+概要
I号15cm自走重歩兵砲は、15cm重歩兵砲sIG33をI号戦車の車体に搭載して自走化したもので、開発が始められた時期は定かではないが、I号戦車B型の生産が開始された1935年前後にはすでに計画が開始されたものと思われる。
本車の主砲として採用された11.4口径15cm重歩兵砲sIG33は、ドイツ軍が再軍備の先駆けとして1927年より秘密裏に開発を始めたもので、開発はデュッセルドルフのラインメタル・ボルジヒ社が担当し1933年に制式化された。
1936~45年にかけて、AEG社(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft:総合電気会社)のベルリン・ヘニングスドルフ工場や、シュトラコニッツのベーム兵器製作所で合計4,155門が生産された15cm重歩兵砲sIG33は、第2次世界大戦が終了するまで、歩兵と行動を共にする支援歩兵砲としてはドイツ最大級のものとして君臨し、全戦線において多用された。
この砲は、弾頭重量38kgの榴弾を用いて砲口初速240m/秒、最大射程4,650mと大射程大威力である一方、重量が2,872kgもあるため陣地転換に時間が掛かるのが悩みの種であった。
この砲を自走化すれば歩兵と行動を共にし、有効な火力支援を行うことができるというのは必然的に導き出される結論であり、その具現化として誕生したのがI号15cm自走重歩兵砲というわけである。
I号15cm自走重歩兵砲のベース車体には、I号戦車の2番目の生産型であるI号戦車B型が用いられたが、本車の開発が始まった頃にはより大型のII号戦車が実戦化されていた。
なぜ、より車体サイズに余裕のあるII号戦車がベース車体として選ばれなかったのかは不明であるが、I号戦車が第一線任務に就くには非力過ぎるため、自走砲に転用した方が有用であると考えられたのか、あるいはこの自走砲は試験的な意味合いが強かったため、I号戦車の車体で充分と考えられたのかも知れない。
本車の開発はラインメタル社の子会社として、1937年にベルリン・ボルジヒヴァルデに設立されたアルケット社(Altmärkische Kettenwerke:アルトマルク履帯製作所)が担当したが、以後、同社は第2次世界大戦で使用された多くの自走砲の開発に携わることになり、その意味では大きな意義があった。
I号15cm自走重歩兵砲への改造要領は、I号戦車B型の砲塔と上部構造物を取り去り、牽引型の15cm歩兵砲sIG33がそのまま車体上部に搭載されたが、何と車輪も装着したままでフェンダーの上に載せられており、車体内部に加えてフェンダーにも固定具が用意されているという、大胆な手法が採られている。
もちろん防盾や脚も外されずにいたので、必要に応じて車体から取り外して使用するという前提があったものと思われる。
砲の周囲には、前面と左右側面を10mm厚の装甲板で囲んだオープントップ式の戦闘室が設けられたが、何しろ防盾から車輪までそのまま搭載したため、I号戦車B型より全高で1m近く高くなってしまい、非常に腰高のシルエットとなってしまったのは問題であった。
さらに、戦闘重量もI号戦車B型から2.5tも増加しており機動性は大きく低下したが、歩兵と行動を共にする車両のため、これはさほど不都合とはならなかったようである。
戦闘室の左右側面装甲板には横長楕円形の張り出しが設けられたが、これは砲の車軸と戦闘室側面装甲板との干渉を避けるためで、15cm重歩兵砲sIG33とI号戦車B型がほぼ同じ横幅であったことが分かる。
I号15cm自走重歩兵砲は、アルケット社において1940年1月に試作車1両が完成し、続いて2月に37両の生産型が製作され、これら38両を用いて第701~第706の6個の重歩兵砲(自走式)中隊が編制された。
ちなみに、本車の正式呼称は「15cm重歩兵砲sIG33(自走式)搭載I号戦車B型」である。
各重歩兵砲中隊は、それぞれ6両のI号15cm自走重歩兵砲を装備していた。
これらの重歩兵砲中隊は第1、第2、第5、第7、第9、第10機甲師団に分割配属され、1940年5月10日に開始されたフランス侵攻作戦から実戦に投入された。
第5機甲師団に配属された第704重歩兵砲中隊では、1943年半ばにおいてもなお数両のI号15cm自走重歩兵砲を使用していたという。
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