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M108 105mm自走榴弾砲





●開発

M108 105mm自走榴弾砲は、M109 155mm自走榴弾砲と並行して開発が進められたアメリカ陸軍の戦後第2世代自走砲である。
1952年1月に将来の自走砲に関する会議がワシントンで開かれ、この席において110mm榴弾砲を装備する軽量型自走砲の開発提案が出されたが、M52 105mm自走榴弾砲の配備を始めたばかりということもあって、CONARC(Continental Army Command:アメリカ陸軍司令部)はこの要求を却下した。

しかし1953年9月にはM52自走榴弾砲の不具合もあってか、当時開発が進められていた110mm榴弾砲T203を装備する自走砲が「T195」の試作名称で開発されることが決まり、1954年3月にはミシガン州ウォーレンのデトロイト工廠の手で製作されたモックアップが展示された。
この開発初期段階におけるT195自走榴弾砲は戦闘重量が17.3tで、全周旋回式の砲塔に110mm榴弾砲T203を装備し、砲の俯仰角は−10〜+75度で砲塔リングの直径は80インチ(203.2cm)となっていた。

機関系にはコンティネンタル発動機製作所製のAO-628-1ガソリン・エンジンと、アリソン社製のXT-300変速機を使用していた。
さらに当時研究が進められていた、車高を低くするために上部支持輪を廃止したフラットトラック式サスペンションを逸早く採用しており、足周りは直径30インチ(76.2cm)の複列式転輪4個と、16インチ(40.64cm)幅の履帯の組み合わせとなっていた。

T195自走榴弾砲のモックアップ審査は問題無く終了し本格的な開発に移行したが、1956年1月に主砲弾薬の共用などの面を重視して110mm榴弾砲T203およびその弾薬の開発が中止されることになり、T195自走榴弾砲にはアメリカ陸軍に大量に配備されていた105mm榴弾砲を装備することになった。

同時にOTAC(Ordnance Tank-Automotive Center:アメリカ陸軍戦車・車両センター)からの要求を受けて、サスペンションには当時開発が進められていたT113装甲兵員輸送車(後のM113装甲兵員輸送車)のものを流用し、履帯も15インチ(38.1cm)幅のものに改められることになった。
そして転輪の直径は22インチ(55.88cm)に減り、その代わり片側7個とされ、最後部の転輪が誘導輪も兼ねる方式に変わった。

さらに、並行して開発が進められていたT196自走榴弾砲(後のM109 155mm自走榴弾砲)と車体や砲塔を共通化することになり、装甲も防弾鋼板と防弾アルミ板を比較審査した結果、T113装甲兵員輸送車と同じく5083防弾アルミ板を用いることとなり、その装甲厚は当初の案では1.25インチ(31.75mm)とされた。
また砲塔リングの直径も検討の結果、両車共に100インチ(254cm)に統一され、1956年10月にはこの改良を加えられた車両のモックアップが審査に供された。

これだけ差が生じたにも関わらず、議会への対策か試作名称は以前と同じ「T195」のままであった。
T195自走榴弾砲の乗員は5名で操縦手が車体前部に独立して位置し、車長、砲手、装填手2名は全て砲塔内に収められた。
主砲は105mm榴弾砲T252を装備し、105mm砲弾の搭載数は103発とされ砲塔の旋回と砲の俯仰は手動とされた。

戦闘重量は14.6tと、以前の計画よりも減少しているのが目立つ。
細部設計も終了し、T195自走榴弾砲は4両の試作車が発注されたがこの発注期日は不明である。
しかし、1958年8月にはT195自走榴弾砲の試作第1号車がデトロイト工廠で完成しているので、1957年末もしくは1958年初め頃に発注されたものと思われる。

完成した試作車は、1958年9月よりエリー装備補給所において試験に供された。
同年12月からは、フォート・ノックスとアバディーン車両試験場で本格的な試験が実施された。
その結果、サスペンションやその他のコンポーネントに不具合があることが判明したため、改良のためにデトロイト工廠に戻されている。

この際に実施された改良はかなり大掛かりなもので、改良型サスペンションへの換装はもちろんのこと、転輪は直径24インチ(60.96cm)とやや大型化され、さらに車体後部に直径18インチ(45.72cm)の誘導輪が追加された。
この試作車の試験が行われていたのと時を同じくして、アメリカ陸軍は戦闘車両のエンジンをガソリンからディーゼルに切り替えることを決め、製作中であった試作車の内2両に対しディーゼル・エンジンへの換装を要求した。

この際に採用されたエンジンはデトロイト・ディーゼル社製の8V-71T V型8気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル・エンジンで、これに併せて変速機もアリソン社が開発したXTG-411-2A変速機に替わった。
このエンジン換装により機関室上面の円形グリルは角形に改められ、車体前部もなだらかなV字型となる等外見にも変化が生じており、換装車は「T195E1」と呼称変更が行われ主砲の砲口制退機も廃止された。

しかし試験ではサスペンションと最終減速機等に問題が生じたため、1960年12月まで試験が続けられた後、1961年2月に改造されないでいたT195自走榴弾砲のE1化改造を行うと共に、さらに2両のT195E1自走榴弾砲の製作が求められた。
そしてこれらの完成車による運用試験を実施した後、1961年12月にT195E1自走榴弾砲を限定生産することが決定された。

生産はジェネラル・モータース社傘下のキャディラック社の手で行われることになり、オハイオ州のクリーブランド戦車工場で1年間の限定生産が行われ、1962年10月には生産型第1号車がロールアウトしている。
1962年7月にT195E1は「M108 105mm自走榴弾砲」(105mm Self-propelled Howitzer M108)として制式化されたが、アメリカ陸軍のドクトリンが砲兵部隊の主力装備を155mm口径とすることを決定したため、M108自走榴弾砲の生産は1963年までで中止されている。

M108自走榴弾砲の生産数は不明となっているが数百両程度の少数生産に終わったといわれており、しかもその運用は極めて短期間に終わった。
アメリカ陸軍を退役した後一部の車両はベルギー(50〜100両程度と思われる)、台湾(100両)、ブラジル(50両)、スペイン(48両)、トルコ(26両)、チュニジアに供与され余生を異国で送った。

M108自走榴弾砲は少数生産かつ運用期間が短かったために派生型は無いが、本車を供与されたベルギー陸軍は、M109A2 155mm自走榴弾砲の実戦化に伴いM108自走榴弾砲を退役させたものの、一部の車両は砲塔を外し車体後部に密閉式の戦闘室を載せ、M109A2自走榴弾砲と行動を共にするVBCL(指揮・通信車)に改造している。

M108自走榴弾砲の生産型はT195E1自走榴弾砲と大差無いが、履帯がT118E1から取り外し可能なゴムパッド付きのT137に変更され、主砲がそれまでの105mm榴弾砲T252から105mm榴弾砲M103とM139砲架の組み合わせに替わり、さらに水上浮航装置が新たに導入されている。

これは車体左右側面にそれぞれ4カ所ずつと、車体前面1カ所に金属枠を取り付けてこれにエアバッグを固定するというもので、さらに車体前面と砲塔までの車体左右側面に波切り板を立て、前方視界を得るために操縦手席の前方にあたる波切り板には透明部が設けられていた。

エアバッグへの空気注入は選択バルブ付きのブロワーを用いて行われ、最大1,280cm3/分の空気を吹き込み1分15秒で満杯となった。
水上での推進力は履帯を駆動することで得ており、その速度は4マイル(6.44km)/hとされていた。


●構造

M108 105mm自走榴弾砲の車体は5083防弾アルミ板を用いた溶接構造で、装甲厚は全て1.25インチ(31.75mm)となっていた。
アルミ装甲を採用したのは軽量化を図り、空輸性を高めるために他ならない。
分厚いアルミ装甲は、車体に砲台として必要な剛性を与えていた。

車体前部左側に操縦手席、前部右側にデトロイト・ディーゼル社製の8V-71T V型8気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル・エンジン(出力405hp)と、アリソン社製のXTG-411-2A変速機(前進4段/後進2段)、クラッチ・ブレーキ(前進1、2段、後進1段)とギアード・ステア(前進3、4段、後進2段)を備える操向機等を一体化したパワーパックを収める機関室が配されていた。

車体後部は全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室とされ、車体後面には車体内部に収める弾薬の搭載に用いる右開き式のドアが設けられていた。
操縦手には左開き式の専用ハッチが用意され、ハッチの上面には開閉式カバーの付いたM45ペリスコープが装着されていた。

このペリスコープは1基を夜間用のものに換装することが可能で、車体前部には赤外線ライトが通常のライトと並んで装備されていた。
車体前部には、走行時に主砲を固定するトラヴェリング・クランプが装着されていた。
片側7個の複列式転輪は上部支持輪を持たないフラットトラック式で、サスペンションにはトーションバー(捩り棒)が用いられ、前部に起動輪、後部に誘導輪という常識的な配置にまとめられていた。

履帯は幅15インチ(38.1cm)のセンターガイド付きで、ダブルピン型のT136履帯とシングルピン型のT137履帯が用意されたが、初期の一部の車両を除きほとんどの車両がダブルピン型のT136履帯を用いていた。
いずれの履帯も、片側79枚の履板で構成されていた。
砲塔も車体と同じく1.25インチ厚の5083防弾アルミ板を用いた溶接構造で、砲塔内には主砲を挟む形で左前部に砲手、その反対側のやや後方にずれて車長が位置し、さらに後方左右にも装填手1名ずつが配されていた。

砲手席の直上には右開き式のハッチが用意され、また車長には12.7mm重機関銃M2を装備したキューポラが備えられており、このキューポラには後ろ開き式のハッチとM27ペリスコープが装着されていた。
さらに砲塔の左右側面にもそれぞれハッチが備えられており、後面にも弾薬の積み込みに用いる観音開き式のハッチが設けられていた。
なお開発当時の状況を考えると不思議であるが、本車はNBC防護システムを備えていなかった。

主砲の30口径105mm榴弾砲は「M103」の制式名称が与えられており、M139砲架と組み合わせて砲塔に搭載されていた。
油圧式スプリングを用いた定減速型駐退復座機構を備え、尾栓には垂直鎖栓が用いられていた。
砲自体が軽量なため、砲塔の旋回と砲の俯仰は砲手がハンドルを用いて人力で行うようになっており、通常の発射速度は1発/分だが、短時間ならば3発/分の射撃を実施することが可能であった。

砲は、−4〜+74度の俯仰角を有していた。
FCS(射撃統制システム)は極めてシンプルなものが用いられており、M117間接射撃用パノラマ望遠鏡(倍率4倍、視野10度)、M118直接射撃用パノラマ望遠鏡(倍率4倍、視野10度)、M15仰角四分儀で、弾道計算機などの高度な装備は一切持たずこの点は第2次大戦型自走砲と大差は無い。

弾薬はM1榴弾(弾頭重量18.107kg、砲口初速494m/秒、チャージ7の装薬を用いた場合の最大射程は11,500m)、M444榴弾(M39子弾18発を収容し、弾頭重量が19.05kgとなっている以外はM1榴弾と同じ)、M413榴弾(M35子弾18発を収容し、数字はM444榴弾と同じ)、M327対戦車榴弾(弾頭重量15.17kg、砲口初速559m/秒、最大射程8,685m)、M548ロケット補助榴弾(弾頭重量17.46kg、砲口初速548m/秒、最大射程15,000m)、M314照明弾、M48およびM60煙幕弾等を使用した。

M108自走榴弾砲の初期の試作車では105mm砲弾103発を搭載するようになっていたが、生産型では87発に減少している。
主砲の最大射程は、後に開発されたイギリスのFV433アボット105mm自走榴弾砲や日本の74式自走105mm榴弾砲と比べるとかなり劣っており、この射程の短さが問題となってM108自走榴弾砲の生産はわずか2年間で終了し短期間で退役してしまい、M109 155mm自走榴弾砲が本車の任務も兼ねることになった。


<M108 105mm自走榴弾砲>

全長:    6.114m
全幅:    3.15m
全高:    3.279m
全備重量: 20.966t
乗員:    5名
エンジン:  デトロイト・ディーゼル8V-71T 2ストロークV型8気筒液冷スーパーチャージド・ディーゼル
最大出力: 405hp/2,300rpm
最大速度: 56.33km/h(浮航 6.44km/h)
航続距離: 354km
武装:    30口径105mm榴弾砲M103×1 (87発)
        12.7mm重機関銃M2×1 (500発)
装甲厚:   31.75mm


<参考文献>

・「パンツァー2000年9月号 M109自走砲車の開発・構造・発展」 後藤仁 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2022年2月号 アメリカ軍自走砲(戦後編)」 後藤仁 著  ガリレオ出版
・「世界の軍用車輌(2) 装軌式自走砲:1946〜2000」  デルタ出版
・「異形戦車ものしり大百科 ビジュアル戦車発達史」 齋木伸生 著  潮書房光人新社
・「戦車名鑑 1946〜2002 現用編」  コーエー
・「世界の最新陸上兵器 300」  成美堂出版


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