T-26軽戦車
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T-26軽戦車 1931年型
T-26軽戦車 1933年型
T-26S軽戦車
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+T-26軽戦車 1931年型
1929年7月にM.N.トゥハチェフスキー元帥の構想に基づく最初の本格的機甲部隊建設構想「ソ連軍における戦車、トラクター、自動車、装甲兵器の整備方針」を決めたソ連は、1930年にソ連軍機械化自動車化局(UMM)のI.A.ハレプスキー局長を団長とする兵器調査団をイギリスに派遣し、イギリスの戦車開発の中心的役割を担っていたヴィッカーズ・アームストロング社の工場および各種戦車の実験演習を視察させた。
この視察の目的はヴィッカーズ社が1920年代に開発した各種戦車の有用性を確認しながら、これらのライセンス生産権の購入を図ることであった。
当時のソ連はフランス製のルノーFT軽戦車のコピー生産を行っていた程度で、まだ本格的な戦車開発の経験も技術も持っていなかったため、海外の戦車開発技術を導入することが必要不可欠と考えられたのである。
そして調査団は、カーデン・ロイドMk.VI豆戦車やヴィッカーズ6t戦車(Mk.E軽戦車)のライセンス生産権と数両のサンプルの購入と、ヴィッカーズ社でのソ連側技術者の研修およびソ連への技術者派遣等について、イギリス政府との間で合意を取り付けることに成功した。
ソ連が国産化を企図したヴィッカーズ6t戦車は、第1次世界大戦後に世界各国に輸出されてベストセラーとなったルノーFT軽戦車に対抗してヴィッカーズ社が1928年に登場させた輸出用軽戦車で、高速性能に最も重点を置いて開発されていた。
ルノーFT軽戦車の路上最大速度が約8km/hだったのに対し、ヴィッカーズ6t戦車はその3倍以上の30km/hの路上最大速度を発揮することができたのである。
ヴィッカーズ6t戦車はソ連で「T-26軽歩兵戦車」の呼称で1万両以上の大量生産が行われた他、ポーランドも独自に改良したタイプを「7TP軽戦車」として155両生産し、その他にもフィンランド、中国、タイ、ボリビアなどの国が自軍装備として購入した他、アメリカと日本も研究用にサンプル車両を購入する等、ヴィッカーズ6t戦車は1930年代のベストセラー軽戦車となった。
なお、ヴィッカーズ6t戦車には機関銃を装備する小砲塔2個を左右並列に搭載した2砲塔型のタイプA、47mm速射砲を装備する全周旋回式砲塔を搭載した単砲塔型のタイプBの2種類が存在したが、ソ連がサンプル車両とライセンス生産権を購入したのは2砲塔型のタイプAであった。
これはソ連がヴィッカーズ6t戦車を国産化するにあたって、「軽歩兵戦車」(リョフキー・ピホートヌィ・タンク)というカテゴリーで運用することを想定していたためであった。
ヴィッカーズ6t戦車は安価で量産性に優れており、適度な装甲防御力と機動力を備えていたため、ソ連は本車を大量生産して自動車化狙撃師団に広く装備し、歩兵部隊の攻撃を直接支援する任務に充てることを想定していた。
このような任務には、2挺の機関銃を装備するタイプAの方がより適していると判断されたのである。
1930年春には6t戦車タイプAのサンプル車両がソ連に到着し、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の第232ボリシェヴィーク工場に設けられた試作機械設計部(OKMO)に委託された。
OKMOでは1930年5月28日より、主任技師S.A.ギンズブルクを中心に6t戦車タイプAのライセンス生産の準備が進められ、同年中に15両のソ連版6t戦車を完成させている。
当初、ソ連版6t戦車には「6t戦車ヴィッカーズV-26型」の呼称が与えられた。
V-26軽戦車は基本的には6t戦車タイプAとほとんど同様の車両であったが、搭載機関銃がオリジナルの7.7mmヴィッカーズ液冷機関銃から、ソ連製の7.62mm空冷機関銃DT(M1928)に変更されていた。
エンジンは当初、イギリスから購入したアームストロング・シドレイ社製の水平対向8気筒空冷ガソリン・エンジン(出力80hp)が搭載されたが、後にこれをゴーリキー自動車工場(GAZ)で国産化したT-26ガソリン・エンジン(出力90hp)が搭載されるようになった。
その後V-26軽戦車は、モスクワ近郊のポクロンナヤ演習・試験場で政府・軍幹部に公開された冬季運用試験を経て、1931年2月13日のソ連革命軍事評議会(RVS)において「T-26軽歩兵戦車」としてソ連軍に制式採用することが決定された。
国防人民委員部が1931年8月2日に策定した戦車量産・装備計画では、T-26軽戦車はボリシェヴィーク工場およびスターリングラード・トラクター工場(STZ)において13,800両を生産することが計画された。
最初に生産されたT-26軽戦車は、一般に1931年型(T-26A)と呼ばれているタイプである。
T-26軽戦車1931年型は小砲塔2個を左右並列に搭載しており、原型となった6t戦車タイプAとほとんど同様の車両であった。
武装はそれぞれの砲塔に7.62mm機関銃DTを1挺ずつ装備していたが、1932年になって右側の砲塔に21口径37mm戦車砲PS-1を搭載する小隊長用の車両を製作することが検討され、直ちに量産に移された。
この37mm戦車砲PS-1は、1920年代からソ連がコピー生産を行っていたルノーFT軽戦車が装備する、フランスのピュトー工廠製の37mm戦車砲SA18の発展型である。
またPS-1戦車砲搭載型の実用化後、同じ要領で右側砲塔に45口径37mm戦車砲B-3を装備したタイプのT-26軽戦車も少数ながら生産されている。
この37mm戦車砲B-3(5K)は、ドイツのラインメタル社製の3.7cm対戦車砲TaK28のライセンス生産型である37mm対戦車砲M1930(1K)を戦車砲に改修したもので、BT-2快速戦車の主砲にも採用されている。
B-3戦車砲搭載型のT-26軽戦車は、1933年5月1日のメーデー・パレードに早くも登場している。
T-26軽戦車1931年型は1931〜34年にかけて合計1,617両が生産され、歩兵部隊の攻撃を支援する軽歩兵戦車として使用された。
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+T-26軽戦車 1933年型
ソ連は、ラインメタル社製3.7cm対戦車砲TaK28のライセンス生産型である37mm対戦車砲1Kを1930年に実用化したが、ソ連軍首脳部はより強力な対戦車砲の必要性を認識したため、第8砲兵工場により大口径の45mm対戦車砲を新規開発するよう命じた。
これはソ連にとって初めての対戦車砲の国産開発であったため、ノウハウの獲得と開発期間の短縮のために、45mm対戦車砲はラインメタル社製3.7cm対戦車砲をスケールアップしたものとして開発することになった。
第8砲兵工場では新型45mm対戦車砲を1931年に完成させ、試験の結果が良好であったため45mm対戦車砲M1932(19K)としてソ連軍に制式採用されて1932年から量産が開始された。
またBT-2快速戦車に搭載された37mm戦車砲B-3に代わる新型戦車砲として、19K対戦車砲をベースにした新型45mm戦車砲を開発することも命じられ、これは45mm戦車砲M1932(20K)として完成された。
1932年1月からウクライナの第183ハリコフ機関車工場(KhPZ)において、BT-2快速戦車に20K戦車砲を搭載して火力の強化を図る研究が開始されたが、この研究においてBT-2快速戦車の1名用砲塔が45mm戦車砲を搭載するには狭過ぎることが判明した。
このためBT快速戦車に20K戦車砲を搭載するにあたって、新規に大型化した2名用砲塔が製作されることとなった。
またT-26軽戦車にも火力強化策として20K戦車砲を搭載することが決定されたため、この20K戦車砲用の新型砲塔はBT快速戦車とT-26軽戦車に共用するものとして開発されることになり、1932年にUMMはKhPZとOKMOの両設計局に対して新型砲塔を協力して開発するよう命じた。
この新型砲塔は、当時OKMOで開発が進められていた多砲塔重戦車T-35にも搭載することが予定された。
直ちにKhPZでは6t戦車タイプB(47mm速射砲搭載型)の砲塔を参考に、20K戦車砲を搭載する円筒形の2名用砲塔を設計した。
この砲塔は、BT-2快速戦車の砲塔と同様に曲げ加工された13mm厚の圧延防弾鋼板をリベット接合して組み立てられていた。
砲塔後部には小形の箱型バスルを備えており、砲塔防盾は第8砲兵工場で開発された溶接組み立て式の内装式防盾が用いられた。
主砲の右横には、副武装として7.62mm機関銃DTが1挺同軸に装備された。
砲塔内には主砲を挟んで右側に車長、左側に砲手が位置し、車長は主砲と同軸機関銃の弾薬の装填も担当した。
砲塔上面には後部中央に前開き式の長方形ハッチが1枚設けられており、前方左側には砲手用のペリスコープ式照準視察装置(TOP(M1930)またはPT-1(M1932))が装備されていた。
この新型砲塔を搭載したBT快速戦車には「BT-5」の呼称が与えられ、T-26軽戦車でこの砲塔を搭載したタイプは一般に1933年型(T-26B)と呼ばれている。
BT-5快速戦車およびT-26軽戦車1933年型は1933年から量産が開始されたが、T-26軽戦車はこのタイプから生産現場が第174K.E.ヴォロシーロフ工場に移された。
一方OKMOはKhPZが開発した新型砲塔に不満を持ち、独自に20K戦車砲用の新型砲塔を設計した。
このOKMO製砲塔は従来のKhPZ製砲塔より優秀であると評価されたため、KhPZ製砲塔に代えて1934年からBT-5快速戦車とT-26軽戦車に搭載されることとなった。
OKMOが設計した新型砲塔はKhPZ製砲塔と同じサイズの円筒形を基本としていたが、後部バスルが大型化され砲塔と一体化した馬蹄形のデザインになっていた点が異なっていた。
また砲塔上面のハッチも、車長と砲手にそれぞれ専用の前開き式の長方形ハッチが備えられていた。
砲塔は15mm厚の圧延防弾鋼板を溶接とリベット接合を併用して組み立てられており、主砲防盾の最厚部のみ装甲厚が25mmとなっていた。
このOKMO製砲塔は、レニングラードのイジョラ冶金工場で開発された6輪装甲車BA-3/BA-6シリーズにも採用されている。
一般にT-26軽戦車1933年型の内、KhPZ製砲塔を搭載した初期のタイプは1933年型初期型、OKMO製砲塔を搭載した標準的なタイプは1933年型中期型と呼ばれている。
T-26軽戦車1933年型は1933〜36年にかけてシリーズ最多の6,065両が生産され、ソ連製戦車として初めて海外への輸出や供与が行われることにもなった。
なお1933年型の内3,938両は71-TK-1無線送受信機を搭載しており、無線機搭載型には砲塔周囲を取り巻くフレームアンテナが取り付けられていた。
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+T-26S軽戦車
1935年以降、外モンゴル-満州国境でソ連軍は日本軍としばしば武力衝突を繰り返すようになり、T-26軽戦車はBT快速戦車と共に日本軍との戦闘に何度か投入された。
特に1938年7〜8月のハサン湖事件(張鼓峰事件)では第39狙撃軍団所属のT-26軽戦車約200両が投入され、日本軍第19師団と激闘を繰り広げた。
しかしこれらの戦闘を通じてT-26軽戦車は装甲防御力の貧弱さを露呈したため、1936〜37年にかけてT-26軽戦車の装甲防御力を改善する取り組みが行われた。
まず1936年には、T-26軽戦車の構造にそれまでのリベット接合に代えて電気溶接が大幅に採り入れられ、特に被弾し易い車体前面と砲塔はほとんどが溶接構造となった。
併せて、砲塔上面右側の車長用ハッチがP-40対空銃架付きの円形回転式ハッチに変更され、砲塔後部バスルにボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTが装備されるようになった。
このタイプのT-26軽戦車は、一般に1933年型後期型と呼ばれている。
続いて1937年には砲塔を新設計のものに改めたタイプのT-26軽戦車が登場し、後に「T-26S」の呼称が与えられている。
新設計の砲塔は、避弾経始を考慮して側面装甲板と主砲防盾部に大幅に傾斜装甲を採り入れており、前後に長い楕円形のデザインになっていた。
傾斜装甲を大幅に採り入れたことで、この新型砲塔は重量増加を最小限に抑えて装甲防御力を向上させることに成功していた。
T-26S軽戦車も当初は砲塔上面右側にP-40対空銃架付きの円形回転式車長用ハッチを備え、砲塔後部バスルにボールマウント式銃架を設けて7.62mm機関銃DTを装備していたが、生産途中から砲塔後部のボールマウント式銃架はガンポートに変更されて簡易化された。
さらに1939年には、車体の戦闘室部分にも傾斜装甲を採り入れて装甲防御力を強化したタイプのT-26S軽戦車が登場した。
一般に1937年に登場したT-26S軽戦車の最初の生産型は1937年型、1939年に登場した改良型は1939年型と呼ばれている。
1939年型では主砲に安定装置が付き、俯仰角方向について一定の目標を狙い続けられるようになった。
T-26S軽戦車は1937年型と1939年型がそれぞれ2,000〜3,000両ずつ生産されており、T-26軽戦車シリーズ全体では合計で約12,000両が生産されている。
T-26軽戦車はモンゴル-満州国境での日本軍との戦闘においては、装甲の薄い日本軍戦車に対して主砲の45mm戦車砲が威力を発揮し、大きな戦果を挙げている。
しかし装甲防御力の貧弱さは改良型のT-26S軽戦車でも大して改善されておらず、ろくな対戦車兵器を持たない日本軍相手にかなりの損失も出している。
1939年11月からの対フィンランド戦争(冬戦争)では、フィンランド軍歩兵が装備する20mmラハティ対戦車銃によりT-26軽戦車は大きな損害を出し、装甲防御力の弱さが致命的な弱点であることが明確になった。
1941年6月の独ソ戦開始時にはT-26軽戦車はソ連軍の全戦車の約46%を占め、初期の戦車部隊の中核として活躍したがすでに力不足であることは明らかで、整備不良やバックアップ体制の不備もあって1941年中に大半のT-26軽戦車が失われてしまった。
それでも生き残ったT-26軽戦車は1942年以降も戦闘に投入され続け、1944年の時点でもレニングラード方面など限られた戦線では使用が続けられていた。
極東地区では1945年8月の満州侵攻において沿海州から侵攻したソ連軍機甲部隊の中に、T-34中戦車などに混じって相変わらずT-26軽戦車の姿が見られた。
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<T-26軽戦車 1931年型(7.62mm機関銃搭載型)>
全長: 4.62m
全幅: 2.44m
全高: 2.19m
全備重量: 8.0t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
最大出力: 90hp/2,200rpm
最大速度: 28.4km/h
航続距離: 140km
武装: 7.62mm機関銃DT×2 (6,000発)
装甲厚: 6〜13mm
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<T-26軽戦車 1931年型(37mm戦車砲搭載型)>
全長: 4.62m
全幅: 2.44m
全高: 2.19m
全備重量: 8.0t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
最大出力: 90hp/2,200rpm
最大速度: 28.4km/h
航続距離: 140km
武装: 21口径37mm戦車砲PS-1または45口径37mm戦車砲B-3×1 (169発)
7.62mm機関銃DT×1 (2,405発)
装甲厚: 6〜13mm
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<T-26軽戦車 1933年型>
全長: 4.62m
全幅: 2.44m
全高: 2.33m
全備重量: 9.4t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
最大出力: 90hp/2,200rpm
最大速度: 30km/h
航続距離: 130km
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (100発)
7.62mm機関銃DT×1〜3 (2,848発)
装甲厚: 6〜25mm
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<T-26S軽戦車 1937年型>
全長: 4.62m
全幅: 2.445m
全高: 2.33m
全備重量: 10.3t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
最大出力: 95hp/2,200rpm
最大速度: 30km/h
航続距離: 240km
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (165発)
7.62mm機関銃DT×3 (3,654発)
装甲厚: 10〜25mm
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<T-26S軽戦車 1939年型>
全長: 4.62m
全幅: 2.445m
全高: 2.33m
全備重量: 10.3t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
最大出力: 95hp/2,200rpm
最大速度: 30km/h
航続距離: 240km
武装: 46口径45mm戦車砲20K×1 (165発)
7.62mm機関銃DT×2〜3 (3,654発)
装甲厚: 10〜25mm
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兵器諸元(T-26軽戦車 1933年型)
兵器諸元(T-26S軽戦車)
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<参考文献>
・「グランドパワー2000年2月号 フィンランド陸軍のAFV
1941〜1944」 後藤仁 著 デルタ出版
・「グランドパワー2001年7月号 ヴィッカース6t戦車ファミリー」 古是三春 著 デルタ出版
・「グランドパワー2014年6月号 ソ連軍 T-26軽戦車」 齋木伸生 著 ガリレオ出版 ・「グランドパワー2022年11月号 ソ連軍軽戦車 T50」 齋木伸生 著 ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著 ガリレオ出版
・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 ガリレオ出版
・「パンツァー2000年1月号 イギリスのビッカーズ6t戦車」 真出好一 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年1月号 ソビエト陸軍のT-26軽戦車」 城島健二 著 アルゴノート社
・「パンツァー2012年2月号 ロシア軍軽戦車 T-26」 久米幸雄 著 アルゴノート社
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画
・「ビジュアルガイド
WWII戦車(1) 電撃戦」 川畑英毅 著 コーエー
・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー
・「戦車名鑑
1939〜45」 コーエー
・「図解・ソ連戦車軍団」 齋木伸生 著 並木書房
・「世界の無名戦車」 齋木伸生 著 三修社
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