+概要
1920年代の終わりになるとソ連は自国の戦車の遅れを痛感し、外国から積極的に技術を導入しようとした。
1930年にイギリスを訪れたソ連軍機械化・自動車化局(UMM)のI.A.ハレプスキー局長は、数種類の戦車をライセンス生産の権利込みで購入する契約を結んでいる。
この契約に基づいて、ヴィッカーズ・アームストロング社から偵察用戦車としてカーデン・ロイドMk.VI豆戦車が26両購入された。
カーデン・ロイドMk.VI豆戦車は、エンジンおよび動力伝達機構の多くをアメリカのフォード自動車製のモデルT 4×2トラックから流用しており、生産と整備が容易であると見られていた。
またこのカーデン・ロイドMk.VI豆戦車は世界各国に普及し、ライセンス生産型や亜流のものも含め1930年代にちょっとした「豆戦車ブーム」を引き起こしていたのである(チェコやポーランドで改良型が生産された他、イタリアのCV33快速戦車、日本の九四式軽装甲車等の誕生を促した)。
1930年6月までに少なくとも15両がソ連に到着したカーデン・ロイドMk.VI豆戦車は、その年いっぱいにかけて各種試験が行われた他、モスクワの第37(自動車)工場設計局において、N.コズィレフ主任技師の監督下でソ連版の量産に向けての準備が進められた。
そして1931年1月13日に革命軍事評議会(後の国防閣僚会議)は、カーデン・ロイドMk.VI豆戦車のソ連版である「T-27豆戦車」(Tanketka
T-27)の制式採用と量産開始を決定した。
まだ機甲部隊の運用全体が研究途上であり豆戦車の効用も未知数といえたが、当時のソ連にとってT-27豆戦車は特に容易に量産化が図れる好条件があった。
それは、原型となったカーデン・ロイドMk.VI豆戦車がコンポーネントの多数を流用していたフォード自動車製の貨物トラックが、すでにソ連でもライセンス生産されていたことである。
T-27豆戦車は、フォード自動車製のモデルAA 4×2トラックのソ連版であるGAZ-AA 4×2トラックのディファレンシャル・ギアやエンジン(フォード-AA
直列4気筒液冷ガソリン・エンジン(出力40hp)、後には完全国産型のGAZ-AAガソリン・エンジン)を用いていた。
これは、自動車工場の生産力の活用を図れる点でも戦時を想定した場合には有利な要素で、これが後の独ソ戦での軽戦車生産に活かされていくことになっていった。
T-27豆戦車は、全体のスタイルも大きさもほぼ原型のカーデン・ロイドMk.VI豆戦車と同じで、操縦手が車体左側に、機関銃手/車長が右側に位置するのも同じであった。
ただ固有の武装は原型の7.7mmヴィッカーズ液冷重機関銃に代えて、国産の7.62mm空冷機関銃DTを1挺装備していた。
1932年には狭い車内の容積を増すために車体をやや延長し、転輪も追加して操縦性能の向上を図った「T-27A豆戦車」(Tanketka T-27A)も登場している。
併せて、火力強化のためにフランスのオチキス社製の21口径37mm戦車砲SH-18(ライセンス生産品)を装備したり、火焔放射機、さらには76.2mm無反動砲を搭載する試作型も製作されたが、車体が小さ過ぎて実用に向かないものと判断された。
T-27およびT-27A豆戦車は1931〜33年にかけて両型合計で3,328両が第37工場で生産され、ソ連軍機甲部隊近代化の尖兵であったカリノフスキー実験戦車旅団(1934年には軍団まで格上げ)等に、新規に生産され始めたT-26軽戦車やBT-2快速戦車と共に装備され演習に盛んに使用された。
1931年には空挺部隊支援用として双発重爆撃機TB-1の翼下にT-27豆戦車を懸架して、空輸する実験演習も行われている。
また1932〜33年頃には、アフガニスタン国境の山岳地帯で反政府ゲリラ活動を続けるバスマチ集団(1919年以来ソヴィエト政権に抵抗してきたイスラム教徒反共武装集団)に対する戦闘に投入された。
しかしながらこうした演習や実戦での運用を通じて、偵察用としてもT-27豆戦車はその能力に限界があると判断され、1930年代半ばからは軽歩兵砲や対戦車砲の牽引、あるいは原型となったカーデン・ロイドMk.VI豆戦車でも考えられていた運用法である、前線弾薬運搬供給車(装軌式の装甲トレイラーを牽引)として使用されるようになった。
1941年の独ソ開戦時に残存していたT-27豆戦車も、ほとんどがこうした牽引車両としての用途に使われていた。
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