I号戦車A型 |
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+開発
第1次世界大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約により新兵器の開発が禁じられたドイツであったが、戦後間もない1921年には連合軍の監視の目を逃れながら早くも戦車の研究に着手している。 1926~29年にかけてドイツはヴェルサイユ条約を破り、幾つかの試作戦車を作り上げた。 最初は非常に初歩的なもので装軌式トラクターに剥き出しの砲を載せただけのものだったが、次第に本格的な戦車が作られることになった。 これが、「重トラクター」(Großtraktor)と「軽トラクター」(Leichtertraktor)の秘匿呼称が与えられた車両である。 しかし、当時のドイツの工業力ではこのような本格的な戦車を量産するのは困難だったため、戦車の開発を担当するドイツ陸軍兵器局第6課は、1930年2月14日の会議でより小型で製造コストの安い軽戦車を「小型トラクター」(Kleintraktor)の秘匿呼称で開発することを決定し、エッセンのクルップ社に対し2cm機関砲を備え出力60hpの空冷エンジンを搭載し、重量3t以内の軽戦車を開発するよう命じた。 これに応じてクルップ社ではヴォエルフェルト工学博士を中心に小型トラクターの設計を開始し、1931年4月30日に砲塔の基本仕様書、5月22日に車体の基本仕様書、7月28日に戦闘室の基本仕様書を兵器局第6課に提出した。 この仕様書によると小型トラクターは戦闘重量3.5tで、クルップ社製の出力60hpの水平対向4気筒空冷ガソリン・エンジンを搭載し路上航続距離は200kmとなっていた。 車体の装甲厚は前/側面が13mm、後面が10mm、上/下面が6mmとなっていた。 駆動系レイアウトはフロントエンジン/リアドライブ方式を採用しており、転輪は片側4個で2個ずつアームで連結して懸架されており、最前部の誘導輪は独立して懸架されていた。 乗員は2名で車体中央部に設けられた戦闘室内の左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手が位置し、戦闘室上面に2cm機関砲を装備する1名用砲塔(左右各30度ずつの限定旋回式)を右にオフセットして搭載していた。 1931年6月4日には小型トラクターの木製モックアップの製作契約が結ばれ、6月24日に完成したものの、兵器局第6課はフロントエンジン/リアドライブ方式の駆動系レイアウトに対して難色を示し、9月18日に小型トラクターの設計をリアエンジン/フロントドライブ方式に改めるようクルップ社に命じた。 併せて兵器局第6課は小型トラクターの設計の参考とするために、イギリスのヴィッカーズ・アームストロング社製のカーデン・ロイド豆戦車のサンプル車両を購入することを決定し、ノヴァク社を通じてまず1931年11月30日に1両が発注され、1932年9月12日には2両が追加発注された。 1932年5月5日にクルップ社は兵器局第6課に改良型小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1両の製作契約が結ばれた。 仕様書によると、改良型小型トラクターの基本仕様は以下のようになっていた。 ・路上最大速度45km/h、路上航続距離200km ・装甲厚は12.4mm ・クルップ社製の民生用水平対向4気筒空冷ガソリン・エンジンM301(出力60hp)を搭載 ・クレトラック式変速・操向機を採用し最小旋回半径は1.5m ・転輪と誘導輪は45mm幅のゴム縁付きで第1転輪と誘導輪は鋳造製、その他の転輪は軽合金の鍛造製 ・車体重量は2,650kg以内 1931年に入って間もなく、ドイツ陸軍のオズヴァルト・ルッツ将軍は将来の戦車戦力に関する研究を、当時機甲運用の理論家として頭角を現してきたハインツ・グデーリアン中佐に命じている。 そしてグデーリアンは研究の結果、火力、防御力、機動力の3拍子がバランスよく取れた戦車が必要だが差し当たっては数量が必要であり、機甲戦術を含めた訓練に供することができる軽戦車の早急な実用化が望ましいという提案を行った。 これを受けてルッツ将軍はクルップ社が開発を進めていた小型トラクターに注目し、この車両を早期に大量生産して戦車乗員の訓練に用いることを計画した。 当初の予定では、小型トラクターの試作第1号車は1932年6月30日にツォッセンのクンマースドルフ車両試験場に送り届けることになっていたが、実際には予定通りに製作が進まなかったため、クルップ社は7月2日にルッツ将軍に対して7月末までに試作第1号車を引き渡すことを報告した。 ルッツ将軍は小型トラクターの実用化を急ぐようクルップ社に求めたが、もし実用化が遅れた場合には代わりにイギリスからカーデン・ロイド豆戦車を購入して戦車乗員の訓練に用いることも考えていた。 そして予定より1カ月遅れた1932年7月29日になって、ようやくクルップ社の工場内で兵器局第6課の関係者に小型トラクターの試作第1号車が公開され、8月15日からクンマースドルフ車両試験場で走行試験が開始された。 しかし試作第1号車は車体重量が2,950kgと予定を300kgオーバーした一方、エンジン出力は予定を下回る52hpに留まったため、走行試験では予定された路上最大速度45km/hを大きく下回る28km/hしか出せなかった。 このため兵器局第6課はクルップ社にエンジンの出力強化や上部支持輪の増設、サスペンションの強化などの改良を施すことを命じ、改修作業が完了した試作第1号車は1932年9月26日にクンマースドルフ車両試験場に発送された。 9月28日には小型トラクターの試作第1号車とカーデン・ロイド豆戦車との比較走行試験が実施されたが、改良の成果で小型トラクターは路上最大速度40km/hを発揮し、カーデン・ロイド豆戦車よりも機動性が優れているという評価を受けた。 試作第1号車は1932年10月まで累計480kmの走行試験に供され、兵器局第6課は試験の結果を基に小型トラクターの改良点を検討し、1932年9月~1933年2月の期間にクルップ社に4回に渡って様々な改良を発注した。 兵器局第6課が発注した小型トラクターの改良点は、以下のようなものであった。 ・履帯幅を260mmに拡げた新型履帯への換装 ・転輪の直径を530mmに拡大 ・第1転輪へのショック・アブソーバーの追加 ・第2転輪から誘導輪までガータービームで連結する ・出力を向上させた新型エンジンへの換装 ・前後のフェンダーへの泥除けの新設 1933年1月7日に兵器局第6課は小型トラクターの軟鋼製の増加試作車5両の発注をクルップ社に打診し、これを受けてクルップ社は2月17日に増加試作車の基本仕様書を兵器局第6課に提出した。 この仕様書を検討した兵器局第6課は3月20日に試作第2号車の製作をクルップ社に発注し、続いて5月10日に試作第3~第6号車の発注を行った。 そしてまだ増加試作車が製作段階にあった1933年7月1日に、クルップ社の社内会合において兵器局第6課からクルップ社、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル・ボルジヒ社、ダイムラー・ベンツ社の計6社に対し小型トラクターの生産型150両の製作発注が行われ、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ生産を担当することになったことが報告された。 開発を担当したクルップ社以外のメーカーにも小型トラクターの生産が発注されたのは、他のメーカーにも戦車生産の経験を積ませるためというのが主な理由であったが、クルップ社が戦車生産を独占することで他のメーカーが反発しないようドイツ陸軍が配慮したことも理由の1つといわれている。 ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、小型トラクターの生産型には連合軍に戦車であることを察知されないように「LaS」(Landwirtschaftlicher Schlepper:農業用トラクター)という秘匿呼称が与えられた。 生産期間中はこの呼称がずっと使用され続け、生産終了から2年経った1938年になってようやく「Sd.Kfz.101」の特殊車両番号と、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A)の制式呼称が与えられている。 LaSの増加試作車5両は1933年7~8月にかけてドイツ陸軍に引き渡され、続いて「1ゼーリエ」(シリーズ1)の呼称で第1生産ロットの量産が開始された。 クルップ社が立てたLaS 1ゼーリエの生産計画では1933年12月に最初の20両、続いて1934年1月に30両、2月に25両、3~5月に各20両のLaSを引き渡すことになっていたが、実際には計画通りには進まず1933年12月に引き渡されたLaSは10両に留まり、それ以降は毎月25両ずつ引き渡すよう計画が修正された。 一方、LaSに搭載する砲塔および戦闘室の開発についてであるが、兵器局第6課はクルップ社とベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社に競作という形で開発を発注している。 砲塔の開発経過についてはクルップ社に関する資料しか残っていないが、1931年12月4日にクルップ社が設計した砲塔の図面が兵器局第6課に提示され、1932年6月24日には砲塔の木製モックアップが完成した。 これを検討した兵器局第6課はクルップ社に砲塔の改良を指示し、7月9日にクルップ社から改良型砲塔の図面が提出された。 この砲塔は武装として2cm機関砲を装備していたが、砲塔の実用化にかなり時間が掛かることが見込まれたため、クルップ社は独自に7.92mm機関銃2挺を装備する砲塔も設計しており、同時期に図面が兵器局第6課に提示された。 この2種類の砲塔案を検討した兵器局第6課は、1932年9月1日に両方の木製モックアップを製作するようクルップ社に指示した。 クルップ社は1933年10月13日に兵器局第6課に対して、LaSの砲塔に7.92mm機関銃装備型の方を採用するよう具申し、2cm機関砲装備型砲塔を採用する場合は実用化まであと2年掛かる見込みであることを伝えた。 LaSの早急な実用化を望んでいた兵器局第6課はこの提案を受け入れ、LaSには7.92mm機関銃2挺装備の砲塔が搭載されることになった。 クルップ社が設計したLaS用の砲塔は後のI号戦車A型の砲塔と形状は似ていたものの、武装の装備方法が大きく異なっていた。 砲塔前面には開閉式の装甲カバーが設けられており、7.92mm機関銃を射撃する際にはこのカバーを開いて行うようになっていた。 一方、ダイムラー・ベンツ社が設計したLaS用の砲塔はI号戦車A型の砲塔と良く似ており、砲塔防盾に7.92mm機関銃を左右2連装で装備していた。 LaSの戦闘室については、ダイムラー・ベンツ社が設計した戦闘室は傾斜装甲板を組み合わせた8角形のもので、戦闘室の左側には上と横に分割して開く長方形の操縦手用ハッチが設けられていた。 クルップ社が設計した戦闘室はダイムラー・ベンツ社のものより横幅が広く側面装甲板は垂直で、戦闘室上面左側には後ろ開き式の円形の操縦手用ハッチが設けられていた。 操縦手の頭部に干渉しないよう、このハッチは半球状に成型されていた。 兵器局第6課による検討の結果、LaSの戦闘室と砲塔はダイムラー・ベンツ社の設計案が採用されることになった。 この戦闘室と砲塔はLaS 1ゼーリエの車体に後から搭載する予定になっていたが、量産の準備に手間取ったため生産型の戦闘室と砲塔はLaS 2ゼーリエから搭載することとされた。 そしてLaS 1ゼーリエには20両にクルップ社が試作した軟鋼製の戦闘室と砲塔、数両にダイムラー・ベンツ社が試作した戦闘室と砲塔が搭載されたのみで、大部分の車両はオープントップの車体のみの状態で訓練に使用された。 |
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+構造
I号戦車A型は基本的には原型の小型トラクターと大差無い車両で、機関銃装備ということもあって乗員は操縦手と車長兼銃手の2名とされ、車体前部に変速・操向機と最終減速機を置き、車体中央部に傾斜装甲板を8角形に組み合わせた戦闘室を設けて砲塔を搭載し、車体後部が機関室というレイアウトを採っていた。 機関室にはクルップ社製のM305 水平対向4気筒空冷ガソリン・エンジン(出力57hp)が収められていたが、一部の車両には試験的に同社製のM601空冷ディーゼル・エンジン(出力45hp)が搭載された。 エンジンの後方にはオイルクーラーが、その左右には72リットル容量の燃料タンクがそれぞれ配されており、エンジンの排気は左右のフェンダー上に装備されたマフラーに排気管を導いて行った。 このエンジンから車体前部に置かれたZF社(フリードリヒスハーフェン歯車製作所)製のFG35変速機(前進5段/後進1段)にドライブシャフトが導かれており、操向機は単純なクラッチ・ブレーキ式が採用されていた。 操縦手は戦闘室内の左側に収まり、戦闘室前面左側に設けられた開閉式のクラッペを用いて視界を得ていたが、戦闘室左右側面の前後および後面左側にも前面よりやや小振りな開閉式クラッペが備えられていた。 これら6基のクラッペの内、車長との位置関係からほとんど用を成さない右側面後方のクラッペは生産の早い段階で廃止された。 また戦闘室左側には、上と横に分割して開く長方形の操縦手用ハッチが設けられていた。 戦闘室の上には車長兼銃手が収まる全周旋回式砲塔が右側にオフセットして搭載されており、砲塔防盾にはデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社製の7.92mm機関銃MG13k(MG13の短銃身タイプ)が、並列2連装で装備されていた。 砲塔内には直接車長用の座席が備えられており、左前方に機関銃の俯仰用ハンドルが、右前方には砲塔旋回用のハンドルがそれぞれ設けられ、このハンドルには機関銃射撃用の引き金が装備され別々に射撃を行うことができた。 機関銃は-10~+20度の俯仰角を有し、弾薬は25発を収めたクリップから供給され、砲塔内にこのクリップ8個入りの弾薬ケースが備えられ、同様に車体内に弾薬ケース4個(クリップの収容数はそれぞれ6個、8個、19個、20個)が置かれ、弾薬の総搭載数は1,525発となっていた。 操縦手との連絡は伝声管を用い、また砲塔上面には大きな半円形の前開き式の車長用ハッチが設けられていた。 戦闘室内にはFu.2無線受信機が装備されており、I号戦車は開発当初から集団での運用を念頭に置いていたことが分かる。 アンテナは戦闘室の右側面に設けられ、フェンダー上の収納ケースに戦闘室内からのハンドル操作で起倒したが、砲塔を右に旋回する場合、ギアと連動して自動的にアンテナが倒れて機関銃と接触することを避ける機構が採用されていた。 各部の装甲厚については車体が前/側/後面13mm、上面前部8mm、上面後部6mm、下面5mmとなっており、戦闘室は前/側面13mm、後面8mm、上面6mm、砲塔は前面14mm、側/後面13mm、上面8mm、防盾部15mmとなっていた。 もちろん戦車砲の直撃には耐えられず、小銃弾や榴弾の破片程度に対する防御力しか備えていなかったが、I号戦車は戦車乗員の訓練を主目的に開発されていたため特に問題視はされなかった。 なお弾薬ケースを収めている関係で、戦闘室左側面に設けられたハッチの下の部分には13mm厚の増加装甲板がボルト止めされていた。 足周りの構造はイギリスのカーデン・ロイド豆戦車を模倣しており、第1転輪のみコイル・スプリングで独立懸架されていたが、続く後方の第2、第3転輪と第4転輪、誘導輪はそれぞれリーフ・スプリングを用いて2輪ずつ懸架されており、誘導輪はサイズが転輪より一回り大きく接地式となっていた。 そして第2転輪から誘導輪まで細長いガータービームで連結されていたが、原型となった小型トラクターでは誘導輪と転輪は同じサイズとなっており、ガータービームは装着されていなかった。 上部支持輪もI号戦車A型では片側3個設けられていたが小型トラクターでは片側2個しかなく、このあたりは試験の結果を反映しているようである。 「I号戦車A型」の制式呼称が与えられたのはLaSの2ゼーリエ以降の車両で、1ゼーリエは大部分の車両が戦闘室と砲塔を搭載していない状態だったためI号戦車A型には含まれなかった。 I号戦車A型の生産はマクデブルクのグルゾン製作所、ニュルンベルクのMAN社、ラインメタル社、カッセルのヘンシェル社、ダイムラー・ベンツ社の計5社で行われ、LaSを開発したクルップ社は生産に参加していない。
I号戦車A型の生産は1936年まで続き上表のように合計1,190両が生産されたが、実際に使用してみるとエンジンの出力不足が目立ち、さらには冷却能力の不足によるエンジントラブルも多発した。 またサスペンションの緩衝性能も不充分で、不整地での機動性が問題視されることになった。 そこで、これらの問題点を改めるべく開発された改良型が次の型式であるI号戦車B型である。 |
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<I号戦車A型> 全長: 4.02m 全幅: 2.06m 全高: 1.72m 全備重量: 5.4t 乗員: 2名 エンジン: クルップM305 4ストローク水平対向4気筒空冷ガソリン 最大出力: 57hp/2,500rpm 最大速度: 37km/h 航続距離: 145km 武装: 7.92mm機関銃MG13k×2 (1,525発) 装甲厚: 6~13mm |
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<参考文献> ・「グランドパワー2000年4月号 ドイツI号軽戦車の開発/構造/戦歴」 佐藤光一 著 デルタ出版 ・「グランドパワー2012年8月号 ドイツ戦車の装甲と武装」 国本康文 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2011年1月号 ドイツI号戦車シリーズ」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2019年12月号 ドイツI号戦車(1)」 寺田光男 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2005年11月号 ドイツII号軽戦車」 大村晴 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(1) 第1次~第2次世界大戦編」 ガリレオ出版 ・「パンツァー2010年3月号 日中戦争に登場したドイツI号戦車A型」 高橋昇 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2004年11月号 ドイツI号戦車とそのバリエーション」 稲田美秋 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ドイツ軽戦車」 アルゴノート社 ・「世界の戦車 1915~1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「戦車ものしり大百科 ドイツ戦車発達史」 斎木伸生 著 光人社 ・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著 グランプリ出版 ・「図解・ドイツ装甲師団」 高貫布士 著 並木書房 ・「戦車名鑑 1939~45」 コーエー |
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