+概要
1940年5月10日に開始されたドイツ軍の西方電撃戦の成功を受けて、危機感を募らせたソ連軍首脳部は自軍装備の強化を検討した。
国防人民委員S.ティモシェンコ元帥の1940年6月13日付の報告書において、ドイツ軍のIII号戦車やIV号戦車に対抗するには、当時のソ連軍戦車が装備していた45mm戦車砲では威力不足であると結論されたため、新たに口径55〜60mmの戦車砲を開発することが要求された。
これを受けてゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の第92スターリン砲兵工場にある中央砲兵設計局(TsAKB)では、当時V.G.グラービン主任技師を中心に開発を進めていた、73口径長という長砲身の57mm対戦車砲ZIS-2をベースに、新型57mm戦車砲の開発を1940年9月にスタートさせた。
ベースとなった57mm対戦車砲ZIS-2は1940年5月に「F-31」の呼称で開発が開始されたもので、極めて強力な対装甲威力を持っていたが製造コストが非常に高いのが難点であった。
当時第92砲兵工場は、TsAKBのP.F.ムラヴィエフ技師がT-34中戦車の新たな主砲として設計した41.5口径76.2mm戦車砲F-34の整備に追われており、新型57mm戦車砲の開発・試験作業は遅れがちであった。
新型57mm戦車砲の試作第1号砲は1940年12月にようやく完成し、1941年3月いっぱいまでかけて工場内の射撃場で試験架台上での各種射撃試験が行われた。
1941年4月には、ソ連軍砲兵局(GAU)のソフリノ射撃場で新型57mm戦車砲をT-34中戦車に装備して運用・射撃試験が実施される運びになったが、4〜5月にかけて実施された実弾射撃試験では砲身命数が100〜150発と非常に短いことや、射撃精度面で満足がいかない点が欠陥として指摘された。
直ちに戦車砲は工場に差し戻され、砲身寿命延伸や精度向上のための設計見直しと再度の製造が大急ぎで行われた。
しかし新型57mm戦車砲の再試験は、独ソ戦勃発後の1941年7月に入ってからになってしまった。
7月6〜18日にかけて行われた再試験では、砲身命数が900発未満まで延伸されるなど指摘された欠陥が改善されたと評価された。
対装甲威力は非常に高く、試験では弾頭重量3.14kgの徹甲弾を砲口初速1,000m/秒で発射し、射距離1,000mで30度に傾斜させた70mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を見事に貫徹してみせた。
唯一の問題は、製造コストが相当に高いことであった。
しかし、当時ソ連軍は敗戦続きでドイツ軍に領内深くまで侵攻される危機的な状況であったため、ソ連軍首脳部はこの高価な57mm戦車砲をT-34中戦車に装備することを決断した。
新型57mm戦車砲は1941年7月末に「57mm戦車砲ZIS-4」としてソ連軍に制式採用され、早くも8月から第92砲兵工場で量産に入った。
1941年中の57mm戦車砲ZIS-4の生産数は、一旦打ち切りになる同年12月1日までに133門だった。
57mm戦車砲ZIS-4を装備したT-34中戦車には当初、「タンク・イストリビーチェリ」(駆逐戦車)という呼称が与えられ、再生産決定後の1943年5月にあらためて、「T-34タンク・イストリビーチェリ」(T-34駆逐戦車)として制式化されている。
本車はよく「T-34-57」とも呼ばれるが、T-34-57という呼称がソ連軍内部で使用された記録は見つかっていない。
1941年中、ウクライナの第183ハリコフ機関車工場(KhPZ)は10月にウラル山脈東部のニジニ・タギルに疎開する前に57mm戦車砲ZIS-4を12門受領し、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)のスターリングラード・トラクター工場(STZ)は20門を受け取っている。
その他にゴーリキーの第112クラースノエ・ソルモヴォ造船工場もZIS-4の供給を受け、T-34駆逐戦車の生産に参加したとされるがその数量は不明である。
いずれにしろこれらの工場は1941年9月からT-34駆逐戦車の生産を始めており、1941年中に合計42両が作られたとされている。
T-34駆逐戦車は、1941年10月〜42年初めにかけてのモスクワ攻防戦で実戦に投入された。
ヴォロコラムスク方面で1941年10〜11月に活動した第3軍傘下の第21戦車旅団には、10両のT-34駆逐戦車が配属された。
同旅団はT-34駆逐戦車を含むT-34中戦車29両と、軽戦車32両の計61両の戦車で編制されていた。
この部隊では10月後半、上級政治部員のE.グムリャがT-34駆逐戦車でドイツ軍戦線後方に出撃し、3kmにも渡る補給トラックの隊列を全滅させ、自らは大口径砲の直接照準射撃で撃破されるも、生き残った他の乗員1名と共に戦線復帰を果たす活躍をしている。
続く4日間で第21戦車旅団全体では3つのドイツ軍指揮所を破壊し、1,000名余の将兵を殲滅、戦車34両、トラック210両と31門の火砲を破壊したとされている。
しかし同旅団は11月25日にT-34駆逐戦車の全車を喪失してしまい、戦力としては存在をしないも同然となった。
戦死した旅団長のルーキン少佐と第1大隊長のアギバーロフ大尉は死後、ソヴィエト連邦英雄として顕彰された。
モスクワ攻防戦参加部隊では他に、カリーニン方面で活動していた同じく第3軍傘下の第8戦車旅団にも10月19日に8両のT-34駆逐戦車が編制に加えられた記録があるが、その活動については定かでない。
さて、一度生産終了となったT-34駆逐戦車であるが、1943年になって再び生産が再開されることとなる。
ソ連軍は1943年1月にレニングラード郊外でドイツ軍の新型重戦車ティーガーIを鹵獲したが、これを詳細に研究した結果、従来の76.2mm戦車砲装備のT-34中戦車やKV-1重戦車では対抗するのが難しいという結論に達した。
ソ連軍首脳部はドイツ軍がティーガーI重戦車を大量に東部戦線に投入してくることを予想し、これに対抗するために強力な主砲を持つT-34駆逐戦車を再度生産することを決定した。
1943年4月15日付の国家防衛委員会決定第3187号によって、ニジニ・タギルに疎開したKhPZが同地にあったウラル貨車工場(UVZ)と統合されて誕生した第183ウラル戦車工場(UTZ)に対して、5月までにT-34駆逐戦車の生産を再開することが求められた。
このT-34駆逐戦車の生産再開に併せて、TsAKBでは57mm戦車砲ZIS-4の機構に若干の改良が施された。
主な改良点は砲尾部を76.2mm戦車砲F-34と共用化し、簡便なものに変更したことである。
この改良を施された57mm戦車砲は、「ZIS-4M」(”M”はModifikatsiya:改造の頭文字)と呼称された。
UTZでは、T-34中戦車1943年型の六角型砲塔に57mm戦車砲ZIS-4Mを装備したT-34駆逐戦車4両が製作され、1943年7月20日〜8月18日にかけてゴロホヴェツ砲兵射撃場で実弾射撃試験が実施された。
射撃試験の結果は良好で、試作車4両の内の3両が試験終了後第100特別戦車中隊に配属され、実戦試験を受けることとなった。
しかし残念ながら3週間に渡った実戦配備時に、これらのT-34駆逐戦車がドイツ軍戦車と対戦する機会は無かった。
同中隊指揮官のヴォロサトフ大尉は、鹵獲したドイツ軍戦車やトーチカ等への試験射撃で充分に有効性を示したと報告している。
しかしながら、どうも榴弾の信管が高初速の着弾に適応できないために発火が良好でなく、不発弾が相当多いとの指摘もされた。
T-34駆逐戦車の総生産数は不明だが、1943年中に57mm戦車砲ZIS-4Mは計172門が作られていることから、少ないとはいえ百両単位で製作された可能性が高い。
いずれにしろ、より安価で威力充分な85mm戦車砲を装備するT-34-85中戦車の登場が確実になった時点で、高価な57mm戦車砲を装備するT-34駆逐戦車の生産は中断された。
また翌44年中には57mm戦車砲ZIS-4Mが19門追加生産されたが、これは生き残りのT-34駆逐戦車への交換用だったと見られる。
その他に、KV重戦車に57mm戦車砲ZIS-4Mを装備した「KVタンク・イストリビーチェリ」(KV駆逐戦車)も1943年に製造されたという説があるが、こちらについては詳細が全く分からない。
|