戦闘車輌」 箙浩一/後藤仁 共著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車輌」 ガリレオ出版 ・「世界の戦車 1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「ジャーマンタンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「アハトゥンク・パンツァー第7集 I号戦車・II号戦車と派生型編」 大日本絵画 ・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 ・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 齋木伸生 著 光人社 |
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