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T-100重戦車





●開発

1936年にスペイン内戦が勃発した際、ソ連は左派の人民戦線政府を支援するためBT-5快速戦車やT-26軽戦車で編制された義勇部隊を派遣したが、これらの戦車は主要部の装甲厚が13〜16mm程度しかなく、右派の反乱軍が装備するドイツ製の3.7cm対戦車砲PaK36によって容易に貫徹・破砕され多大な損失を生じた。
このスペイン内戦の戦訓によりソ連軍首脳部、戦車開発者たちは戦車の装甲防御力の強化が焦眉の課題であると認識することになった。

そして1937年5月、ソ連軍装甲車両局(ABTU)は当時ソ連軍が装備していた5砲塔型のT-35多砲塔重戦車の後継として、耐砲弾装甲を持つ「対戦車砲駆逐戦車」と称する新型多砲塔重戦車の開発構想を打ち出し、レニングラード(現サンクトペテルブルク)にある第185S.M.キーロフ工場の試作機械設計部(OKMO)と、第100キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)の両者にその試作開発を命じた。

第185工場は、レニングラードの第232ボリシェヴィーク工場の一部であった特殊機械試作工場が1935年に分離独立して誕生した戦車工場である。
OKMOは元々、エドヴァルト・グローテ技師をリーダーとするドイツ人戦車技術者グループがソ連軍の新型多砲塔戦車の開発を行うために、1930年に第232工場に設立されたAVO-5特別設計局をルーツとしていた。

1933年2月に第232工場の戦車製造部門が分離独立して第174K.E.ヴォロシーロフ工場が誕生した際に、AVO-5はOKMOに改組されて一旦同工場の管轄となったが、しばらくしてOKMOは特殊機械試作工場に移転され第185工場が誕生した際にそのまま同工場の管轄となった。
OKMOはT-35重戦車やT-28中戦車などソ連軍の制式装備となった多砲塔戦車の開発を手掛けており、この時点ではN.V.バルィコフが責任者であった。

一方第100工場は帝政ロシア時代からの由緒ある軍需・冶金工場であったプチロフ工場を引き継いだもので、当初は「クラースヌィ・プチロフ(赤いプチロフ)工場」という名称であったが、ソ連共産党レニングラード州委員会のキーロフ第一書記が1934年12月に暗殺された後に彼の功績を讃えるため、「キーロフ工場」に改称された。
第185工場の顕彰名称が「S.M.キーロフ工場」となったのも、やはり同様の理由である。

第100工場はソ連国内でも随一の冶金・金属加工技術を蓄積しており、すでに1933年からT-28中戦車の大量生産を行っていた。
戦車設計のために同工場に設けられたSKB-2を率いていたのは、Zh.Ya.コーチン中佐であった。
両設計局では、早速新型多砲塔重戦車の設計に着手した。

OKMOでは新型多砲塔重戦車に対して当初「オブイェークト100」、後に「T-100」の名称を与え、E.Sh.パレイ技師を設計主任として開発を進めた。
しかしOKMOの技師や工員たちの多くは開発当初から、T-100重戦車を「ソートカ」(Sotka:1/100)というあだ名で呼んでいた。
これは、この戦車は1両しか製作されずに終わるだろうと皮肉って付けられた名前のようである。

一方SKB-2では第100工場の顕彰名称の元になっている故セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ第一書記に因み、そのイニシャルを採って新型多砲塔重戦車に「SMK」の名称を与え、OKMOから転任してきたN.V.ツェイーツ技師を設計主任として開発を進めた。
当初ABTUが提示した対戦車砲駆逐戦車の要求仕様は、以下のようなものであった。

・2基の銃塔と副砲塔、主砲塔で構成される5砲塔型とすること
・あらゆる距離からの37〜45mmの対戦車砲弾と、1,200mの距離からの75〜76.2mm野砲弾の攻撃に耐える装甲
 を持つこと
・攻撃をしてくる対戦車砲を確実に沈黙させられる能力を備えること

しかし5砲塔型のT-35重戦車が重量過大のため装甲防御力を強化できなかったことを踏まえてすぐに要求仕様が変更され、対戦車砲駆逐戦車は銃塔を廃止して主砲塔の前後に副砲塔を備える3砲塔型とすることになった。
1938年10月10〜11日にABTU局長補佐官のコロプコフ技師を長として、T-100重戦車とSMK重戦車の図面と実物大モックアップ(木製模型)の審査がモスクワで行われ、審査の結果それぞれの試作車を2両ずつ製作することが承認された。

続いて同年12月9日にモスクワのクレムリン宮殿で開催された政治局防衛委員会の特別会議で、T-100重戦車とSMK重戦車の設計案についての審議が行われたが、この席でI.V.スターリンソ連共産党中央委員会書記長はこれらの重戦車に対して厳しい批判を行った。
スターリンは皮肉を込めて「どうして戦車を『ミュールとメリリズ』(帝政ロシア時代にモスクワにあった百貨店)にするのか理解できない」と述べ、これらの重戦車は無駄に砲塔が多過ぎて設計が時代遅れだと批判した。

両設計局の代表者たちは、新型重戦車の設計の根本的変更と速やかなる完成をスターリンらに約束した。
また本来は予定されていなかったが、SKB-2はこの会議でSMK重戦車を単一砲塔型に改設計したプランもスターリンらに披露しており、この単一砲塔型重戦車を試作することを提案した。
そしてスターリンらの承認を得て、2両製作されることになっていたSMK重戦車の試作車の内1両をこの単一砲塔型として製作することになった。

この単一砲塔型重戦車は後にご機嫌取りよろしく、コーチンの義理の父でスターリン側近No.2とされていた国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥のイニシャルを採って「KV」と名付けられている。
モスクワでの会議から戻ったコーチンは、SMK重戦車の設計主任をA.S.イェルモラエフ技師に交代させてSMK重戦車の砲塔を2つに減らして再設計することを指示し、またN.L.ドゥホフ技師を設計主任とするチームに単一砲塔型のKV重戦車の開発を進めさせた。

一方OKMOのバルィコフも、SMK重戦車と同様に2砲塔型に設計を改めたT-100重戦車の開発を進めさせた。
1939年1月には第185工場でT-100重戦車の試作車の製作が開始され、同年5月に最初の試作車が完成した。
2両製作されたT-100重戦車の試作車は工場で慣らし運転を行って細かい不具合を修正した後、1939年7月25日に試験場となっているクビンカの装甲車・戦車科学技術研究所(NIIBT)に送り出された。

第100工場で製作されたSMK重戦車の試作車も同じ日にNIIBTに送り出され、KV重戦車の試作車はやや遅れて1939年9月5日に工場を出発した。
OKMOが開発したT-100重戦車は全長8.495m、全幅3.40m、全高3.43m、戦闘重量58tで乗員は8名であった。
足周りは前方に誘導輪、後方に起動輪を配し、片側8個の中直径転輪と5個の上部支持輪を組み合わせていた。
サスペンションについては、車体内蔵のリーフ・スプリング(板ばね)方式を採用していた。

サスペンションを車体内に収めたことで、T-35重戦車のようにサスペンションを防護するサイドスカートを装着する必要が無くなったため、T-100重戦車はその分の重量を基本車体の装甲強化に回すことができた。
T-100重戦車の砲塔は鋳造製で戦艦のように上下の段状に2基の砲塔が縦列配置され、上段の主砲塔に23.7口径76.2mm戦車砲L-10を、旋回角が180度に制限された下段の副砲塔に46口径45mm戦車砲20Kを搭載していた。

また副武装として7.62mm機関銃DTを3挺装備しており、主砲と副砲の同軸に1挺ずつと車長用キューポラに1挺配置していた。
一方SKB-2が開発したSMK重戦車は全長8.75m、全幅3.40m、全高3.25m、戦闘重量55tで乗員は7名であった。
砲塔配置はT-100重戦車と同様で上段の主砲塔に30.5口径76.2mm戦車砲L-11を、旋回角が270度に制限された下段の副砲塔に45mm戦車砲20Kを搭載していた。

サスペンションについては、第100工場が国産化に成功したトーションバー(捩り棒)式サスペンションを採用していた。
エンジンはT-100重戦車もSMK重戦車も、航空機用のAM-34ガソリン・エンジンを車載用に改修したGAM-34BT V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力850hp)を共通して搭載していた。
T-100重戦車とSMK重戦車を比較すると全長はSMK重戦車の方が長く、重量はT-100重戦車の方が重かった。

武装配置は両者とも同じレイアウトを採用しており、サイドスカートを装着していない点も同様だったので両者の外観は非常に良く似ていた。
一方SKB-2が開発した単一砲塔型のKV重戦車は、SMK重戦車の主砲塔とほぼ同様の全周旋回式砲塔に主砲の76.2mm戦車砲L-11と副砲の45mm戦車砲20Kを同軸装備していた。
車体はSMK重戦車より全長が短縮されており、転輪数がSMK重戦車の片側8個から6個に減らされていた。

エンジンは第75ハリコフ・ディーゼル工場がフランスのイスパノ・スイザ社製の航空機用ガソリン・エンジンを基に開発した、V-2 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力500hp)を搭載していた。
装甲防御力についてはT-100重戦車が主要部で60mm厚、SMK重戦車とKV重戦車が主要部で75mm厚となっていたが、副砲塔を廃止し車体を短縮したKV重戦車の戦闘重量はSMK重戦車より8tも軽い47tに収まった。


●戦歴

1939年9月23日よりクビンカにあるNIIBTの試験場でT-100重戦車、SMK重戦車、KV重戦車の試作車を用いたトライアル(性能比較試験)が実施される運びとなった。
NIIBTでのトライアルではT-100重戦車やSMK重戦車について、多砲塔戦車でかねてより指摘されていた各砲塔を有効に連携させての戦闘動作が困難であることが指摘された他、T-100重戦車が重量面でソ連が保有する最大積載無蓋貨車の重量限界である55tを超えていることが問題とされた。

そして機動面その他でも2砲塔型に比べて、単一砲塔型のKV重戦車が優位との結果が報告されたのである。
ABTUが予想しなかった、単一砲塔型重戦車誕生の予感が濃厚といえた。
しかしここでもう1つの事件が、試作重戦車トライアルの途中で生じた。
ソ連軍が1939年11月30日にフィンランドへの侵攻を開始し、冬戦争が勃発したのである。

冬戦争はレニングラード北端に接するカレリア地峡についての領土要求に端を発した武力紛争であったが、同地にフィンランド軍が構築した要塞線「マンネルハイム・ライン」は新型重戦車の実戦トライアルにぴったりの作戦目標といえた。
そのためNIIBTでのトライアルの結論は、さらにフィンランド国境地帯での実戦参加による試験にまで持ち越されることとなったのである。

なお実戦試験に先立ってT-100重戦車は主砲塔の武装がSMK重戦車と同じ76.2mm戦車砲L-11に換装され、KV重戦車も副砲の45mm戦車砲20Kに代えて7.62mm機関銃DTが装備された。
3種類の試作重戦車は正規の戦車兵以外に各製作工場の労働者を搭乗させて、第20重戦車旅団第91戦車大隊に配属され実戦投入された。

T-100重戦車の乗員は、ソ連軍の戦車兵4名と第185工場から選抜された労働者3名で構成されていた。
M.アスターホフ中尉が車長、アルタモーノフおよびコズロフが砲手、スミルノフが通信手を担当し、第185工場からはA.プリューヒンが操縦手、V.ドロッジンが予備操縦手、V.カプラノフが機関手として搭乗した。
また第185工場のE.ロシチンも当時T-100重戦車に搭乗していたと後に証言しているが、公式記録と食い違うため彼がこの時点でT-100重戦車の乗員であった可能性は低い。

実戦でこれらの新型重戦車は貧弱な武装のフィンランド軍歩兵が守備する陣地帯の突破に充分な効力を証明したが、収束手榴弾を使った肉薄攻撃によりSMK重戦車が撃破されてしまった。
しかしこれらの戦闘経過を通じて単一砲塔型のKV重戦車の有効性がはっきり確認されたため、1939年12月19日には国家防衛委員会の決定によりKV重戦車がソ連軍に制式採用されることになり、T-100重戦車とSMK重戦車は不採用となった。

しかしOKMOのバルィコフらはT-100重戦車の不採用に納得せず、ABTUに対してT-100重戦車は余裕ある車体サイズを活かして、KV重戦車には搭載不可能な130mm艦艇砲などの強力な武装を装備する戦車に改良することが可能であり、KV重戦車と共にソ連軍の装備に採用すべきであると訴えたが結局不採用の決定は変わらなかった。

それでもあきらめきれないOKMOでは、シュフリン技師を設計主任とするチームがT-100重戦車をベースに、全周旋回式砲塔に130mm艦艇砲B-13を装備する「オブイェークト103」と呼ばれる重戦車を1940年4月に設計した。
OKMOはこの戦車を沿岸警備用の装備として採用することをABTUに提案したものの、結局採用されずペーパープランのみに終わっている。

その後のT-100重戦車の試作車の運命であるが、2両製作された試作車のうち他の2種類の試作重戦車と共に実戦試験に供された車両は、SMK重戦車が撃破された1939年12月19日のスンマ地区での戦闘でエンジンが故障したため、エンジン修理のために一旦戦線を離れた。
T-100重戦車はエンジンの修理を終えた後1940年2月18日に再び戦線に送り出され、2月22日〜3月1日まで第20重戦車旅団、3月11〜13日まで第1重戦車旅団でKV重戦車と行動を共にした。

1940年1月にはソ連軍砲兵局(GAU)のG.I.クリーク局長の要請により、フィンランド軍の要塞陣地攻撃用にT-100重戦車に20口径152mm榴弾砲M-10を搭載して火力を強化することになった。
第185工場では152mm榴弾砲M-10を搭載する新しい主砲塔の開発に着手し、同年3月中旬までに新型主砲塔を完成させた。

しかし同時期に第100工場において、同じく152mm榴弾砲M-10を装備する新大型砲塔を搭載したKV重戦車(後のKV-2重戦車)が開発されたため、T-100重戦車の火力強化計画は中止されることになり新型主砲塔は搭載されずに終わった。
なお他の資料ではT-100重戦車に新型主砲塔を搭載した車両には「T-100-Z」の名称が与えられ、KV-2重戦車と共に1940年2月に実戦投入されたともいわれる。

その後T-100重戦車は1940年夏に保管のためNIIBTに引き渡され、1941年6月に独ソ戦が勃発するとカザン戦車学校に避難させられた。
さらにその後チェリャビンスクの第100試験工場に引き渡され、1945年5月の終戦までそこに留まっていた。
T-100重戦車は戦後1950年代半ばまでチェリャビンスク戦車学校の敷地内に置かれていたらしいが、その後の運命については不明である。

一方、実戦試験に参加しなかったもう1両のT-100重戦車はしばらくNIIBTに置かれていたが、後に工兵戦車に改造することが命じられた。
ソ連軍は冬戦争の当初から橋梁の架設、工兵や爆薬の輸送、損傷した戦車の回収に用いる装甲工兵車両の必要性を認識していたため、北西方面軍司令部は1939年12月中旬に第185工場に対して、NIIBTにあるT-100重戦車の試作車を流用してこれらの任務を行う工兵戦車を設計・製造することを命じたのである。

しかしこの工兵戦車の設計作業中の1940年早々、ABTUのD.G.パヴロフ局長が第185工場に対してT-100重戦車の試作車を流用して、フィンランド軍の要塞陣地攻撃用に152mm榴弾砲もしくは他の適当な大口径砲を搭載する自走砲を製作することを要請したため第185工場は工兵戦車の開発を中止し、T-100重戦車をベースに50口径130mm艦艇砲B-13を密閉式戦闘室に限定旋回式に搭載する重自走砲の開発に着手した。

この重自走砲は当初「T-100-X」と呼ばれ、避弾経始を考慮して戦闘室が楔形の形状にデザインされていたが、本車は早急に完成させることが求められたため後に戦闘室のデザインがより簡素な箱型に変更され、名称も「T-100-Y」に変更された。
さらに最終的に、本車は「SU-100Y」(”SU”は自走砲の略語)という名称に変更されている。

SU-100Y重自走砲は車体についても改良が施されており、T-100重戦車の車体内蔵のリーフ・スプリング式サスペンションに代えてSMK重戦車やKV重戦車と同じトーションバー式サスペンションが導入された。
サスペンションの製造は第100工場、戦闘室の製造はレニングラードのイジョルスキー製鋼所が担当し、1940年3月1日から第185工場で組み立て作業が開始された。

SU-100Y重自走砲の製作は大車輪で行われ1940年3月14日には工場で慣らし運転が開始されたが、その直前の3月6日にソ連とフィンランドの間で停戦協定が締結されたため冬戦争には参加できなかった。
その後SU-100Y重自走砲はT-100重戦車と同様に保管のためNIIBTに引き渡されたが、T-100重戦車が独ソ戦勃発後にカザン戦車学校に避難させられたのに対しSU-100Y重自走砲はそのままNIIBTに留まった。

そしてドイツ軍がモスクワ直前まで侵攻してきた1941年11月になって、SU-100Y重自走砲は152mm榴弾砲を備えるSU-14、SU-14-1の2種類の試作自走砲と共に特別自走砲大隊に編入され、モスクワ攻防戦に投入された。
SU-100Y重自走砲の戦闘運用についての記録は見つかっていないが幸いにもモスクワ攻防戦を生き残り、現在はNIIBT付属の戦車博物館の展示車両として余生を送っている。


<T-100重戦車>

全長:    8.495m
全幅:    3.40m
全高:    3.43m
全備重量: 58.0t
乗員:    8名
エンジン:  GAM-34BT 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 850hp/1,850rpm
最大速度: 35.7km/h
航続距離: 160km
武装:    30.5口径76.2mm戦車砲L-11×1 (120発)
        46口径45mm戦車砲20K×1 (393発)
        7.62mm機関銃DT×3 (4,284発)
装甲厚:   20〜60mm


<参考文献>

・「世界の戦車イラストレイテッド10 KV-1 & KV-2重戦車 1939〜1945」 スティーヴン・ザロガ/ジム・キニア 共
 著  大日本絵画
・「独ソ戦車戦シリーズ18 労農赤軍の多砲塔戦車 T-35、SMK、T-100」 マクシム・コロミーエツ 著  大日本絵
 画
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著  大日本絵画
・「パンツァー2006年1月号 各国多砲塔戦車の歴史 ソビエト(2)」 柘植優介 著  アルゴノート社
・「パンツァー2006年2月号 各国多砲塔戦車の歴史 ソビエト(3)」 柘植優介 著  アルゴノート社
・「パンツァー1999年9月号 ロシアのSMK重戦車」 真出好一 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2011年11月号 KV重戦車シリーズ(1)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「第2次大戦 ソビエト軍戦車 Vol.2 重戦車/自走砲」 高田裕久 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2013年2月号 ソ連軍重自走砲(1)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2001年12月号 ソ連軍自走砲(1)」 古是三春 著  デルタ出版
・「グランドパワー2000年8月号 ソ連軍重戦車(1)」 古是三春 著  デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 斎木伸生 著  光人社
・「図解・ソ連戦車軍団」 斎木伸生 著  並木書房
・「大祖国戦争のソ連戦車」 古是三春 著  カマド


兵器諸元

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