重自走臼砲カール
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+開発
ドイツ陸軍は1935年末に、当時フランスがドイツとの国境沿いに構築を進めていた強固な要塞線、「マジノ・ライン」を攻略するための重臼砲の研究をスタートさせた。
1936年3月にはドイツ陸軍兵器局に対し、陸軍総司令部(OKH)がまとめた臼砲の基本仕様が届けられたが、それによると、
・臼砲の口径80cm
・重量4tの弾丸を使用した場合、砲口初速100m/秒で最大射程1,000m
・重量2tの弾丸を使用した場合、砲口初速140m/秒で最大射程2,000m
となっていた。
この要求に応じて火砲の開発を司る兵器局第4課は検討作業に入り、臼砲の移動に関して以下の3種類の方式を考え出した。
1.履帯を備えた装軌式車両に搭載する
2.ローラーの上に載せる
3.小さい車輪を多数備える装輪式車両に搭載する
搭載する臼砲については、1936年10月にデュッセルドルフのラインメタル・ ボルジヒ社との間に開発契約が結ばれた。
この際、兵器局第4課からラインメタル社に提示された臼砲の基本仕様は、
・臼砲の最大射程3,000m
・弾丸は爆発力が大きいものと、貫通力に優れるものの2種類を並行して開発すること
・弾丸重量の上限は2t
・砲の布陣から射撃まで6時間で可能とすること
・臼砲は分解して路上輸送ができること
・砲の仰角は3,000mの射程を確保するために、+45度まで取れること
などとなっていた。
これに従ってラインメタル社では臼砲の設計作業に着手し、1937年1月には兵器局第4課に基本設計案を提出した。
この基本設計案の内容は、
・臼砲の口径60cm
・重量2tの弾丸を使用して砲口初速200m/秒、最大射程3,000m
・砲の最大仰角は+125度、旋回角は左右各120度ずつ
・射撃時の全高160cm、重量55t
・砲は7〜8個のパーツに分解して牽引が可能
というものであった。
また、兵器局第4課から求められた布陣から射撃まで6時間という時間制限を達成するため、ラインメタル社は臼砲を自走式車台に搭載することを主張した。
ラインメタル社が提案した自走式車台は、機械的な装置でサスペンションを上下に動かせるようになっており、臼砲の射撃時には車体を下げて地面に接地させ、射撃時の反動を車体全体で吸収して安定を図るようになっていたが、この方法ならば専用の緩衝機材を用意する必要が無く、射撃時の反動を効率良く吸収することができた。
また自走式の車台を用いることにより、臼砲の布陣から射撃開始までの時間を1時間半短縮できると試算された。
1937年8月にこのラインメタル社の提案は承認され、以後の開発は自走式車台に搭載することを前提として進められることが決まった。
また臼砲の基本仕様も変更されることになり、「プロイェクト(プロジェクト)4」の呼称が与えられて最大射程を4,000mに延伸することになった。
新たな基本仕様では、
・重量2tの弾丸を使用して砲口初速243m/秒、最大射程4,000m
・砲の俯仰角は−10〜+75度、旋回角は左右各50度ずつ
・射撃時の車体高320cm、臼砲の重量64.5t、自走式車台の重量32.5t
となっており、プロイェクト4は臼砲と車台を合わせて100t近い超重量級の自走砲となった。
1938年3月9日に開かれた会議において、兵器局第4課の長であるカール・ベッカー将軍にプロイェクト4の開発状況が報告され、すでに発注されていた試作型1両に加えて生産型6両が追加発注されることになった。
1938年8月にはモーターにより走行可能なプロイェクト4の1/10模型が完成し、走行試験の結果は良好だったものの、プロイェクト4はエンジン出力の増大が必要との判断が下されている。
同様に主砲の60cm臼砲の開発も進められており、1939年6月23〜25日にかけて完成した試作砲を用いた射撃試験が実施された。
この試験の結果、射撃時の後座量を100cmに留めるのに必要な油圧は約450tということが判明している。
また、プロイェクト4に随伴して60cm臼砲の巨大な弾丸と装薬を運搬し、装填を行うための専用車両が必要だったため、1939年10月にラインメタル社はプロイェクト4専用の弾薬運搬車の設計案をまとめた。
この車両はIV号戦車の車体をベースとしており、車体前部右側に電動式のクレーンを装備し、車内に4発分の弾丸と装薬を収めて直接プロイェクト4に運ぶというものであった。
クレーンの作動には砲塔駆動用のモーターが用いられ、プロイェクト4の弾薬トレイに直接弾丸と装薬を載せることが可能だった。
また、プロイェクト4はその大重量と長大な全長のために、通常の貨車に搭載して鉄道輸送することが不可能だったため、弾薬運搬車と同時にプロイェクト4専用の鉄道輸送車の開発も開始された。
これは、5軸の車軸を備える貨車をプロイェクト4の前後に配し、この貨車に設けられた油圧式リフターで前後からプロイェクト4を吊って輸送するというものであった。
輸送する際にはまずプロイェクト4を軌道上に載せ、貨車を前後から近付けて、プロイェクト4の車体上部の前後に4カ所ずつ設けられた固定具と、貨車のリフターに設けられた固定具を結合し、プロイェクト4のサスペンションを上げて履帯が地面と接触しない状態にしてから輸送した。
1940年5月からは、プロイェクト4の試作車台の走行試験がウンターリュッセで開始された。
試験を行うにあたって、試作車台には重心点に主砲と同じ重量のダミー・ウェイトが搭載された。
さらに7月2日には、主砲を搭載して完成したプロイェクト4の試作型が組立工場において、兵器局第4課の高官たちに公開された。
この際、試作型は射撃と走行の両方が実施され、主砲の俯仰や左右への旋回も行われている。
またプロイェクト4は大重量過ぎて、そのままでは重工兵橋を渡ることができないことが報告されたため、1940年11月12日に開かれた会議において、プロイェクト4を分解して輸送する専用の装輪式トレイラーの開発契約がラインメタル社に与えられた。
このトレイラーは、主砲を外した状態の自走式車台を載せる12輪トレイラーと、3分割された主砲の部品をそれぞれ載せる8輪トレイラーの2種類に分かれており、さらに専用の自走式35tクレーンも開発されることになった。
なお、1940年11月にプロイェクト4は「ゲレート040」(040兵器機材)に呼称が変更され、さらに1941年2月には、本計画の推進者であるカール・ベッカー将軍に因んで、「ゲレート・カール」(カール兵器機材)の呼称が与えられた。
この「カール」(Karl)という呼称は兵器自体に対して与えられたもので、全部で7両が製作されたカールはそれぞれの車両に個別の愛称が与えられていた。
生産型の6両は当初、第1号車が「アダム」(Adam:旧約聖書に登場する人類最初の男性)、第2号車が「エーファ」(Eva:旧約聖書に登場する人類最初の女性)、第3号車が「オーディン」(Odin:北欧神話の主神の英語名)、第4号車が「トール」(Thor:北欧神話の雷神)、第5号車が「ロキ」(Loki:北欧神話の邪神)、第6号車が「ツィーウ」(Ziu:北欧神話の軍神)と命名されたが、後に第1号車は「バルドル」(Baldur:北欧神話の光の神)、第2号車は「ヴォータン」(Wotan:北欧神話の主神のドイツ語名)にそれぞれ改名されている。
一方、カールの試作型(第7号車)は当初、非公式に「レックス」(Rex:ラテン語で王を意味する)と呼ばれていたが、後に「フェンリル」(Fenrir:北欧神話に登場する巨大な狼の怪物)の公式呼称が与えられている。
1941年2月25日付の生産報告書によると、ゲレート040は第1号車が完成済み、第2号車は2月27日に、第3号車は3月15日に、第4号車は4月10日に、第5号車は5月15日に、第6号車は7月1日にそれぞれ完成を予定しているとされている。
またラインメタル社の報告書によると、ゲレート040の第1号車が1940年11月5日に10発、第2号車が11月7日に8発、第3号車が1941年2月20日に6発、第4号車が4月17日に6発、第5号車が6月11日に10発、第6号車が8月28日に6発、それぞれ射撃を実施したとしている。
ところが、ゲレート040の60cm臼砲の射程に不満を持ったアドルフ・ヒトラー総統は、主砲を改良して射程を延伸することを要求し、これに従って兵器局第4課は1942年2月に、ゲレート040の射程延伸に関する検討を開始した。
そして、主砲の口径を54cmに縮小して砲身長を伸ばすことで射程を延長することが決まり、再びラインメタル社に開発契約が与えられた。
この長砲身54cm臼砲は最大射程が10,000m以上で、ゲレート040の車台にそのまま載せることが当初より要求されていた。
開発当初は、1942年5月に完成を予定していたゲレート040の第7号車に搭載することが考えられており、「ゲレート041」(041兵器機材)の呼称が与えられた。
ラインメタル社の1942年7月1日付の報告書によると、すでにゲレート041の設計は完了し、54cm臼砲の試作砲身が試験を実施する状態まで仕上がったとしている。
ゲレート041は、試作砲身に引き続いて6門の生産型砲身が追加発注されたが、その発注日時は不明である。
ゲレート041で新規に製作されたのは54cm臼砲の砲身のみで、砲架などは既存のゲレート040の60cm臼砲のものがそのまま用いられた。
1943年3月6日にヒトラーは、この長砲身54cm臼砲ゲレート041に関する報告書の提出を求め、カール第1号車の主砲をゲレート041に換装して5月31日までに引き渡すこととされた。
同様にカール第2、第3号車の主砲もゲレート041に換装することになり、第2号車は6月30日、第3号車は8月15日までに引き渡すことが予定されたが、ゲレート041の射撃試験の結果は芳しくなく、設計の見直しが行われることになり、引き渡しスケジュールは遅延をきたすことになった。
そしてついに1944年5月8日、ゲレート041の開発と新型弾薬の生産はキャンセルされることになってしまった。
しかし、5月22日と25日にヒトラーを交えて開かれた会議の席でこのキャンセルは取り消され、先に引き渡しを予定していたカール第1、第2、第3号車の引き渡しスケジュールをそれぞれ1944年6月15日、7月7日、7月25日まで伸ばすことを認め、ゲレート041の開発は続行されることになった。
1944年8月18日付の写真で、カールの第1、第4、第5号車が長砲身54cm臼砲への換装を終えていることが判明しており、ほぼ予定通りに換装が実施されたことになる。
ゲレート041は、試作砲身と生産型砲身6門の計7門が予定通り完成したものの、実際に装備したのはカールの第1、第4、第5、第7号車のみで、第4号車についてはすぐに60cm臼砲に再換装が行われたため、54cm臼砲を装備していたのは極めて短期間であった。
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+構造
カール自走臼砲の車体は、圧延軟鋼板を溶接して作られた細長い箱形で、車体中央部には主砲を搭載するために大きな開口部が設けられていた。
開口部の前後には隔壁が設けられており、この結果車内は3分割され、車体前部に機関室を配し、車体中央部が主砲を搭載した戦闘室、車体後部はサスペンションの上下動調節装置が収められていた。
このサスペンション調節装置により、カールは15分間で車体を上げたり下げたりすることが可能だった。
移動時にはサスペンションを下げて車体を上げ、射撃時にはサスペンションを上げて車体を接地し、射撃の反動を車体全体で吸収するようになっていた。
サスペンション調節装置の作動は、エンジンを切るとサスペンションが上がり、エンジンに点火するとサスペンションが下がるという自動式となっていた。
さらに、サスペンション調節装置が故障した場合の対処として、乗員がハンドクランクを回すことでサスペンションの上下動を行うことも可能だった。
車体前部の機関室にはエンジンと変速機が収められており、変速機を経た動力は車体最前部に置かれたウィルソン式操向機に導かれ、前部に配された起動輪を駆動した。
車体前部左側には操縦室が設けられ、室内には操縦手席と副操縦手席が前後に配されていた。
車体後面には2基の梯子が装着されており、シャベル、斧、ハンマー、ツルハシ、1.2m超牽引バー2本といった車外装備品が装着されていた。
車体の装甲厚は不明で、写真を見る限りでは10mm程度ではないかと推測されるが、軟鋼製だったので防御力はほとんど無かったと思われる。
カールのエンジンと変速機はそれぞれ2種類、サスペンションも2種類が用いられ、この結果車両によって装備が異なることになった。
エンジンの開発はベルリン・マリーエンフェルデのダイムラー・ベンツ社が担当しており、1937年初めにOKHより開発契約が与えられ、同年6月3日より開発に着手している。
これがMB503Aガソリン・エンジンで、1942年1月にドイツ陸軍に引き渡されている。
カールの試作車台の走行試験は1940年5月に開始されているので、本来ならば試験に間に合わないはずであるが、これとは別に1938年9月22日にラインメタル社が、独自にMB503Aエンジン4基をダイムラー・ベンツ社に発注しており、加えてMB503Aエンジンをディーゼルに改造したMB507Cエンジン3基も発注していた。
この7基のエンジンは、1940年3月〜1941年8月にかけて全てラインメタル社に届けられ、MB503Aエンジンはカールの第1、第2、第6、第7号車に、MB507Cエンジンは第3、第4、第5号車にそれぞれ搭載された。
搭載されたカールの製造番号に従い、それぞれのエンジンには1〜7型の呼称が与えられていた。
1942年2月12日にラインメタル社はさらにMB507Cエンジン5基を発注し、1基は1943年11月に届けられ、1944年5月にさらに4基のMB507Cエンジンが到着した。
これらのエンジンは、MB503Aエンジンを搭載して完成した第1、第2、第6、第7号車に対する換装を目的としたものであったが、結局換装は行われないままに終わった。
MB503Aガソリン・エンジンは、総排気量44,500ccのV型12気筒液冷エンジンで、ボアの内径は162mm、ストローク長は180mmで、出力は580hp/1,850rpmとなっていた。
一方、MB507Cディーゼル・エンジンは排気量、出力などのスペックはMB503Aエンジンと同一だったが、燃料消費量が1時間当たり175リットルから120リットルに減少した。
この結果、車内に収められた燃料タンクが収容する1,200リットルの燃料で、MB503Aエンジンの場合10時間、約42kmの走行が可能だったが、これがMB507Cエンジンでは約60kmに延伸している。
変速機は、エーベルスヴァルデのアルデルト社の手になる機械式変速機(前進4段/後進1段)と、ハイデンハイムのフォイト社製のTG504油圧式変速機(前進3段/後進1段)が用いられた。
機械式変速機は1、3、6、7型エンジンに、油圧式変速機は2、4、5型エンジンにそれぞれ組み合わされていた。
カールの第1号車と第2号車の足周りは、片側8個のゴム縁付き複列式転輪を260cm長のトーションバーで支えるもので、片側8個のゴム縁付き複列式上部支持輪を備え、履帯は幅50cmでピッチは170mm、接地長7m、片側133枚の履板で構成され、起動輪のスプロケットは17枚歯のものが用いられた。
また各サスペンションはアームを支持架で支え、この支持架を長いガータービームに結合することで強度を確保していた。
カールの第3号車以降では足周りが一新されており、片側11個の複列式鋼製転輪と211.5cm長のトーションバーの組み合わせに変わり、第1、第2号車に用いられたガータービームは姿を消した。
また上部支持輪は片側6個に減らされ、履帯もピッチが250mmの新型に変わり(第4号車以降では240mmのものに変更されたが詳細は不明)、起動輪のスプロケットは12枚歯のものが用いられた。
カールの路上最大速度は第1、第2号車が10km/h、第3号車以降は6km/hであった。
走行試験においてカールは、その124tという大重量のため、不整地走行では非常に問題があることが判明した。
轍や水溜りの上を走行する際には、木片などで埋めなければ走行は極めて難しく、布陣の際などには周囲の切り株なども迂回するか、掘り返す必要があった。
このため、カールは非常に強力な破壊力を秘めている反面、運用上の制約も非常に大きい兵器となってしまった。
カールには、最初に開発された短砲身の60cm臼砲を搭載するゲレート040と、射程の延伸を目的として新たに開発された長砲身の54cm臼砲を搭載するゲレート041の2種類が存在したが、ゲレート040の主砲の60cm臼砲は全長5,068mm、砲身内長4,200mmで、砲口から弾丸を装填する旧来の前装式ではなく、砲尾から弾丸と装薬を装填する後装式臼砲であった。
砲の俯仰角は0〜+70度、左右の旋回角は各4度ずつで、射撃は仰角+55〜+70度の範囲で行われた。
射撃に要する人員は19名で、射撃指揮官1名と射撃要員18名で編制され、1発の発射に要する時間は約10分であった。
この60cm臼砲用に最初に製作された弾丸は、2,511mm長の重コンクリート貫通弾で、重量は2,170kg、弾丸の中には280kgの炸薬が収められていた。
チャージ4装薬を用いた場合の砲口初速は220m/秒で、最大射程はチャージ1装薬使用時で2,840m、チャージ4装薬では4,320mとなっていた。
1942年に入ると、射程の延伸を図って開発が進められていた1,991mm長の軽量弾丸が登場した。
この弾丸は軽コンクリート貫通弾と呼ばれるもので、重量は1,700kg、中に収められた炸薬量は220kgで、チャージ5〜9装薬を用いて砲口初速283m/秒、チャージ5装薬使用時の最大射程は4,260m、チャージ9装薬を用いた場合の最大射程は6,640mであった。
弾丸は命中角度にもよるが、大きな角度で着弾した際には2.5m以上の強化コンクリートを貫通することが可能だったといわれる。
貫通した弾丸は閉鎖された空間内部で爆発するため、その威力は極めて大きかった。
一方、ゲレート041の主砲である54cm臼砲は全長7,108mm、砲身内長6,240mmで、ゲレート040の60cm臼砲と比べて約22cm長く、重量も2.35t増加したが、当初の予定通りゲレート040の砲架にそのまま搭載された。
砲の俯仰角は0〜+70度、左右の旋回角は各4度ずつで、射撃は仰角+58〜+70度の範囲で行われた。
チャージ6装薬を用いた場合の砲口初速は378m/秒で、最大射程はチャージ1装薬使用時で4,840m、チャージ6装薬では10,060mに達し、ゲレート040に比べて大幅に射程が延伸されたことが分かる。
また弾丸の貫通力も強化コンクリートで3〜3.5mと、ゲレート040に比べて威力も大幅に向上していた。
射撃要員はゲレート040の18名から15名に減少しており、1発の発射に要する時間は約10分で変わらなかった。
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+戦歴
当初、フランスの要塞線マジノ・ライン攻略を目的として開発されたカールであったが、実戦化に手間取ったため、1940年5〜6月のフランス侵攻作戦には参加できず、部隊配備が開始されたのは1941年になってからであった。
1941年1月3日付で、最初のカール装備部隊である第833砲兵中隊が編制された。
続いて4月2日には第833重砲兵大隊に組織が拡大されて、大隊本部と本部中隊、第2中隊が編制された。
これに従い、先に新編された第833砲兵中隊は第833重砲兵大隊の第1中隊に改編された。
1941年4月14日にOKHは、当時計画していたソ連侵攻作戦(Unternehmen Barbarossa:バルバロッサ作戦)にカールを投入することを決めた。
第833重砲兵大隊第1、第2中隊はそれぞれ2両のカールを装備しており、いずれも中央軍集団の傘下に配備され、第1中隊用として60発の弾薬が第17軍に対して送られ、同様に第2中隊用として36発の弾薬が第4軍に対して送られた。
第1中隊は第295歩兵師団に配属されて、バルバロッサ作戦が開始された6月22日にレンブルクでソ連国境を越えた。
一方、第2中隊はブレスト・リトフスク間で国境を越えソ連軍に対して射撃を行ったが、カール第3号車は4発を射撃した後の5発目、第4号車は4発目の射撃時にそれぞれ砲身に弾丸が詰まってしまい、第4号車は6月22日の午後に修理が終わり射撃を再開したが、第3号車が再び射撃可能となったのは23日に入ってからであった。
しかし、侵攻開始から2〜3日後には前線から後方に下げられてしまい、6月24日付の報告書によると、第2中隊のカール2両はベルゲンの訓練場に置かれているとしている。
1941年8月6日には、第833重砲兵大隊は牽引式の29口径21cm臼砲Mrs18に装備を変更しており、8月10日に東部戦線に再び送られたが、この時点ですでにカールは装備していなかった。
カールが再び戦闘に投入されたのは、クリミア半島の要衝として知られるセヴァストポリ要塞攻略戦の時である。
カールを手放して東部戦線で戦っていた第833重砲兵大隊は、1942年2月18日付でカール3両を装備するカール中隊を新編するため人員の抽出を命じられた。
3月4日にはカール中隊はベルゲンから、南方軍集団傘下の第11軍に配備されるために東部戦線への移動を開始した。
4月11日に第11軍からカール中隊に説明された作戦要領によると、組み立て地点は前線より20km後方に置き、射撃地点への移動は前夜に行うこと、射撃地点に着いたら偽装を施して待機することとされていた。
4月18日にカール3両はママスカフ南方の射撃位置に到着し、地図上の識別点である151地点から東に400m、さらに東に2.5km、南に1.5km離れた地点でそれぞれ待機に入った。
いずれも射撃地点は10〜15m幅とされ、この部分の地面は3m掘り下げられた。
5月20日に第11軍から送られた報告書によると、カール用として重弾72発、軽弾50発を陣地に準備したとしており、5月25日付の第54軍団からの報告書では、60cm臼砲装備のカール3両がマキシム・ゴーリキー、バスチオン両砲台に対して射撃を行ったとしており、6月2〜6日にかけて18発、7日に54発の重弾を発射し、8〜13日にかけて軽弾50発を発射したと伝えている。
6月27日に第306砲兵コマンドから出された報告書では、セヴァストポリ要塞攻略中に得た捕虜の話として、ドイツ軍の急降下爆撃機の攻撃はさほどのものではなかったが、カールの射撃は極めて破壊力が大きく、マキシム・ゴーリキー砲台は直撃弾で破壊され、バスチオン砲台に対する射撃は外周のコンクリートを全て破壊したとしている。
6月13日には重弾29発、軽弾50発が送られてきたが、これは第132歩兵師団に対する支援射撃を目的としたもので、6月30日に軽弾50発を、7月1日に重弾25発をそれぞれ発射した。
セヴァストポリ要塞陥落後の7月19日に、第833重砲兵大隊は休養のためにヒラースレーベンへの帰還命令が出され、東部戦線を後にした。
本国への帰還命令が出される前の7月7日、第833重砲兵大隊はカール1両もしくは2両によって新たなカール中隊を編制することを命じられた。
この命令により誕生したのが第628砲兵中隊で、1942年8月15日付で編制された。
同中隊に配備されたカールは2両で、加えてIV号弾薬運搬車4両、輸送用トレイラー2セットと人員が第833重砲兵大隊から抽出された。
この配備前の7月24日には、3両のカールがオーバーホールのために前線から本国に引き上げられている。
第628砲兵中隊新編に先立つ7月22日、OKHは同中隊を北方軍集団に配備することを決めた。
これは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)攻略を目指して、当時計画されていた「ゲオルグ作戦」に投入するためであり、8月22日の時点で第628砲兵中隊のカールは3両に増強されていた。
第628砲兵中隊のカールが全て前線に到着したのは9月2日であったが、すでにレニングラードを攻略することは不可能な状態となっていたため、戦闘には参加せずに待機に入った。
10月18日にOKHは、第628砲兵中隊をライプツィヒに派遣するように第11軍に命じたが、翌日、第11軍は反撃にカールを投入するため派遣はできないとの意見を送り、10月19日に遅延を期待していたゲオルグ作戦を発動することを決めた。
しかし、10月21日の報告書ではカールがまだ所定の位置に布陣していないとしており、結局ゲオルグ作戦は中止され、10月末に新たに「フューアーザウバー作戦」と名を変えカール2両を投入し、それぞれ150発ずつの弾丸を発射することが予定された。
これに従い、10月24日〜11月10日にかけて弾薬299発が届けられた。
残るカール1両は予備とされ、4両目が派遣される計画も立てられたがこれは実現せずに終わった。
結局、ゲオルグ作戦と同様にフューアーザウバー作戦も発動されること無く終わり、1942年12月4日に第628砲兵中隊に対してライプツィヒへの帰還命令が出され、カールは戦闘参加の機会が無いまま前線を後にした。
その後1943年5月4日、第628砲兵中隊を基幹としてカール装備の重砲兵大隊を新編せよとの命令が下された。
これにより編制されたのが、第628重砲兵大隊である。
同大隊は1943年5月15日付で大隊本部、本部中隊、第1、第2中隊から編制され、カール5両(内1両は予備)が配備された。
この内、第1中隊は第628砲兵中隊を改編したもので、第2中隊は新たに編制された。
第628重砲兵大隊の行動の詳細は不明だが、7月13日に第18軍が北方軍集団に提出した報告書によると、同大隊をレニングラード南方のオラニエンバウマー奪取に投入したいとあり、この時点ですでに東部戦線に派遣されていたことは間違いない。
しかし、8月8日に第628重砲兵大隊は本国への帰還が命じられたことで、またもや本国に帰還した。
これは、カールから牽引式21cm臼砲への装備改変を目的としたものであり、8月29日に「第626重砲兵大隊」と改称され、9月10日に2個中隊に対し、それぞれ4門の牽引式21cm臼砲Mrs18が配備された。
同日、新たにカール機材コマンドが編制され、第628重砲兵大隊が装備していたカールが譲り渡されている。
同隊は、1944年6月2日に「特殊機材コマンド第628重砲兵大隊」と呼称を変え、その後ワルシャワ蜂起鎮圧に投入されることになる。
1944年8月13日、ドイツ陸軍参謀本部は54cm臼砲を装備するカール1両と支援車両、弾薬250発を備える新たな砲兵中隊の編制を命じた。
これは、ポーランドの首都ワルシャワで8月1日に勃発した武装蜂起を鎮圧するために、展開していた第9軍への支援を目的としたもので、翌日には第638砲兵中隊が新編され、8月16日にはユーターボークから同中隊が装備するカール1両と、18tハーフトラック(Sd.Kfz.9)2両、4.5tトラック4両が貨車に載せられてワルシャワへと旅立った。
第638砲兵中隊は8月17日にワルシャワ西駅に到着し、遅れて18日には弾薬を載せた貨車も到着した。
同中隊のワルシャワでの戦闘状況は不明だが、8月24日にOKH砲兵総監はワルシャワでカールは非常に成功を収めたとしており、ドイツ陸軍参謀本部はカールを至急フランスの首都パリに送るべしとの命令を出した。
これに伴い、8月26日にカールを装備する第428砲兵中隊が新編され、パリへと旅立つ準備に取り掛かった。
しかしワルシャワの戦局はそれを許さず、9月6日に同中隊は中央軍集団への配備が命じられ、9月7日午後には早くもワルシャワ西駅に到着している。
ワルシャワ蜂起鎮圧に投入された第638砲兵中隊が装備するカール第4号車は、修理が必要なためにユーターボークに送り返すことになり、9月22日の朝にはユーターボークに帰還した。
これにより、4両目のカールを第638砲兵中隊に派遣する計画が立てられたが、カールが届けられないまま9月28日に、第638砲兵中隊はハンガリーの首都ブダペストへの移動が命じられ、カール未装備の状態で移動を行った。
その後、カール第5号車がブダペストの第638砲兵中隊に送られ、10月10〜11日にかけて第428砲兵中隊もワルシャワからブダペストに移動してきた。
しかし戦闘に投入されること無く、両中隊は10月19日にワルシャワへの帰還命令が出され、10月28日にリッツマンスタット駅に到着した。
11月6日付で両中隊はユーターボークへの帰還命令が下され、本国へ帰還した。
なお、完成が遅れていたカール第7号車は1944年9月にようやく兵器局の装備品一覧に掲載され、これで発注された7両のカールが全て揃ったことになる。
1944年9月29日時点のカールの配備状況を見ると、
第1号車は第428砲兵中隊に配備されていた。
第2号車はユーターボークでオーバーホール中で、完了は10月12日を予定していた。
第3号車は14日前の射撃試験で砲身が壊れたため修理中で、完了予定は不明であった。
第4号車は第428砲兵中隊に配備されていた。
第5号車は第638砲兵中隊に配備され、ブダペストに展開中であった。
第6号車はオーバーホール中で、完了には後20日程度要する見込みであった。
第7号車は射撃試験に供されており、エンジンが不調のため、実戦参加は1945年4月以降でなければ不可能と見込まれた。
この時点で第1、第4、第5号車は新型の長砲身54cm臼砲ゲレート041に換装しており、第7号車は最初から54cm臼砲を搭載していた。
ユーターボークに帰還した第428砲兵中隊は、カールの第1号車と第4号車を装備していたが、命令によりこれは60cm臼砲を備える第2号車と第6号車に改変し、当時西部戦線で計画されていた大反攻、「ラインの守り作戦」(Unternehmen
Wacht am Rhein)に投入されることになった。
1944年11月20日付で、同中隊にはカール2両と18tハーフトラック3両、4.5tトラック7両、3tトラック1両、軽車両1両、サイドカー付き重オートバイ2両が配備されることが決まり、12月7日に全車両が引き渡されている。
そして12月10日には、ラインの守り作戦への投入のためブランケンハイムへの移動が命じられた。
一方、第638砲兵中隊に対しても11月9日にラインの守り作戦への参加が命じられ、12月16日にユーターボークからグレーベングロイヒへの移動が命じられた。
同中隊はカール第1、第5号車に加え、12月20日には第4号車が追加配備され、12月26日にはグレーベングロイヒへの移動を終え、12月29日から戦闘に投入されたが、第428砲兵中隊共々戦闘状況の詳細は不明である。
1945年1月6日、戦闘爆撃機による攻撃で被害を被ったカール第2号車がユーターボークに帰還し、1月30日には第5号車もユーターボークに戻ってきた。
第6号車は1月19日まで前線に留まっていたが、その後の行動は不明である。
1944年11月24日にユーターボークに帰還したカール第4号車は、主砲を54cm臼砲から60cm臼砲に再換装すると共に、エンジンのオーバーホールや改良が行われ、併せて破損した誘導輪も、第7号車から取り外されて装着された。
1945年2月3日付の報告書によると、戦闘で受けた損害のためユーターボークに戻されていたカール第2号車にオーバーホールが行われ、同時に第1号車の部品を用いて修理が行われた。
2月12日には、第638砲兵中隊に対してユーターボークへの帰還命令が下され、再装備が行われた。
そして3月11日には、レマーゲン鉄橋を巡る戦いへの参加が命じられ、3月20日付の報告書では14発の弾丸を発射したとしている。
4月11日付の報告書によると、第428砲兵中隊はベルリンから約50km南方の地点に展開してソ連軍との戦闘に投入されたとあり、これがカールの最後の戦闘になったと思われる。
結局、カールは7両とも大戦末期に連合軍に鹵獲されたようで、第1、第3、第4、第6号車はソ連軍、第2、第5、第7号車はアメリカ軍の手に渡ったといわれている。
この中で現存しているのは、ソ連軍が鹵獲した内の1両(資料によって第1号車と第6号車の両説ある)のみであり、現在クビンカの兵器試験所博物館に保管されている。
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<重自走臼砲カール 第1号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 126.0t
乗員: 18名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB503A 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 10km/h
航続距離: 42km
武装: 11.5口径54cm臼砲ゲレート041×1
装甲厚:
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<重自走臼砲カール 第2号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 124.0t
乗員: 21名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB503A 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 10km/h
航続距離: 42km
武装: 8.44口径60cm臼砲ゲレート040×1
装甲厚:
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<重自走臼砲カール 第3、第4号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 124.0t
乗員: 21名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB507C 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 6km/h
航続距離: 60km
武装: 8.44口径60cm臼砲ゲレート040×1
装甲厚:
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<重自走臼砲カール 第5号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 126.0t
乗員: 18名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB507C 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 6km/h
航続距離: 60km
武装: 11.5口径54cm臼砲ゲレート041×1
装甲厚:
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<重自走臼砲カール 第6号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 124.0t
乗員: 21名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB503A 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 6km/h
航続距離: 42km
武装: 8.44口径60cm臼砲ゲレート040×1
装甲厚:
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<重自走臼砲カール 第7号車>
全長: 11.37m
全幅: 3.16m
全高: 4.78m
全備重量: 126.0t
乗員: 18名
エンジン: ダイムラー・ベンツMB503A 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 580hp/1,850rpm
最大速度: 6km/h
航続距離: 42km
武装: 11.5口径54cm臼砲ゲレート041×1
装甲厚:
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<参考文献>
・「パンツァー2003年5月号 兵器イラストレポート(1) 109人のキャラバン カール自走臼砲」 吉原幹也 著 アル
ゴノート社
・「パンツァー2013年5月号 ブレスト・リトフスク要塞ついに陥落」 松井史衛 著 アルゴノート社
・「パンツァー2013年2月号 セバストポリ要塞攻防戦」 松井史衛 著 アルゴノート社
・「パンツァー2003年6月号 60cm自走臼砲カール」 伊藤裕之助 著 アルゴノート社
・「ピクトリアル 第2次大戦ドイツ自走砲」 アルゴノート社
・「ピクトリアル ドイツ軍自走砲」 アルゴノート社
・「グランドパワー2016年1月号 ドイツIV号戦車(5) 輸出車輌/派生型&現存車輌」 寺田光男 著 ガリレオ出
版
・「第2次大戦 ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939〜43」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「グランドパワー2004年6月号 60cm自走砲カール」 後藤仁 著 ガリレオ出版
・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車輌」 ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(1) 装軌式自走砲:1917〜1945」 デルタ出版
・「ジャーマン・タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画
・「特殊戦闘車両」 W.J.シュピールベルガー 著 大日本絵画
・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車名鑑
1939〜45」 コーエー
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