+概要
1941年末にT-60軽戦車の量産に漕ぎ着けた後、N.A.アストロフら第37(自動車)工場の軽戦車開発陣は火砲開発陣と協力して引き続き、少しでも強力な軽戦車を完成させるため懸命の努力を開始した。
最初の試みは、V.G.グラービン技師が率いるゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の第92(砲兵)工場設計局が開発した37mm戦車砲ZIS-19をT-60軽戦車に搭載するプランで、1942年1月初旬に着手された。
37mm戦車砲ZIS-19は、グラービン設計局が海軍の魚雷艇搭載用に開発した半自動閉鎖機構を持つ速射砲で、66.7口径長、重量450gの徹甲弾を砲口初速915m/秒で発射した。
また同砲は高い発射速度を発揮できるのも特徴で、最大で15発/分だった。
その上装甲貫徹力についても、それまでのT-26軽戦車やBT-5/7快速戦車が装備していた45mm戦車砲を上回っており、射距離300mで50mm、500mで41mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた。
しかし結局、37mm砲弾のストックと供給上の問題を早急に解決することが難しい(生産態勢が整わなかった)ため、閉鎖機構や砲架などの一部システムをZIS-19から採り入れて、発射速度や操作性の改善を図った45mm戦車砲ZIS-19BM(後に20Kmと改称)を採用することとし、あらためてこれをT-60軽戦車に搭載する作業がZIS-19BMの完成した1942年3月から4月にかけて行われた。
この45mm戦車砲ZIS-19BMは46口径長で、徹甲弾を使用した場合の砲口初速は757m/秒、射距離300mで43mm、500mで38mmのRHAを貫徹することができた。
またこの砲の採用に併せて、新型の鋳造防盾(装甲厚60mm)を持つ容積を拡大した砲塔が製作され、T-60軽戦車の車体に搭載された。
この新型防盾は装甲厚こそ厚いものの、武装配置形式は右側に45mm戦車砲ZIS-19BM、左側に7.62mm空冷機関銃DTを装備し、その間にTMF直接照準機を配置するというT-40水陸両用軽戦車以来の形式を踏襲したものであった。
これらの操作と砲塔の旋回は、唯一の砲塔要員たる車長が行うようになっていた。
1942年4月5日までに完成された、この45mm戦車砲ZIS-19BM装備の新型砲塔を搭載するT-60軽戦車は「T-60-2」または「062」と呼称されたが、第37工場の軽戦車開発陣はこの新型砲塔を搭載し、さらに装甲と機動性能を改善した新型車体を持つ「T-45」という呼称の軽戦車の開発を企図した。
N.A.アストロフら開発陣が当初計画していたT-45軽戦車の開発コンセプトは、45mm戦車砲装備の1名用砲塔を持ち、車体装甲厚は25〜45mmながらT-34中戦車のように傾斜装甲を採り入れることで防御力を中戦車並みとし、ZIS-80ディーゼル・エンジンを搭載するというものであった。
しかし戦線の状況は1942年春になっても安定せず、一刻も早くより強力な戦車を供給する必要性が優先され、開発陣が狙ったコンセプトはやや下方修正され、新たに設計するとされた車体もT-60軽戦車までに到達したものをベースにしてこれを拡大(車体長、幅共に拡張し、転輪はT-60軽戦車の片側4個から5個に増えた)、さらにパワープラントについても、既存のトラック用のもの(ガソリン・エンジンと変速・操向機)を多用するものとされた。
そして、45mm戦車砲装備で大型化が見込まれた車体に相応しい機動力を発揮させるため、GAZ-202 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力70hp)を2基装備して、それぞれに変速・操向機も組み合わせて左右前部の起動輪を別々に駆動させるシステムを採用することとした。
こうして急ぎ完成された新型軽戦車は、1942年初夏に「T-70軽戦車」(Legkiy Tank T-70)としてソ連軍に制式採用され、T-60軽戦車と並行してゴーリキー自動車工場(GAZ)で量産に入った。
量産当初のT-70軽戦車は上面のみ圧延鋼板を溶接し、主砲マウント部を除く側面部が丸みを帯びた形状の鋳造砲塔を採用していたが、これは鋳造技術を保持する工場に生産の一部を依存しなければならないことに繋がるため、すぐに圧延鋼板を多角形に組み合わせて溶接した構造の砲塔に替えられた。
またT-60-2軽戦車とは防盾の武装配置が変更されており、TMF直接照準機は左端に、7.62mm機関銃DTは中央部に移されている。
車体の装甲厚は前面が35〜45mm、側/後面が16mmで、傾斜装甲の効果と合わせて前面の防御力のみはT-34中戦車に匹敵するものとなっている。
やがて、それぞれ別個のエンジン2基を左右起動輪の駆動に用いる方式は生産性・整備性を損なうものとして、GAZ-203 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力85hp)をタンデム式に連結して一基のエンジンのようにし、一組の変速・操向機を組み合わせた新型パワープラントを採用したT-70M軽戦車が1942年9月より量産されるようになった。
このT-70M軽戦車のパワープラントは、T-60軽戦車と同様に車体右前部〜中央部に配置されており、車体前面装甲の右下部に変速・操向機点検用パネルが配置されていた(左右にエンジンと変速・操向機を配置したT-70軽戦車ではこれが左右両側にあり、外見上のT-70M軽戦車との識別点となっている)。
また、T-70M軽戦車では履帯がT-40水陸両用軽戦車以来の260mm幅のものから、300mm幅のものに替えられている。
その他の細かい形態上の変更点としては、およそ1942年中に量産されたT-70M軽戦車では車体前面の操縦手用ハッチに付属する視察装置が、スリットに分厚い防弾ガラスのヴァイザーを取り付けたものであったのに対し、1943年以降に量産されたタイプは丸みを帯びて成形された操縦手用ハッチの膨らみの頂部に、左右上下動が自在なイギリス製のMk.4ペリスコープを取り付けたものになっており、両者を区別することができる。
このMk.4ペリスコープは元々は、ヴァレンタインMk.III歩兵戦車などイギリスからの供与戦車に装備されていたものであるが、意外に視察範囲が広く破損しても交換が車内から容易に行えたため、戦後のソ連軍戦車にも多用されている。
T-70軽戦車シリーズは1942年中にT-70軽戦車とT-70M軽戦車合わせて4,883両、1943年にT-70M軽戦車が3,343両生産されており、総生産数は8,226両に達する(生産終了は1943年10月)。
T-70軽戦車シリーズが戦場に姿を現したのは1942年夏〜秋にかけてで、同年11月のスターリングラードを巡るソ連側の大反攻「天王星作戦」(Operatsiya
Uran)では、ドン川を超えてイタリア・ルーマニア軍の防御陣地を突破し、ドイツ第6軍の背後を吹雪の雪原を衝いて進撃したソ連軍戦車部隊の先頭に、T-34中戦車などと共にT-70軽戦車の雄姿があった。
また、翌43年7月のクールスク地区におけるドイツ軍の大攻勢「城塞作戦」(Unternehmen Zitadelle)においても、北部・南部の両戦線においてT-34中戦車やKV-1S重戦車、レンドリース供与のM3中戦車と共にドイツ軍戦車と砲火を交えたのである。
このように独ソ戦中期における重要な戦場で活躍したT-70軽戦車シリーズであったが、登場の当初から評価は芳しくなかった。
45mm戦車砲を装備し、前面だけでも中戦車並みの装甲防御力を持つT-70軽戦車は、火力・装甲共に貧弱であった従来の軽戦車に比べれば確かにマシにはなったものの、ドイツ軍の初期の戦車と比べても決して優位に立てるものではなく、犠牲と引き換えに兵力の穴を埋めるものに過ぎなかったのである。
しかしながら、1943年までソ連軍の各戦車旅団では1/3程度の戦車がT-70軽戦車またはT-70M軽戦車で占められており、1945年に至っても戦線で姿が見られた。
また、1944年からソ連軍指揮下に再建されたポーランド人民軍戦車隊にもT-70M軽戦車が供与され、1945年4月のベルリン前面のオーデル川における橋頭堡キュストリンを巡る戦闘に参加している。
T-70軽戦車シリーズの派生型としては、T-70軽戦車のシャシーとコンポーネントを流用し、上部に密閉式戦闘室を設けて39.3口径76.2mm対戦車砲ZIS-3Shを搭載したSU-76対戦車自走砲、ベースをT-70M軽戦車に代え戦闘室をオープントップ式に改めたSU-76M対戦車自走砲、T-70M軽戦車のシャシーを流用し、73.8口径37mm対空機関砲61Kを装備する電動旋回式のオープントップ砲塔を搭載したZSU-37対空自走砲などが開発されている。
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