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SMK重戦車





●開発

ソ連軍装甲車両局(ABTU)は当時ソ連軍が装備していた5砲塔型のT-35多砲塔重戦車の後継として、耐砲弾装甲を持つ「対戦車砲駆逐戦車」と称する新型多砲塔重戦車の開発構想を1937年5月に打ち出し、レニングラード(現サンクトペテルブルク)にある第185S.M.キーロフ工場の試作機械設計部(OKMO)と、第100キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)の両者にその試作開発を命じた。

SKB-2の責任者であったZh.Ya.コーチン中佐は、第100工場の顕彰名称の元になっている故セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ ソ連共産党レニングラード州委員会第一書記(1934年12月に暗殺された)に因み、そのイニシャルを採って新型多砲塔重戦車に「SMK」の試作名称を与えた。
SMK重戦車の設計主任にはOKMOから転任してきたN.V.ツェイーツ技師が任命されたが、これは彼が3つの砲塔を備えるT-28多砲塔中戦車の開発に携わっていた経験を買ってのことであった。

一方、OKMOの責任者であったN.V.バルィコフは新型多砲塔重戦車に対して当初「オブイェークト100」、後に「T-100」の試作名称を与え、E.Sh.パレイ技師を設計主任に任命して開発を進めさせた。
OKMOはT-35重戦車やT-28中戦車などソ連軍に制式採用された多砲塔戦車の開発を手掛けた実績があり、T-100重戦車の開発にも自信を持っていた。
当初ABTUが提示した対戦車砲駆逐戦車の要求仕様は、以下のようなものであった。

・2基の銃塔と副砲塔、主砲塔で構成される5砲塔型とすること
・あらゆる距離からの37〜45mmの対戦車砲弾と、1,200mの距離からの75〜76.2mm野砲弾の攻撃に耐える装甲
 を持つこと
・攻撃をしてくる対戦車砲を確実に沈黙させられる能力を備えること

しかし5砲塔型のT-35重戦車が重量過大のため装甲防御力を強化できなかったことを踏まえてすぐに要求仕様が変更され、対戦車砲駆逐戦車は銃塔を廃止して主砲塔の前後に副砲塔を備える3砲塔型とすることになった。
1938年10月10〜11日にABTU局長補佐官のコロプコフ技師を長として、T-100重戦車とSMK重戦車の図面と実物大モックアップ(木製模型)の審査がモスクワで行われ、審査の結果それぞれの試作車を2両ずつ製作することが承認された。

またこの頃SKB-2の技師たちは、モスクワのソ連軍機械化自動車化学校(VAMM)で設計学の学位を取得するため単一砲塔型の重戦車の設計に取り組んでおり、ソ連軍がチェコスロヴァキアのシュコダ社から研究用に借り受けたLTvz.35軽戦車を参考に、SMK重戦車を単一砲塔型に改設計した試作重戦車の設計案をまとめた。
最終的に学生たちは、この単一砲塔型重戦車の設計でVAMMから設計学の学位を授与されている。

1938年12月9日にモスクワのクレムリン宮殿で、I.V.スターリンソ連共産党中央委員会書記長を始め防衛閣僚会議のメンバーの参加の下、T-100重戦車とSMK重戦車の設計案の審議が行われた。
この会議でSKB-2が提示したSMK重戦車の設計案は、T-35重戦車のデザインをベースに足周りは同じものを踏襲し、7.62mm機関銃を装備する2基の銃塔を廃止して3砲塔タイプにしたものだった。

武装配置については車体上面中央の一段高い位置に76.2mm戦車砲を装備する主砲塔を搭載し、その前後に45mm戦車砲を装備する副砲塔を配置するようになっていた。
車体は圧延防弾鋼板の溶接構造、砲塔は一部に鋳造を採り入れており、重量軽減を図るために足周り防御のためのサイドスカートを廃止する等、T-35重戦車に比べてすっきりした外観になっていた。

そして軽減した重量分を基本車体の装甲厚の増加に回すこととし、T-35重戦車よりも強化した最大装甲厚40〜45mmを予定していた。
しかしこの会議ではスペイン内戦に派遣したT-26軽戦車やBT-5快速戦車の実戦経験から、中距離以上からの75mm加農砲弾に抗堪するよう、少なくとも60mm程度の装甲厚が必要であるとの指摘があった。

またスターリンからはコイル・スプリング式のサスペンションが剥き出しになっており、防御上問題ではないかということと、砲塔が多過ぎるのではないかという点について指摘がされた。
このためコーチンらはSMK重戦車の砲塔を2つに減らし、防御力の向上を図ることを約束した。
また本来は予定されていなかったが、SKB-2はこの会議でVAMMでの学位取得用に設計したSMK重戦車の単一砲塔化プランをスターリンらに披露しており、この単一砲塔型重戦車を試作することを提案した。

そしてスターリンらの承認を得て、2両製作されることになっていたSMK重戦車の試作車の内1両をこの単一砲塔型として製作することになった。
この単一砲塔型重戦車は後にご機嫌取りよろしく、コーチンの義理の父でスターリン側近No.2とされていた国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥のイニシャルを採って「KV」と名付けられている。

モスクワでの会議から戻ったコーチンは、SMK重戦車の設計主任をA.S.イェルモラエフ技師に交代させてSMK重戦車の砲塔を2つに減らして再設計することを指示し、またN.L.ドゥホフ技師を設計主任とするチームに単一砲塔型のKV重戦車の開発を進めさせた。
砲塔数を減らした後SMK重戦車に残された課題は、防御面の弱点を指摘されたT-35重戦車譲りの足周りをどうするかであった。

T-35重戦車と同様にサイドスカートを装着すれば防御力は改善されるものの、その分重量が増加するため基本車体の装甲厚を増やすのに支障が生じ、機動性能の低下にも繋がるのである。
しかしSMK重戦車の開発チームにとって幸運なことに、ちょうど同じ時期に第100工場でサスペンションの大部分を車体底部に納めることができるトーションバー式サスペンションの国産化が達成されたのである。

これは、ソ連軍が研究用に購入したスウェーデンのランツヴェルク社製のL-60軽戦車に用いられていたトーションバー式サスペンションを国産化したもので、捩り加工をした鋼製の棒を車体底部に通し、その片側に転輪の車軸の付いたアームを結合するものであった。
このおかげで剥き出しのサスペンションを防御するためにサイドスカートを装着する必要が無くなり、余計な重量増加を招かずに済ますことができた。

捩り加工された棒バネの反発力を利用したこのサスペンションは、当時としては他にドイツ軍がIII号中戦車への導入を試みていた程度であったが、後に第2次世界大戦を通じて世界中の戦車に採用されていき、現在では戦車を始めとする装軌式AFVのサスペンション・システムの主流となっている。
もちろん、重戦車にトーションバー式サスペンションを採用したのはソ連が最初である。
1939年1月から第100工場で製作が開始されたSMK重戦車の試作車は、同年4月30日に完成した。

車体上部には戦艦のように上下の段状に2基の砲塔が縦列配置され、上段の主砲塔には30.5口径76.2mm戦車砲L-11、下段の副砲塔には46口径45mm戦車砲20Kをそれぞれ装備していた。
砲塔がT-35重戦車の5基から2基に減らされたため、乗員もT-35重戦車の10名から7名に減っていた。
副武装は12.7mm重機関銃DKを1挺、7.62mm機関銃DTを4挺装備していた。

12.7mm重機関銃は主砲塔後面のボールマウント式銃架に装備され、7.62mm機関銃は戦闘室前面右側のボールマウント式銃架、主砲塔と副砲塔の防盾、主砲塔上面にそれぞれ装備されていた。
SMK重戦車の装甲厚は車体が前面75mm、側面60mm、上面30mm、下面20〜30mm、砲塔が前/側/後面60mm、上面30mmと当時の戦車としては最高レベルの装甲防御力を備えていた。
車体サイズは全長8.75m、全幅3.40m、全高3.25mで、戦闘重量は55tとT-35重戦車より5t増加していた。

エンジンは、T-35重戦車に搭載されたM-17L V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力500hp)より大幅に出力がアップした、航空機用のAM-34ガソリン・エンジンを原型とするGAM-34BT V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力850hp)を搭載していた。
この大出力エンジンのおかげでSMK重戦車はT-35重戦車より重量が増加しているにも関わらず、路上最大速度34.5km/h、路上航続距離280kmとT-35重戦車を上回る機動性能を発揮できた。


●戦歴

SMK重戦車の試作車は第100工場で慣らし運転を行って細かい不具合を修正した後、1939年7月25日にはABTUの装甲車・戦車科学技術研究所(NIIBT)に試験の場を移すため、レニングラードからモスクワ郊外のクビンカに向けて5日間かけて試験を兼ねた自走を行った。
1939年9月までに第100工場はSMK重戦車とKV重戦車を各1両ずつ、第185工場はT-100重戦車を2両完成させ、NIIBTの試験場においてこれら試作重戦車のトライアル(性能比較試験)が開始された。

同年11月末の時点でSMK重戦車の総走行距離は1,700kmに達していたが、NIIBTでの各種試験が実施されている最中の1939年12月、ソ連閣僚会議の決定によりSMK重戦車は折から開戦したフィンランドとの戦争(冬戦争)にKV重戦車やT-100重戦車と共に投入され、実戦場での試験に供されることになった。
当時フィンランド軍はカレリア地峡に「マンネルハイム・ライン」と呼ばれる要塞線を構築しており、ソ連軍はフィンランド軍の激しい抵抗で侵攻を阻まれ大きな損害を出していた。

この要塞線を突破するのに、強力な火力と防御力を備えるこれら試作重戦車は打ってつけの兵器であると判断されたのである。
SMK重戦車、KV重戦車、T-100重戦車の3両を用いて特別重戦車中隊が編制され、I.コロトゥーシキン大尉の指揮下に入った。
SMK重戦車の乗員は、ソ連軍の戦車兵4名と第100工場から選抜された労働者3名で構成されていた。

N.ピェチン上級中尉が車長、モギリチェンコ軍曹が副車長、その他2名の戦車兵が砲手と照準手を担当し、第100工場からはV.イグナチェフが操縦手、A.クニーツィンが機関手、A.テテレフが変速手として搭乗した。
この重戦車中隊はカレリア地峡で作戦中の第20重戦車旅団第91戦車大隊に配属されることになり、鉄道で急送された。
SMK重戦車の初の実戦参加は1939年12月17日、ホッティネン近郊での攻撃作戦であった。

しかし雪深い森の戦場は巨大な2砲塔重戦車であるSMKやT-100には不向きで、行動が制約されがちだった。
そして2日後の19日、SMK重戦車はスンマ近くのフィンランド軍の防御拠点を攻撃中、肉薄した敵歩兵に車体下に収束手榴弾を投げ込まれ、電気系統と燃料タンクが破損し行動不能になってしまった。
やむを得ずピェチン上級中尉ら7名の乗員はSMK重戦車を放棄し、脱出を支援したT-100重戦車によって救出された。

ソ連軍の攻撃を撃退した後、戦場に残されたSMK重戦車を目撃したフィンランド軍はその異様な形態と大きさに驚いた。
そして時折周辺に落下するソ連軍の重砲火を縫ってこの巨大戦車を回収しようとしたが、重機材を持たないフィンランド軍には叶わずそのまま2カ月も放置されることになった。

しかしその間にも雪の積もったSMK重戦車の車体は折を見て調査され、その情報はフィンランド軍からドイツのゲーレン機関にもたらされた。
しかし戦場からの幻のような巨大戦車の報告は尾鰭が付き、スウェーデンからもたらされた実車写真と共に「100t戦車」、「T-35C戦車」としてドイツ軍の情報ファイルに記録されるところとなった。
その後ソ連側も何度かSMK重戦車の回収を企図し、失敗を繰り返していた。

そして周辺地域からフィンランド軍を大幅に後退させた1940年2月になって、ようやく砲火に冒されずに回収作業が可能になるや、26日にABTU上級代表のA.シュピターノフ技師に率いられたT-28中戦車6両が、牽引回収のためにSMK重戦車の放棄現場に向かった。
シュピターノフは最初放棄現場でSMK重戦車の動力関係を修理し、雪溜まりから引き出した後は自走させようと考えていたようだが、最終的にこれを断念している。

結局SMK重戦車は1940年3月初頭になって一番現場から近いペルク・ヤルヴィ駅まで、6両のT-28中戦車でワイアー牽引して運ばれた。
しかし、ここでも問題が持ち上がった。
重さ55t、全長9m近い巨大戦車を積載できる貨車も無く、また貨車上に載せる手段も無かったのである。

シュピターノフは仕方なくSMK重戦車の車体をガスバーナーで貨車に搭載可能な大きさに切断し、バラバラのスクラップのようにしてレニングラードの第100工場に運搬せざるを得なかった。
バラバラになったSMK重戦車が第100工場に届けられた後、ABTUは同工場に対して1940年中にSMK重戦車を修理し、保管のためにNIIBTに引き渡すように指示した。

だがすでに1939年12月19日の国家防衛委員会の決定により、単一砲塔のKV重戦車がソ連軍の装備として制式採用され、SMK重戦車とT-100重戦車は不採用が決定していた。
このためもはや不必要と見なされたのか、結局SMK重戦車は修理されずにバラバラの状態のまま長いこと第100工場に放置され、戦後になってスクラップとして溶融処分され生涯を終えることになった。

しかしSMK重戦車がスクラップとなった後も、この巨大戦車の伝説だけは生き残っていた。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦の発動と共にソ連国境を越えたドイツ軍部隊は、ゲーレン機関の情報ファイルの情報に基づき「戦線に巨大戦車出没の可能性あり」と警告が与えられ、これが解除されるまでおよそ2カ月に渡り幻の巨大戦車の行方を追うことになったのである。


<SMK重戦車>

全長:    8.75m
全幅:    3.40m
全高:    3.25m
全備重量: 55.0t
乗員:    7名
エンジン:  GAM-34BT 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 850hp/1,850rpm
最大速度: 34.5km/h
航続距離: 280km
武装:    30.5口径76.2mm戦車砲L-11×1 (113発)
        46口径45mm戦車砲20K×1 (300発)
        12.7mm重機関銃DK×1 (250発)
        7.62mm機関銃DT×4 (5,733発)
装甲厚:   20〜75mm


<参考文献>

・「世界の戦車イラストレイテッド10 KV-1 & KV-2重戦車 1939〜1945」 スティーヴン・ザロガ/ジム・キニア 共
 著  大日本絵画
・「独ソ戦車戦シリーズ18 労農赤軍の多砲塔戦車 T-35、SMK、T-100」 マクシム・コロミーエツ 著  大日本絵
 画
・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著  大日本絵画
・「パンツァー2006年1月号 各国多砲塔戦車の歴史 ソビエト(2)」 柘植優介 著  アルゴノート社
・「パンツァー2006年2月号 各国多砲塔戦車の歴史 ソビエト(3)」 柘植優介 著  アルゴノート社
・「パンツァー1999年9月号 ロシアのSMK重戦車」 真出好一 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2011年11月号 KV重戦車シリーズ(1)」 斎木伸生 著  ガリレオ出版
・「第2次大戦 ソビエト軍戦車 Vol.2 重戦車/自走砲」 高田裕久 著  ガリレオ出版
・「ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)」 古是三春 著  ガリレオ出版
・「グランドパワー2000年8月号 ソ連軍重戦車(1)」 古是三春 著  デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 斎木伸生 著  光人社
・「図解・ソ連戦車軍団」 斎木伸生 著  並木書房
・「大祖国戦争のソ連戦車」 古是三春 著  カマド


兵器諸元

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