T-28中戦車 |
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+開発
1929年7月にM.N.トゥハチェフスキー元帥の構想に基づく最初の本格的機甲部隊建設構想、「ソ連軍における戦車、トラクター、自動車、装甲兵器の整備方針」を決めたソ連は、1930年にソ連軍機械化自動車化局(UMM)のI.A.ハレプスキー局長を団長とする兵器調査団をイギリスに派遣し、イギリスの戦車開発の中心的役割を担っていたヴィッカーズ・アームストロング社の工場および各種戦車の実験演習を視察させた。 この視察の目的は、ヴィッカーズ社が1920年代に開発した各種戦車の有用性を確認しながら、これらのライセンス生産権の購入を図ることであった。 当時のソ連はフランス製のルノーFT軽戦車のコピー生産を行っていた程度で、まだ本格的な戦車開発の経験も技術も持っていなかったため、海外の戦車開発技術を導入することが必要不可欠と考えられたのである。 そして調査団は、カーデン・ロイドMk.VI豆戦車やヴィッカーズ6t戦車のライセンス生産権と数両のサンプル車両の購入と、ヴィッカーズ社でのソ連側技術者の研修およびソ連への技術者派遣等について、イギリス政府との間で合意を取り付けることに成功した。 さらにソ連側は3基の砲塔を持つヴィッカーズ16t戦車と、5基の砲塔を持つA1E1インディペンデント重戦車の2種類の多砲塔戦車についてもライセンス生産権の購入を希望したが、これは果たせなかった。 しかしソ連軍が構想する機甲部隊において、このような多砲塔戦車は部隊の先陣を切って敵の強固な機関銃陣地を突破する役割を担わせるのに最適な車両であると判断されたため、ソ連は1930年から独自に多砲塔戦車の開発に着手した。 ソ連国内で最初に進められた多砲塔戦車の開発計画はT-30重戦車、75t級重戦車、TG中戦車の3つが存在したが、この内ドイツ人技術者を中心に開発が進められたTG中戦車が最も有力視された。 TG中戦車は、当時友好関係にあったドイツから1930年3月に招いたエドヴァルト・グローテ技師をリーダーとするドイツ人戦車技術者のグループに開発を依頼した多砲塔中戦車で、呼称の「TG」は「グローテ戦車」の略称であった。 TG中戦車を設計・製造するために、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の第232ボリシェヴィーク工場にAVO-5特別設計局が設けられた。 第232工場で1931年に製作されたTG中戦車の試作車は、それまでのソ連製戦車とは大きく異なる斬新なコンセプトで設計されていた。 車体と砲塔は先進的な全溶接構造となっており、避弾経始を考慮して曲面を多用したスマートなデザインに設計されていた。 武装レイアウトは車体上部に曲面で構成された砲塔のような固定戦闘室を設け、戦闘室前部に76.2mm高射砲M1915/28(9K)をベースに開発した76.2mm戦車砲を限定旋回式に装備し、さらに戦闘室の上部に半球形の全周旋回式砲塔を設けて37mm戦車砲PS-1を装備していた。 また副武装として戦闘室の左右と後部に7.62mm液冷機関銃PM1910を1挺ずつ装備した他、操縦室前面の左右にも7.62mm空冷機関銃DTを1挺ずつ装備していた。 足周りは、BT快速戦車シリーズに採用されたクリスティー式サスペンションと良く似たコイル・スプリング(螺旋ばね)による独立懸架方式を採用しており、片側5個の大直径転輪と片側6個の上部支持輪を組み合わせていた。 後のT-28中戦車やT-35重戦車と同じく前方に誘導輪、後方に起動輪を配置しており、足周りを防護するためにサイドスカートを装着していた。 TG中戦車のエンジンは、グローテが設計した出力240hpの空冷ガソリン・エンジンを搭載することが予定されたが、このエンジンの開発が遅れたため、試作車には代わりに航空機用のM-6 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力250hp)が剥き出しの状態で搭載された。 変速・操向機はグローテが設計したコンパクトなものが搭載され、このパワープラントによって戦闘重量25tのTG中戦車は路上最大速度35km/h、路上航続距離150kmの機動性能を発揮した。 このようにTG中戦車は当時としては非常に高性能で先進的な設計の戦車であったため、ソ連軍首脳部は性能が不充分で評判が悪かったT-24中戦車の生産を中止し、代わりにTG中戦車をソ連軍の主力中戦車として採用することを検討した。 そしてウクライナのハリコフ機関車工場(KhPZ)において、1932年中に2,000両のTG中戦車の生産を行う方針が提起されるに至った。 しかしBT-2快速戦車の生産コストが6万ルーブルだったのに対し、TG中戦車の生産コストは150万ルーブルとあまりにも高価過ぎることが問題視された。 当時ソ連国内ではTG中戦車とは別に、一時購入が検討されたイギリス製のヴィッカーズ16t戦車を模倣した3砲塔式の多砲塔中戦車を開発する計画も進められていた。 UMMは訪英調査団の報告を踏まえてソ連軍が装備すべき戦車の開発構想をまとめ、1930年6月にトゥハチェフスキー元帥に提出したが、その中には3基の砲塔を持つソ連版16t戦車の開発計画が含まれていた。 この16t戦車計画はF.ジェルジンスキー軍事技術学校において開始されることになり、同施設には計画推進のために1931年1月28日、訪英調査団に参加していたS.A.ギンズブルク技師を責任者にした戦車・トラクター設計局(KBVOAO)が設置される運びとなった。 また16t戦車の設計作業には、AVO-5からO.M.イヴァーノフ、A.ガッケリの両技師も参画することになった。 やがてこの16t戦車には「T-28」の開発呼称が与えられたが、当時のソ連は外国製戦車のライセンス生産を行っていたのみで一から新規に戦車を開発するのは初めてだったため、T-28中戦車の開発に際しては外国製戦車の改良ライセンス生産型であるT-26軽戦車や、BT快速戦車のコンポーネントや設計コンセプトを採り入れて開発を進めることになった。 T-28中戦車の履帯は、第232工場で開発されたクロウム・ニッケル鋳鋼製の幅380mmのものが採用された。 エンジンは、BT快速戦車に搭載することが予定された航空機用のM-5 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(アメリカ製のリバティーL-12航空機用ガソリン・エンジンの国産化型、出力400hp)をT-28中戦車にも搭載することになった。 KBVOAOは1931年9月28日までにT-28中戦車の基本仕様をまとめ、試作車2両の製作のため30万ルーブルの予算の計上をUMMに要求した。 UMMに提出された仕様書によると、T-28中戦車の基本仕様は以下のようになっていた。 ・車体主要部の装甲厚は16〜17mm、車体後面は10mm、最大厚は20mmで上/下面は8mm。 ・45mm戦車砲と7.62mm機関銃DTを装備する主砲塔は、BT快速戦車の砲塔と同じ(手動)機械式操作システム、 潜望鏡式照準装置を持つ。 ・2基の副砲塔は、T-26軽戦車(2砲塔型)のDT機関銃装備砲塔と同様のものを搭載する。 T-28中戦車の試作車2両は1932年5月1日のメーデーまでに完成させるものとされたが、実際に最初の1両が完成したのは同年5月28日であった。 第232工場で完成したT-28中戦車の試作車は、主砲塔に搭載する予定だった46口径45mm戦車砲20Kが間に合わなかったため、代わりにBT-2快速戦車に装備されていた45口径37mm戦車砲B-3を搭載した他、エンジンも予定していたM-5ガソリン・エンジンを調達できず、出力300hpのM-6ガソリン・エンジンを搭載した。 完成した試作車は直ちに65kmの運行試験が実施され、1932年7月11日にはUMM指導部に対する展示試験、8月28日にはソ連共産党レニングラード州第一書記で、ソ連共産党政治局員であったS.M.キーロフを迎えての展示試験が行われた。 これらの試験を通じてT-28中戦車の火力や装甲防御力、機動性能の改善等について意見が具申され、それを基に各部の設計の見直しが行われることになった。 T-28中戦車の改修作業は、第174K.E.ヴォロシーロフ工場の試作機械設計部(OKMO、1933年2月に第232工場のAVO-5が改組されて誕生した設計局)がイヴァーノフ主任技師の統括下で進めることとなった。 T-28中戦車のエンジンは当初予定していたM-5ガソリン・エンジンから、BT-7快速戦車にも用いられたM-17T V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力450hp)に換装されることになり、主砲塔も20.5口径76.2mm戦車砲PS-3を装備する新設計のものに変更されることになった。 そしてまだ改修型試作車が完成する前の1932年10月末に早くも、ソ連労働・防衛会議において「T-28中戦車」(Sredniy Tank T-28)としてのソ連軍への制式採用と、レニングラードの第100クラースヌィ・プチロフ(赤いプチロフ)工場における大量生産が決定されたのである。 当初有力視されていたTG中戦車を退けてT-28中戦車がソ連軍に採用された理由は、生産コストがTG中戦車より安く済み性能的にも充分なものを備えていたためといわれる。 1933年4月末までに12両が製作されたT-28中戦車の第1生産ロットは、当時量産されていたソ連軍戦車の中で最も強力な火力を持ち、そこそこの機動性能をも併せ持つ先進的な中戦車であった。 当時、旋回砲塔に76mmクラスの戦車砲を搭載した戦車はフランスの2C重戦車ぐらいしかなく、T-28中戦車は当時の戦車としては最高レベルの火力を備えていた。 装甲厚も37mmクラスの歩兵砲の直射や重機関銃弾に耐え得る20〜30mm厚を確保しており、これも1933年の時点では文句無いものであった。 T-28中戦車の戦闘重量はT-26軽戦車3両分に匹敵する25.4tに達したが、大出力エンジンを搭載したために路上最大速度42km/hの機動性能を発揮することができた。 12両完成したT-28中戦車は10両が首都モスクワで、2両が生まれ故郷のレニングラードで1933年5月1日のメーデー・パレードに参加した。 こうして華々しいデビューを飾ったT-28中戦車であるが、本車は攻・防・走の全ての面で高い性能を持っていた反面、高度で複雑な機構を持つために量産化に手間取ることとなった。 当時T-26軽戦車の生産で手一杯だった第232工場ではT-28中戦車を量産する余裕が無かったため、本車の量産は第100工場が担当することになった。 これは一方で、同工場がソ連国内でも随一の冶金・金属加工技術を蓄積していたことも背景にあった。 第100工場では、T-28中戦車量産化の準備のために第2技術作業場(MKh-2)を1932年10月末に組織した。 そして、T-28中戦車およびT-35重戦車への搭載が予定された76.2mm戦車砲PS-3の量産が遅れたことを受けて、第100工場の火砲設計局は同工場製の76.2mm連隊(歩兵)砲M1927を戦車用砲架に搭載した16.5口径76.2mm戦車砲KT-28(T-28用クラースヌィ・プチロフ戦車砲の略)を急遽開発した。 この76.2mm戦車砲KT-28はT-28中戦車の第1生産ロット12両から搭載され、併せてKhPZが量産を担当することになったT-35重戦車の生産型にも搭載されることとなった。 しかしT-28中戦車は1933年末までの生産目標とされた90両に対して、実際には半分に満たない41両が完成したに過ぎなかった。 このためMKh-2は同年11月に、第100工場のトラクター部門や精密金属加工部門などから熟練工を引き抜いて補充し、併せて工作機械も入れ換える等全般的に加工技術の向上を目指しながら作業の合理化を行い、年に150両のT-28中戦車を生産することを目指した。
T-28中戦車の生産数の推移は上表のとおりだが、1937年に大幅に生産数が落ち込んだのはこの年にソ連工業界を襲ったI.V.スターリン首相による大粛清の影響と見られる。 表から分かるようにT-28中戦車の生産数は1936年から急激に増加しているが、これはこの年に本車の量産体制がようやく整ったことを示している。 それでも、MKh-2が目指した年150両量産の目標はどの年次においても達成されなかった。 これは当時、ソ連工業界が生産面で最も苦手とした精密ベアリングを大量に使う足周り、3つもある圧延鋼板を曲げ加工した砲塔、大出力エンジンと高度な切削加工の必要な変速ギアの組み合わせ等々、ソ連工業界にとって重い負担になる作業工程をT-28中戦車が必要としたため、思うように生産数が伸びなかったのである。 これとは対照的に、安価で量産性に優れたヴィッカーズ6t戦車のソ連版であるT-26軽戦車は、同じ時期に1万両以上生産されている。 1933年末にT-28中戦車を引き続き改良すると共に、新たな戦車開発を推進するためにレニングラードに第2特別設計局(SKB-2)が創設された。 このSKB-2は後に、KV重戦車やIS重戦車などソ連軍の近代的重戦車シリーズの開発を担っていくことになるが、当時はOKMOから移籍した39歳のO.M.イヴァーノフが主任技師に就任し、総勢27名で構成されていた。 SKB-2は第174工場や第100工場(1934年末のキーロフ暗殺後、第100工場は「クラースヌィ・プチロフ工場」から「キーロフ工場」に顕彰呼称が変更された)の6つの設計局を統括し、その他の各地の工場企業とも協力してT-28中戦車の性能向上や改修作業の実施に当たった。 SKB-2の統括下、1934年後半期からの生産車よりT-28中戦車のほぼ標準的な型式が確立した。 T-28中戦車の型式分類については研究者によって様々な分類がされているが、1933年から生産が開始された初期の生産型を1933年型、主砲を従来の16.5口径76.2mm戦車砲KT-28から新型の23.7口径76.2mm戦車砲L-10に換装したタイプを1937年型もしくは1938年型、1940年に生産された傾斜装甲を採用した新設計の主砲塔を搭載したタイプを1940年型と分類するのが一般的になっているようである。 |
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+車体の構造
T-28中戦車の車体は試作車ではリベット接合で組み立てられていたが、生産型では圧延鋼板を全溶接方式で組み立てることになった。 しかし当時のソ連はまだ電気溶接技術が不充分でコストも高かったため、これは本車の製造コストを押し上げる要因となり強度的にも問題があった。 このため1936年末からリベット接合と溶接を併用して組み立てるようになり、材質も表面浸炭鋼板に変更された。 しかし当時の冶金技術で製造した表面浸炭鋼板は衝撃に弱く、大口径榴弾等の命中で割れ易かった。 1930年代末になってようやく低コストで充分な接合強度を保証できる電気溶接技術が確立されたため、1938年初めから全溶接方式が再び用いられ始め、1939年以降は圧延鋼板の全溶接組み立て一本となった。 T-28中戦車の車内レイアウトは車体前部が操縦手と副砲塔の機関銃手2名を収めた操縦室、車体中央部が主砲塔とそのバスケット、弾薬などを収めた戦闘室、車体後部がエンジン、変速・操向機などパワープラントを収めた機関室となっていた。 機関室の容積は非常に大きく、車体の約半分のスペースを占めていた。 これは、450hpという当時の戦車用エンジンとしては大出力を発揮する大型のM-17T V型12気筒液冷ガソリン・エンジンを搭載したこと、併せてこれに組み合わせる変速・操向機や冷却機構も当時の技術では大型化せざるを得ず、さらに330リットル容量の燃料タンクを左右に1個ずつ設けたためである。 機関室の後端部は斜めに切り下げられており、この部分には冷却ファンの吸気口が設けられていた。 さらにこの吸気口の上には隙間を空けて大型の装甲カバーが取り付けられていたが、1934〜36年の生産車では装甲カバーの上面と左右側面にルーヴァーが設けられるようになった。 1936〜37年の生産車では上面のルーヴァーが上下開き式に開閉できるように改修され、さらに1937〜40年の生産車では上面ルーヴァーの開閉方法が左右開き式に改められた。 また第1生産ロットの12両では、戦闘室の左右側面に工具を収納する小型の装甲ボックスが設けられたが、それ以降の生産車では煙幕展開装置TDP-3を収めた大型の装甲ボックスに変更されている。 ソ連軍戦車は戦後になって煙幕展開装置を標準装備するようになったが、1930年代に開発されたT-28中戦車がこれを標準装備していたのはかなり先進的であったといえよう。 T-28中戦車の車体装甲厚は車体前面上部が15mm、車体前面下部と操縦室前面が30mm、車体側/後面が20mm、機関室上面が10mm、吸気口の装甲カバーが8mm、操縦室上面と車体下面が15mm、車体下面の前端部が18mmとなっていた。 T-28中戦車の足周りはT-18軽戦車やT-24中戦車で用いられた、転輪2個をボギーで連結してコイル・スプリングを内蔵した垂直配置の緩衝シリンダーと組み合わせたサスペンションをベースに、これを3組アームで連結したものを片側2組ずつ配置していた。 つまり転輪は片側12個でこれを片側4個の上部支持輪、前方の誘導輪、後方の起動輪と組み合わせていた。 転輪は小直径の複列式で当初第7、第8転輪のみがゴムを内蔵した鋼製転輪が用いられ、それ以外の部分はゴム縁付きの転輪が用いられた。 鋼製転輪が用いられた位置は機関室の最前部にあたり、最も重量が掛かる位置であるため頑丈な鋼製転輪が用いられたものと思われる。 1936年以降の生産車ではその後ろの第9、第10転輪も鋼製転輪が用いられるようになり、エンジンの直下にあたる4輪が鋼製転輪となった。 サスペンションを保護するため、転輪と上部支持輪の間の部分には10mm厚のサイドスカートが設けられていた。 サスペンションの整備が容易に行えるように、このサイドスカートは上部と下部をヒンジで結合した構造になっており、整備時には下部を跳ね上げることができた。 この小直径転輪とサイドスカートを組み合わせた足周りは、同時期に開発されたT-35重戦車にも用いられたが、この足周りは泥や草、雪などが詰まり易い欠点があり、深い積雪や泥濘地が多いロシアでは運用に支障をきたしたため、後に開発されたT-100やSMKなどの多砲塔重戦車ではより大直径の転輪が用いられ、サイドスカートも装備されなくなった。 T-28中戦車の起動輪は後のKV重戦車のものとよく似た星型歯車式で、最終減速ギアが内蔵されていたため機関室内の変速装置の容積を節減できた。 誘導輪は起動輪とほぼ同じサイズで転輪に比べてかなり大きく、6個の肉抜き穴が開けられていた。 履帯は片側119枚の履板で構成された幅380mmのもので、当初はクロウム・ニッケル鋼の精密鋳造式であった。 この履帯は運用寿命が走行距離約1,000kmであったが、寿命をより延伸して整備コストを下げるため1936年に打ち抜き製造式履帯の開発がスタートし、1937年の生産車から使用された。 この新型履帯の採用により、運用寿命は走行距離1,500〜2,000kmに延伸された。 操縦手は操縦室の中央に位置し、その両隣には副砲塔の機関銃手が位置した。 操縦は操縦手席の前方に設けられた操向レバーとアクセル、クラッチ、ブレーキの各ペダルを操作して行った。 これらは基本的にワイアーあるいは鋼製バーによる連結伝導式で、油圧や水圧によるアシストは備えられていなかった。 ブレーキは駆動軸にブレーキ帯を巻き付ける方式で、これは後のIS重戦車シリーズまで採用され続けた。 T-28中戦車および同時期に開発されたT-35重戦車は、いずれも当時の戦車としては車体が大柄でしかも砲塔を多数備えていたため、乗員間の意思疎通を円滑に図れるよう車内通話装置が装備された。 これが有線式通話装置TPU-6で、各乗員が配置される位置に設置された装置ボックスにレシーバー付き戦車帽のコードを繋ぐものだった。 マイクは喉頭部を挟み込んで宛がう喉仏式のもので、これはその後のソ連軍戦車の車内通話装置の標準的なスタイルとなった。 |
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+砲塔の構造
T-28中戦車の砲塔は、76.2mm戦車砲を装備する主砲塔が車体中央部前寄りに搭載され、その前方の操縦室の左右に7.62mm機関銃DTを装備する副砲塔が1基ずつ搭載された。 砲塔の材質と組み立て方式は車体と同じく生産された時期によって変化しており、1932〜36年末の生産車は圧延鋼板の全溶接式、1936年末〜38年初めが表面浸炭鋼板のリベット接合・溶接併用式、1938年中は両方式による組み立てが並行して行われ、1939年以降は圧延鋼板の全溶接式に一本化された。 試作車の主砲塔は円筒形のリベット接合式のものだったが、生産型の主砲塔はT-35重戦車の生産型と共用するものとして新規に設計された。 この生産型主砲塔は円筒形をベースにしたもので、後部に無線送受信機や後部機関銃マウントを備えるためのバスルが設けられたため、上から見るとバスル後端を頂点とする卵型になっていた。 主砲塔上面の装甲板は試作車では平面であったが、生産型の主砲塔では避弾経始を考慮して外周部分が斜めにプレス成形されていた。 主砲塔内には主砲の砲尾をまたぐ形で前方右側に車長、前方左側に砲手が位置し、砲尾の直後に無線手兼装填手が位置した。 無線手兼装填手の座席は、戦闘行動時には折り畳まれて操砲動作のスペースを確保していた。 主砲塔上面装甲板の前部中央には大きな星型マークが刻印されていたが、何の目的でこのような手間の掛かることをしたのかは不明である。 さらにこの星型マークをまたぐ形で右側に車長用のPTK展望式サイト、左側に砲手用のPT-1(M1932)潜望式サイトがそれぞれ設けられていた。 この2基のサイトはT-28中戦車の生産当初は、T-26軽戦車やBT快速戦車シリーズと同じく先端に開閉式キャップを付けた円筒形のマウントに装備されたが、1939年末以降の生産車ではKV重戦車のものと似た厚めの回転式装甲マウント内に装備されるようになった。 この2基のサイトの後方の外側に沿って、主砲塔上面装甲板にはカマボコ型の突起が押し出し加工されていた。 この突起は砲塔内の車長と砲手の頭部の位置に合わせてあり、乗員の頭部が砲塔の天井に干渉し難いように配慮したものである。 また主砲塔上面の中央やや後ろ寄りには、初期のT-34中戦車の砲塔ハッチと似た大きな横長の前開き式のハッチ1枚が設けられていた。 このタイプの砲塔ハッチは1936年の生産車まで用いられ、それ以降の生産車では2枚の前開き式小型ハッチを左右並列に設けるように変更された。 2枚の砲塔ハッチのうち右側の車長用は縦長の長方形ハッチ、左側の砲手用は7.62mm機関銃DT用の対空リングマウントP-40を備えた円形ハッチとなっていた。 また1933年後期以降の生産車では、主砲塔バスルの後部中央に7.62mm機関銃DTのマウントが設けられるようになった。 この機関銃マウントは、1936年までの生産車では砲塔内部のピントルマウントに機関銃を取り付け、バスルの後部中央に設けられた縦長のガンポートから銃身を出すようになっていた。 このガンポートには、下側にヒンジが付いた起倒式のカバーが取り付けられていた。 1936年以降の生産車では、ボールマウント式の完全密閉式の機関銃マウントに変更されている。 主砲塔の左右側面には防弾ガラス付きの視察スリットと、携行火器を射撃するための内蓋式のガンポートがそれぞれ1基ずつ設けられており、右側が車長用、左側が砲手用となっていた。 主砲塔の装甲厚は主砲防盾と砲塔の前/側面が20mm、砲塔後部バスルと機関銃のボールマウント部が30mm、砲塔上面が15mmとなっていた。 前述したようにT-28中戦車の生産型の主砲には、第100工場の火砲設計局が牽引式の76.2mm連隊砲M1927をベースに開発した16.5口径76.2mm戦車砲KT-28が採用された(初期の生産車には76.2mm戦車砲KT M1927/32が搭載されていたとする資料もある)。 76.2mm戦車砲KT-28は主砲塔前部の主砲マウントに装備され、主砲防盾の左側には砲手用のTOP(M1930)望遠式サイトが設けられていた。 また砲塔前部右側に設けられたボールマウントと、砲塔後部バスルのマウントに7.62mm機関銃DTを1挺ずつ装備した。 砲塔前部右側の機関銃は主砲と独立して操作できるようになっており、後部マウント用の機関銃は1936年以降の生産車では、砲塔ハッチに設けられたP-40対空マウント装備用と兼用していたようである。 主砲の俯仰と砲塔の旋回は手動ハンドルにより人力で行うようになっており、動力機構は備えていなかった。 主砲塔の下部には砲塔バスケットが備えられていたが、これは当時のソ連軍戦車ではT-28中戦車とT-35重戦車のみの装備であった。 ドイツ軍戦車はIV号戦車から、アメリカ軍戦車はM3A1軽戦車から砲塔バスケットが標準装備になったが、ソ連軍戦車は戦後にT-54B中戦車が登場するまで砲塔バスケットを装備しなかった。 76.2mm砲弾は、砲塔バスケットの床やバスケット周囲の側壁部に計69発が搭載された。 主砲塔後部バスルには無線送受信機が配置され、主砲塔の周囲には6本の支柱で支えられたフレームアンテナが装備されていた。 T-28中戦車の生産型には当初、交信範囲18〜20kmの71-TK-1無線機が搭載された。 1935年からは交信範囲を40〜60kmに広げた71-TK-2無線機が導入されたが、機関系のノイズが入って充分に性能を発揮できないきらいがあった。 その結果、機器のノイズ対策を施した71-TK-3無線機(交信範囲30〜50km)が1936年より用いられるようになった。 1935年から主砲塔周囲のフレームアンテナが8本の支柱で支えるタイプに変更され、1939年からはフレームアンテナに代えてホイップアンテナが装備されるようになった。 ただし部隊指揮官の車両には、長距離交信が可能なようにフレームアンテナが引き続き用いられた。 T-28中戦車の主砲に採用された76.2mm戦車砲KT-28は、歩兵部隊用の野戦榴弾砲をベースにした低初速砲であるため対装甲威力が低く、徹甲弾を使用した場合の砲口初速は370m/秒、装甲貫徹力は射距離500mで31mm、1,000mで28mmとなっていた。 この性能では対戦車戦闘に用いるには不充分だったため、新たに23.7口径長の76.2mm戦車砲L-10が1937年に第100工場の火砲設計局で開発された。 この新型76.2mm戦車砲L-10は、BR-353A徹甲弾を使用した場合の砲口初速が558m/秒、装甲貫徹力は射距離500mで61mm、1,000mで51mmとなっており、KT-28に比べて2倍近い対装甲威力を持つためT-28中戦車の対戦車戦闘能力は大きく向上することになった。 76.2mm戦車砲L-10は1937〜40年の間に347門が製造され、少なくとも330両以上のT-28中戦車に搭載された。 一方、T-28中戦車の2基の副砲塔はT-26軽戦車 2砲塔型(1931年型)に搭載された砲塔を流用しており、砲塔前面に設けられたボールマウント式銃架に7.62mm機関銃DTを1挺装備していた。 この副砲塔は機関銃手1名で操作するようになっており、上から見ると馬蹄形にデザインされていたが、右利きの機関銃手が操作することを想定して、機関銃マウントが右寄りになるように左右非対称のデザインになっていた。 副砲塔の旋回は主砲塔と同様にハンドルを用いて人力で行うようになっていたが、主砲塔のように全周旋回式ではなく左右の旋回範囲は165度となっていた。 副砲塔の上面後方には横長の前開き式ハッチが設けられており、左右側面には防弾ガラス付きの視察スリットと内蓋式のガンポートが各1基ずつ備えられていた。 副砲塔の装甲厚は前面が22mm、側/後面が20mm、上面が10mmとなっていた。 T-28中戦車の試作車の副砲塔は上面装甲板が平面であったが、生産型の副砲塔の上面装甲板は避弾経始を考慮して前半部に傾斜が付けられた。 また試作車の副砲塔はリベット接合で組み立てられていたが、生産型の副砲塔は主砲塔と同様に圧延鋼板の全溶接組み立てとなり、その後の材質と組み立て方式の変遷も主砲塔と同様であった。 前述のようにT-28中戦車は2基の副砲塔に7.62mm機関銃DTを各1挺ずつ、主砲塔の前部右側と後部中央の機関銃マウントにも7.62mm機関銃DTを各1挺ずつ装備しており、合計4挺の7.62mm機関銃を備えていた。 これらの弾薬については、車体前部左右に副砲塔の機関銃用に各40個のドラム弾倉(63発入り)を収められる回転式ラックが設けられていた他、計126個のドラム弾倉を車体内の各所に搭載しており、7.62mm機関銃弾の搭載数は合計で7,938発となっていた。 |
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+戦歴
T-28中戦車は1933年から部隊への引き渡しが開始されたが、最初に本車を装備した部隊は生まれ故郷レニングラード軍管区の独立第2重戦車連隊である。 以後、T-28中戦車は1935年までの間に第1、第3、第4の各独立重戦車連隊に引き渡されて運用が始まった。 1935年12月にソ連軍機甲部隊が再編されたのに伴い、T-28中戦車を装備する4つの独立重戦車連隊は3個戦車大隊、1個教導大隊、その他の支援部隊から成る独立重戦車旅団に発展した。 1936年前半期までに編制された独立重戦車旅団の配置は、次のとおりである。 ・第1重戦車旅団…ベラルーシ軍管区スモレンスク市 ・第4重戦車旅団…キエフ特別軍管区キエフ市 ・第5重戦車旅団…ハリコフ軍管区ハリコフ市 ・S.M.キーロフ第6重戦車旅団…レニングラード軍管区スルーツク市 これらの内、第5重戦車旅団にはT-28中戦車と合わせてT-35重戦車も配備された。 さらに1939年9月には、T-28中戦車を含む戦車98両から成る第10重戦車旅団(ベラルーシ軍管区)、105両から成る第21重戦車旅団(キエフ特別軍管区)が編制された。 両旅団は9月17日に開始された東部ポーランド侵攻作戦に投入されて、作戦の成功に貢献した。 T-28中戦車の実戦投入として最も大規模でかつ果たした役割が重要だったのは、1939年11月30日に勃発した対フィンランド戦争(冬戦争)である。 この戦争はソ連側によって計画的に開始されたもので、開戦前の1939年10月9日にはレニングラード軍管区のキーロフ第20重戦車旅団が原駐地のスルーツクから、フィンランド国境のカレリア地区前面、チョールノイ・レチキ地区に移動していた。 同旅団はフィンランド侵攻の主戦線を担う第7軍に配属され、冬戦争においてはカレリア地峡部にフィンランド軍が構築していた強固な要塞線「マンネルヘイム・ライン」の突破に大きな功績を挙げた。 第20重戦車旅団は、T-28中戦車105両を含む計145両の戦車を持つ3個戦車大隊を中心に編制されており、配備されたT-28中戦車は第100工場の特別の支援もあって、全て新型の23.7口径76.2mm戦車砲L-10を搭載したタイプであった。 またすでにこの時期には、T-28中戦車の装甲防御力が対戦車砲火に対して不充分なことが認識されていたため、操縦室前面には20mm厚の追加装甲板が臨時に取り付けられ、この部分のみ50mm厚に強化されていた。 しかしT-28中戦車の防御力不足はこの程度では改善されず、冬戦争において第20重戦車旅団所属のT-28中戦車は全ての車両が最低2回は損傷を受け、最大5回撃破されたものすらあった。 フィンランド軍がマンネルヘイム・ラインに投入していた、スウェーデン製のボフォース37mm対戦車砲やフランス製のオチキス25mm対戦車砲は、射距離500m以内でT-28中戦車の車体前面下部や砲塔周囲の装甲を貫徹することができ、75mmクラス以上の野砲弾も当たり所によってはT-28中戦車に大損害を与えた。 冬戦争における第20重戦車旅団所属のT-28中戦車の損失総数は482両に達し、ほぼ本車の総生産数に匹敵するほどであった。 このうち火砲の射撃による損失は155両と32.2%を占めており、T-28中戦車の装甲防御力がすでに全く不充分になったことが明らかとなった。 冬戦争におけるT-28中戦車の状況は1939年12月に第100工場に在所を定めたSKB-2に伝わり、ソ連軍当局はSKB-2に直ちにT-28中戦車の装甲防御力を強化するよう求めた。 第100工場では1940年1月1日より既存のT-28中戦車に追加装甲を装着する作業を開始し、最初の16両を2月16日に戦線に向けて出荷した。 前線部隊は2月26日にこれを受領し戦線に投入したが、この時の装甲追加タイプは車体前面と主砲塔にのみ追加装甲を施したものであったため、フィンランド軍の対戦車砲は追加装甲が施されていない部分を狙って射撃するようになり再び損失が拡大した。 この教訓からSKB-2は、T-28中戦車にさらに大幅に追加装甲を採り入れることを決定し、T-28中戦車は車体側/後面や副砲塔に至るまで全て15〜30mmの追加装甲が装着されることになった。 SKB-2がまとめた追加装甲の仕様書によると、追加装甲の装着部位と追加装甲厚、それによる合計装甲厚(カッコ内)は以下のようになっていた。 ・主砲塔周囲…30mm(50〜60mm) ・副砲塔側面前部…20mm(40mm) ・副砲塔側面後部…15mm(35mm) ・副砲塔前面…30mm(52mm) ・車体前面下部…20mm(50mm) ・操縦室前面…30mm(60mm) ・車体側面上部…20mm(40mm) ・車体側面下部…20mm(10mm厚のサイドスカートと合計して50mm) ・機関室後面…15mm(35mm) その他に、操縦室前面装甲板の周りに20mm厚の跳弾板が新設された。 これらの追加装甲を装着することでT-28中戦車の重量は4.04t増加し、新型の76.2mm戦車砲L-10を搭載したT-28中戦車の場合戦闘重量は32t超となった。 この追加装甲を装着したタイプのT-28中戦車は、ロシア語で「追加装甲」を意味する”Ekranami”の頭文字”E”を追加して「T-28E」と呼称された。 T-28E中戦車は、確かに従来のT-28中戦車に比べて装甲防御力は大幅に改善されたものの、反面重量が増加したことで機動性能は大きく低下し、パワープラントや足周りの負担が増えたことでそれらの運用寿命も短くなってしまった。 このため、なるべく重量を増加させずにT-28中戦車の装甲防御力を改善する方法が検討され、第183工場がT-35重戦車用に開発した傾斜装甲を採り入れた新設計の主砲塔を、T-28中戦車にも採用することになった。 この新型主砲塔は圧延鋼板を全溶接方式で組み立てており、上面装甲板は手間の掛かる外周部のプレス加工を止めて平面板に変更され、大きな星型マークの刻印も廃止されていた。 また側面装甲板は従来の主砲塔では垂直だったが、新型主砲塔では避弾経始を考慮して約15度の傾斜が付けられた。 主砲は、T-28中戦車の場合は新開発の23.7口径76.2mm戦車砲L-10が搭載されたが、T-35重戦車では従来の16.5口径76.2mm戦車砲KT-28が引き続き搭載された。 これはT-35重戦車が、副砲として対装甲威力に優れる46口径45mm戦車砲20Kを2門装備していたため、対戦車戦闘はこの2門の副砲で対処し、主砲は専ら榴弾による敵歩兵・陣地攻撃に用いるものと割り切ったためである。 この新型主砲塔を装備したT-35重戦車は1939年に6両、T-28中戦車は1940年に13両生産されたが、すでにこの頃にはソ連軍内部でも多砲塔戦車はもはや時代遅れと認識されており、それ以上の生産は行われなかった。 しかし1940年5月10日に開始されたドイツ軍の西方電撃戦の大成功を受けて、近い将来に予想される対独戦に備えて装備の強化が急務となり、1940年6月5日付で第100工場に対して、早急に100両のT-28中戦車をT-28Eに改修するよう要求が出された。 この改修は、当時第100工場でオーバーホール中だったT-28中戦車15両と、部隊で運用中のものを新たに引き上げたT-28中戦車85両に対して実施されることになったが、第100工場ではすでに新型重戦車KVの量産を開始していたこともあり、予定どおりに進行しなかった。 それでも、1940年中に少なくとも90両以上のT-28中戦車がT-28Eに改修された。 一方、西方電撃戦で大活躍したドイツ軍機甲部隊に対抗するために、ソ連軍は1940年夏に機甲部隊の大規模な再編を実施し、ソ連西方国境の各軍管区に沿って合計15の機械化軍団が創設された。 各軍団は1,000両以上の戦車を有し、それぞれ戦車師団2個と機械化狙撃師団1個から編制された。 これに伴い、T-28中戦車の装備部隊は以下のように再編された。 ・第10重戦車旅団→第4機械化軍団傘下第8戦車師団、第15機械化軍団傘下第10戦車師団 ・第20重戦車旅団→第1機械化軍団傘下第1赤旗戦車師団、第3戦車師団 ・第21重戦車旅団→第3機械化軍団傘下第5戦車師団 独ソ戦が開始される直前の1941年6月1日の時点で、ソ連軍には481両のT-28中戦車が在籍していたが、その内稼働できる状態にあったのは292両で、さらに1940年末〜1941年春にかけて兵役を終えたソ連軍将兵の多くが退役したため、機甲部隊の兵士は新兵や歩兵から転科してきた者が多数を占めており、1941年6月25日の独ソ開戦時に使い物になったT-28中戦車は170〜200両程度に留まったといわれている。 またすでにこの頃には、T-28中戦車のような多砲塔戦車は完全に時代遅れの存在となってしまっていた。 多砲塔戦車は砲塔を多数装備しているため一見強そうに見えるが、実際にはそれぞれの砲塔の存在が邪魔になって射界が制限されてしまうため見た目ほどの戦闘力を発揮することはできず、また砲塔を多数装備することによって重量が増加するためただでさえ機動性能が悪く、あまり装甲防御力を強化することもできなかった。 独ソ戦開始時にドイツ軍の主力戦車だった単一砲塔のIII号戦車やIV号戦車は、T-28中戦車よりはるかに軽快でそこそこの火力も備えており、T-28中戦車は苦戦を強いられた。 ただしこの頃はIII号戦車やIV号戦車もまだ装甲が薄かったため、T-28中戦車に搭載された76.2mm戦車砲は大きな威力を発揮した。 新型の76.2mm戦車砲L-10を装備したタイプのT-28中戦車は、1941年の時点では射距離1,000mでほとんどのドイツ軍戦車を撃破することができたという。 開戦後最初にドイツ軍と交戦したT-28中戦車装備部隊は、ネマン川の鉄橋を勇敢に防衛した沿バルト特別軍管区の第5戦車師団である。 同師団は、開戦直前の1941年6月19日に軍管区に配置されたばかりだった。 開戦の日の早朝、午前4時20分に集結地をドイツ軍機に爆撃された第5戦車師団は、直ちにドイツ軍の予想進撃路であるネマン川鉄橋地区に傘下の第9戦車連隊第1大隊所属の27両のT-28中戦車を派遣した。 そして鉄橋前面でドイツ第39機甲軍団を迎撃し、激しい戦闘を繰り広げた。 22〜23日中に第1大隊のT-28中戦車の内24両を失った第9戦車連隊は、さらにBT-7快速戦車で編制された第2大隊を投入したが結局、戦力で圧倒的に勝るドイツ軍に力押しで突破されてしまった。 この第5戦車師団の反撃は、虚をつかれてドイツ軍機甲部隊の快進撃を許した他戦線部隊に比べ、1日とはいえ足止めしたことで後年、勇敢かつ的確な戦闘ぶりと評価されている。 独ソ戦の緒戦では、他にT-28中戦車を用いて勇名を馳せた英雄も生まれている。 6月29日、すでにドイツ軍に占領されたベラルーシの首都ミンスクをたった1両のT-28中戦車で攻撃して後方地区を荒し回ったD.マーリコ曹長がその典型である。 マーリコ曹長のT-28中戦車は突然ミンスク市街に姿を現し、街路で活動していたドイツ軍後方部隊の貨物トラックや砲兵牽引車を多数破壊した。 市街の広い地域で散々に暴れ回ったあげく東方地区へ遁走を図ったマーリコ曹長のT-28中戦車は、最後にドイツ軍砲兵の射撃で撃破され重傷を負ったマーリコ曹長は拳銃で自決した。 この逸話はミンスク解放後に市民によって軍に伝えられ、マーリコ曹長は戦後第1級祖国防衛勲章を授与された。 他にもT-28中戦車で数両のドイツ軍戦車を撃破した後、M.カトゥコフ大佐の第4戦車旅団に転属してT-34中戦車のエースとなったM.ブールダ中尉など、何人かの英雄戦車兵のエピソードが伝えられている。 T-28中戦車は独ソ戦の緒戦で多くが失われたが、生き残った車両は各戦線で少数ながら戦闘に投入され続け活躍した。 独ソ戦で一番最後にT-28中戦車が実戦に投入されたのは、1944年夏のカレリア地区からのフィンランド戦線への反撃作戦である。 なおこの時、フィンランド軍側も鹵獲したT-28E中戦車を自軍戦車部隊に装備しており実戦に投入している。 フィンランド軍は第2次世界大戦時に計10両のT-28中戦車をソ連側から鹵獲して使用し、少なくとも1両を戦車回収車に改造して1950年代まで使用していた。 |
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<T-28中戦車 試作車> 全長: 6.50m 全幅: 2.63m 全高: 2.41m 全備重量: 17.5t 乗員: 5名 エンジン: M-6 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 300hp 最大速度: 40km/h 航続距離: 190km 武装: 45口径37mm戦車砲B-3×1 7.62mm機関銃DT×3 装甲厚: 8〜20mm |
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<T-28中戦車 1933年型> 全長: 7.36m 全幅: 2.87m 全高: 2.62m 全備重量: 25.2t 乗員: 6名 エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 450hp/1,750rpm 最大速度: 42km/h 航続距離: 180km 武装: 16.5口径76.2mm戦車砲KT-28×1 (69発) 7.62mm機関銃DT×3〜4 (7,938発) 装甲厚: 8〜30mm |
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<T-28中戦車 1937年型> 全長: 7.36m 全幅: 2.87m 全高: 2.62m 全備重量: 27.5t 乗員: 6名 エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 450hp/1,750rpm 最大速度: 42km/h 航続距離: 180km 武装: 23.7口径76.2mm戦車砲L-10×1 (69発) 7.62mm機関銃DT×4 (7,938発) 装甲厚: 8〜30mm |
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<T-28E中戦車> 全長: 7.36m 全幅: 2.87m 全高: 2.62m 全備重量: 31.0〜32.0t 乗員: 6名 エンジン: M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 450hp/1,750rpm 最大速度: 23km/h 航続距離: 武装: 16.5口径76.2mm戦車砲KT-28または23.7口径76.2mm戦車砲L-10×1 (69発) 7.62mm機関銃DT×4 (7,938発) 装甲厚: 8〜60mm |
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兵器諸元(T-28中戦車 1934年型) 兵器諸元(T-28中戦車 1940年型) |
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<参考文献> ・「独ソ戦車戦シリーズ18 労農赤軍の多砲塔戦車 T-35、SMK、T-100」 マクシム・コロミーエツ 著 大日本絵 画 ・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「グランドパワー2016年9月号 ソ連軍中戦車(1)」 齋木伸生 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2016年10月号 ソ連軍中戦車(2) T-28の運用と戦歴」 齋木伸生 著 ガリレオ出版 ・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版 ・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2002年7月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35 (1)」 古是三春 著 デルタ出版 ・「グランドパワー2002年8月号 ソ連軍多砲塔戦車 T-28/T-35 (2)」 古是三春 著 デルタ出版 ・「グランドパワー2000年2月号 フィンランド陸軍のAFV 1941〜1944」 後藤仁 著 デルタ出版 ・「パンツァー2005年12月号 各国多砲塔戦車の歴史 ソビエト(1)」 柘植優介 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2019年8月号 T-28中戦車のディテール」 吉村誠 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2002年8月号 ソビエトのT28中戦車」 後藤仁 著 アルゴノート社 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー ・「図解・ソ連戦車軍団」 齋木伸生 著 並木書房 ・「第二次大戦 戦車大全集」 双葉社 |
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