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BM-13自走多連装ロケット・システム





帝政ロシアが崩壊し、レーニンが率いるボリシェヴィキ党がソヴィエト政権を樹立してから2年後の1919年、ロシアで代表的なロケット工学研究者であったニコライ・イヴァノビッチ・ティチョミロフは、ソヴィエト政権の支援を受けて同僚科学者・技術者たちを集めて、気体力学研究所(GDI)でロケット研究を本格的に開始した。

1920年、優秀な技師V.A.アルテーミエフ(帝政ロシア時代の1908年、ブレスト・リトフスク要塞で軍砲兵局の依頼の下、信号ロケット弾の発射実験に携わっていた経歴を持っていた)をパートナーに獲得したティチョミロフは、同年中に固体燃料式ロケット弾の開発・試作に取り組み発射実験を繰り返した。

時は、ロシア国内の各種反革命派の武装勢力と結び付いた14力国列強による干渉軍と、労農赤軍が戦った国内戦がピークの時期であり、いきおい研究の主軸が兵器としてのロケットに重きが置かれていくようになったのは自然の流れだった。
1925年からティチョミロフの開発チームは火薬を推進力に使ったロケット弾の開発試験に力を集中し、1928年には無煙火薬を推進薬とする射程1,300mの砲兵用ロケット弾をほぼ実用化の域まで持って行くことに成功した。

残念ながらティチョミロフは1930年4月に他界したが、GDIではロケット兵器の研究が引き続き、当時のソ連軍における最高権威者であったトゥハチェフスキー将軍の援護の下で推進された。
こうした営々とした努力の結果、1933年には弾体直径82mmのRS-82ロケット弾、同132mmのRS-132ロケット弾が実用化された(”RS”とは、ラケートヌィ・スナリャード(ロケット弾)の略)。
どちらも、射程5,000〜6,000mの地上発射あるいは航空機より発射するロケット兵器として計画されたものである。

RS-82およびRS-132ロケット弾は、航空機や各種試作地上発射機からの発射試験が数年に渡って繰り返された。
そして1938年には空対地、空対空用の世界初の航空機用ロケット弾として、ポリカルポフI-16戦闘機に試験的に装備されるようになり、1939年5〜9月にかけて外モンゴル-満州国境で日ソ両軍が衝突したハルハ川戦役(ノモンハン事件)においては、時限信管付空対空弾として実戦使用された。

RS-82およびRS-132ロケット弾はハルハ川戦役の全期間において85回の空戦で用いられ、これらによって計10機の日本陸軍爆撃機を撃墜したとされている。
その一方で1938年10月より、両ロケット弾をZIS-6 6輪貨物トラックの車台に載せた自走発射機から発射する実験も着手された。

この試作車はトラックの荷台を外し、その部分に真横に向けた(水平方向の微調整は可能)24連装のレール式発射機を設置したものであった。
発射実験は成功裡に繰り返されたが、1939年4月には132mmロケット弾RS-132を用いた16連装の実用性がより高い180度旋回発射機が完成し、後のBM-13-16自走多連装ロケット・システムのプロトタイプとなった。

「エリョーザ」の秘匿名称が付けられたこの自走多連装ロケット・システムは、1939年9月より実戦部隊への配備が試験的に行なわれ、戦場での運用を検討する実用試験が開始された。
これには6両が地上部隊での試験用として製作された他、セヴァストポリ地区での海岸防衛にあたる海軍部隊での試験用にさらに5両が製作された。

こうした部隊の運用試験において、エリョーザ自走多連装ロケット・システムは実用性の高さが認められるものとなった。
発射機の全弾の発射は15〜16秒で行うことができ、わずか5両のエリョーザによってこの時間内で80発もの重砲弾並みの132mmロケット弾を目標地区に撃ち込むことができた。
また、各発射機への再装填は5分で行えた。

その他にもレール式発射機の磨耗度が少なく、砲身を持つ火砲より耐用命数が長く経済的なこと、自走化されていることから発射後すぐに陣地転換できること(これは逆に、巨大な炎の尾を引いて発射位置を暴露し易いことから早急な移動が必要でもあった)等、利点の数々が確認された。
しかしながら、自走多連装ロケット・システムという未知の兵器の導入に対する軍内部の守旧派の抵抗により、1940年中はなかなかエリョーザの採用への動きは見られなかった。

結局1年半もの間の実用試験を経て、132mmロケット弾RS-132を用いるトラック搭載型多連装ロケット・システムは、1941年4月の国家防衛閣僚会議(GKO)の決定で「BM-13-16」としてソ連軍に制式採用された。
ちなみに”BM”とはバエヴァヤ・マシーナ(戦闘自動車)の略で、戦後も自走多連装ロケット・システムの制式名称に継承されていった。

なお試作時から用いられた秘匿名称の「エリョーザ」も、1941年中いっぱいまで使用された。
バルバロッサ作戦の発動によりドイツ軍を中心とする枢軸軍がソ連領土に侵攻した1941年6月22日、首都モスクワには7両のBM-13-16自走多連装ロケット・システムと、3,000発の132mmロケット弾RS-132が配備されていたが、この日モスクワにあるコンプレッサー工場においてBM-13-16の量産開始が決定された。

そして同年10月には一旦生産が打ち切られ、量産現場は工場が疎開したチェリャビンスクに移行した。
以後1945年まで、BM-13-16自走多連装ロケット・システムは同地で生産が継続された。
また間もなく132mmロケット弾RS-132は、「M-13」と称されるようになった。
132mmロケット弾M-13は全長1.42m、発射重量42.5kg、弾頭重量18.5kg、最大射程は8.5kmであった。

また1943年夏からは、射程延伸のためにM-13ロケット弾を2発分連結した形態となったM-13DDロケット弾(全長2.12m、発射重量62.5kg、最大射程11km)も導入された。
ただしM-13DDロケット弾を発射する場合は、16連のレール式発射機の上段(8連分)にしか装填することができなかった。

ロケット弾の発射は延長コードに繋げられた発射装置を操作して行うが、トラックの操縦キャビン内あるいは外のある程度離れた所からの遠隔操作で行えるようになっていた。
なおキャビンの前後左右のウィンドウは、ロケット弾発射薬の燃えカスや爆風による損傷を防止するため、折り畳み式の装甲カバーで守られるようになっていた。

ZIS-6 6輪トラックを用いたBM-13-16自走多連装ロケット・システムによる最初の部隊編制は、独ソ開戦からわずか6日後の1941年6月28日に着手された。
モスクワにあった7両のBM-13-6で編制された独立実験隊は、NKVD(内務人民委員部=治安警察軍)から派遣されたI.A.フリョロフ大尉を指揮官に、要員はフェリクス・ジェルジンスキー記念砲兵学校所属の共産党員、または共産主義青年同盟員から選抜された。

この部隊の初陣は1941年7月13日、ドイツ中央軍集団の先鋒が進撃中だったソ連西部方面軍戦区のオルシャにおける戦闘だった。
この時同方面軍司令官だったA.エリョーメンコ将軍は、「戦線で砲火を開いたエリョーザはたったの4門だったが、効果は絶大だった。我軍の将兵にも通知しないまま投入したため、前線でその強烈な爆発力を目撃した者たちは驚いて後退したほどだった」と回想録に述べている。

またこの時期にBM-13-16の射撃を受けたドイツ軍部隊の衝撃も大きく、「正体不明の速射加農砲による攻撃を受けた」(第12機甲師団の第9軍団司令部に対する報告)と述べている。
なおBM-13-16、BM-8シリーズなど独ソ戦中に登場した自走多連装ロケット・システムは、製造元であるコンプレッサー(Kompressor)工場の頭文字の”K”(キリル文字の”К”)が刻印されていたため、前線のソ連軍兵士たちからしばしば「カチューシャ」(Katyusha)の愛称で呼ばれた。

これは、当時ロシアで人気があったミハイル・イサコフスキーの歌の題名に因んで名付けられたものであった。
一方敵であるドイツ軍の兵士たちからは、ロケット弾の独特な発射音から「スターリンのオルガン」と呼ばれて恐れられた。
BM-13-16自走多連装ロケット・システムは、1941年夏頃よりZIS-6トラック以外の車台を用いたものの生産が並行して始められた。

また1942年からは、米英からの供与車両も車台として用いられるようになった。
1945年5月1日の時点で、2,527両のBM-13-16がソ連軍に在籍していた。
一方132mmロケット弾M-13の生産数は、1940〜45年の6年間で6,970,580発に達している。
BM-13-16は戦後も1950年代まで生産が継続されたが、この戦後生産型はZIS-6トラックに代えてZIL-131トラックやZIL-151トラックの車台が用いられている。

また1940年代末からBM-13-16のソ連の同盟・友好諸国軍への供与が開始され、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロヴァキア、エジプト、シリア等の陸軍に装備された。
このうち中東地区のものは1970年代まで運用が続けられ、1973年の第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でも実戦投入されている。
また、一部がイスラエル軍にも捕獲された。


<132mmロケット弾M-13>

全長:       1,420mm
直径:       132mm
発射重量:    42.5kg
弾頭重量:    18.5kg
最大飛翔速度: 355m/秒
最大有効射程: 8,500m


<参考文献>

・「パンツァー2001年12月号 ソ連・ロシア ロケット/ミサイル車輌史(1)」 古是三春 著  アルゴノート社
・「パンツァー2002年2月号 ソ連・ロシア ロケット/ミサイル車輌史(2)」 古是三春 著  アルゴノート社
・「グランドパワー2020年3月号 赤の広場のソ連戦闘車輌写真集(3)」 山本敬一 著  ガリレオ出版
・「大図解 世界のミサイル・ロケット兵器」 坂本明 著  グリーンアロー出版社
・「図解・ソ連戦車軍団」 齋木伸生 著  並木書房
・「世界の最新陸上兵器 300」  成美堂出版
・「軍用車輌名鑑 1939〜45」  コーエー


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