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T-64中戦車





●オブイェークト430中戦車/オブイェークト140中戦車

ソ連軍は1950年代初頭、第2次世界大戦以来の主力MBTであったT-34中戦車の後継として56口径100mmライフル砲D-10Tを搭載するT-54中戦車を完成させ、戦後第1世代MBTのデビューを飾らせた。
そしてすぐに火力、防御力、機動力の三大要素面で、一層画期的な性能を目指した戦後第2世代MBTの開発に着手した。

ソ連軍機甲局科学技術検討委員会はこの課題の追求のため新たに技術試験監督局を設置し、次世代中戦車が備えるべきスペックの検討、およびそれに基づく生産企業・開発陣(各設計局)への試作発注を行うこととした。
技術試験監督局はこの次世代中戦車の開発を第75ハリコフ・ディーゼル工場の第60設計局と、第183ウラル貨車工場(UVZ)の第520設計局に発注した。

第60設計局(主任技師A.A.モロゾフ)は、第2次世界大戦における最優秀中戦車の1つといわれるT-34中戦車を生み出したハリコフ機関車工場(KhPZ)の第520設計局を前身としていた。
KhPZは侵攻してくるドイツ軍から逃れるため1941年10月にウラル山脈東部のニジニ・タギルに疎開し、その地にあったUVZと統合されて「第183ウラル戦車工場」となりT-34-85中戦車、T-44中戦車などの開発・生産を行った。

第2次世界大戦が終結した1945年、ウラル戦車工場はUVZとKhPZに再分割されてKhPZはハリコフに戻り、「第75ハリコフ・ディーゼル工場」として再建された(1957年にV.A.マールィシェフ工場に名称変更)。
1951年、ハリコフ・ディーゼル工場にモロゾフ主任技師が統括する第60設計局が創設され、1966年にはハリコフ機械製造設計局(KhKBM)に改組された。

一方ニジニ・タギルに所在するUVZの第520設計局(主任技師L.N.カルツェフ)は、ウラル疎開時のKhPZの施設を引き継いだもので第60設計局とは兄弟関係にあり、KhPZからT-54中戦車の開発を引き継いで改良型のT-54A中戦車やT-55中戦車を完成させている。
いわばT-34中戦車を生んだ後に分かれた2つの潮流が、次世代中戦車の開発で競い合うことになったのである。

技術試験監督局は第60設計局と第520設計局の双方に対し、「攻撃力、防御力、機動力の全ての面でT-54中戦車を上回り、なおかつ車体サイズと重量はこれを上回らないこと」を次世代中戦車開発の第一の指針として示した。
そして火力面については、第9火砲工場設計局のF.F.ペトロフ主任技師の統括下、「ラドガ計画」の名の下に開発された新型戦車砲である100mmライフル砲D-54シリーズを新型中戦車に搭載するものとしていた。

この100mmライフル砲D-54は、T-54中戦車が搭載する100mmライフル砲D-10Tよりも高初速でAPDS(装弾筒付徹甲弾)を発射することができ、砲身先端に多孔式の砲口制退機を取り付けていたのが特徴の1つである。
また戦車砲そのものの威力増大と共に、技術試験監督局は弾薬搭載数の増加も設計指針として提示していた。

これは航続距離の延伸(路上で550〜600kmへ)と合わせ、長距離機動作戦を想定した継戦能力の向上を狙ったものである。
ちなみにT-54中戦車の100mm砲弾搭載数は34発、航続距離は路上で約400kmであった。
機動力向上の要求については車体の大きさと重量がT-54中戦車並みであるから、それ以上の性能アップを図るためにエンジン出力の増大と、足周りの駆動抵抗の減少を追求することが必要であった。

しかし他の要求仕様(強力な戦車砲搭載と防御力増大)を考えるなら、当然機関室の容積を一層切り詰める必要が予想され、並大抵のことでは各要求仕様との整合を図ることができないものであった。
第60設計局と第520設計局はそれぞれ1952年に要求仕様に基づく基本プランをまとめ、その後2年以内に設計完了・木型製作にかかることになった。

第60設計局が提案したのは「オブイェークト430」およびその火力・装甲強化タイプである「オブイェークト430U」、第520設計局のものは「オブイェークト140」と呼称されるものであった。
試作中戦車はオブイェークト430は1958年、オブイェークト140は1957年に完成し各種試験に供された。
結局、第60設計局のオブイェークト430が次世代中戦車として開発を継続すべき本命と見なされ、第520設計局のオブイェークト140は不採用となった。

その理由は今のところ不明であるが、大戦中以来の功績者であるモロゾフ主任技師の政治力が影響したことも考えられる。
第520設計局のオブイェークト140は戦闘重量37.6tとT-54中戦車の36tよりやや重く、伝統的なV型ディーゼル・エンジンをベースにパワーアップを図ったV-38 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)を搭載して路上最大速度64km/h、路上航続距離400〜500kmの機動性能を発揮できた。

武装は2軸砲安定化装置2E18「メーテル」を装備する62口径100mmライフル砲D-54TSと、副武装として7.62mm機関銃SGMTを2挺装備し、装甲防御力も装甲厚が車体前面で100mm、砲塔前面で240mmで避弾経始をより追求した強力なものだった。
足周りはやや大きめな直径のアルミ鋳鋼製転輪を片側6個装備するなど、オブイェークト430よりはT-54中戦車のスタイルを素直に発展させたオーソドックスなものながら、性能的に不足な点は無く完成度が高かった。

ただし、対抗馬のオブイェークト430が装備するステレオ(基線長方式による二重像合致)式測遠・照準機を持たず、従来型のスタジア・メトリック式測遠・照準機を持っていた。
これは照準環内の目盛と目標物の見かけ上の高さを比較して射距離を読み取るシステムで、中射程までは素早く操作でき機構も単純だったが、ステレオ式等に比べて遠射程における測定精度が著しく劣るのが難点で、ソ連軍MBTが西側MBTに射撃精度で一歩譲る原因ともなっていたものである。

ただし、この点はステレオ式システムを装備すれば改善できるものである。
オブイェークト140が不採用になった後、第520設計局のカルツェフ主任技師はこれを不服とし、再考を求める異例の書簡をソ連共産党中央委員会およびソ連閣僚会議に提出している。
結局この異議申し立てによっても不採用の決定は覆らなかったが、第520設計局にはT-55中戦車をベースに55口径115mm滑腔砲U-5TSを搭載した、暫定的な火力強化型中戦車T-62の開発が割り当てられた。

T-62中戦車は1961年にソ連軍に制式採用されて1970年代まで量産されたが、これが結局T-64中戦車の完成の遅れのために一時期、事実上のソ連軍主力MBTの座を担ったのは皮肉な話である。
そしてオブイェークト140は、1970年代に既存の技術をベースに開発された125mm滑腔砲搭載のT-72戦車のベースにもなったのである。

次世代中戦車の本命となった第60設計局のオブイェークト430シリーズは、当初のプランでは100mmライフル砲D-54TS装備の通常型と、122mmまたは130mmライフル砲搭載で装甲厚を大幅に強化したオブイェークト430Uの二本立ての計画となっていた。
1958年までに2両が製作されたオブイェークト430は技術試験監督局の要求仕様通りに製作されており、装甲厚は車体前面で120mm、砲塔前部で240mmであった。

車体、砲塔とも徹底した避弾経始とコンパクト化が追求されており、36tの戦闘重量で当時運用されていたT-10重戦車並みの防御力を実現していた。
耐弾試験では、射距離1,000mからT-54中戦車の100mmライフル砲D-10Tの発射する徹甲弾に対して充分な耐弾性を示した。

煙幕展張装置としては、T-54中戦車以来採用されてきた排気ガス・マフラー内に燃料を噴射して発煙させるTDAシステムを備えた。
また少しでも装甲を重要部の防御力の強化に振り向けるために、T-54中戦車やその先駆者T-44中戦車以来行われてきた手法である機関室容積の削減と、それによる後方部分の装甲板面積の節約がより徹底して行われた。

T-44中戦車の開発時には、V型ディーゼル・エンジンを横向きに搭載するという斬新な発想で機関室の全長と容積を削減したが、オブイェークト430では、変速機構ユニットの上部に載せるようにエンジンを配置するという大胆な手法でさらに機関室容積の削減を図った。
ただしこの手法では既存のエンジンを用いることができないので、新規に4TPD 水平対向4気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力580hp)が開発された。

水平対向エンジンとは、シリンダーが水平に寝かされてピストンが向き合うように圧縮爆発を繰り返すもので、コンパクトで出力があり、特に機関室の高さが低くできるのが特徴である。
この4TPDエンジンは途中で改良が加えられ5TDエンジン、そして今日T-80UD戦車にも搭載されている6TDエンジンに発展したが、デザインの基となったのは、第2次世界大戦中にアメリカからレンドリース供与されたフェアバンクス・モース社製の蒸気機関車のエンジンである。

変速・操向機等はT-54中戦車以来のものを改修して用いたが、T-54中戦車で使用されていた大型のフリクション(はずみ車)に代わるシステムを組み込むのに設計上苦労したようである。
いずれにしろ、これらを組み合わせたパワートレインは容積わずか2.6m3(車内容積の25%)となり、ディーゼル・エンジンを用いる戦車の動力システムとしては当時としては画期的にコンパクトなものとなった。

しかしながらこの新機軸の導入が、T-64戦車シリーズに長年に渡って取り付いた不具合、信頼性の欠如、整備のやり難さといった災いの元となった。
足周りについては、1930年代以来のBT快速戦車やT-34中戦車から採用していた大直径転輪を止め、鋼リム式の小直径転輪(片側6個)を採用したのが最大の特徴である。

この転輪はT-54中戦車までの転輪に比べて直径が小さいだけではなく、厚みも相当減らされていた。
これは転輪そのものの重量を軽くすると共に、駆動時の各種の抵抗を低減することも狙ったものである。
また小直径転輪は、不整地走行時における1輪当たりの上下モーメントが大直径転輪よりも少なくて済み、サスペンションへの負担が少ない上に滑らかで安定した機動が可能になることも重要な利点と見られた。

鋼リム式転輪の基本的な構造は、独ソ戦初期のKV重戦車や大戦後期のドイツ軍戦車に採用されたものと同じように緩衝ゴム内蔵式であった。
転輪の外周にゴムタイアを装着した転輪よりもゴムの磨耗は少ないが、走行時の騒音が激しいのが最大の難点であった。

この転輪と共に片側3個の上部支持輪、後部の星型起動輪、転輪と同型の誘導輪に、当初はドライ・シングルピン式の高マンガン精密鋳鋼製履帯が掛けられる方式であった。
しかしより走行時の抵抗を減らすために、独ソ戦中にアメリカからレンドリース供与されたM4中戦車のものを参考に開発された、ウェット・ダブルピン式の組み立て履帯がすぐに導入された。

これは制式採用されたT-64中戦車から今日のT-80戦車シリーズ、一部のT-90戦車改修型にまで使用されているものである。
サスペンションはトーションバー(捩り棒)方式で、前部の第1、第2転輪と後部の第6転輪には油気圧式のダンパーも取り付けられていた。

以上の足周りシステムによりオブイェークト430は路上最大速度55〜60km/h、路上航続距離600kmの機動性能を発揮することができた。
主武装は砲塔の旋回と俯仰角のジャイロ式2軸安定化装置2E18「メーテル」を付属させた100mmライフル砲D-54TS、副武装は同軸機関銃および車体固定機関銃に7.62mm機関銃SGMT、それに砲塔上面右側の装填手用ハッチのマウントに対空用の14.5mm重機関銃KPVTを装備した。

搭載弾薬は100mm砲弾が50発、7.62mm機関銃弾が3,000発、14.5mm重機関銃弾が300発である。
FCS(射撃統制システム)は遠距離射撃に長けた西側の新型MBTに対抗し得るよう、ステレオ式測遠・照準機TPD-43Bを装備した。
これにより、射距離1,500〜2,000mにおける命中精度を向上させることを狙った。

砲塔内配置はT-34-85中戦車以降にソ連軍で導入された3名式で、車長と砲手は主砲の左側、装填手が右側に位置した。
狭い戦闘室内で操作性を向上させるため主砲の撃ち空薬莢はブリーチから排莢後、トレイによって自動的に砲塔後部上面の小ハッチから車外に放り出されるシステムが採用されていた。
このシステムは後に、115mm滑腔砲を搭載するT-62中戦車でも採用された。

第60設計局のもう1つのプランであるオブイェークト430Uは122mmまたは130mmライフル砲を装備し、車体前面装甲厚を160〜180mmに強化することを企図した事実上の重戦車型であった。
本車は既存のT-10シリーズ等の重戦車を火力、防御力、機動力の全ての面で完全に凌駕することを狙ったプランであるが、1956年に政府と党の実権を掌握したN.S.フルシチョフ首相が「重戦車不要」の見解を保持していることから、結局本格的に試作車も作られないままプランはお蔵入りとなった模様である。


●T-64中戦車(オブイェークト432)

1958〜59年の間、オブイェークト430はハリコフ近郊の工場付属実験場、そしてモスクワ郊外のクビンカにある第38装甲・戦車技術研究所(38NIIBT)で各種運用試験、T-54/T-55中戦車との比較試験等が実施された。
試験結果は概ね良好で後は制式採用を待つばかりと思われたが、技術試験監督局は改めてオブイェークト430の火力、装甲防御力の見直しを発令するに至った。

それは1959年までにアメリカ軍が、それまでの主力MBTであったパットン戦車シリーズをベースに主に火力を強化したM60スーパー・パットン戦車を採用することが確実になり、また同戦車が採用していたイギリスの王立造兵廠製の強力な51口径105mmライフル砲が西側MBTの標準的な装備になる見込みとなってきたからである。
M60戦車はシルエットこそソ連軍戦車に比べて高かったものの、ステレオ式測遠機を弾道計算機と組み合わせてシステム化した優秀なFCSを装備し、105mm砲の威力を高い精度でバックアップするものとなっていた。

そして車体前面で5.63インチ(143mm)に達する重装甲を持つため、優れた遠射能力と組み合わせればソ連軍MBTのほとんどに対してアウトレンジ戦法を展開することが可能と見られた。
技術試験監督局はオブイェークト430の見直しにおいて、まずM60戦車の105mmライフル砲を凌駕する威力と遠射性能を保証し得ると見られた滑腔砲の搭載を求め、併せて耐弾力強化のため、非鋼材質を組み合わせた複合装甲を車体前面と砲塔前半部周囲に施すことを要求した。

滑腔砲は発射エネルギーが砲弾の腔内旋転で消費されずに、そのままダイレクトに飛翔体(矢型弾)の速度向上に繋げられまた砲身も軽量化できる特徴があることから、ソ連軍では1950年代に対装甲砲(戦車砲および牽引式対戦車砲)として開発が行われてきた。
そして55口径115mm滑腔砲U-5TSが1960年までに実用化され、その戦力化を急ぐためにT-55中戦車の改修型というべきT-62中戦車にこれを搭載し1961年より量産が始められた。

T-64中戦車に導入された複合装甲は、「耐砲弾複合装甲」(プラチヴァスナリャードナェ・コンビニラヴァンナェ・ブラニラヴァーニェ)と称される、6角形のハニカム構造を持つセラミック層や積層ガラス樹脂を圧延鋼板やチタニウム装甲板と組み合わせたもので、軽量な上、対装甲弾の命中エネルギーを拡散して吸収できる装甲素材として1950年代後半より研究され、対戦車誘導ミサイルを主武装とするミサイル戦車シリーズにまず導入が図られようとしていたものである。

第60設計局は2両製作されたオブイェークト430の内の1両を改修ベースとし、滑腔砲搭載と複合装甲導入を盛り込んだ「オブイェークト430M」と称する新規試作プランを立案し、1960年より試作車の製作を開始した。
主砲はT-62中戦車に搭載された115mm滑腔砲U-5TSをベースに、分離薬莢式にした115mm滑腔砲D-68T(2A21)を搭載することとした(「D-68T」とは開発企業である第9火砲工場設計局による開発名称であり、「2A21」とはソ連軍ロケット砲兵局(GRAU)による登録番号である)。

115mm滑腔砲は、ペトロフ技師らが中心になって1950年代初期より進められた対戦車用滑腔砲開発計画「ラピーラ」(長剣)で完成された100mm滑腔砲T-12をベースにして開発され、特に高い威力のHEAT(対戦車榴弾)を発射できるよう口径を115mmに増大させたものである。
オブイェークト430Mに搭載された115mm滑腔砲D-68Tは分離薬莢式とした以外、砲身等基本的な部分はT-62中戦車の115mm滑腔砲U-5TSと同一で同様な弾道性能を持っていた。

装甲貫徹力はAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)を用いた場合、射距離1,000mで300mm程度(直立したRHA(均質圧延装甲板))、HEATの場合射距離に関わらず610mm(同)であった。
自動装填装置は、6ETs10「コルジーナ」(籠)と呼ばれる砲塔底部に回転式トレイを設けて115mm砲弾30発を充填するもので、弾頭は先端を砲塔回転軸の中心に向けて配列し、薬莢についてはトレイ外側に直立させた形で配置されていた。

砲手の操砲計器盤のボタンで選択された弾種はトレイの回転で砲尾下まで運ばれ、可動式ラマーで拾い上げられ、別に拾い上げられた薬莢と共に砲尾に押し込まれるようになっていた。
そして発射後に取り出された空薬莢は、また元の位置に収納されるという複雑な機構であった。
自動装填装置が導入されたのは100mm砲弾より巨大な115mm砲弾の発射速度を低下させないためと、何よりも装填手を省いてオブイェークト430Mの砲塔をコンパクトにするためであった。

しかし、この「コルジーナ」自動装填装置は装填不良になったり乗員を巻き込んだりする事故を多発させたといわれ、「ソ連軍の新型MBTの自動装填装置は人を食う」と西側にまで噂が広がる有様だった。
その他武装面では、同軸機関銃が7.62mm機関銃SGMTからカラシニコフ設計局によって開発された7.62mm機関銃PKTに替わり車体側の固定機関銃が廃止されたことと、前線防空を別途の対空自走砲部隊に集約させるというソ連軍機甲部隊の運用ドクトリンに従って対空用の14.5mm重機関銃KPVTを外したことが主な変更点であった。

搭載する7.62mm機関銃弾は、2,000発となっていた。
パワートレイン関係では、オブイェークト430に搭載された5TD 水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力600hp)の改良型である5TDFディーゼル・エンジン(出力700hp)を搭載し、その結果出力/重量比が19.5hp/tに達したことで路上最大速度70km/hを発揮できた。
これは、1960年代初期のMBTとしては世界最高の速度性能であった。

さらに地形障害をものともしない長距離行動能力を確保するため、T-55中戦車以来の潜水渡渉装置OPVTも装備した。
これは車内および吸気キャブレイター用の送風用パイプタワーと、排気管に取り付ける逆流防止弁から成るもので、乗員による取り付けに10〜15分程度を要した。

これによりオブイェークト430Mは水深5mまでの渡渉が可能となったが、OPVTを使用しなくても水深1.4mまでは渡渉できる能力を有していた。
自動装填装置の導入で乗員が操縦手、車長、砲手の3名となったオブイェークト430Mは「オブイェークト432」と改称され、1964年より増加試作車の生産が限定的に開始されて部隊での運用試験も開始された。

そして1966年末に「T-64中戦車」(Sredniy Tank T-64)として制式採用が決定されるに至ったが、各種の技術面での新機軸を導入したために部隊では運用や整備に戸惑い、また当時、設計者たちの革新的な構想と製作現場での技術力のギャップが大きくなりつつあったソ連工業の実態が本車の運用面での信頼性を乏しいものにして、これが結局足枷となって制式採用が遅れたのである。

T-64中戦車は、1964〜69年の6年間に600〜1,700両が生産されたとされている。
この間、一部の戦車学校や親衛戦車連隊に配備されたが、1960年代中は対外的にその存在は明らかにされず、1968年の「プラハの春」に端を発したチェコスロヴァキア侵攻「ダニューブ作戦」にも投入されなかった。

仮にT-64中戦車の生産数が多い方の1,700両だったとしても、6年間における年間平均生産数は300両にもならず、当時のソ連ではT-55中戦車やT-62中戦車等を年間3,000両程度量産していたことを考えると、その数はあまりに少ないものといえる。
これは複雑な機構に起因した高コストが原因といえるが、併せて運用面での信頼性の欠如も、軍と政府中央をしてT-64中戦車の本格的量産に踏み切らせなかった要因だったと見られる。


●T-64T中戦車

オブイェークト432の開発と並行して、T-64中戦車にガスタービン・エンジンを搭載することも試みられた。
新規開発の戦車用ガスタービン・エンジンGTD-3TL(出力700hp)を搭載した試作車は1963年に完成し、「T-64T」と称された。
T-64T中戦車はエンジン以外はオブイェークト432、すなわち制式採用に至ったT-64中戦車と変わる所は無かったが、1963〜65年に渡る実用試験では満足行く性能(整備性や実用性)を発揮できず計画は中止された。


●T-64A戦車(オブイェークト434)

T-64中戦車はその短い生産期間中に、車体前面装甲板形状の変更(6角形から通常の長方形に)等の設計変更が行われた。
これは生産コストを下げるための措置だったが、運用部隊ではギリギリまで容積を削減された機関室によって複雑化したパワートレインの整備作業が煩雑になったり、新機軸の自動装填装置が乗員を巻き込む等の事故(これも根本的には狭い砲塔内容積に起因する)が頻発して不評を買っていた。

また、今までのV型エンジンから袂を分かった5TDF 水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンも、当時の製造部門における技術的停滞(労働規律の弛緩や製造・加工機器の老朽化等による)の影響で部品不良や故障頻発等の問題をなかなか克服できなかった。
概して登場の初めから、T-64中戦車の評判は良くなかったのである。

開発陣はこうした評価を挽回するため一層改善に力を注ぐと共に、西側MBTを火力面で決定的に凌駕するために開発された大口径の125mm滑腔砲を搭載して、T-64中戦車を強力なMBTとして玉成させることを企図した。
1962年頃よりペトロフ設計局で開発が着手された51口径125mm滑腔砲D-81T(2A26)は、射距離2,000m前後で当時のあらゆる西側MBTをアウトレンジで撃破し得る能力を持つことを目標に開発されたものである。

この125mm滑腔砲D-81Tは、1962年頃にソ連に亡命したイラン陸軍の将校が乗車して越境してきたアメリカ製のM60戦車をソ連軍が試験したところ、主砲の51口径105mmライフル砲M68の威力がソ連戦車開発陣が予想した以上のものであることが判明したために、急遽115mm滑腔砲に代わるものとして開発を発令したものである。
D-81Tは、半燃焼式薬莢を持つ分離装薬式の弾薬を使用する。

弾芯重量3.6kgの鋼製APFSDS(3BM9)を用いた場合砲口初速1,800m/秒を発揮し、射距離2,000mで150mm厚(傾斜角60度)のRHAを貫徹できた。
また弾頭重量19kgのHEAT(3BK12)を使用した場合、同じ条件での装甲穿孔力は220mmに達した。
これは、1960年代当時のいかなる西側MBTをも撃破できる威力を持っていたことを示している。

この火力性能と、T-64中戦車の複合装甲による強固な防御力(対HEATで450mm厚、対APDSで250mm厚のRHAと同等)をもってすれば、西側の105mm砲搭載MBTに対してはアウトレンジが可能であると確信された。
125mm滑腔砲を搭載する試作MBT「オブイェークト434」の開発は1962年に開始され、1964年にはT-64中戦車の増加試作車だったオブイェークト432の内の20両に125mm滑腔砲D-81Tを搭載する作業が行われている。

115mm滑腔砲から125mm滑腔砲への換装に併せて、自動装填装置も後のT-72戦車等と同じ6ETs15「カセートカ」(カセット)システムに変更された。
これは砲塔底部に125mm滑腔砲の弾頭と半燃焼式薬莢が、先端を中心部に向けた形で取り巻くように配置されていた。

ただし後のT-72戦車シリーズ等よりも車内配置の関係で小振りの装置にしてあったらしく、自動装填装置に配置された即用弾はT-72戦車の40発に比べて少ない28発(予備弾を含めた搭載弾数は37発)であった。
そして当初は測遠・照準機をT-64中戦車のものと同じTPD-43Bを使用したものの、後に基線長が延長されたTPD-2-49に替えられた。

また夜戦用装備として、主砲左側の「ルナ」(月)アクティブ式赤外線投光機と組み合わせた暗視照準装置TPN1-49-23(実用暗視距離800m)を装備した。
さらに中東戦争の戦訓から全てのソ連軍MBTに対空用の重機関銃を搭載することが決定されたため、オブイェークト434の車長用キューポラに当初は12.7mm重機関銃DShKMが、制式採用後しばらく経った1972年以降には新規開発の12.7mm重機関銃NSVTが搭載された。

キューポラ搭載の対空機関銃は戦術核使用下の状況での使用も考慮して、対空射撃・地上掃射を車内からの遠隔操作で行えるようにされた。
12.7mm重機関銃弾の搭載数は300発で、50発ずつ連結された金属製ベルトリンクを入れた鋼製弾薬箱で搭載された。

こうして1969年にソ連軍に制式採用されたオブイェークト434は「T-64A主力戦車」(Osnovnoy Tank T-64A)と呼称されるようになり、V.A.マールィシェフ工場で生産に入った。
また、オーバーホール時にT-64戦車の主砲をT-64A戦車と同じ125mm滑腔砲D-81Tに換装する作業も実施されるようになり、この改修を受けた車両は「T-64R」と称されるようになった。

T-64A戦車の登場でソ連軍はようやく、西側の戦後第2世代MBTを凌駕する性能を持つMBTを実現したといえた。
そして以後、様々な装備の追加や改修を経ながらT-64戦車シリーズが発展していった。
1976年まで量産されたT-64A戦車のヴァリエーションには、以下のものがある。

☆T-64A戦車(1969年生産タイプ)
  戦闘重量38t、路上最大速度65km/hで、車体側面部に対HEAT用の展開式エラ型補助装甲を持っていた(こ
  のエラ型補助装甲はT-72戦車にも装備されたが1970年代後半には姿を消していった)。

☆T-64AK戦車(1973年生産)
  指揮官用タイプで車両間交信用の無線機R-123Mに加え、上級司令部との交信用の長距離無線機R-130を装
  備していた。
  R-130は高さ11mになる伸縮式ポール・アンテナを使用した。
  自車(および部隊)位置確認のための指揮官用衛星ナビゲイション装置TNA-3も搭載した。
  そのため自動装填トレイ上以外の予備弾薬を搭載するスペースが無くなり、主砲用弾薬は28発になった。

☆T-64A戦車(1975年生産タイプ)
  2軸砲安定化装置を改良型の2E28Mとし、主砲もこれに対応する51口径125mm滑腔砲D-81TM(2A46-1)とな
  った。
  戦闘重量38.5tで、車体前面に30mm厚の追加装甲が取り付けられた。
  また、ローラー式地雷処理装置KMT-6の取り付けが可能となった。
  砲塔や車体各部の水密性も向上し、OPVT装置無しの渡渉水深は1.8mとなった。

以上のタイプはその後もオーバーホール時に次々に改修が加えられ、1983年以降には発煙弾発射機902B「トゥーチャ」(黒雲)が砲塔前面に装備され、1979年以降に追加され始めた鋼メッシュ入り強化ゴム製のサイドスカートも標準化され、さらに出力1,000hpの6TD 水平対向6気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンを搭載したものを「T-64AM」と称した。

また1984年にはT-64AK戦車の一部もエンジンを6TDに換装し、「T-64AKM」と称されるようになった。
T-64A戦車は4,600両、T-64AK戦車は780両が生産された。
T-64A戦車は1970年頃より東ドイツ駐留ソ連軍部隊に配備が開始され、運用部隊での評判の悪さと裏腹に西側機甲部隊と第一線で対峙する期待の高性能MBTと見なされるようになった。

そして本型の就役と東ドイツへの配備により西側情報筋もこのソ連軍新型MBTの存在に感付き、時々意図的に流される不鮮明な写真等から類推して「T-70戦車」とか「M1970」等の呼称を付けてその性能を推測するようになった(少なくとも1970年代前半期には、西側ではT-64戦車シリーズとT-72戦車シリーズの区別が付けられていなかった)。


●T-64B戦車(オブイェークト447A)

1970年代前半にソ連が新型高性能MBTを開発したという認識を西側、NATO諸国に広げたことで、T-64戦車シリーズはそれなりの軍事的プレゼンスを発揮するようになったといえたが、整備の煩雑さと信頼性の低さのため運用部隊での評判はその後も芳しくないままだった。

また製造・整備の両面で高コストを免れなかったT-64戦車シリーズを補う意味で、ソ連軍機甲局がハリコフ機械製造設計局(KhKBM/1966年に第60設計局から改組)のライバルであるニジニ・タギルの第520設計局に、既存技術を基盤にした廉価版新型MBT「オブイェークト172」(後のT-72戦車)の開発を発注したことから、KhKBMは危機感に迫られてT-64戦車シリーズを一層強力なMBTに仕上げる努力を傾注することとなった。

T-64戦車に精鋭MBTに相応しい性能を付与するには火力面での能力強化が近道と考えられ、1960年代初頭からソ連戦車開発陣にとって懸案であった、戦車砲の砲腔内から発射する対戦車誘導ミサイル(成形炸薬弾頭)の実現が図られることとなった。

対戦車誘導ミサイルをMBTの武装にする試みは、ミサイル万能論者であったフルシチョフ首相の後押しを受けて1960年頃から取り組まれ、1962年にはT-64戦車の試作車であったオブイェークト430をベースにした試作ロケットMBTオブイェークト772、オブイェークト775が製作されている。
特にオブイェークト775は125mm口径の低圧砲から有線誘導式対戦車ミサイルを発射するもので、125mm滑腔砲用のミサイルのベースと成り得るものであった。

1975年、KhKBMはT-64A戦車に無線式半自動誘導対戦車ミサイル9M112「コーブラ」(コブラ)を搭載する試作MBT「オブイェークト447」の製作に着手し、併せてレーザー測遠・照準機1G42の導入も図った。
9M112「コーブラ」は照準装置で目標を捉えていれば無線電波で半自動的に誘導されるタイプの対戦車ミサイルで、誘導用アンテナ・ボックスが車長用キューポラの前面に取り付けられていた。
ミサイルは弾頭とロケットモーター部分に分かれており、装填過程で自動的に結合された。

有効射程は100〜4,000mで最大射程までの飛翔時間は約10秒、装甲穿孔力は距離に関わらずRHA換算で600mmとなっていた。
対戦車用としてはもちろん、飛翔速度から考えれば限定的ではあるが対ヘリコプター用としても使用は可能であった。

この「コーブラ」対戦車誘導ミサイルの導入によって対戦車戦闘の有効交戦距離が4,000mまで伸びたことは、T-64戦車シリーズの火力増強にとって大きな進歩といえた。
当時のソ連の精密加工技術ならびに弾頭設計技術で作り出された125mmAPFSDSは有効射程が2,250m程度しかなかったので、これよりも大幅に射程の長い砲腔内発射式対戦車誘導ミサイルの実用化は画期的といえた。

1970年代半ば頃には、4,000mの距離で相手MBTを確実に撃破できるという能力を持つMBTは東西を問わず存在しなかったのである。
この「コーブラ」対戦車誘導ミサイルの導入に伴い、レーザー測遠機等からのデータもリンクした弾道計算機をも組み込んだ総合FCS 1A33もオブイェークト447に導入された。

これにより目標選定から各種弾薬の選定、射撃諸元のセットまで自動化されることになり、オブイェークト447は当時としては世界で最も進んだ内部機構を持つMBTとなった。
その他にも、個別車両用航法装置GPK-59も装備された。
こうした各種機器の充実の反面、限られた車内スペースにより主砲同軸の7.62mm機関銃PKTの弾薬搭載数を1,250発に減らさざるを得なかった。

併せてこの頃、レオパルト2戦車やチーフテン戦車等の120mm砲搭載MBTが西側で大きな比重を占めるようになりつつあったことから装甲厚の増加等による防御力増強措置が採られ、オブイェークト447の戦闘重量は39tに増加した。
オブイェークト447は1976年にソ連軍への制式採用が決定し、「T-64B主力戦車」(オブイェークト447A)として量産が開始されることになった。

以上のような経過で開発されたT-64B戦車は、盛り込まれた機能と性能面でいうなら出現した1976年当時、世界最強のMBTといっても良いものだった。
しかしながら時はすでにブレジネフ政権の末期に入りかかっており、軍事偏重で半世紀を経てきたソ連経済の疲弊も激しくなり、いわば背伸びして実現した高性能MBTの高いコストに軍も社会も耐え切れない状況になりつつあった。

またT-64戦車シリーズと並行してT-72戦車シリーズの量産が行われたこと、さらに1976年にはT-64戦車をベースに新たに開発されたガスタービン・エンジンを搭載したT-80戦車シリーズの量産が始まったことも、戦車量産面での混乱状況を示すものである。
どう考えても機能面でそれほど違いの無いMBTを3種類も開発し量産することは、経済的な悪影響をもたらすことが明白といえた。

こうした状況を踏まえながらもT-64B戦車の量産は1987年まで継続されていき、各種ヴァリエーションを含めて5,457両が完成したという。
T-64B戦車のヴァリエーションの概要は、以下の通りである。

☆T-64B戦車
  基本型で4,200両が生産された。

☆T-64B1戦車
  9M112「コーブラ」対戦車誘導ミサイルの発射機構を除いた廉価版で、1,200両が生産された。

☆T-64BK戦車
  指揮官用タイプで車両間交信用の無線機R-123Mに加え、上級司令部との交信用の長距離無線機R-130を装
  備していた。
  無線機の増設によって車内スペースが減少したため、125mm砲弾の搭載数は28発に減らされた。

  また航法装置としてTNA-4を搭載した他、砲兵用着弾観測装置PAB-2Aを装備していた。
  各種機器への電力供給用に、ガソリン発電機AB-1P/30も標準装備していた。
  T-64BK戦車は全部で57両が生産された。

☆T-64BV戦車
  T-64BまたはT-64B1戦車に「コンタークト」(接触)と呼ばれるERA(爆発反応装甲)をボルト止めしたタイプで、
  1982年以降に導入された。
  新規生産車ならびにオーバーホール時の既存車両に、「コンタークト」ERAを標準で179個取り付けていた。

  「コンタークト」ERAは、鋼プレス製の小型コンテナにプラスチック樹脂で加工された炸薬板を2枚重ねて収めた
  もので、HEATや対戦車ミサイル等の成形炸薬弾が命中すると爆発してコンテナの破片を飛散させ、破片が成
  形炸薬弾の穿孔ジェット流に干渉することで威力を減殺する。

  「コンタークト」ERAは1層当たり対成形炸薬弾で120mm厚のRHAを追加した以上の効果があるとされており、
  2〜3層にボルト止めすることもできる。
  T-64B1戦車をベースとしたT-64BV戦車は、「T-64B1V」と称される。
  「コンタークト」ERAの装着により、T-64BV戦車の戦闘重量は概ね42.4tに増大した。

☆T-64BM戦車
  T-64B戦車に出力1,000hpの6TD 水平対向6気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンを搭載したもので
  、T-64AM戦車と同様に1983年以降に生産ないし改修が行われた。
  T-64AM戦車と共に、6TDエンジンの搭載によって路外機動性能と信頼性を向上させることを狙ったものである
  が、すぐに同エンジンを搭載したT-80UD戦車の量産が始まると存在意義が失われていき、やがて生産が停止
  されることになった。

☆T-64BM2戦車
  ソ連から分離・独立した後にウクライナ共和国で開発されたT-64B戦車の近代化改修型で、新型の「コンター
  クト5」ERA、鋼メッシュ入り強化ゴム製のサイドスカート、1A43U FCS、6AZ43自動装填装置、9M119「レフレー
  クス」(反射)対戦車ミサイルを装備する。
  これらの改良に伴って重量が増加したため、エンジンは出力850hpの5TDFM 水平対向5気筒液冷ターボチャ 
  ージド・ディーゼル・エンジンに換装されている。

☆T-64U戦車
  やはりウクライナ共和国で開発されたT-64B戦車の近代化改修型で、T-84戦車に準じた装備が搭載されてい
  る。
  代表的なものとしては「コンタークト5」ERA、9M119「レフレークス」対戦車ミサイル、1A45「イルトゥイシ」(西シベ
  リアを流れる河川名)FCS、TKN-4Sレーザー測遠機、PZU-7照準装置、TRN-4E「ブラーン(猛吹雪)E」暗視装
  置を装備している。

  これらの改良に伴って重量が増加したため、エンジンも出力1,000hpの6TDF 水平対向6気筒液冷ターボチャー
  ジド・ディーゼル・エンジンに換装されている。
  T-64U戦車はT-84戦車と同じく、1999年から部隊配備が開始されている。

T-64戦車シリーズは、1964〜87年にかけて各型合わせて12,500両程度が量産されたことになる。
早くからあらゆる面における戦車開発の新機軸に挑戦し、量産開始後も常にソ連軍が保有するMBTの中で火器や装備機器で最も高度な性能を備えさせたT-64戦車シリーズであったがソ連工業の技術的停滞、それと裏返しの量産コストの高さ、整備・運用の難しさや故障・不具合の頻発等により決して成功作とはいえなかった。

T-64戦車シリーズは多くが通常戦力削減条約に基づく廃棄対象にされてスクラップ化されたものの、今日もロシア共和国、ウクライナ共和国を始めとする旧ソヴィエト連邦諸国に2,000両以上が現役として装備され、チェチェン共和国での内戦でも活躍している。


<オブイェークト430中戦車>

全長:    8.785m
車体長:   6.048m
全幅:    3.12m
全高:    2.16m
全備重量: 35.48t
乗員:    4名
エンジン:  5TD 2ストローク水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 600hp/2,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 450〜600km
武装:    62口径100mmライフル砲D-54TS×1 (50発)
        14.5mm重機関銃KPVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃SGMT×2 (3,000発)
装甲厚:   20〜240mm


<オブイェークト140中戦車>

全長:    9.90m
車体長:   6.20m
全幅:    3.27m
全高:    2.40m
全備重量: 37.6t
乗員:    4名
エンジン:  V-38 4ストロークV型12気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル
最大出力: 700hp/2,000rpm
最大速度: 64km/h
航続距離: 400〜500km
武装:    62口径100mmライフル砲D-54TS×1 (50発)
        7.62mm機関銃SGMT×2 (3,000発)
装甲厚:   20〜240mm


<T-64中戦車>

全長:    8.948m
車体長:   6.428m
全幅:    3.415m
全高:    2.154m
全備重量: 36.0t
乗員:    3名
エンジン:  5TDF 2ストローク水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 700hp/2,800rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 600km
武装:    55口径115mm滑腔砲D-68T×1 (40発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
装甲:    複合装甲


<T-64T中戦車>

全長:    8.948m
車体長:   6.428m
全幅:    3.415m
全高:    2.154m
全備重量: 36.0t
乗員:    3名
エンジン:  GTD-3TLガスタービン
最大出力: 700hp
最大速度: 65km/h
航続距離: 500km
武装:    55口径115mm滑腔砲D-68T×1 (40発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
装甲:    複合装甲


<T-64A戦車>

全長:    9.225m
車体長:   6.54m
全幅:    3.415m
全高:    2.17m
全備重量: 38.0t
乗員:    3名
エンジン:  5TDF 2ストローク水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 700hp/2,800rpm
最大速度: 60.5km/h
航続距離: 500〜600km
武装:    51口径125mm滑腔砲2A26または2A46-1×1 (37発)
        12.7mm重機関銃NSVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
装甲:    複合装甲


<T-64B戦車>

全長:    9.225m
車体長:   6.54m
全幅:    3.415m
全高:    2.17m
全備重量: 39.0t
乗員:    3名
エンジン:  5TDF 2ストローク水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 700hp/2,800rpm
最大速度: 60.5km/h
航続距離: 600km
武装:    51口径125mm滑腔砲2A46-2×1 (36発)
        12.7mm重機関銃NSVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
        9K112コーブラ対戦車誘導ミサイル・システム
装甲:    複合装甲


<T-64AM戦車>

全長:    9.524m
車体長:   6.84m
全幅:    3.581m
全高:    2.21m
全備重量: 40.0t
乗員:    3名
エンジン:  6TD 2ストローク水平対向6気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 1,000hp/2,800rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 600km
武装:    51口径125mm滑腔砲2A46-1×1 (37発)
        12.7mm重機関銃NSVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
装甲:    複合装甲


<T-64BV戦車>

全長:    9.225m
車体長:   6.54m
全幅:    3.581m
全高:    2.19m
全備重量: 42.4t
乗員:    3名
エンジン:  5TDF 2ストローク水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 700hp/2,800rpm
最大速度: 60km/h
航続距離: 500km
武装:    51口径125mm滑腔砲2A46-2×1 (37発)
        12.7mm重機関銃NSVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
        9K112コーブラ対戦車誘導ミサイル・システム
装甲:    複合装甲


<T-64BM戦車>

全長:    9.225m
車体長:   6.84m
全幅:    3.581m
全高:    2.21m
全備重量: 39.0t
乗員:    3名
エンジン:  6TD 2ストローク水平対向6気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 1,000hp/2,800rpm
最大速度: 65km/h
航続距離: 600km
武装:    51口径125mm滑腔砲2A46-2×1 (36発)
        12.7mm重機関銃NSVT×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,000発)
        9K112コーブラ対戦車誘導ミサイル・システム
装甲:    複合装甲


<参考文献>

・「パンツァー1999年3月号 ソ連戦車カタログ(20) T-64シリーズの開発」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2013年2月号 西側を恐怖に陥入れたT-64の光と陰」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2021年1月号 早すぎた革命児 T-64戦車」 宮永忠将 著  アルゴノート社
・「パンツァー2002年2月号 ロシア軍 T-64戦車の全容」 古是三春 著  アルゴノート社
・「ウォーマシン・レポート27 第二次大戦後のソ連軍戦車」  アルゴノート社
・「ロシア軍車輌写真集」 古是三春/真出好一 共著  アルゴノート社
・「世界のAFV 2021〜2022」  アルゴノート社
・「グランドパワー2019年6月号 ソ連軍主力戦車(2)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年6月号 ソ連戦車 T-64」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」  デルタ出版
・「ソビエト・ロシア 戦車王国の系譜」 古是三春 著  酣燈社
・「世界の主力戦闘車」 ジェイソン・ターナー 著  三修社
・「徹底解説 世界最強7大戦車」 齋木伸生 著  三修社
・「新・世界の主力戦車カタログ」  三修社
・「戦車名鑑 1946〜2002 現用編」  コーエー


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