BACK  HOME

T-35重戦車


試作第1号車 T-35-1



試作第2号車 T-35-2



T-35重戦車 1933年型



T-35重戦車 1939年型



●開発

イギリスのヴィッカーズ・アームストロング社はイギリス陸軍の要請に基づいて、1925年末に「A1E1インディペンデント(Independent:独立)」という巨大な多砲塔重戦車を完成させた。
このインディペンデント重戦車はその名の通り戦車部隊の先陣を切って単独で敵陣に突進し、その強力な火力と防御力によって後続の軽戦車や中戦車のための突破口を開く役目を担うことを想定して開発された。

インディペンデント重戦車は全長8mの巨大な車体に独立した5個の砲塔を装備するまさに陸上戦艦というべきものであり、世界中の戦車関係者にセンセーショナルを巻き起こした。
さらに1928年には同じくヴィッカーズ社によって、独立した3個の砲塔を装備する16t級の多砲塔中戦車A6シリーズが開発され、「Mk.III中戦車」の名称でイギリス陸軍に制式採用されることになった。

しかし1929年に始まった世界的な金融恐慌の影響でイギリス陸軍の予算が削減されたことや、生産コストが非常に高いことが原因でイギリス陸軍はインディペンデント重戦車とMk.III中戦車の量産化を見送り、より生産コストの安い戦車を新たに開発することになった。
一方、当時5カ年計画によって世界恐慌と無縁の経済成長を続けていたソヴィエト連邦は、敵戦車との戦闘と堅固な防御陣地の突破とを主任務とする多砲塔戦車の開発計画を1930年から開始した。

ただ当時のソ連は一から戦車を新規開発するには技術も経験も不足していたため、同様の目的で開発された多砲塔戦車であるイギリスのインディペンデント重戦車とヴィッカーズ16t戦車に注目し、両者のサンプル車両とライセンス生産権の購入を打診した。
しかし、イギリス国内には共産主義国家であるソ連に兵器を売却することに対して政財界や世論の抵抗が根強かったため、イギリス政府はこれらの戦車の売却を許可しなかった。

このためやむを得ず、ソ連は自力で多砲塔戦車の開発を続けることになった。
ソ連国内で最初に進められた多砲塔戦車の開発計画はT-30重戦車、75t級重戦車、そして後のT-35重戦車に繋がるTG中戦車の3つが存在した。
T-30重戦車はソ連軍機械化自動車化局(UMM)が、ソ連軍砲兵局の中央設計局(GKB-GAU)に対して1930年12月に開発を要請したものである。

このT-30重戦車は重量50t、76.2mm戦車砲2門と機関銃5挺を装備する車両として計画されたが、当時のソ連の技術力では50tの重量を支える装軌式走行機構を開発するのが困難だったため、1932年初めに略式設計図と木製モックアップが出来上がった時点で開発は中止された。

また1930〜31年にかけて、国家政治保安部(OGPU、ソ連の秘密警察)の経済局に設置された自動車戦車ディーゼル機関設計部(EKU OGPU LVO、反革命の罪で逮捕した設計技師たちに民需・軍需用の各種機械の開発を行わせていた囚人設計局)において75t級の多砲塔重戦車の開発が進められたが、こちらも技術的な理由で開発が暗礁に乗り上げてしまった。

しかし当時友好関係にあったドイツから戦車技術者を招くことで、新型多砲塔戦車の開発計画は本格的に始動することになった。
1930年3月にエドヴァルト・グローテ技師をリーダーとするドイツ人戦車技術者のグループがソ連に到着し、EKU OGPUのウユク技術課長はグローテに対して重量18〜20t、路上最大速度35〜40km/h、最大装甲厚20mm、76.2mm戦車砲と37mm戦車砲を1門ずつ、および機関銃5挺を装備する多砲塔中戦車の開発を要請した。

この戦車は「TG」(「グローテ戦車」の略)と名付けられ、TG中戦車を設計・製造するためにレニングラード(現サンクトペテルブルク)の第232ボリシェヴィーク工場にAVO-5特別設計局が設けられた。
第232工場で1931年に製作されたTG中戦車の試作車は、それまでのソ連製戦車とは大きく異なる斬新なコンセプトで設計されていた。

車体と砲塔は先進的な全溶接構造となっており、避弾経始を考慮して曲面を多用したスマートなデザインに設計されていた。
武装レイアウトは車体上部に曲面で構成された砲塔のような固定戦闘室を設け、戦闘室前部に76.2mm高射砲M1915/28(9K)をベースに開発した76.2mm戦車砲を限定旋回式に装備し、さらに戦闘室の上部に半球形の全周旋回式砲塔を設けて37mm戦車砲PS-1を装備していた。

また副武装として戦闘室の左右と後部に7.62mm液冷機関銃PM1910を1挺ずつ装備した他、操縦室前面の左右にも7.62mm空冷機関銃DTを1挺ずつ装備していた。
足周りはBT快速戦車シリーズに採用されたクリスティー式サスペンションと良く似たコイル・スプリングによる独立懸架方式を採用しており、片側5個の大直径転輪と片側6個の上部支持輪を組み合わせていた。

後のT-35重戦車と同じく前方に誘導輪、後方に起動輪を配置しており、足周りを防護するためにサイドスカートを装着していた。
TG中戦車のエンジンはグローテが設計した出力240hpの空冷ガソリン・エンジンを搭載することが予定されたが、このエンジンの開発が遅れたため、試作車には代わりに航空機用のM-6 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力250hp)が剥き出しの状態で搭載された。

変速・操向機はグローテが設計したコンパクトなものが搭載され、このパワープラントによって戦闘重量25tのTG中戦車は路上最大速度35km/h、路上航続距離150kmの機動性能を発揮した。
このようにTG中戦車は当時としては非常に高性能で先進的な設計の戦車であったため、ソ連軍首脳部は性能が不充分で評判が悪かったT-24中戦車の生産を中止し、代わりにTG中戦車をソ連軍の主力中戦車として採用することを検討した。

そしてウクライナの第183ハリコフ機関車工場(KhPZ)において、1932年中に2,000両のTG中戦車の生産を行う方針が提起されるに至った。
しかしBT-2快速戦車の生産コストが6万ルーブルだったのに対し、TG中戦車の生産コストは150万ルーブルとあまりにも高価過ぎることが問題視された。

当時、1931年1月にF.ジェルジンスキー軍事技術学校に設立された戦車・トラクター設計局(KBVOAO、主任技師S.A.ギンズブルク)において、ソ連が一時購入を検討したイギリスのヴィッカーズ16t戦車を模倣した3砲塔式の多砲塔中戦車(後のT-28中戦車)の開発が進められていたが、T-28中戦車はTG中戦車より生産コストが安くなることが見込まれ、性能的にもT-24中戦車よりはるかに高性能だったためソ連軍首脳部の注目を集めることとなった。

TG中戦車の試作車は1931年6〜10月にかけて各種試験に供されたが、結局ソ連軍首脳部はTG中戦車の採用を見送り、T-28中戦車をソ連軍の主力中戦車として大量生産する方針を決定した。
1931年10月にUMMはTG中戦車の開発過程においてソ連の戦車技術者たちが充分な経験を積んだと判断し、今後はグローテらドイツ人技術者の協力を断り、ソ連の技術者のみでTG中戦車をベースに新型多砲塔戦車の開発を続けることを決定した。

それまでドイツ人技術者を中心に活動していたAVO-5は、グローテの代理を務めていたN.V.バルィコフ技師を責任者とするソ連技術者の設計局として再編され、さらに1933年2月に第232工場から第174K.E.ヴォロシーロフ工場が分離独立した際に、試作機械設計部(OKMO)に改組されて第174工場に移転した。
UMMはAVO-5に対して、1932年8月1日までに35t級の多砲塔重戦車を「T-35」の名称で開発・製造することを命じた。

バルィコフはS.A.ギンズブルク、S.O.イヴァーノフ、L.S.トロヤーノフらと共にT-35重戦車の開発を進め、1932年8月20日には予定より遅れたが、T-35重戦車の試作第1号車であるT-35-1が第232工場で完成している。
続いて1933年2月から試作第2号車のT-35-2の製作が第174工場で開始され、同年4月に完成した。
T-35重戦車の2両の試作車は工場で慣らし運転を行って細かい不具合を取り除いた後、モスクワ郊外のクビンカにある装甲車・戦車科学技術研究所(NIIBT)の試験場に送られて各種試験に供された。

1933年5月1日のメーデーにはT-35-1がモスクワ、T-35-2がレニングラードで開催されたパレードにそれぞれ参加して一般公開され、同年8月11日には「T-35重戦車」としてソ連軍に制式採用されている。
最初の試作車であるT-35-1は戦闘重量44.8tで、計画重量を10tもオーバーしていた。
T-35-1は5個の全周旋回式砲塔を持ち、車体上面中央部に搭載された主砲塔を囲む様に主砲塔の前部と後部の左右に副砲塔がそれぞれ2個ずつ配置されていた。

主砲塔の防盾には76.2mm連隊(歩兵)砲M1927をベースに開発された20.5口径76.2mm戦車砲PS-3が装備されており、主砲の右側には独立したボールマウント式銃架が設けられ7.62mm機関銃DTが装備されていた。
なお76.2mm戦車砲PS-3は結局供給が間に合わなかったため、T-35重戦車の試作車は代わりにダミー砲身を取り付けた状態で各種試験やパレードに参加していた。

主砲塔の右前方と左後方の副砲塔にはBT-2快速戦車と同じく45口径37mm戦車砲B-3と7.62mm機関銃DTが防盾に同軸装備されており、左前方と右後方の副砲塔には前面にボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTが装備されていた。
主砲塔の周りに4基の副砲塔を配置するという武装レイアウトはイギリスのインディペンデント重戦車と同じであるため、T-35重戦車はインディペンデント重戦車を模倣して設計されたという説が一般的に知られている。

しかしAVO-5がT-35重戦車を開発するに当たって同設計局が開発を手掛けたTG中戦車や、ドイツ陸軍がカザン戦車学校で秘密裏に試験を行っていた試作重戦車「重トラクター」、AVO-5のスタッフも開発に関わったT-28中戦車を参考にした事実は判明しているが、インディペンデント重戦車を参考にしたことを示す資料は今のところ見つかっていないため、T-35重戦車はソ連が独自に設計したものであるという説を唱える研究者も存在する。

T-35-1はまさに陸上戦艦というべき重武装の戦車であったが、砲塔が増えたことによる重量増への対処として装甲を薄くして軽量化せざるを得なくなり、装甲厚は車体前面で30mmと防御力が低くなってしまった。
また4個の副砲塔の射界は、互いの存在が射線を妨害し死角も多かった。
乗員は車長、主砲塔の砲手と装填手兼無線手、副砲塔の砲手4名、正・副操縦手の合計9名となっていた。

エンジンはTG中戦車と同じ航空機用のM-6ガソリン・エンジン(出力が300hpに強化されていた)を搭載し、変速・操向機もTG中戦車用のものを改良したものを採用していた。
足周りの構造はTG中戦車とは大きく異なっており、T-24中戦車やT-28中戦車と同じく転輪を2個ずつボギーで連結しコイル・スプリングで懸架する方式を採用しており、足周りを防護するために10mm厚のサイドスカートが装着されていた。

後の生産型とは異なり車体前面上部装甲板は操縦室前面装甲板と一体化されており、副操縦手の位置する右側を切り欠いてボールマウント式に7.62mm機関銃DTを装備していた。
また操縦手および副操縦手の頭上には、周囲に視察用スリットを備える背の高い円筒形の後ろ開き式ハッチが設けられていた。

試作第2号車のT-35-2はほぼT-35-1と同形態であったが、主砲塔やサイドスカート、副砲塔の防盾形状等が変更されていた。
またエンジンは航空機用のM-17ガソリン・エンジンを原型とする、M-17T V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力450hp)を搭載していた。

このM-17TエンジンはBT-7快速戦車やT-28中戦車のエンジンと同じもので、T-35-1に搭載されたM-6エンジンに比べて大幅に出力が向上しており、T-35重戦車の生産型にも出力強化型が採用されている。
T-35-2が完成して間もない1933年5月に、ウクライナの第183ハリコフ機関車工場に対してT-35重戦車の量産準備を行うことが命じられた。

T-35重戦車の試作車を製作したレニングラードの第232工場ではなく、ハリコフの第183工場が量産を担当することになった理由は、第232工場が当時ソ連軍の主力軽戦車であったT-26軽戦車の生産に追われていたためである。
第232工場で試作車が製作されたT-28中戦車も同様の理由から、レニングラードの第100クラースヌィ・プチロフ工場(1934年末にキーロフ工場に改称)で量産が行われている。

1933年から量産が開始されたT-35重戦車の生産型は、他のソ連軍戦車と砲塔の共通化を図るために試作車から形状や武装が大きく変化し、車体も延長されて全長10m近い巨大戦車となった。
また1939年に生産された最後期のT-35重戦車はスペイン内戦の戦訓から、避弾経始を考慮して砲塔に傾斜装甲が採り入れられており、1933〜38年に生産された従来のタイプを「T-35重戦車 1933年型」、砲塔に傾斜装甲を採用した最後期型を「T-35重戦車 1939年型」と分類するのが一般的になっている。

T-35重戦車は1933年型が1933〜38年にかけて合計55両、1939年型が1939年2〜6月に6両生産されている(1938年10〜12月に生産された4両のT-35重戦車も傾斜砲塔を持つ1939年型だったとする資料もある)。
両型合わせて61両が完成したT-35重戦車は、多くがハリコフ軍管区の独立第5重戦車旅団へ配属された。

T-35重戦車の生産数
年 次 生産数
1933年 2
1934年 10
1935年 7
1936年 15
1937年 10
1938年 11
1939年 6
合 計 61


●車体の構造

T-35重戦車は元々、E.グローテらドイツ人技術者の手で開発されたTG中戦車をベースにした発展型としてAVO-5に開発が命じられたものであったが、実際に完成した車両は外観も構造的にもTG中戦車とはかなりの相違点が見られ、その実態はKBVOAOとAVO-5がイギリスのヴィッカーズ16t戦車を模倣して共同開発したT-28中戦車の拡大型というべきものであった。

これは、T-35重戦車の開発にT-28中戦車の開発を手掛けたS.A.ギンズブルクが参加していたためで、開発期間を短縮するためにT-35重戦車は多くの部分にT-28中戦車と共通の設計が採り入れられていた。
T-35重戦車の車体と砲塔は当初圧延鋼板を溶接して組み立てられたが、当時のソ連はまだ電気溶接の技術が不充分でコストも高かったため、1936年末から溶接とリベット接合を併用して組み立てられるようになり、材質も表面浸炭鋼板に変更された。

その後1930年代末期に低コストで充分な強度を持つ電気溶接技術がソ連でも確立されたため、再び1938年から全溶接構造が採用されるようになり、1939年の生産車は全て溶接で組み立てられた。
この組み立て方式と装甲材質の変遷は、同時期に生産されたT-28中戦車でも同じ変化を辿っている。

T-35重戦車の車内レイアウトは車体前部が操縦手と副操縦手を収容する操縦室、車体中央部が砲塔を搭載した戦闘室、車体後部が機関室となっておりこれはT-28中戦車と同様であったが、5砲塔式のT-35重戦車の方が広い戦闘室スペースを必要としたため、T-28中戦車の車体長が7.36mだったのに対してT-35重戦車の車体長は9.72mとかなり長大になっていた。

また試作車では車体前面上部装甲板が操縦室前面装甲板と一体化されていたのが、生産型では分割されて前面上部装甲板は大きな傾斜角を持つようになった。
試作車で副操縦手の前方に設けられていたボールマウント式の7.62mm機関銃DTは廃止され、代わりに操縦手の前方に上開き式の四角い視察クラッペが設けられた。

この視察クラッペは生産型の初期では操縦室前面装甲板と面一になっており、ヒンジは小型のものが2個用いられていたが、後に前面装甲板から張り出したタイプの視察クラッペに変更され、ヒンジも大型のもの1個に変更されている。
また生産途中から、視察クラッペの前方に跳弾板が設けられるようになった。

試作車で副操縦手の頭上にあった円筒形ハッチは、生産型では右前方の副砲塔が大型化されて前方に張り出した影響で廃止され、操縦手の頭上のハッチも試作車の背の高い円筒形のものに代えて、生産型では左右開き式の四角いハッチが用いられた。
操縦手用ハッチは1938年途中から左開きの二段折り式に開閉方式が変更され、最後期の一部の車両にはBT-7快速戦車1937年型のものと同じ左開き式の横長楕円形ハッチが用いられた。

前述のようにT-35重戦車の車体中央部は5基の砲塔を搭載する戦闘室となっていたが、試作車でも生産型でも76.2mm戦車砲を装備する主砲塔は全周方向の射界を確保するために副砲塔よりも一段高い位置に搭載され、主砲塔の下には横長の六角柱状の上部構造が設けられていた。
この上部構造は試作車では生産型よりかなり背が低く、かつ試作車では副砲塔も車体上面より嵩上げして搭載されていたため、主砲塔の後部バスルが副砲塔上面ハッチの開閉の邪魔になるなど不都合が生じた。

このため生産型では上部構造が大幅に嵩上げされ、副砲塔の上面よりも高い位置に主砲塔が搭載されるようになった。
また生産型では上部構造が前後方向にも拡大されたため、主砲塔が副砲塔上面ハッチの開閉の邪魔になる事態はかなり改善されたが、右前方と左後方の副砲塔が大型の2名用のものに変更されたこともあって戦闘室スペースが試作車よりかなり長くなり、これに合わせて車体長を延長せざるを得なくなった。

この車体長の延長は、元々良くなかったT-35重戦車の旋回性能をさらに悪化させる結果となってしまった。
T-35重戦車の生産型では、主砲塔を搭載する上部構造の左右フェンダー上に煙幕展開装置を収納する箱型の装甲ボックスが設けられたが、1939年に6両生産されたT-35重戦車1939年型では上部構造と面一になるように前面と後面に傾斜角を与えたタイプの装甲ボックスに変更されている。

また1939年型の内1939年5〜6月に生産された最後期の3両では、避弾経始を考慮して装甲ボックスの側面にも傾斜角が付けられていた。
前述のようにT-35重戦車の車体後部はエンジンや変速・操向機、冷却装置を収納する機関室となっており、機関室上面には前部中央にキャブレターの吸気筒、その左右に装甲板で覆われたラジエイターの吸気口、後部に大型の排気用ルーヴァーが設けられていた。

生産当初は吸気筒の後方に横長の大型マフラーが設けられていたが、後にこのマフラーは廃止され排気管を直接機関室上面に出すように改められた。
車体後面上部装甲板には変速・操向機の四角い点検口が2個設けられていたが、生産当初は四角い蓋が6本のボルトで固定されていたのが、後に蓋のサイズが大型化されて8本のボルトで固定されるようになり、最終的に利便性を考慮して横に開く四角い点検用ハッチに変更されている。

この際、点検用ハッチと干渉しないように機関室上面の排気用ルーヴァー後端のフードが小型化されている。
T-35重戦車の生産型のエンジンは、T-35-2に用いられたM-17Tガソリン・エンジンの出力強化型であるM-17L V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力500hp)が採用されたが、T-35-2と同じくM-17Tエンジンを搭載していたとする資料もある。

変速機は前進4段/後進1段で操向機はクラッチ・ブレーキ式となっており、操縦手は2本の操向レバーを用いて操向を行うようになっていた。
T-35重戦車の生産型のサスペンション機構は試作車と同じく、転輪を2個ずつボギーで連結しコイル・スプリングで懸架する方式を採用していたが、試作車より転輪サイズがやや小型化されると共に転輪数が試作車の片側6個から8個に増やされた。

これは生産型の車体が試作車に比べて延長されたことに伴う変更であるが、上部支持輪の数は試作車と同じ片側6個のままであった。
また生産型では、前部の誘導輪と第1転輪の間に履帯支持用の鋼製補助輪が新たに設けられた。
T-35重戦車の誘導輪と起動輪はT-28中戦車とほぼ同様のものが用いられており、履帯もT-28中戦車と同じクロウム・ニッケル鋼の精密鋳造のものが採用されていた。

T-35重戦車の生産型でも試作車と同じく足周りを防護するために10mm厚のサイドスカートが装着されたが、1937年以降の生産車では履帯の張度調整用ボルト(誘導輪の位置を前後に調整して固定するためのボルト)の操作を容易にするために、ボルト周囲のサイドスカート上部に切り欠きが設けられるようになった。
さらに1938年後期以降の生産車では、サイドスカートと走行装置の間に溜まった泥や雪を掻き出すためにサイドスカート上部に外開き式に開閉できる部分が数カ所設けられるようになった。

当初は開閉部分の形状が五角形になっており合計6カ所が開閉するようになっていたが、1939年5〜6月に生産された1939年型の最後期の3両ではサイドスカートの開閉部分の形状が長方形に改められ、合計7カ所が開閉するようになっていた。
T-35重戦車の車体装甲厚は操縦室前面と車体前面中央部が50mm、前面上/下部が20mm、側/後面が20mm、上面が10mm、下面が10〜20mmとなっており、主砲塔を支える上部構造の装甲厚は全て20mmであった。

しかし1936年に勃発したスペイン内戦において、ソ連が左派の人民戦線政府を支援するためT-26軽戦車やBT-5快速戦車で編制された義勇部隊を派遣した結果、これらの戦車は装甲防御力が不充分であることが判明したため、ソ連軍首脳部は既存の戦車の装甲防御力を向上させる必要性を認識することとなった。
そして1937年7月25日に第183工場に対して、T-35重戦車の車体と砲塔の装甲を強化する改修プランを策定することが命じられた。

これに応じて第183工場では避弾経始を考慮して傾斜装甲を採用した新型砲塔をT-35重戦車に導入し、操縦室前面と車体前面中央部の装甲厚を70mm、主砲塔の外周部と上部構造の装甲厚を25mmに強化するプランを立案した。
しかしこの時期、ソ連軍内部ではT-35重戦車のような多砲塔戦車はもはや時代遅れの存在であるという認識が広まりつつあり、T-35重戦車を改良する必要性に疑問を呈する向きが存在していた。

このためT-35重戦車の改修プランはなかなか承認されなかったが、1938年3月27日のソ連閣僚会議においてようやく承認される運びとなり、1939年2〜6月にかけて6両の改良型T-35重戦車(1939年型)が第183工場で生産された。
このT-35重戦車1939年型は装甲の強化に伴って、戦闘重量が1933年型の50tから54tに増加していた。


●砲塔の構造

T-35重戦車は砲塔レイアウトについては試作車と生産型で基本的に変わっておらず、車体中央部前寄りの一段高い位置に主砲の76.2mm戦車砲を装備する主砲塔を搭載し、その右前方と左後方に対戦車用の副砲を装備する副砲塔、左前方と右後方に対歩兵用の機関銃を装備する副砲塔を配置していた。
しかし生産型では生産効率を向上させるために他のソ連軍戦車と砲塔の共通化が図られた結果、砲塔の形状と武装が試作車と大きく変化した。

T-35重戦車の生産型では16.5口径76.2mm戦車砲KT-28を装備する主砲塔がT-28中戦車1933年型から、46口径45mm戦車砲20Kを装備する右前方と左後方の副砲塔がBT-5快速戦車1933年型から、7.62mm機関銃DTを装備する左前方と右後方の副砲塔がT-26軽戦車1931年型からそれぞれ流用された。
この変更に合わせて生産型では乗員配置も変更されており、車長、副車長、主砲塔の砲手、装填手兼無線手、副砲塔長4名、正・副操縦手の計10名が搭乗するようになった。

また生産型ではこの他に、2名の専属車外員(上級操縦手、機関手)も配置されるようになった。
T-35重戦車の生産型の主砲には当初、76.2mm戦車砲KT M1927/32が採用された。
この戦車砲は、T-28中戦車とT-35重戦車の主砲として装備することが予定された76.2mm戦車砲PS-3の量産化が遅れたため、第100クラースヌィ・プチロフ工場の火砲設計局が代用品として急遽開発したもので、同設計局が開発した牽引式の76.2mm連隊砲M1927を戦車用砲架に搭載した応急的な戦車砲であった。

ちなみに名称の”KT”は、「クラースヌィ・プチロフ戦車砲」の略称である。
1936年初頭からは、T-28中戦車の生産型の主砲に採用された76.2mm戦車砲KT-28がT-35重戦車にも装備されるようになった。
KT-28はやはり76.2mm連隊砲M1927をベースに開発された戦車砲であるが、駐退復座装置の改良によって後座長がKT M1927/32の560mmから500mmに短縮されており、俯仰装置や照準装置も一新されていた。

しかし原型が野戦榴弾砲であるためKT-28は装甲貫徹力の低さは改善されておらず、徹甲弾を使用した場合砲口初速370m/秒、装甲貫徹力は射距離500mで31mm、1,000mで28mmとなっていた。
第100工場の火砲設計局では1937年に装甲貫徹力が大幅に向上した23.7口径76.2mm戦車砲L-10を開発しており、T-28中戦車は同年から主砲を従来のKT-28から新型のL-10に変更しているが、T-35重戦車は1939年の生産終了時まで引き続き76.2mm戦車砲KT-28を装備した。

これはT-35重戦車が装甲貫徹力に優れる長砲身の45mm戦車砲を副砲として2門装備していたため、対戦車戦闘はこの副砲で対処し、主砲は専ら榴弾による敵歩兵・陣地攻撃に用いるものと割り切ったためである。
T-35重戦車の主砲塔は試作車のT-35-1とT-35-2、生産型でそれぞれ細部の形状が異なっていたがいずれも円筒形を基本とし、後部に楕円形のバスルを追加したデザインになっていた。

主砲塔周囲の装甲厚はT-35重戦車1933年型では20mmとなっていたが、1939年に6両生産された1939年型の主砲塔は避弾経始を考慮して周囲に傾斜装甲が採用されており、装甲厚は25mmとなっていた。
主砲塔の左右側面には防弾ガラス付きの視察スリットと、携行火器を射撃するための内蓋式のガンポートがそれぞれ1基ずつ設けられており、右側が車長用、左側が砲手用となっていた。

T-35重戦車の主砲塔上面装甲板は生産型では避弾経始を考慮して外周部が傾斜面にプレス加工されており(1939年型では廃止された)、砲手と車長の頭上にあたる部分は干渉を避けるために装甲板がカマボコ型に押し出し加工されていた。
また1933年型の主砲塔上面装甲板の前方には大きな星型マークが刻印されていたが、1939年型ではこの刻印は廃止されている。

主砲塔上面装甲板の装甲厚は一貫して15mmとなっており、前部右側に車長用のPTK展望式サイト、前部左側に砲手用のPT-1(M1932)潜望式サイトがそれぞれ装備されていた。
主砲塔上面装甲板の中央には生産当初は横長の前開き式ハッチが1枚設けられていたが、1936年以降の生産車では対空機関銃用のP-40リングマウントを備える円形の砲手用ハッチと、縦長の前開き式の車長用ハッチが左右並列に設けられるようになった。

なお1939年型の一部の車両では、縦長楕円形の後ろ開き式の新型車長用ハッチが用いられていた。
T-35重戦車の主砲塔後部に張り出したバスルには、T-28中戦車の主砲塔と同様に後部中央に7.62mm機関銃DTを射撃するための縦長のガンポートが設けられており、使用しない時に開口部を塞ぐため下側にヒンジが付いた起倒式のカバーが取り付けられていた。

なおT-28中戦車の場合、1936年以降の生産車ではこの縦長ガンポートは密閉式のボールマウント式機関銃架に変更されているが、T-35重戦車の場合は1933年型は全て縦長ガンポートのままであった。
砲塔に傾斜装甲を採用した1939年型では、2両のみがボールマウント式機関銃架を装着していた。
T-35重戦車の主砲塔後部バスル内には、T-28中戦車と同じく71-TKシリーズの無線送受信機が搭載されていた。

T-35重戦車は生産当初、交信範囲18〜20kmの71-TK-1無線機を搭載しており、主砲塔の周囲には6本の支柱で支えられたフレームアンテナを装備していた。
1935年から交信範囲を40〜60kmに広げた71-TK-2無線機が導入されたが、機関系のノイズが入って充分に性能を発揮できないきらいがあった。
その結果、改良型の71-TK-3無線機が1936年より用いられるようになった。

71-TK-3無線機の交信範囲は30〜50kmで71-TK-2無線機に比べてやや交信範囲が狭くなったものの、機器のノイズ対策を施したことで性能は向上していた。
また1935年から、主砲塔周囲のフレームアンテナが8本の支柱で支えるタイプに変更された。
傾斜砲塔を採用した1939年型では、主砲塔周囲のフレームアンテナを廃止して代わりにホイップアンテナを装備した車両も存在した。

T-35重戦車の主砲塔前部には砲架を介して主砲の76.2mm戦車砲KT-28が装備されており、主砲の俯仰角は−5〜+25度となっていた。
主砲防盾の左側には、砲手用にTOP(M1930)望遠式サイトが装備されていた。
主砲塔前部右側にはボールマウント式銃架を介して7.62mm機関銃DTが装備されており、主砲と独立して操作できるようになっていた。

主砲塔の旋回は電動モーターによる動力旋回式となっており、旋回速度は16秒/周、9.3秒/周、7.4秒/周の3段階に切り替え可能であった。
主砲塔内部には前方右側に車長席、主砲の砲尾を挟んで左側に砲手席、砲尾の後方に装填手兼無線手の折り畳み座席がそれぞれ設けられており、T-28中戦車と同様に主砲塔に連動して旋回する砲塔バスケットも備えていた。

T-35重戦車の右前方と左後方の副砲塔は、試作車ではT-26軽戦車1931年型に良く似た1名用の砲塔が搭載されており、武装はBT-2快速戦車と同じく37mm戦車砲B-3と7.62mm機関銃DTを防盾に同軸装備していた。
一方生産型では、第183工場がBT-5快速戦車(1933年型)とT-26軽戦車(1933年初期型)用に開発した円筒形の2名用砲塔から後部バスルを取り外したものが搭載され、武装は45mm戦車砲20Kと7.62mm機関銃DTの組み合わせとなった。

この砲塔は旋回の邪魔にならないようバスルが取り外されただけでなく、砲塔上面にあるハッチの形状がBT-5/T-26用のものと異なっており、BT-5/T-26用砲塔では前開き式の横長のハッチ1枚だったのが、縦長の前開き式ハッチ2枚に変更されている。
また1939年に6両生産されたT-35重戦車1939年型では傾斜装甲を採用した新設計の砲塔が搭載され、砲塔上面のハッチは前開き式の横長のもの1枚に変更されている。

砲塔の装甲厚についてはいずれのタイプも外周部と防盾が15mm、上面が10mmとなっていた。
副砲塔には主砲塔のような動力旋回装置は装備されておらず、旋回ハンドルを操作して手動で旋回するようになっていた。
砲塔内には左側に砲手、右側に装填手が位置し砲手にはTOP望遠式サイト、装填手にはPT-1潜望式サイトがそれぞれ用意されていた。

右前方と左後方の副砲塔に装備された45mm戦車砲20KはT-35重戦車が対戦車戦闘を行う際の主武装となるもので、重量1.425kgのBR-240SP徹甲弾を使用した場合砲口初速757m/秒、射距離500mで38mm、1,000mで35mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
砲の俯仰角は−6〜+22度となっており、18発/分という高い発射速度を備えていた。

なお右前方の副砲塔は副車長が45mm戦車砲の操作、砲塔長が砲弾の装填をそれぞれ担当し、左後方の副砲塔は砲塔長が45mm戦車砲の操作、副操縦手が砲弾の装填をそれぞれ担当するようになっていた。
一方、T-35重戦車の左前方と右後方の副砲塔は試作車と生産型で大きな変化は見られず、基本的にT-26軽戦車1931年型の砲塔と同様のものでT-28中戦車の2基の副砲塔とも共通であった。

砲塔は1名用で前面のボールマウント式銃架に7.62mm機関銃DTを1挺装備しているのみであり、専ら敵歩兵の掃討に用いられた。
この砲塔は馬蹄形にデザインされていたが右利きの機関銃手が操作することを想定して、機関銃マウントが右寄りになるように左右非対称のデザインになっていた。

砲塔上面には後方に前開き式の横長のハッチが設けられており、T-28中戦車の副砲塔には無かった吊り上げ用のリングが左右に1個ずつ設けられていた。
T-35重戦車1939年型では傾斜装甲を採用した新設計の砲塔が搭載され、砲塔上面のハッチは縦長の楕円形のものに変更されている。
いずれのタイプも砲塔の装甲厚は前面が22mm、側/後面が20mm、上面が10mmとなっていた。

T-35重戦車の弾薬搭載数は主砲用の76.2mm砲弾が96発(榴弾48発、榴散弾48発)、副砲用の45mm砲弾が226発(徹甲弾113発、榴弾113発)、7.62mm機関銃弾が10,080発となっていた。
76.2mm砲弾は主砲塔バスケット内の車長席、砲手席の下部に設けられた縦置きラックに各6発ずつ、砲尾の直下に設けられた縦置きラックに8発が搭載され、残りは主砲塔を支える上部構造の内部にラックを介して搭載されていた。

45mm砲弾は右前方と左後方の副砲塔の内周部に沿ってぐるりと設けられた縦置きラックに各24発ずつが搭載され、残りは戦闘室内にラックを介して搭載された。
7.62mm機関銃弾は5基の砲塔と上部構造、戦闘室内にラックを介して合計160個のドラム弾倉(63発入り)を搭載していた。


●戦歴

第183工場で生産されたT-35重戦車は、当初ハリコフ駐留の独立第5重戦車連隊へ配属された。
1935年12月にソ連軍機甲部隊が再編されたのに伴い、第5重戦車連隊は12月12日付で独立第5重戦車旅団に昇格したが同旅団は3個重戦車大隊、1個教導大隊、その他支援部隊で構成されていた。
ソ連軍の独立重戦車旅団は最高司令部の直轄予備戦力として位置付けられており、戦車軍団の指揮下に入らず独立して運用されるという点でドイツ陸軍の独立重戦車大隊とよく似ていた。

ソ連軍装甲車両局(ABTU、1934年12月にUMMから改組)は第183工場の技術者を教官にしたT-35重戦車の乗員・整備要員養成コースを設立すると共に、T-28中戦車を中心に編制された第3重戦車旅団の中にT-35教育戦車大隊を設置した。
T-35重戦車が配属された実戦部隊は第5重戦車旅団のみで、それ以外にNIIBTやソ連軍機械化自動車化学校(VAMM)、カザン戦車学校、レニングラード戦車学校などの各教育・研究施設に少数が配置された。

1939年3月にドイツがオーストリア、チェコを相次いで併合したため、危機感を募らせたソ連軍首脳部は3月31日に第5重戦車旅団をドイツ勢力圏に隣接するキエフ特別軍管区に移動させ、部隊番号を第14重戦車旅団に変更した。
しかし1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されたことにより、ドイツとの軍事衝突の危機は一旦回避されることとなった。

しかしその後1940年5月10日にドイツ軍の西方電撃戦が開始され、フランス・イギリス連合軍に対して大勝利したことでソ連軍首脳部は再びドイツに対する危機感を強め、フランスが降伏した直後の1940年6月27日にモスクワで開催された会議において、強力なドイツ機甲部隊に対抗するためにソ連軍の機甲部隊を拡大・再編することが決定された。

この時期、ソ連軍はT-34中戦車やKV-1重戦車などの強力な新型戦車の実戦配備を進めており、すでにT-35重戦車のような大柄で機動性の悪い多砲塔戦車は時代遅れの存在と認識されていた。
このためT-35重戦車は実戦部隊から退役させて戦車要員の教育やパレード用車両として用いることや、大口径榴弾砲を搭載する火力支援自走砲に改修することが検討された。

しかし機甲部隊の拡大に新型戦車の生産が追い付かない状況であったため、数合わせのためにT-35重戦車は実戦配備が続けられることになり、キエフ特別軍管区の第8機械化軍団傘下の第34戦車師団に配属された。
ドイツ軍によるソ連侵攻直前の1941年6月1日の時点で、第34戦車師団には第67、第68戦車連隊を中心に合計48両のT-35重戦車が実戦配備されていた。

また第183工場で5両のT-35重戦車の修理が行われていた他、VAMMに2両、沿ヴォルガ軍管区のサラトフ戦車学校と沿バルト特別軍管区戦車学校に1両ずつT-35重戦車が配置されていた。
同年6月22日にバルバロッサ作戦が発動されドイツ軍のソ連侵攻が開始されたが、このとき第34戦車師団は夏季演習のためリヴォフ南西部のサドーヴァ・ヴィーシニャ演習場に駐留していた。

侵攻してくるドイツ軍を迎え撃つため第34戦車師団はT-35重戦車45両(修理中だった3両はサドーヴァ・ヴィシーニャ演習場に残され、6月24日の部隊撤退時に爆破処分された)、KV重戦車7両、BT快速戦車25両、T-26軽戦車238両をもって出撃し、22日中に83km行軍してチーシキ近くに集結した。
さらに25日までに330kmの行軍を行いクラースニェ、ブースク地区に到着した。

しかし当時のソ連機甲部隊は整備部隊の機材や交換パーツ、輸送・牽引用車両が極端に不足しており、加えて当時の戦車としては異例の長距離行軍を実施したことが原因で、第34戦車師団のT-35重戦車の内21両が故障でリタイアする事態になってしまった。
その後も故障や修理不能によって放棄されるT-35重戦車が続出し、第34戦車師団の48両のT-35重戦車の内37両が故障等による放棄で失われる結果となった。

また乗員の操作ミスによる事故で失われた車両も5両あり、ドイツ軍との戦闘で失われたT-35重戦車はわずか6両とほとんどが戦闘以外の原因での損失であったことが分かる。
結局、第34戦車師団の48両のT-35重戦車は1941年7月9日までに全て失われた。
一方、実戦部隊に配備されなかったT-35重戦車の運命についてであるが、第183工場の5両は第1次ハリコフ攻防戦においてソ連軍がトーチカ代わりに使用し、戦後しばらくの間1両が公園に展示されていたという。

教習用としてVAMMに配置されていた2両のT-35重戦車は、同施設に置かれていた他の教習用戦車と共に独立戦車大隊に編制され、モスクワ攻防戦の反攻局面で実戦投入された。
同大隊は第22戦車旅団と共に戦闘に参加し、T-35重戦車は2両とも戦闘で失われた模様である。
サラトフ戦車学校に配置されていたT-35重戦車は1942年の冬季演習に参加していたことが確認されており、独ソ戦を生き延びることができたようである。

沿バルト特別軍管区戦車学校に置かれていたT-35重戦車については記録が無いが、戦闘で失われたものと推測されている。
現存するT-35重戦車はNIIBT付属の戦車博物館に展示されている1両のみであるが、これはサラトフ戦車学校に置かれていた車両ではないかといわれている。


<T-35重戦車 1933年型>

全長:    9.72m
全幅:    3.20m
全高:    3.43m
全備重量: 50.0t
乗員:    10名
エンジン:  M-17L 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 500hp/1,445rpm
最大速度: 28.9km/h
航続距離: 100km
武装:    16.5口径76.2mm戦車砲KT M1927/32またはKT-28×1 (96発)
        46口径45mm戦車砲20K×2 (226発)
        7.62mm機関銃DT×5 (10,080発)
装甲厚:   10〜50mm


<T-35重戦車 1939年型>

全長:    9.72m
全幅:    3.20m
全高:    3.74m
全備重量: 54.0t
乗員:    10名
エンジン:  M-17L 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 500hp/1,445rpm
最大速度: 28.9km/h
航続距離: 120km
武装:    16.5口径76.2mm戦車砲KT-28×1 (96発)
        46口径45mm戦車砲20K×2 (226発)
        7.62mm機関銃DT×5 (10,080発)
装甲厚:   10〜70mm


<参考文献>

・「独ソ戦車戦シリーズ18 労農赤軍の多砲塔戦車 T-35、SMK、T-100」 マクシム・コロミーエツ 著  大日本絵
 画
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著  大日本絵画
・「グランドパワー2002年7月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35 (1)」 古是三春 著  デルタ出版
・「グランドパワー2002年8月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35 (2)」 古是三春 著  デルタ出版
・「グランドパワー2000年8月号 ソ連軍重戦車(1)」 古是三春 著  デルタ出版
・「グランドパワー2011年11月号 KV重戦車シリーズ(1)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「第2次大戦 ソビエト軍戦車 Vol.2 重戦車/自走砲」 高田裕久 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2013年2月号 ソ連軍重自走砲(1)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」  ガリレオ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 斎木伸生 著  光人社
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著  グランプリ出版
・「図解・ソ連戦車軍団」 斎木伸生 著  並木書房
・「大祖国戦争のソ連戦車」 古是三春 著  カマド
・「戦車名鑑 1939〜45」  コーエー


兵器諸元

BACK  HOME