HOME研究室(第2次世界大戦後~現代編)戦車戦車(ソヴィエト/ロシア)>T-62中戦車

T-62中戦車





●T-62中戦車の開発

1951年より本格的な量産が開始されたT-54/T-55中戦車シリーズは、量産に適した構造と防御面で理想的と考えられるデザイン、強力な56口径100mm戦車砲D-10Tを持つ戦後ソ連軍の主力MBTとして、1956年10~11月のハンガリー動乱を機に西側にも広く知られるようになった。
しかし、第2次世界大戦時と同様に戦車の火力と装甲を巡るシーソーゲームは、T-54/T-55中戦車シリーズの性能面でのリードを長期に渡って許すことは無かった。

1950年代半ばから終わりにかけて、イギリスの王立造兵廠が開発した51口径105mm戦車砲L7を搭載する西側新型MBTの出現が相次ぎ、1960年代までに大量配備が確実の情勢となったのである。
イギリスのセンチュリオンMk.5戦車やアメリカのM60スーパー・パットン戦車などであるが、これが大戦末期に開発された100mm戦車砲D-10Tを搭載するソ連のT-54/T-55中戦車シリーズよりも、火力面で相当に優越すると推測されたのである。

西側の105mm砲搭載MBTを火力面で凌駕する新型中戦車を開発する計画は、1957年よりハリコフのV.A.マールィシェフ工場(VMZ)の第60設計局(主任技師A.A.モロゾフ)と、ニジニ・タギルの第183ウラル貨車工場(UVZ)の第520設計局の双方で進められることになった。
後者の設計主任は、戦後から開発技師の道を歩み始めた元戦車部隊技術将校のL.N.カルツェフである。

カルツェフはT-54B中戦車やT-55中戦車の開発に従事するなど、モロゾフの仕事を補佐しながら受け継いできたが、両者は新型中戦車の開発に当たって別々の設計局を率いるライバル同士の関係になったわけである。
第520設計局では1957年に完成していたT-55中戦車をベースに、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)の第9砲兵工場設計局で新たに開発された62口径100mm戦車砲D-54TSを搭載した試作中戦車オブイェークト165を製作した。

併せて同じ戦車砲を搭載する、車体も砲塔も全く新設計の試作中戦車オブイェークト140も作られた。
一方第60設計局では、やはり100mm戦車砲D-54TS搭載の試作中戦車オブイェークト430を開発・製作した(この戦車は後のT-64戦車の原型となった)。
2つの設計局が開発・製作した計3種の試作中戦車の内、最も早期に量産化できると思われたのが第520設計局のオブイェークト165であった。

1958年11月までに3両の試作車が完成したオブイェークト165は、基本的にほとんどの構成パーツをT-55中戦車から流用し、鋳造砲塔のみがオブイェークト140と共通したデザインの、リング直径を拡大(1,825mmから2,245mmへ)した新型のものに換えられていた。

これは、100mm戦車砲D-10Tに比べて大型の薬莢(つまり増大された発射装薬)を持つ砲弾がもたらす高い腔内圧に耐えるため、100mm戦車砲D-54TSの砲尾部が相当に大型となり、操砲上、T-54/T-55中戦車シリーズの砲塔リング直径では不都合が生じたからである(これは、T-54中戦車に同砲の搭載を試みたオブイェークト139試作中戦車の経験でも確認されていた)。
そして、リング直径の拡大に合わせて車体の中央部分も延長されていた。

オブイェークト165が完成した頃、ソ連軍ミサイル砲兵総局(GRAU)は世界で初めてライフリングが施されていない平滑な砲腔を持つ100mm滑腔対戦車砲の開発に成功した。
そして1958年には射撃試験を視察した当時のソ連首相N.S.フルシチョフの命令で、滑腔砲を戦車にも搭載することが決められた。

この時完成した100mm滑腔対戦車砲は、1961年に「T-12」の名称でソ連軍に制式採用された。
西側では戦後見られない牽引式の対戦車砲であるT-12は、しかしながら戦車砲への転用が難しいことがやがて明らかになった。
全長1.2mもある一体型弾薬は、ソ連で従来作られてきた規格の戦車への搭載が困難だったのである。

そこで、GRAUは思い切った決定をした。
砲腔内にライフリングが施された強化型100mm戦車砲D-54TSをベースに、口径を115mmに拡大して戦車搭載用の新型滑腔砲を作ることにしたのである。
D-54TSの弾薬が全長1.1mと、T-12対戦車砲のそれに比べて僅かながらでも短いことが幸いした。

1959年までに完成した新型115mm滑腔砲は「U-5」(2A20)と命名され、2軸式安定化装置「メテオール」(Meteor:流星)を追加した「U-5TS」として第520設計局のオブイェークト165試作中戦車に搭載され、新たに115mm滑腔砲を搭載した試作中戦車は「オブイェークト166」と称された。
T-55中戦車をベースにしたオブイェークト166は試験において上々の成績を収めたため、東西陣営の戦車火力面でのバランスシートで生じたソ連側の劣勢を補うための臨時措置的な量産中戦車とすることが当然期待された。

しかし、カルツェフ技師が率いる第520設計局に対して大いなる脅威を感じた第60設計局は、「大祖国戦争(独ソ戦)における勝利に多大な貢献をした傑作中戦車T-34の開発者」としての名声が高かったモロゾフ主任技師の政治力によってオブイェークト166の制式採用を妨害し、代わりに複合装甲や新型パワープラントを導入した革新的設計のオブイェークト430を次期主力MBTとして押し出そうとした。

ソ連軍機甲総局(GBTU)はモロゾフの政治的な影響を強く受け、ほぼ第60設計局の思惑通りに事は進んでいきかけた。
カルツェフはオブイェークト166をさらに発展させ、チェリャビンスク・トラクター工場(ChTZ)が新たに開発したスーパーチャージャー付きディーゼル・エンジンV-36F(出力640hp)を搭載する新型中戦車オブイェークト166Mの開発をGBTUから発令され、それに従事した。

第520設計局はGBTUの要求仕様に基づき、機動性能を大幅に向上させるためウェットピン式RMSh履帯と上部支持輪を導入した中直径転輪の足周りを開発してオブイェークト166Mに盛り込んだ(この足周りは、後のT-72戦車シリーズに引き継がれた)。
カルツェフとしても、モロゾフ・チームのオブイェークト430の斬新な設計に匹敵する試作中戦車を開発するため全力で努力したが、これは一種の出来レースで、GBTUはモロゾフ・チームに軍配を上げる方向で腹を決めていた。

この間、せっかく実用化に何の問題も無い域に達していたオブイェークト166の方は宙に浮いた形になっていた。
この状況を一変させたのは、大祖国戦争の英雄でソ連陸軍総司令官だったV.I.チュイコフ元帥だった。
1960年12月、西ドイツ派遣アメリカ軍に105mm砲搭載の新型戦車M60スーパー・パットンが配備されたことを聞きつけていた彼は、ワルシャワ条約機構軍の機甲部隊が火力面で急速に劣勢に陥ることを恐れていた。

相互派遣オブザーバー将校による情報で、M60戦車の重装甲がT-54/T-55中戦車シリーズの100mm戦車砲D-10Tでは貫徹困難であることを知らされたことも手伝って、GBTU局長のP.P.ポルボヤロフ元帥を呼びつけ、強力な新型戦車砲を搭載する戦車の開発状況についての報告を求めた。

ポルボヤロフは第60設計局と第520設計局の双方で進められていた各種試作中戦車の開発について報告し、第520設計局のオブイェークト166については「115mm滑腔砲を搭載した実用段階に達している中戦車であるが、主砲安定化装置に若干問題がある」と採用に至らぬ理由を説明した。
このこじ付けに近い説明に比類なき流血の激戦をくぐり抜けた英雄チュイコフは怒りを爆発させ、一刻も早くオブイェークト166を量産するようポルボヤロフに強く求めた。

「何だって?何の安定化装置だ?そんな物は豚にくれてやったって俺は構わん!早く115mm砲の付いた新型戦車をよこせ!」
このチュイコフの一括によって事態は一変し、お蔵入りする可能性が濃厚だったオブイェークト166は量産化への道が開かれることになった。

しかしチュイコフの一括があった後も、官僚機構が戦前期以上に複雑化しつつあったソ連においては、オブイェークト166の制式採用までの道に今しばらくの時間が掛かってしまった。
UVZの工場支配人であったI.オクーネフはオブイェークト166の量産化以前に、オブイェークト166Mの開発についても遅滞無く進めるようGBTUに命じられる等、UVZと第520設計局はハードルを幾つも乗り越えなければならなかった。

オクーネフは軍需工業大臣のD.F.ウスチノフに何度も掛けあい、ようやく1961年7月の軍需工業関係閣僚会議において、オブイェークト166を「T-62中戦車」(Sredniy Tank T-62)としてソ連軍に制式採用することが決定された。
そしてその年の後半、T-62中戦車は25両の増加試作車が製作され、本量産開始前の運用試験のためにノブゴロド・ヴォルィンスキー地区の戦車部隊に配備された。

そして改良措置が繰り返された後、1962年7月よりUVZにおいてT-62中戦車の量産が開始され、以後、旧ソ連においては1975年まで量産が継続されて計20,000両余が完成した。
併せて、チェコスロヴァキアにおいてはマルティンのZTS(Závody ťažkého strojárstva:国営戦車工場)で1973~78年の間に1,500両がライセンス生産されているが、これらはチェコスロヴァキア軍には供給されずソ連に逆輸入された他、中東諸国に輸出された。

こうして暫定的な火力強化型戦車だったはずのT-62中戦車は、T-54/T-55中戦車シリーズほどではないもののNATO諸国軍の装備戦車数を上回る大量生産が行われ、1960年代中期~1980年代まで特に性能面において事実上のソ連軍主力MBTの地位にあったのである。

これは、第60設計局のオブイェークト430から発展し1966年にソ連軍に制式採用されたT-64戦車が、高性能な反面各種不具合に悩まされると共に、生産コストが高く大量調達がなかなか進まなかったという背景事情がある。
その面でT-62中戦車は、ソ連軍機甲部隊が1960年代初頭に直面した西側MBTに対する質的劣勢を挽回し、立派にストップギャップとしての役割を果たしたものと評価できる。


●T-62中戦車の砲塔の構造

T-62中戦車は形態的にいえば、T-54/T-55中戦車シリーズの延長線上の戦車といえる。
車体、パワープラント、足周り等の基本的構成部分は1957年から量産されていたT-55中戦車と同一といってよく、違いは115mm滑腔砲を装備する新型砲塔を搭載し、そのために車体を延長したことくらいといっても間違いない。
T-62中戦車をT-54/T-55中戦車シリーズと明確に区切る特徴は、上方から見ると真円に近い形態の洗練された鋳造砲塔である。

装甲厚こそ前面で240mm、側面部で120mm程度とT-54/T-55中戦車シリーズとほぼ変わらないが、より平たい形態にデザインされ装甲面の傾斜角も鋭く、避弾経始の点でいっそう良好な形態となっていた。
またT-54/T-55中戦車シリーズとは違って、天板を別に溶接すること無く上面部も一体鋳造となっていた。
砲塔リング径は前述したように、T-54/T-55中戦車シリーズの1,825mmから2,245mmに拡大されていた。
戦闘室床面は、T-54B中戦車以来の砲塔旋回に追随するターンテーブルを持っていた。

T-62中戦車のコンセプト上最大の課題となったのが、T-54/T-55中戦車シリーズの主砲である100mm戦車砲D-10Tよりも巨大な砲尾を持つ115mm滑腔砲U-5TSと、やはり大きな115mm砲弾を数を減らすこと無くどのようにアレンジして積み込むか、ということであった。
そのために採られた措置は前述のように砲塔リング径の拡大と、車体延長による戦闘室内容積の拡張であった。

砲塔後部下の機関室隔壁はT-54/T-55中戦車シリーズよりも後方に移され、この部分に横置きの形で115mm砲弾が22発も搭載された。
115mm砲弾は他に砲塔内壁の装填手側部分に2発、戦闘室下部側壁の左側に1発と右側に1発、操縦手右横の車体前面装甲板裏側のラックに16発が搭載された。

T-62中戦車の主砲周りの装置で新たに導入されたのは、砲尾後方のトレイが発射後の排莢で撃ち殻薬莢を受け止めると、自動的に砲塔後上部に設けられたハッチから車外に投げ出すシステムである。
この装置を用いると共に、巨大な115mm砲弾を装填するため主砲は発射ごとに+3.5度の射角を取り、装填後に調整された射角に復元されるようになっていた。

車外への自動排莢システムを採用したのは、戦闘室内に巨大な薬莢が転がることで戦闘動作を妨げないようにすることが狙いだったが、このプロセスを含めて主砲の発射速度を遅らせる要因ともなった(4発/分)。
また初期には装置の信頼性が低く、車外への投げ出しに失敗した撃ち殻薬莢が跳ね返って装填手を直撃して負傷させるといった事故も生じた。

T-62中戦車の最大の特徴といえるのが、世界に先駆けて主砲に従来のライフル砲ではなく滑腔砲を採用したことである。
19世紀から第2次世界大戦まで、火砲は砲腔内にライフリングを施したライフル砲が一般的であった。
これは歩兵用小火器も同様で、その目的は発射する弾頭にライフルによって回転を与え、弾道を安定させて命中精度を高めることであった。

このためライフル砲の砲弾は、弾底部に近い部分に砲腔内のライフルを食い込ませるための導環(鉄よりも柔らかめの銅等でできている)を取り付けるようになっている。
一方、滑腔砲は砲腔内にライフリングを施さず平滑なままとなっている。
これは、ライフルに砲弾の導環を食い込ませて回転させながら砲腔内を進ませることで生じる、摩擦力による発射エネルギーの減殺を防ぎ、その減殺分を弾頭の飛翔エネルギーとして保持することを狙ったものである。

火砲が発明されてからナポレオン戦争前後までは、砲腔内にライフリングが施されていない滑腔砲が一般的であったが、これら初期の火砲は弾道が安定せず命中精度が悪かった。
古来からある弓矢の原理から、砲弾の弾頭に矢羽のような安定翼を付けてやれば弾道が安定し、命中精度を向上させることができることは知られていたが、当時の技術では実用化が困難だったため普及せず、火砲の主流はライフル砲へと移行していった。

しかし大戦後の工業技術の進歩により、発射後に空中で分離する装弾筒を用いることで安定翼の付いた弾頭を実現できる目処が立ったため、再び滑腔砲の時代が到来することとなった。
特に戦車砲や対戦車砲などの対装甲砲の場合は、装甲貫徹力を向上させるために弾頭の飛翔速度を可能な限り向上させる必要があるため、この分野において真っ先に滑腔砲の開発が進められることとなった。

滑腔砲で用いられる対装甲用運動エネルギー弾であるAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)は、弾頭に固定式あるいは折り畳み展開式の安定翼を付属させ、弾道の安定を図っている。
また弾頭は空気抵抗を減らすために、細長い矢のような形にされているのが特徴である。
発射時にはAPFSDSの弾頭は分離式装弾筒で覆われており、発射後の空気抵抗により自動的に装弾筒が分離し、弾頭のみが目標に向かって飛翔する。

滑腔砲の長所としては、
・ライフル砲に比べて砲身の製造コストが低く、寿命も長い。
・弾頭が回転しないため、成形炸薬弾の効果を最大限に発揮させられる。
・ライフル砲に比べて砲腔内の摩擦係数が低いため、対装甲弾の飛翔速度を飛躍的に高められる。
・対装甲弾の弾頭が細長い矢のような形になっているため空気抵抗が少なく、相当な長射程まで装甲貫徹力が減
 殺されない。
等がある。

反面、短所としては、
・砲弾の構造が複雑になり、また高い工作精度も要求されることから砲弾の製造コストが上がる。
・命中精度に工作精度や風などの影響が出易い。
等がある。

当時、西側MBTの主砲は105mmライフル砲が主流であり、滑腔砲とライフル砲の優劣が検討されている状態だっただけに、T-62中戦車の滑腔砲装備は注目を集めることになった。
ソ連軍はT-62中戦車に続くT-64戦車、T-72戦車に125mm滑腔砲を装備し、西側も西ドイツのレオパルト2戦車やアメリカのM1A1戦車などが120mm滑腔砲を採用した。

これら新世代の滑腔砲戦車の先駆けとして、戦車史上T-62中戦車の存在は重要なものといえよう。
T-62中戦車の主砲である55口径115mm滑腔砲U-5TS「モーロト」(Molot:ハンマー)は、T-54/T-55中戦車シリーズに搭載された100mm戦車砲D-10T2Sと違って排煙機を砲身の中程に配置していた。
飛翔重量4kgのBM6 APFSDSを砲口初速1,615m/秒で発射し、戦車と交戦する場合の最大有効射程は2,000mとされていた。

それ以上の射距離(概ね3,000m以内)においては、砲口初速900m/秒のBK4M HEAT(対戦車榴弾/弾頭重量13.1kg)を用いるものとされていた。
対装甲弾の他に弾頭重量14.7~17.7kgの高性能炸薬弾も使用でき、直接照準機を用いた最大有効射程は5,800m、仰角16度での間接照準射撃で9,500mの最大射程を持っていた。

115mm滑腔砲U-5TSはBM6 APFSDSを用いた場合射距離1,000mで250mm、射距離2,000mで220mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
100mm戦車砲D-10TはBR-412D APCBC(風帽付被帽徹甲弾)を用いた場合、射距離2,000mにおける装甲貫徹力は155mmだったので、T-62中戦車はT-54/T-55中戦車シリーズに比べて主砲の対装甲威力が約1.5倍に向上したことになる。

またBK4M HEATを用いた場合は射距離に関わらず440mm厚のRHAを穿孔可能であり、当時の全ての西側MBTの前面装甲を撃ち破ることが可能であった。
このように、115mm滑腔砲U-5TSは1960年代初頭における戦車砲としては相当な威力を有するものといえたが、問題はFCS(射撃統制システム)だった。

T-62中戦車のFCSは、大戦時の戦車と同じくスタジア・メトリック方式を採用していた。
これは、レティクル内の目盛で高さ2.7m(西側MBTの標準的高さ)と想定した目標までの概数的な距離を読み取るもので、概ね1,000mまでの射距離なら問題なかったが、それ以上の遠距離の目標となると測定距離の誤差が大きくなり、結果として命中率が下がる。

アメリカ軍が、1973年10月の第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)の際にイスラエル軍がアラブ側から鹵獲したT-62中戦車を譲り受けて試験したところ、停止目標に対してすら射距離1,500mでの命中率は50%前後、射距離2,000mでは30%と西側MBTに比べて著しく劣った(T-62中戦車のAPFSDS弾の工作精度と設計上の問題も原因とされている)。

これも1975年以降、主砲防盾上部にレーザー測遠機KTD-1(またはKTD-2)を装備することで改善が図られたが、オーバーホール時に一部車両に行われたに過ぎないようで、T-62中戦車の全装備車両には行き渡らなかったようである。
1960年代いっぱいまで西側MBTに対して優越していたFCS関連の装備は、T-54B中戦車以降から導入された暗視照準システムである。

T-62中戦車はT-55中戦車と同様に「ルナー(Luna:月)2」赤外線探照灯を主砲右脇に装備し、砲手用のTPN-1暗視サイトで射距離800mまでの夜間交戦が可能となっていた。
また、車長用キューポラにOU-3赤外線探照灯と昼/夜間兼用測遠機TKN-2を持ち、これの暗視距離は400mとなっていた。

なお1962年から量産開始されたT-62中戦車の初期型においては、主砲以外の武装は同軸装備された7.62mm機関銃PKT 1挺のみであったが、1972年から生産された後期型の砲塔には、装填手用ハッチ部に全周旋回式の12.7mm重機関銃DShKM用マウントが装備されるようになった。
これはヴェトナム戦争以後、地上攻撃ヘリコプターをアメリカ軍が大量に装備し始めたのに対抗した措置である。

しかしT-55中戦車とは違って、対空機関銃マウントを初期型のT-62中戦車に後付けで追加するような改修作業は行われていない。
またT-62中戦車はNBC防御システムとして、車外からの吸気をフィルターにかけて供給しつつ車内与圧で汚染気の侵入を防ぐPAZが標準装備され、その主装置は砲塔後部に配置されていた。


●T-62中戦車の車体の構造

T-62中戦車の車体の基本的構造、レイアウトはT-54/T-55中戦車シリーズのものをそのまま踏襲している。
多くのパーツも共用のため、T-55中戦車との並行生産の中で10年前後の期間に20,000両以上という大量生産を行うことができた。
車体長は延長されT-55中戦車より約60cmも長くなったが、これは前述の戦闘室スペースの拡張分にあたる。

この延長と長大で重量のある115mm滑腔砲搭載のため、T-54/T-55中戦車シリーズとは重心位置が変わり、転輪の配置が変更されている。
T-62中戦車の転輪は、T-55中戦車から導入されたプレス製造の星型転輪(西側で「スターフィッシュ」(ヒトデ)型転輪と呼称されているもの)を最初から採用していた。

履帯もT-54-2中戦車以降から採用されている幅580mmのドライピン式のものを共用し、1960年代後期からは運用寿命が長いウェットピン式のRMSh履帯を標準装備した。
RMSh履帯は、T-72戦車シリーズおよびその発展型であるT-90戦車シリーズまで使用されているもので、運用寿命が約7,000kmと、T-54中戦車以来使われてきたドライピン式履帯の運用寿命(約3,000km)と比べて倍以上も延伸されている。

T-62中戦車の操縦手席は車体前部左側に配置されており、天板に設けられた操縦手用ハッチの前に2基のペリスコープを備えていた。
2基のペリスコープの内、左側のものは赤外線暗視ペリスコープTVN-2と交換できた。
夜間は車体前面右側に通常の白光灯と共に装備された赤外線照射灯を用い、TVN-2はこの反射光によって暗夜でも60mまでの視察能力を操縦手に保証した。

操縦装置関係は左右の操向レバーとクラッチ、ブレーキ、アクセルペダルを備えたT-34中戦車以来のものを踏襲していた。
ソ連では1950年代半ば以降に開始された新型戦車開発の中で、油圧式のパワーアシストを操向装置関係に導入しようと試みていたが、コスト面や信頼性・整備性の問題をクリアできず実用化が成らなかった。

パワーアシスト無しのレバー操作は、重量30t以上の重車両の操縦をする場合にかなり重くなってしまう。
T-62中戦車は従来のソ連軍MBTと同様、西側MBTに比べて操縦動作の面で操縦手に負担をかけ、疲労度の高いものであることがアメリカ軍による試験でも確認されており、FCSが旧式であることと共に本車の大きな弱点となっている。

T-62中戦車は、エンジンや変速・操向システム等のパワープラントはT-55中戦車のものをそのまま踏襲している。
搭載エンジンは、大戦時のBT-7M快速戦車以来使われ続けているV型ディーゼル・エンジンの発展型であるV-55V(出力580hp)である。

燃料搭載量は車内が675リットル、車外285リットルで、さらに車体後端のラックに200リットル入りドラム缶2個を搭載できる。
固有の燃料を用いた場合、路上航続距離は450kmに達する。
路上最大速度は50km/hで、機動性能はほぼ大戦時の傑作中戦車T-34並みの水準を維持していた。

T-62中戦車は車体部については、生産時期の違いによるヴァリエーションはほとんど見られないが、エンジンデッキ上のグリル周りや点検用ハッチ等の付属品に変化がある。
1962~66年頃に生産されたタイプはT-55中戦車のものがそのまま踏襲されていたが、1967年以降に生産されたものはラジエイター付きのグリルと砲塔の間に、1枚板で成形された潜水渡渉時にグリルを覆うための可動式カバーが装備されていた。

なおスティーヴン・ザロガ氏など一部の西側研究者は、前述の形態上の違いによってT-62中戦車を1962年型、1967年型、1972年型あるいはT-62A中戦車と便宜上の呼称を付けて分類を行っているが、旧ソ連軍では後述の改修型や一部の試作車両以外、エンジンデッキ上の違いや対空機関銃の有無で呼称を区別せず、全てT-62中戦車(オブイェークト166)を公式呼称にしている。


●T-62K指揮戦車

T-62KはT-62中戦車の指揮戦車型であり、戦車部隊指揮官の任務に必要な通信設備としてR-122通信機と4mの長さのアタッチメント式アンテナ、TNA-2/TNA-3地上航法システム等を搭載する。
このシステムは慣性ジャイロ・コンパスと計算機を有し、戦車の発進地点からの位置、あらかじめ定められた目標物との距離、高低差のデータにより継続的に自車位置の測定を行う。
これら追加装備のため、搭載弾薬数は減らされている。


●T-62D戦車

東西陣営の戦車開発を巡るシーソーゲームの中で、1950年代以来ソ連機甲部隊の主力を担ってきたT-54/T-55中戦車シリーズとその発展型であるT-62中戦車は、西ドイツのレオパルト2戦車やアメリカのM1エイブラムズ戦車、イギリスのチャレンジャー戦車などの西側新鋭MBTに対して、著しい性能面の格差を露呈せざるを得ない状況となった。

すでに1970年代以降125mm滑腔砲を自動装填装置と共に搭載し、複合装甲を導入した新型MBT T-64やT-72、さらにはT-80戦車が実用化されていったが、これら高価な戦車を一挙に大量装備することは難しく、併せて、すでに未曾有の量が作られていたT-55中戦車やT-62中戦車を活用する道もまた必要とされていた。

そこでソ連では1983年以降、T-55中戦車(良好な状態で維持されたT-54中戦車を含む)やT-62中戦車の火力と防御力を飛躍的に向上させると共に、重量増加に対応した足周りの強化や搭載エンジンのパワーアップを主な内容とする近代化改修を施すようになった。

1983年に登場したT-62中戦車の最初の近代化改修型であるT-62D戦車は、12.7mm対空機関銃を持たない初~中期生産型のT-62中戦車をベースにしており、砲塔前半部と車体前面に簡易複合装甲を取り付け、T-55AD戦車と同じく「ドロズド」(Drozd:ツグミ)APS(アクティブ防御システム)を装備している。
「ドロズド」APSはセンサーが自分の方向に飛翔する誘導砲弾や対戦車ミサイルを探知すると、砲塔後部に取り付けられた発射筒の対誘導弾用散弾の有効射程に入った段階でそれを発射し、破壊するものである。

T-62D戦車はその他、エンジンの強化(V-55Uディーゼル・エンジン/出力620hpまたは、V-46-5Mディーゼル・エンジン/出力690hpへの換装-後者は「T-62D1」と呼称される)を行っている等、T-55中戦車シリーズの近代化改修モデルと同様の改修が図られているが、FCS関係では1970年代半ばから導入されたレーザー測遠機KTD-1(またはKTD-2)を持つ以外、ディジタル弾道計算機や新式の暗視装置等を組み合わせた総合的FCSは持たない。


●T-62M戦車

T-62M戦車は1972年以降に生産された、12.7mm対空機関銃DShKMを搭載したタイプのT-62中戦車をベースに改修を実施したもので、T-62D戦車等よりさらに本格的な装備追加が行われている。
防御面では簡易複合装甲を追加しているものの、「ドロズド」APSは搭載しない(車体の複合装甲も省いた「T-62M2」と称するタイプもある)。

しかし火力統制面では、BV-62ディジタル弾道計算機等をリンクした「ヴォルナー」(Volna:波)総合FCSを搭載し、主砲発射式対戦車誘導ミサイル9M117-2「シェクスナ」(Sheksna:ヴォルガ川の支流の河川名)を発射できる。
「シェクスナ」対戦車ミサイルの性能は、T-55中戦車改修型で採用されている9M117-1「バスチオン」(Bastion:砦)対戦車ミサイルと同じであり、有効射程100~4,000m、射距離に関わらず550mm厚のRHAを穿孔可能である。

ただし財政難にあえぐ旧ソ連軍らしく、誘導ミサイル発射システムを搭載しない改修省略型もあり、これは「T-62M1」と称する。
さらに、これにT-72戦車系統のエンジンであるV-46-5Mディーゼル・エンジンを搭載すると呼称が「T-62M1-1」となる。

外見的な特徴としては、主砲の115mm滑腔砲U-5TSにT-72戦車シリーズと同様のサーマル・スリーブを取り付けている。
T-62M戦車が広く世界に知られるようになったのは、1986年から開始されたソ連軍のアフガニスタンからの撤退の模様の映像が放映されてからで、カブール近郊でさよならパレードを挙行するソ連軍が多数装備していた。


●T-62MV戦車

T-62MV戦車は115mm滑腔砲へのサーマル・スリーブの装着、本格的FCS「ヴォルナー」と対戦車誘導ミサイル「シェクスナ」を導入しながら、防御面では簡易複合装甲の代わりに「コンタークト(Kontakt:接触)1」爆発反応装甲ブロックを大量に取り付けた改修型である。
エンジンをT-72戦車と同系統のV-46-5Mディーゼル・エンジンに換装したものは、「T-62MV1」と称される。


●T-62中戦車シリーズの戦歴

T-62中戦車は量産開始後、ソ連国内の重要軍管区と共に東ドイツ等に駐留する戦車師団に配備が開始された。
西側を含めた公衆の面前に初めて姿を現したのは、1961年5月1日にモスクワで行われた恒例のメーデー記念軍事パレードにおいてであった。
初めての作戦投入は、1968年8月20~21日にかけて電撃的に実行されたチェコスロヴァキア侵攻作戦(ダニューブ作戦)においてである。

この時、主にT-62中戦車を使用した部隊はソ連駐独軍集団(GSVG)所属の第1親衛戦車師団、南部軍集団所属の第13親衛戦車師団、ベラルーシ軍管区から増援された第15親衛戦車師団、同じくカルパート軍管区から増援された第31戦車師団である。

ダニューブ作戦にはT-54/T-55中戦車、T-62中戦車、それにT-10M重戦車等合計2,000両以上の戦車が参加し、「人間の顔をした社会主義」を掲げてチェコスロヴァキア共産党のA.ドゥプチェク書記長らが国民と共に進めようとしていた民主的改革「プラハの春」を崩壊させた。
T-62中戦車が軍事衝突に初めて登場したのは、1969年3月2~17日の間に起きた中ソ国境紛争「ダマンスキー事件」(珍宝島事件)においてである。

これは中ソ国境のウスリー川にある中州「ダマンスキー島」(珍宝島)の領有権を巡って、極東軍管区所属の第135太平洋赤旗勲章受賞自動車化狙撃師団が中国軍の国境守備隊と衝突した事件である。
この時中国軍が占拠した中州に対して、ソ連軍はT-62中戦車をBTR-60装甲兵員輸送車に乗車した歩兵部隊と共に投入したが、1両が中国兵が発射したRPG携帯式無反動砲で破壊され、もう1両は砂地に足を取られて放棄された。

その後、ソ連軍は砲撃で放棄したT-62中戦車を破壊しようとしたが果たせず、中国軍に鹵獲されてしまった。
現在、中国軍が鹵獲したT-62中戦車は北京の革命軍事博物館に、朝鮮戦争で鹵獲されたM26パーシング中戦車やM4A3E8シャーマン中戦車等と並べて展示されている。
ソ連軍以外でT-62中戦車を初めて使用したのは、エジプト軍とシリア軍である。

両国がアラブ連合を構成していた時代に起こした第4次中東戦争において、有線誘導式対戦車ミサイル9M14「マリュートカ」(Malyutka:赤ん坊)と共に、T-62中戦車が新鋭兵器としてソ連から供与されたのである。
この時は戦車兵の練度の問題と共に時代遅れで精度に劣るFCSが原因となって、戦車同士の対決でイスラエル軍の105mm砲搭載戦車を圧倒することはできず、ゴラン高原やシナイ半島での戦闘で大きな損失を出した。

しかしながら、115mm滑腔砲から撃ち出すAPFSDS弾はイスラエル軍戦車に対して、命中すれば大きな損害を与える威力を持っていた。
概ね射距離1,500m以内なら、T-62中戦車の115mm滑腔砲はイスラエル軍のどんな戦車も撃破できたが、それ以上の射距離においては命中精度が著しく落ちるため、遠距離砲戦においてHEAT弾を使用するイスラエル軍戦車に撹乱され、損失を重ねることになったのである。

中東地域では、1982年にイスラエル軍がPLO(パレスチナ解放機構)拠点の掃討のために実施したレバノン侵攻作戦(ガリラヤの平和作戦)の際、ベイルート周辺でシリア軍のT-62中戦車がイスラエル軍機甲部隊と戦闘している。
なおこの時、シリア軍が投入したソ連製の新鋭戦車T-72が初めて実戦を行い、イスラエル軍の主力MBTであるメルカヴァ戦車を撃破している。

ソ連軍がT-62中戦車を本格的実戦に投入したケースになったのは、1979年末に開始されたアフガニスタン紛争においてである。
初期には空挺部隊と呼応した首都カーブルへの電撃的侵攻に参加し、首都制圧部隊の先頭に立った。
しかし、ゲリラ相手の戦闘では通常装甲のT-55中戦車やT-62中戦車は、容易にRPG-7のような携帯式無反動砲が発射するHEAT弾で撃破されてしまい、簡易複合装甲の追加等の改修を実施するきっかけとなった。

1980年代以降、ソ連軍が主力MBTとしてT-72戦車やT-80戦車等を大量配備し、T-62中戦車の退役が進む中でこれら余剰兵器が中東やアジアの友好国に引き渡されるようになった。
イラクはこの時にソ連から購入したT-62中戦車をイラン-イラク戦争に投入した他、1991年の湾岸戦争地上戦に使用し今日も自国流の改修をしながら運用を継続している。

北朝鮮は1980年代になってソ連で不要になった生産プラントの譲渡を受け、T-62中戦車のライセンス生産を始めた。
今日までに北朝鮮は2,000両のT-62中戦車を生産したといわれ、その内の200両をイランに輸出している。
現在、T-62中戦車シリーズは改修型を含めて概ね8,200両前後がロシア、北朝鮮、シリア、エジプト、キューバなど合計18カ国で戦力に留まっている。


<T-62中戦車 初期型>

全長:    9.335m
車体長:   6.63m
全幅:    3.33m
全高:    2.395m
全備重量: 37.0~37.5t
乗員:    4名
エンジン:  V-55V 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 580hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 450km
武装:    55口径115mm滑腔砲U-5TS×1 (40発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,500発)
装甲厚:   20~242mm


<T-62中戦車 後期型>

全長:    9.335m
車体長:   6.63m
全幅:    3.33m
全高:    2.395m
全備重量: 37.0~37.5t
乗員:    4名
エンジン:  V-55V 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 580hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 450km
武装:    55口径115mm滑腔砲U-5TS×1 (40発)
        12.7mm重機関銃DShKM×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (2,500発)
装甲厚:   20~242mm


<T-62M戦車>

全長:    9.335m
車体長:   6.63m
全幅:    3.566m
全高:    2.395m
全備重量: 42.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-55U 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 620hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 450km
武装:    55口径115mm滑腔砲U-5TS×1 (42発)
        12.7mm重機関銃DShKM×1 (300発)
        7.62mm機関銃PKT×1 (3,000発)
        9K116-2シェクスナ対戦車誘導ミサイル・システム
装甲:    複合装甲


<参考文献>

・「パンツァー1999年7月号 ロシアにおけるT-55、T-62の近代化改修」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2012年8月号 1960~70年代のロシア軍戦車」 前河原雄太 著  アルゴノート社
・「パンツァー2004年9月号 T-62戦車の開発・構造と発展」 白井和弘 著  アルゴノート社
・「パンツァー2020年4月号 T-62・T-72の生まれたワケ」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2013年7月号 ロシア軍戦車 70年の軌跡」 城島健二 著  アルゴノート社
・「ロシア軍車輌写真集」 古是三春/真出好一 共著  アルゴノート社
・「世界のAFV 2021~2022」  アルゴノート社
・「グランドパワー2023年2月号 ソ連軍主力戦車 T-62 (1)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2023年3月号 ソ連軍主力戦車 T-62 (2)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2019年6月号 ソ連軍主力戦車(2)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2003年5月号 ソ連戦車 T-62」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後~現代編」  デルタ出版
・「ソビエト・ロシア 戦車王国の系譜」 古是三春 著  酣燈社
・「戦車名鑑 1946~2002 現用編」  コーエー
・「新・世界の主力戦車カタログ」  三修社


HOME研究室(第2次世界大戦後~現代編)戦車戦車(ソヴィエト/ロシア)>T-62中戦車